山ひとつ分の誤差
テオドール・フォン・シェルナーは焦っていた。
顔には出さないまでも、背に一筋滴る汗を感じ、心臓はいやに強く胸を叩いている。
謁見の間で、玉座についた王、王妃、第一王子、そして父たる教皇と、この国の中枢が雁首揃えてテオドールを見ていた。
テオドールの半歩後ろで、第二王子のルキウスがだるそうに頭を掻く。
そしてそのまた半歩後ろで、ユリアンは青い顔をして胃を抑えていた。
「……シェルナー卿、説明を」
王の低い声が落ちる。
テオドールは一瞬床に視線を泳がせ、生唾を飲み込んだ。
「……故意ではございません」
「うむ」
王が顎に蓄えた髭を撫でながら、窓の外を見やる。
テオドールはその瞬間、完全に下を向いた。
「……説明してくれ。何をどうしたら、山がひとつ消えるんだ」
王の声は、責めるというより困惑の方が大きかった。
「消したわけでは。少々、標高は低くなりましたが」
「そうだな。三百メートルと少しほど」
「…………」
「説明を」
テオドールは、ルキウスが笑いを堪えている気配を背中で感じながら、小さく息を吐く。
「……半刻ほど前……魔術演習の際……」
*
王宮西側の魔術演習場は、いつもより少しだけ騒がしかった。
演習場と言っても、王宮の敷地内ではない。
王都から馬車で少し離れた、低い山並みを背負う広い荒野だ。宮廷魔術師団が大規模術式の検証を行うために整えた場所で、周囲には何重もの防護結界が張られている。
その日は、新しく組み直された遠距離攻撃術式の試験が行われる予定だった。
魔術師団長、数名の上級魔術師、記録係、そしてなぜか見物に来たルキウス。
さらに、側近補佐としてユリアンも控えていた。
「ルキウス? なぜ君がいるんだい」
テオドールがそう言うと、ルキウスは当然の顔で肩を竦めた。
「面白そうだったから」
「魔術演習は見世物じゃないんだけどな」
「山に向かって魔術撃つんだろ? 見世物じゃん」
「違うよ」
テオドールは即答した。
演習場の奥には、標的用の岩峰があった。
元々は採石場跡に残された小さな山で、頂に巨大な黒石を埋め込み、魔術の着弾点として使っている。
黒石めがけ、正確に撃ち込む。精度と威力、範囲、どれかひとつでも不足すれば国石には当たらない。
宮廷魔術師の試験や基礎演習ても使われる、基準のようなものだった。
「ルキウス、危ないから、絶対射程に入らないでね」
「わかってるわかってる」
「ユリアン、ルキウス縛っといて」
「わかりました」
「俺信用なさすぎじゃない?」
「日頃の行いだよ」
テオドールはそう言って、演習場の中央へ向き直った。
演習は、魔術師たちにとってはたいそう興味深いものだったらしい。
テオドールが術式を放つと、黒石の周囲に淡い光が広がり、測定用の円陣が幾重にも浮かび上がる。
記録係が慌ただしく数値を書き取り、魔術師団長が唸るように頷いた。
「……収束は悪くない。だが、着弾時の散りが少し大きいかな」
「反射吸収の戻りも少々遅いです」
「座標補正を二段目ではなく一段目に組み込めば、もう少し安定するかと」
「いや、それでは術式が複雑になりすぎて……」
魔術師たちは、俄かに熱を帯び始めた。
黒石を見て、記録板を見て、地面に浮かんだ円陣を見て、まるで宝石でも眺めているような顔をしている。
ルキウスには、ひとつもわからなかった。
剣ならわかる。構えが悪いとか、踏み込みが浅いとか、間合いを誤ったとか、そういう話ならまだわかる。
だが、収束だの座標補正だの言われても、見えているのは光が飛んで石に当たったという事実だけだった。
「なんか地味だな」
ルキウスが小さく呟く。
光が飛ぶ。黒石が鳴る。魔術師たちがざわめく。
テオドールが欠点を言う。上級魔術師が青ざめる。
また誰かが術式について議論を始める。
ルキウスは見学席の柵に肘をついた。
「なあテオ、これまだやんの?」
「何を言ってるんだよ、始まったばかりじゃないか」
「俺には全部同じに見えるんだけど」
「全然違うよ」
ユリアンが横で控えめに苦笑した。
その手元には記録用の補助具がいくつか置かれている。
青い布の結ばれた小さな銀の球。さっき誰かが何かを説明していた。
もちろん、ルキウスは聞いていなかった。
目の前では、五人目の魔術師が長々と詠唱を始めている。
魔術師たちは真剣そのものだった。
テオドールも黒石を見ている。
ユリアンも記録板を見ている。
誰も、ルキウスを見ていない。
