*** 回想 森の中の三人、世界が少し揺れる(3)
途中何度か足を滑らせて転びそうになりながらも、僕は何とかみんなについて頂上に到着した。全員で大きな声で「やったぞー!」って、大声で叫んだ。すっきりした―。
ちょっと雲が厚くなってきたけど、気持ち的には快晴だった。
ほかにも一般の登山者はいたけど、みんな笑いながら僕らを見ていた。お年寄りも、大学生くらいの人もいた。
頂上周辺は広くないから、数人で場所を選んでシートを敷いてお弁当を食べる。僕と颯太、律の三人が一緒になって、すぐそばには颯太のグループメンバーもいる。
研修センターで用意してくれたお弁当はおにぎり二個と唐揚げ、卵焼き。おなかがすいていたから美味しく食べた。
一番先に食べ終わった颯太が、物足りないなぁって言いながらリュックの中をごそごそ探して、お菓子の袋を出す。でも、これ半分以上なくなってる。夕べも食べたんだなぁ…。カレーもおにぎりも食べて、豚汁まで飲んだのにお菓子を食べる余裕があったんだ。
「足りないの?」
「うーん、育ち盛りだから。今は特に、いくらでも入る気分だ」
言いながら、ちらちらと僕のリュックを見ている。しょうがないな、って言いつつリュックの中から母さんが作ったお菓子の袋を取り出した。朝、女子にはマフィン三個を渡しちゃったから残っているのはクッキーだけ。
「あ、おばさんのクッキー!ラッキー!」
颯太は袋を開ける前からワクワクが止まらない顔になった。
「クッキー? もしかして、今朝の井上にも?」
あ、やっぱり律にはみられてたんだ。
「井上さんにはマフィン。三個しかなかったから、鈴木さん達にも食べてもらおうと思って全部渡しちゃった」
「ええー、マフィンないのかぁ…。まぁ大丈夫だな!おばさんのクッキーがあれば俺は元気になれる!」
これ以上元気になるっていうのは、ちょっと勘弁してほしい。
「そんなにおいしいのか?」
疑ってる律に、しっかりとクッキーの由来を説明した。
「母さんの作るお菓子の中で、一番シンプルで、父さんも演習の時に毎回大量に持っていく特製クッキーなんだ。今回は、父さんのおこぼれじゃなくて、ちゃんと僕の為のクッキー。特別なクッキーなんだ」
まぁ、食べてみてって言ってから、一枚を律の口に差し込んだ。
「ちょ―――、あ…」
戸惑いながら最初の一口、そしてポリポリとかじって飲み込んで―。
「…お…いしい…」
律がぽつりと、呟くように感想を教えてくれた。嬉しい、食べてくれた!
小学二年生の時からずっと同じクラスだったけど、律は遠足で行動していてもおやつには興味がないみたいで、誰かと交換して食べるところは一度も見たことが無かった。
「おい、律じゃなくて、俺が食べたいんだぞ!」
そういって僕の手からクッキーの入った袋を取り上げて、二、三枚纏めて口に放り込む。そんなにぼりぼりまとめてかじる物じゃないと思うけど…颯太はいつもこんな感じだったなぁ。僕も二、三枚つまんで、律にも勧める。普段から食べるときは無言だけど、今もクッキーに集中してじっくりと食べている。
「ふふふふふふ…」
颯太と律の食べる姿の違いが面白くてつい小さな笑い声が出てしまった。
こんな時間が、ずっと続けばいいのにな―――。
結局、クッキーは登山参加組のみんな、先生にも一枚づつ食べてもらった。ほとんど颯太の「滅茶苦茶おいしいから、食べてみろよ」の強引な押し売りなんだけど、みんなに美味しいって言ってもらえて嬉しい。
しかもそのお礼にって、ちょっとずつスナック菓子やチョコレートなんかをおすそ分けしてもらった。律も、普段は見たことがない高級そうなチョコレートを分けてくれた。母さんのクッキーと交換していいのか戸惑うくらいお高級品なのがなんとなく、分かった。
一時間ほどしてから、先生が空を見上げる。薄曇りだった雲の色が黒くなってきている。なんとなく、水の匂いもしている。
「よーし、そろそろ下山するぞおー。弁当の残りとかお菓子のごみは必ず持ち帰るんだぞ。熊や猪とかの野生動物が集まるからな」
「はい」
リュックにお弁当やお菓子のごみをまとめて入れて、ついでに近くに落ちているゴミも手にする。コンビニのお弁当が、中身がのこったままだ。さっきの登山をしていた人たちかな? ちょっとだけ嫌な気持ちになったけど、そのまま置いていくと、先生が心配していたような様なことになるしね。
僕たちは先生に言われるより前に、辺りのごみ拾いを始めた。
颯太の凄いところは、まるで用意してあったみたいにリュックの中から大きなゴミ袋を取り出して、集めたごみをどんどん入れていく。
