78話:お父さんの独り言
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草花の芳香が風に乗って頬を撫でていく。気温は少し肌寒いくらいだが、空に昇った太陽が身体をちょうどいい具合に温めてくれている。
俺は妻と共に村を回ってパンを配っている。村や町の人たちと顔を合わせて、関係を持って広げていくのが仕事だ。パンのお代は前払いでもらっているから、お礼の挨拶回りのようなものだ。
まったく関係のない話だが、他の村や街ではパン焼きという人間が税を取ったり領主が独占していたり、大変なところもあると聞く。ここは随分と平和な場所だ。
こうして愛しい妻と共に歩いて回るのは嫌いじゃない。荷台にバゲットを積んで、なにかを話すわけでもないが、ただ共に歩いている。
妻との出会いも仕事をしているときに知り合ったひとりの娘に、俺が一目惚れをしたのが始まりだった。パンを届けることを口実に、何度も言い寄ったことを覚えている。
ときには花を摘んで渡したこともあった。
思い出すと恥ずかしくなってくるからその当たりのことは省くが、恋は無事に実り子宝にも恵まれ、花のようにかわいい娘を授かった。
数回家の戸を叩いて、家主が出てくるのを待つ。
「パンのお届けですよ」
「あら、いつもありがとう」
「アイツはもう仕事に出ましたか」
「えぇ、これからは忙しくなるもの」
挨拶と他愛もない世間話をして、早めに別れる。だが、必ず少しの会話をするようにしている。言葉を交わさなくなってしまったら、関係は簡単に切れてしまうからだ。ワザワザ妻を連れて回っているのも、彼女が村の皆と関わりを持てるようにするのが始まりだった。
ありがたいことに、今では皆から自惚れだとか、惚れ気だとか、茶化されることばかりだ。つまりそれは妻が村に馴染めたということに他ならない。彼女もよく村の婦人たちと咲っている姿を目にする。
俺も、妻も母さんから料理の作り方は教わっているし、誰がいつふといなくなってしまっても店を畳まなくてはいけない。なんてことにはならないだろう。
今では娘も母さんから時々教わっているらしい。
いつか娘がパンを焼いて食べさせてくれる日が楽しみなんだ。
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俺の父さんは冒険者で、母さんを置いてどっかで死んじまった。らしい。
気が付いたときには母さんがひとりで俺を育ててくれていた。
俺は母さんを悲しませた父さんのようにはなりたくないと思っている。今の俺は妻と娘に善き父として映っているだろうか。少しでも善き父として在れるように、努力はしているつもりだ。
毎日のようにパンを焼いて、届けて……そして時々、あのシャナの姉さんがやってくる。
母さんのパンを買いに来ては宝石を置いていく不思議なヒトだった。
実のところ、俺の初めての恋はシャナの姉さんだった。
子供ながら人ではないことはなんとなく察していたが、本当にそうだと聞いたときは心底驚いたことを覚えている。
昔からまったく変わることのない姿に、いつだって優しくて寂しそうな笑顔をしていた。彼女の笑顔を俺にはどうにもできないと知ったときは勝手に落ち込みもしたものだった。シャナの姉さんのことは実の姉のように慕っている。それ故か、恋心はいつしかなくなっていたことは幸いだった。
俺は背が伸びて、いつからか見上げていたシャナの姉さんを見下ろすようになっていた。それでも、シャナの姉さんはシャナの姉さんのままだった。
ずっと、ずっと昔から変わらないままだった。
――なのに。
先日、あの青い嬢ちゃんたちがやって来てからというもの、シャナの姉さんはとても幸せそうな顔をしていた。
今まで何度誘っても靡かなかった彼女が、村に、家に住むとも言った。
いったい、青い嬢ちゃんたちはシャナの姉さんにどんな魔法を掛けたのだろうか。
母さんもいつもより幸せそうな顔をしているんだ。妻も、娘もいつもより明るい笑顔をしている気がする。
いったい、どんな魔法なのだろう。月のような笑顔で、皆を幸せにしてしまう魔法だろうか。そんな魔法があったのなら、きっとあの青いお嬢ちゃんたちは使えるのだろうと思う。
だが、きっと。青い嬢ちゃんたちは魔法なんて掛けていないのだと思う。
彼女たちが魔法なんて使えなくても、妖精や精霊でなくても、きっと誰であろうと幸せにしてしまうのだろう。
――ああ、ズルい。ズルいなぁ。
青い嬢ちゃんたちは俺がやりたかったことを、いとも簡単に成し遂げてしまった。シャナのお姉さんの願いも、母さんの願いも、簡単に叶えてしまった。
どうも俺は、この出会いを心から喜べない、卑しい人間だったらしい。
こんな俺でさえ、彼女たちの出会いに幸せを感じてしまっている。雨は降っていないし寒くもないけれど、空は曇っているようでどこか色褪せていてつまらなかった景色が、太陽の光が天から階梯を降ろすように射し込んで、草花に付いた露を輝かせていた。そんな景色を幻視したんだ。
シャナのお姉さんや母さんだけでなく、妻や娘もそのように思っているに違いない。
このたった数日の出来事だというのに、ずっと昔からこの幸せに浸っていたような気さえしてくるんだ。
「おーい、パン置いとくぞー!」
声を張って手を振ると、遠くで手を振り返してくる男がいる。その男が走ってやってくるのを腕にバゲットを抱えたまま待っている。
「ありがとうな。なんだお前、いいことあったか?」
「いや? いつもと変わらないね」
「嘘だね。顔に描いてある。だよな?」
妻の方を見て確認をすると、妻は手で口元を隠しながら呆れたように肯定する。俺は豪快に背中を叩かれて、力の有り余る鼓舞をされた。
そのまま大笑いをしながら仕事に戻っていくものだから、訂正する暇もなくタチが悪い。
「俺、そんなに顔に描いてあるか?」
「ふふっ……えぇ、描いてあるわよ」
「納得できないなぁ……」
どうやら俺も、いつの間にか青い嬢ちゃんたちの魔法に掛かってしまっていたらしい。
けどまぁ……それでもいいかな。と。
そんなことを思って、澄んだ空を仰いで、伸びをした。
誰も抱き寄せることのできなかったこの胸いっぱいに幸せってヤツを吸い込んでみたんだ。




