63話:精霊ということ
◆
部屋から出て、階段を降りる。木材の微かに軋む音がなんとなく心地良い。一段、また一段と下っていく度にバターのいい香りが鼻をくすぐる。この匂いを嗅いでいては、ずっとお腹が空いてしまいそうだと思った。
けれど、それとは別に肉と脂の焼けるいい匂いが混ざっていた。その音に耳を澄ませていると、知らない人たちの談笑も聞こえてくるような気がした。
厨房へ向かうとそこではおばあちゃんがスープやブルストを焼いていたんだ。
いつの間にか帰って来たのか、お母さんにお父さんと思しき人も料理を手伝って、お店の方へと運んでいた。もう既に食堂として動き始めたんだとわかった。
「おばあちゃん、手伝えることはある?」
「あらまぁ、お嬢ちゃんたちありがとう」
「でも大丈夫だよ、これはおばあちゃんたちのお仕事だからね」
「お嬢ちゃんたちはお腹も空いてきた頃じゃなぁい? 裏でゆっくり食べておいで。好きなのをよそっていいからね」
おばあちゃんにそう言われたものの、何もしないで食事だけもらうのは気が重い。そのことを伝えてもおばあちゃんはわたしたちが手伝うことに首を縦に振ってくれることはなかった。
「やぁねぇ、今までおばあちゃんたちだけでやって来たから本当に大丈夫さね」
「それに、月のようなお嬢ちゃんたちに手伝ってもらうなんてできやしないよ」
「お店の方にお顔を見せちゃったらそれこそ大騒ぎさ」
「お嬢ちゃんたち、自分たちがどれだけすごい存在かなんてわかっちゃいないだろう?」
確かに判っていない。精霊は人間の世界では珍しいのか。わたしが「かわいいから?」なんて少し言葉を選んで訊いてみると、おばあちゃんは込み上げてきた笑いを堪えきれずに大笑いした。
「かわいいかい! そりゃぁいい! いやねぇ、許しておくれ」
「お嬢ちゃんたち、シャナのお姉ちゃんもそうだけどねぇ」
「おばあちゃんたち人間にとって、精霊の仔なんて人生で一度会えるかどうかもわからない存在なんだよ」
「言ってしまえば神様みたいなものさね。おばあちゃんは小さい頃からシャナのお姉ちゃんに良くしてもらっていたからいいけどね」
「なぁんにも知らない人たちからすれば注目の的さ。この村の人は多少知ってるからまだ大丈夫だけどね」
「けれどね、山や村をシャナのお姉ちゃんが守ってくれていると知っているのはおばあちゃんのような耄碌ばかり。町へ行ったらそれこそ大問題だよ」
どうやらこの世界でもわたしたち精霊の存在は珍しいらしい。妖精だとひと目で判ってしまうエフェリアも人前には出ないほうが良いのかもしれない。
「でもわたしたち、見た目は人と同じだよ? 妖精のエフェ……この仔はすぐにわかっちゃうけど……服とかで誤魔化せない?」
「あぁ、お名前ね。それも口走らないように気をつけなさいな」
「まぁお嬢ちゃんたちはそれでいくらかは誤魔化せるだろうね」
「けどね、お嬢ちゃんたち。お嬢ちゃんたちのような、月のような仔なんて人の子にはそういないんだよ。それこそ貴族のお嬢ちゃんのようなものかね。どこかのお偉いさんの子だとは思われるんじゃないかい」
「そんな子がふらふらと子供だけで歩いてご覧なさい、悪ぅい人がいたら攫われちまうよ?」
「いやね、脅かすつもりはないんだよ。でもね、ちょいと見ていて危なっかしいったらありゃしないねぇ」
「アラ、ニンゲンってそんなに悪いものなのン?」
「悪いさ。哀しいことにね。善き人がいれば、悪い人だっている」
「おばあちゃんだってね、そんな立派な人間じゃあないんだよ。人並みに欲はあるし、ズルいさ」
「おばあちゃんも悪い人なの?」
リラはおばあちゃんの言うことがよくわからなかったらしい。困ったように首を傾げて、その長い髪を揺らしている。それを見たおばあちゃんも、いい言葉が見つからず苦笑してしまった。
「どうだろうねぇ……できるだけ善き人であろうと生きてきたさ」
「でもね、生き物は生きているだけで罪なんだよ」
「命のあるものは他の命を踏みにじらなければ生きていけない」
「どれだけ懺悔し、贖罪し、祈りを捧げたとしても……犯した罪は消えないさね」
おばあちゃんは目を伏せて煮込んでいるスープを混ぜた。浮き上がっては沈んでいく具材が、その命と罪のように見えたのは気のせいではないのかもしれない。
「――まぁまぁ、やめにしようか。こんなことは話したって仕方がないからね」
「誰にもどうすることもできない轍なんだから、気にするだけ無駄だよ」
「とにかく! お嬢ちゃんたちはかわい過ぎるから、特に男の前には出ちゃダメだよ。わかったかい」
わたしたちは「はーい」と、素直に返事をした。お腹が空いたという感覚はないけれど、美味しいパンとスープはいくらでも食べられそうな気がする。食べた食べ物は魔力に変換されるのだろうか? 妖精や精霊の生態はわからないけれど、そんな気がする。
厨房のテーブルにリラとエフェリアと仲良く並んでスープに口を付けた。自然と声が漏れて頬を押さえてしまうくらいに美味しいんだ。
おばあちゃんはそんなわたしたちの姿を見て咲っている。
平和だ。
この上なく平和で、幸せだった。この時間を生活を手放す理由が見つからないくらいに満たされている。けれど、それはわたしたちが享受する側故だろうか。誰かに何も与えることなくこの幸せを享受する資格があるのかはわからない。甘え続けるワケにはいかないだろうとも思う。
ひとりの人間として自立して、一人前になるならそうなのだろう。
でも、時々思うんだ。
生き物は自立していくことを目指すけれど、どうしてそれが当たり前だと、立派だといわれるのだろうか。と。
確かに自分独りでも生きていける程度の能力は身に付けなければいずれ倒れてしまう。
群れる生き物がいるように、手を取り合って助け合いながら生きていくことこそが美しいのではないかとも考えてしまう。
きっと、そんなに単純なことではないのだろうと思う。思ってはいるんだ。
これもまた、わたしの頭では到底答えの出せない、贅沢な悩みなのだろうと蓋をした。
わたしは目を伏せて、湯気の昇る乳白色の黄金に口を付けた。