「じいちゃんに言われたんだ、どうせ山登りに行くならゴミ拾いもして来いって」
颯太のおじいちゃんもお父さんも、こういうところにごみを捨てる人が許せないんだって。そして、それをそのままにしておくのも自分が気持ち悪いからって言って、家族で出かけた先でもよくゴミ拾いをしているらしい。
颯太のまっすぐなところって、完全に遺伝だなあ。
大体目に付くところのごみを拾い終えたところで、先生の携帯に緊急メールが届いた。目にした先生の表情が強張る。
「全員、そこまでにしてすぐに下山するぞ。今、クマの目撃情報が送られてきた」
「ええっ」
「先に降りて行った登山者が見かけたらしい。ほかにも何件か同時に連絡が入ったようだ」
先生の緊張した声に、急に不安になる。どうしよう、やばい、ってざわざわ始めた僕らに、このまま予定のルートで下山すると熊とかちあう危険があるから別ルートを進むことにするって説明してくれた。
ニュースではよく聞いていた熊が人間のすぐそばまでやってくる話を、まさか自分たちが経験することになるとは思わなかった。
頂上の近くでは、全員が避難できるような場所はないので、出来るだけ合わないように注意しながら下山するのが一番だと判断したみたい。
僕たちの方が人数は多いからにぎやかだし、その声とか気配でクマの方が近寄らないかもしれないって言うけど、出会っちゃうのは、やだなぁ…。
僕たちは二列になって先頭と最後尾に先生がついて、下山を始める。僕と律は最後尾を歩いた。颯太は真ん中あたりで、同じグループの女子を気遣ってる。この中で女子は二人しかいないから、心細いよね。さっき僕に軍手を貸してくれた子は、すごく怖いみたいでぎゅっと颯太の腕を掴んでた。
「心配か?」
律が小さな声で聞いてくる。
「う…ん、怖いかも、とは思うけど…」
無駄に大きな声を上げるとか、駆け出すとか、熊を刺激したり興奮させなければ静かに離れていくはず。冬眠準備には少し早いだろうし…、それよりも…―――。
「あ、雨…」
ポツ、ポツと小さな水滴が顔に当たった。
これは、熊よりも怖いなって直感的に感じた。
『山の中でクマに合わない為にはこちらの存在をはっきりと示すことが大事だ。
だが、雨が降り出したらそれは無駄になる事が多い。雨は、あいつらにとっては夜と同じなんだ。人の匂いや気配、熊鈴の音も、足音も全部雨で消されてしまう。
人間も同じだぞ、クマの気配も匂いも、雨具を着ていると音も聞こえにくくなる。
お互いに、気が付かないでばったり出会うことがあるんだ』
父さんが昔話してくれたことを思い出す。実体験だったみたい。でも、その時はツキノワグマだったって言ってた。―やっぱりクマと戦ったんだ…ってびっくりしたのも思い出した。
「このまま小雨だったらいいが…そうもいかなさそうだな」
後ろにいる先生が空を見上げて、直ぐに大きな声で指示を出した。
「全員、雨具を着ろ! 滑りやすくなるから気をつけてな」
僕も律も急いでリュックからポンチョを取り出して頭からかぶった。冷たい水が首筋を伝ってビクッとした。
「ほら、濡れてる。ちゃんとかぶれよ」
軍手のままだけど律が濡れた顔や首筋をぬぐってくれる。言い方は優しくないけど、でも今は律の優しさが伝わってくる。
「あ…ありがと…う」
「…あ―――気にするな」
僕の小さな声にもちゃんと答えてくれた。
心配していた通りに、雨はどんどん強くなってきて、足元がぬかるんで滑りやすくなってきた。坂道を下るから特に気を付けていないと…。前の方で誰かが転んだ悲鳴が聞こえた。
「どうした、大丈夫か!」
最後を歩いていた先生が大声を出す。
「―――」
「――…!」
返事をする先生の声が雨に消されてよく聞こえない。ポンチョで視界も悪いし、音がくぐもっていて聞き取りにくい。ポンチョを打つ雨の音が激しくなるのだけが体感できた。
先生が何か言って僕たちの前に駆け出していく。思わず一緒に走り出そうとした時に、ズルっと足元が滑った。
「わっ!」「危ない!―ぐっ」
尻もちをつきそうになったのを律が後ろから抱えるように支えてくれた。
けど、律はそのまま地面に膝を打ち付けて、僕はまた律の上に乗っかってしまった。
「ごめん!」
すぐに立ち上がったけど、律は動かない。
「ごめん、痛い?どこか怪我した?」
「大丈夫だ…と言いたいが…、少しひねったかもしれない」
珍しく痛そうな律の声が、雨の中なのにしっかりと聞こえた。
「ひねった? 捻挫? あ、立てなさそう? 歩けない?」
おろおろとして、ごめんね、ごめんね、としか言えない僕。涙じゃなくて、雨が顔を濡らす。これは雨だ、僕は泣いてない!泣いてる場合じゃないんだ!
