77話:おばあちゃんの独り言
◆
眼の前では孫とシャナのお姉ちゃんが幸せそうなお顔をしてパンケーキを食べている。大切なヒトたちが自分の作った料理で笑顔になってくれているお顔を見るのが、何よりも好きなんだ。
でもまぁ、今回はあのお嬢ちゃんのおかげかしらねぇ。
温かいお茶を一口含んで、息を吐いた。
お茶の香りとは別に、バターと小麦の焼ける匂いが染み付いた店を目を向ける。子供の頃からずっと変わらない、大切な店だ。そしてこの店にシャナのお姉ちゃんとお友だちが住むことになった。嬉しいことだ。やっと、シャナのお姉ちゃんに恩返しができるんだからね。
でもそうだね。お友だちのお嬢ちゃんたちのことは予想していなかった。彼女たちが妖精や精霊であることはよしとしよう。かといって礼儀を欠かず彼女たちをもてなせているかと言われると、少し怪しいかもしれない。
シャナのお姉ちゃんについては名前も性格もよぉく知っているものの、他の妖精や精霊がシャナのお姉ちゃんと同じであるかはわからない。
彼女たちの存在について言い伝えられているように、名前は訊かず、呼ばない。自分たちの名前も同様に教えることはしない。
これにいったいなんの意味があるのか、知りはしないけれど、守っていて悪くなることはないだろうと思う。
――それにしても、不便だ。
名前とは呼ぶためにあるものなのに、呼ぶことができないなんて悲しいじゃあないかい。お嬢ちゃんたちはどう思っているのだろうね。
訊いてしまっても良いものかと、未だに切り出せないでいる。お母さんお父さんもお嬢ちゃんたちとは距離を掴めていないようだしねぇ……困ったものだよ。
そしてこの悩みはいくら悩んだって、困ったって答えは出てくれやしない。だからかねぇ、いつの間にか口が開いて、訊いてしまったのさ。
「シャナのお姉ちゃん、パンケーキは美味しいかい」
「えぇ、とっても! 毎日だって食べたいくらい!」
「そりゃあよかった……お嬢ちゃんには感謝しないとだね」
「ところでシャナのお姉ちゃん、あのコたちの名前は呼んでもいいものなのかい」
「それでおばあちゃんたちの名前も教えてしまって大丈夫なのかねぇ」
「シャナのお姉ちゃんはあたしのお名前知ってるよー?」
「まぁ、そうさね」
孫の頭を撫でて、シャナのお姉ちゃんの目を見た。彼女は少し悩んだように目線を外して、答えてくれた。
「大丈夫だと思う」
「妖精や精霊が名前を教えないのはね、存在を奪われないためなのよ」
「……それはどういう意味なんだい?」
「そのままよ。名前を奪われちゃったら、私たちは消えちゃうの」
「例えば、悪いヒトに名前を知られてしまったら、ヒドイ契約を結ばれてしまうかもしれないわ」
「誰かに同じ名前をつけられたら、存在が揺らいでしまうことだってあるの。自分が誰だかわからなくなって、最後には存在が入れ替わってしまうわ」
「これは妖精や精霊だけじゃなくて、人間にも関わることよ」
「名前はそれだけ大切なものなの。だって、名前を呼べばすぐに誰だかわかるでしょう?」
「人間にとって名前はただの記号かもしれない。けれど、私たちはそうじゃないの。名前は命と同じくらい大切なもので、それがないと生きていけないの」
「それにね、本当は贈り物も、感謝もしてはいけないのよ」
「そうしたら、私たちの間には従属関係ができてしまうことだってあるから」
「それはちょいとばかり……そうだねぇ……息がしにくくはないかい?」
カップに視線を落とし、沈む葉の欠片が揺れているのを眺める。名前も呼べなければ、満足にお礼をすることだってできない。感謝のない世界に、本当の笑顔なんてものはあるのだろうか。そんなことを考えた。
「そうね。私もちょっと、寂しいなって思うわ」
「でもね。私も会ったことはないけれど、妖精はイイ仔ばかりじゃないのよ」
「イタズラが大好きで、誰かを困らせるようなことばかりする仔もいるんだって。人にもいるでしょう? 誰かを貶めるばかりで、感謝なんて知らないような人たち。同じ人には優しいのに、他の生き物のことになると途端に愛を忘れてしまう人たち――」
例えばそう、共に生きる家畜たちに食事を与えなかったり、言うことを聞かせようと乱暴に扱う人がいる。
悪意はなくても、力加減がわからずに傷つけてしまうことだってある。それは身体の作りや大きさが違うほど顕著になるものだ。あの小さなお嬢ちゃんのようなコをみると、生まれたての赤ちゃんより優しく扱わないと傷つけてしまうと考えてしまう。
「そうだねぇ……おばあちゃんたちには縁のないことだったけれど、そういう人もいるんだろうねぇ」
「お嬢ちゃんたちからもらったコレ……この飾りも返した方が良いのかい?」
受け取ってしまった贈り物をシワだらけの手で持ち上げた。ガラスだろうか、水晶だろうか。透明な石で作られたとてもキレイなネックレスだった。
「あの仔たちのことは私と同じように接して大丈夫よ」
「妖精と人間の間に伝わるお話はね、そういうちょっと優しくないヒトたちと関わらないように、なるべくお互いが傷つけ合わないようにするためのものだから」
「だから、あの仔たちは大丈夫」
シャナのお姉ちゃんは背もたれに寄りかかって、外を見た。顔に掛かった日が彼女の顔を半分だけ照らしてトパーズのような目を輝かせていた。
耳には小さな耳飾りが光っていて、絶対に着飾ることのなかった彼女には異質に見えた。
けれど、とても似合っているんだよ。だからこそ、とても目立っていた。その小さな淡い輝きが極星のように力強く見えたのさ。
子供の頃から変わらない、その少女の姿のまま。彼女が人間ではないと気が付いたのはいつだっただろうか。
そのとき抱いた感情も、今ではあまり覚えていない。でも、怖いと思ったことはなかったような気がする。今となってはこんなおばあちゃんになってしまって、お姉ちゃんと呼ぶのもおかしい気がするけれど、彼女のことはいつまで経っても変わらずステキなお姉ちゃんとして、この霞んだ目に映り続けている。
「シャナのお姉ちゃんは――」
どうしてか、言葉を区切った。喉まで出掛かった言葉を理性がむりやり押さえつける。
隣ではまだ食器を鳴らしながら、ふわふわのパンケーキを夢中になって食べている孫がいる。
「……あのお嬢ちゃんたちが心配かい」
「そう、なのかな」
「大丈夫さ。お嬢ちゃんたちは強いから」
「どうしてわかるのよ」
「長く生きてきたおばあちゃんの勘ってやつさ。おかしいだろう?」
「そうね。とってもおかしいわ」
シャナのお姉ちゃんと一緒に、お腹の底から笑い声を上げた。気持ちのいい笑いだった。
乙女には似つかわしくない、大輪の花だ。
孫はワケがわからないと言いたそうに、交互を見ては首を傾げた。
ああ、バカらしい。なんてくだらないんだろうね。年老いてからこんなにも幸せだったと悟るとは。この先もまだまだ長そうだ。後はもう、孫の成長を見届けて眠るばかりだと思っていたけれど、これからの方がうんと楽しそうじゃあないかい。
目尻に浮かんだ涙を拭って、カップに残った冷めたお茶を飲み下した。