ルキウスは、地面に転がる銀の珠をそっとひとつ手に取った。
光を反射して掌の上でかすかに光る。その光り方の意味などわからない。
ルキウスが摘むようにして銀の珠を翳して眺める。
その時、五人目の魔術師が杖を振り下ろした。
長い詠唱を終えた術式が、白い光となって黒石へ向かう。
魔術師たちが息を呑む。
テオドールの目が、着弾点へ向く。
その一瞬、ルキウスは銀の珠を指先で軽く弾いた。
ただ、どのくらい飛ぶのか試しただけだった。
珠は放物線を描く。
見学席の柵を越え、演習場の端へ落ちる。
黒石には到底届かない。何の邪魔にもならないはずだった。
だが、銀の珠が地面に触れた瞬間、強く光った。
黒石へ向かっていた術式の軌道が歪む。
そうして逸れた光の矢が、ルキウスの方角へと曲がった。
「え」
速い。
剣なら避けられる。矢なら弾ける。
けれど、これは魔術だ。
「ルキ――!!」
ルキウスが腰の剣に手を伸ばすより早く、テオドールが杖を振った。
光の矢へ向かって、相反する属性魔術をぶつけて逸らす。
詠唱している暇など無かった。
そして、加減をする暇も。
どっぱん、と乾いた音がして、次の瞬間世界が白く弾けた。
風が巻き上がり、測定用の杭も、低木も、古い岩肌も、まとめて光の中へ消えていった。
誰も動けなかった。
魔術師たちは、杖を構えたまま固まっている。
記録係は板を取り落とし、ユリアンは青い顔で口元を押さえていた。
魔術師団長だけが、何かを言おうとして、結局何も言えずに山を見上げている。
遠くにみえていた岩峰の上部が、不自然なほど平らに削れている。
山頂にあったものだけが、綺麗に、あまりにも綺麗に消えていた。
ルキウスはしばらくそれを見ていた。
「……テオ」
テオドールは、すでにルキウスの前にいた。
片手で肩を掴み、もう片方の手で頬の横を確かめるように翳す。
「ルキ、怪我は」
「ない」
「本当に? どこにも当たらなかった?」
「ない、ないけど」
「なら良かった」
「良くは……ないんじゃないか?」
ルキウスは山を指差す。
テオドールは、ようやくそちらを見た。
そして珍しく、少しだけ黙った。
「……ルキウス、君が無事なら良い」
「山が無事じゃない」
「山より君だよ」
「いやでも……」
ルキウスが言うと、遠くで削れた岩肌から、ぱらぱらと小石が落ちた。
沈黙。
テオドールは杖を握ったまま、かすかに視線を逸らした。
「……信仰が」
「うん」
「強すぎたのかな」
ルキウスは一瞬だけ真顔になった。
「それ、父上たちの前で絶対言うなよ」
テオドールは平になった山を見て、それからルキウスを見て、もう一度山を見た。
そして、一旦見なかった事にした。
*
「……と、いう次第でございます」
テオドールが言い終えると、謁見の間にはしばらく沈黙が落ちた。
誰も口を開かない。
王は目を閉じている。王妃は扇で口元を隠したまま、微動だにしない。
第一王子はこめかみに指を添え、教皇は神へ祈る時よりも深刻な顔をしていた。
ルキウスだけが、半歩後ろで肩を震わせている。
「……つまり」
王がようやく口を開いた。
「ルキウスが、測定具を弾いて」
「はい」
「それが術式に干渉した」
「はい」
「ルキウスに術式が向かい」
「はい」
「それを防ぐため、シェルナー卿が咄嗟に杖を振った」
「はい」
「結果、山が消えたと」
「いいえ、消失したのは、あくまで山頂部の一部であり、山体そのものは」
ルキウスが限界だった。
噎せるような音が背後から聞こえる。
「ルキウス」
「はい、母上」
ルキウスの声は、見事なほど引き締まっていなかった。
「笑っている場合ではありませんよ」
「笑ってません」
「嘘おっしゃい」
「はい」
ルキウスは慌てて口を結んだ。
それでも肩が震えていた。
王妃はしばらくルキウスを見つめ、それから深く息を整えるように目を伏せた。
「本当に……心配させないでちょうだい、ルキウス」
「……すみません」
「わたくし、報告を聞いて卒倒しかけました」
ルキウスは黙った。
テオドールも、つられて少しだけ目を伏せる。
王は椅子の肘掛けに指を置き、疲れたように顎を引いた。
「ルキウス。なぜ測定具を弾いた」
「……や、どのくらい飛ぶかなー……と」
「魔術演習場で、用途のわからない器具に触るな」
王が頭を抱えた。
第一王子が小さく咳払いをする。
笑いを誤魔化したものではない。場を立て直そうとする、実に真面目な咳だった。
「父上、母上、幸い怪我人はいなかったと。ならばそれで良いではないですか。ルキウスもこの通り無事です。それはテオドールのお陰でしょう」
「そう、そうですよね兄上。俺は無傷」
「ルキウス、お前は褒めていないよ」
「はい」
第一王子はルキウスを見て、それからテオドールへ視線を移した。
「テオドール、ルキウスを守ってくれたことには感謝する」
「……恐れ入ります」
「やりすぎだが」
テオドールは黙った。
それはそう。
あの瞬間、白い光がルキウスへ向かった瞬間、他の事など考えていなかった。
ルキウスに触れる可能性のあるものを、すべて消す。
それだけだった。
「……加減を」
テオドールは珍しく、言葉を探した。
「加減を、誤りました」
教皇の眉がわずかに動く。
テオドールは父の視線を受け、背筋を伸ばした。
「信仰が……強すぎました」
謁見の間が止まった。
ルキウスが今度こそ吹き出した。
「ルキウス」
「す、すみません、父上、母上、いや、でも、テオおま、それ言うなって……っ」
「ルキウス」
王の声が落ちる。
ルキウスは両手で口を押さえた。
王妃は目を閉じた。第一王子は額を押さえた。
ユリアンはさらに青くなった。
教皇が、ひどく複雑な顔をしている。
神への信仰が強いことは、本来ならば咎めるべきことではない。
だがその結果、山頂が消えた。
普段の教皇ならば呼び出して鞭を打つが、これをどう叱るべきか珍しく逡巡していた。
「……テオドール」
教皇が静かに名を呼ぶ。
「……っ、はい、父上」
「お前は神に愛された器だ」
「……はい」
「信仰とは、王子殿下の悪戯の後始末に用いるものでもない」
「はい」
「神から授かりし神聖たる力を、見誤るな」
「……はい」
王は長く沈黙した後、深々と息を吐いた。
「処分は追って沙汰する」
「はい」
「それから」
王の視線がルキウスへ向く。
「ルキウス」
「はい」
「お前は三日間、魔術演習場への出入りを禁ずる」
「え゛」
「当たり前だ」
王妃が、今度はテオドールを見る。
「あらあら……シェルナー、あなたの方が不服そうね」
ルキウスが小さく笑った。
テオドールは、今度こそ背中越しに睨んだ。
「……不服など、滅相も」
「まあシェルナー、そんなに拗ねないで」
王妃の声は柔らかい。
柔らかいが、逃げ場はなかった。
「ルキウスが魔術演習場へ出入りできなくなるのが不服? それとも、あなたが見張れなくなるのが不安?」
テオドールは黙った。
王妃は扇を口元へ戻し、困ったように目を細める。
「ルキウス」
「はい、母上」
「あなたは王子なのですよ。慎みを持ってちょうだい。兄上を見習って」
「……っす」
ルキウスの返事は、見事なまでに信用ならなかった。
その場にいた全員が同じことを思ったらしく、謁見の間に重い沈黙が落ちる。
テオドールは振り返らなかった。振り返ったら負ける気がした。
王が片手を上げる。
「もう良い、下がれ」
「失礼いたします」
テオドールが礼を取り、ルキウスもそれに続く。
ユリアンはほとんど逃げるように頭を下げた。
重い扉が閉まる。
残された大人達は、一斉に息を吐いた。
「愚息が……申し訳ない」
「いえ陛下、テオドールが術者として未熟なのです。魔力の扱い方をもっと……」
「まあ、教皇聖下、彼はとっても優秀よ」
「王妃殿下、恐れ入ります」
教皇は静かに頭を下げた。
その顔はいつも通り厳粛だったが、眉間には深い皺が寄っている。
「ただ、優秀であることと、山頂を消して良いことは別でございます」
「それはそうだ」
王が重々しく頷いた。
「山は戻らん」
誰も否定できなかった。
第一王子は、机上に置かれた報告書へ視線を落とす。
測量班の走り書きには、山頂部消失、標高変動、再測量必要、周辺地図修正、と頭の痛くなる単語が並んでいた。
「ルキウスとテオドール、あの子達が成人したらどうなるやら」
第一王子、クラウディオは膝を組み、喉の奥で笑った。
「僕が王となった時、果たして僕は、彼らを制御できるかどうか」
「まあクラウディオ、あなたが叱ってあげてちょうだいな」
「ええ。二人並べて」
王が深く目を閉じた。
「……将来が思いやられる」
大人達は、また肺の底から空気を抜くように長く息を吐いた。
遮られなくなった月の光が、この国を煌々と照らしている。
国王:アウグストゥス・ヴァレリウス
王妃:エレオノーラ・マリア•ヴァレリウス
兄貴:クラウディオ•ヴァレリウス
というお名前のヴァレリウス王家。