「そんなに焦らなくても大丈夫だ、ゆっくり進めば歩ける―と、思う」
言いながら律はゆっくりと立ち上がる。両足で立つと、ちょっと痛そうに口をぎゅっとしたけど、僕がじっと見ているのに気が付いて小さく笑った。
「大丈夫だ、佐藤のせいじゃない。行こう。
このままだと列から離れすぎて、迷うかもしれない」
雨はやむ気配はないし、さっきまで聞こえていたみんなの声が、音としてしか聞こえない。姿もぼんやりとしか見えなくなってきている。
歩き出した僕は、そっと律へ手を差し出した。
「…あのさ、手を繋いでいこう。本当は肩を貸したいけど…。僕、チビだから……せめて先に進めるようにするよ」
「―――今度は転ばないようにしてくれよ」
「あ、当たり前だよ! さっきは焦っちゃっただけだよ!」
僕はしっかりと律の手を握って歩き出す。
でも、一応速度には気を付ける。捻挫してるから歩きにくいし、ぬかるんだ坂道は、さっきよりもさらに歩きにくくなっていた。
ポンチョを打つ雨の音も大きくなってきていて、それ以外の音は全部消えていくみたいな気がした。もう、みんなの声が完全に聞こえない。
雨の中、二人きりになっている不安が大きくなってきてる。
律とつないでいる手の感触だけが、現実だって伝えてくれている。律がいてくれて、良かった。
しっかりと足元を見ながら道を進む。雨が強くて顔があげられなくなってきているから、もう完全に前にいるはずの皆の姿は見失ってた。でも、道を進めば大丈夫だと、思っていた。時々人の声みたいなものが聞こえて顔を上げたり、あたりを見るけどまだまだ木々の中を進んでいた。空耳? 雨の音を聞き間違えている?
「…、……ー」
「え? あ、…」
今度も空耳?って思ったけど、振り返ると律がすごく近くにいた。
「大丈夫か?」
声が聞き取りにくいからすごく近くに律の顔がある。雨でぬれた前髪が横に流れていて、この時初めて律の顔をちゃんと見た。
うわっ!なんだ!
―――滅茶苦茶イケメンじゃないか!芸能人みたいだ!
エッ、なんで?顔隠してるの?もったいないよ!颯太も女子に人気あるけど、律の顔見たらあっという間に一番人気だよ!
今の今まで不安で一杯だったのに、―そんなのが吹き飛んだ。
「……大丈夫じゃない…」
絞りだしたのは、恨めしい気持ち。それで不安で一杯になっていた心が爆発した。
颯太も律も僕より背が高くて、運動や勉強が出来て、律なんてこんなにハンサムで。
「不公平だ!」
「不公平? …疲れたのか? すまない、僕を誘導しながらなのが疲れ―」
最後まで言う前に、律の手を放して代わりに顔をがっしりと掴んだ。
「律は頭が良くて、まじめで、親切で良い奴なだけでもすごいのに!なんでそんなにイケメンなんだよ!ずるい!」
「へ? あ? あ、佐藤…?」
「それ!やだ! すぐ僕のこと、名字で呼ぶし。どうせ僕の事なんてつまらない、平凡な奴だから、名前で呼ぶ気も起きないんだろう? カッコいいからってー不公平だー!」
「佐藤、待て、待て。何を言ってるんだ? 不公平って、どういう…ー」
律が僕の両手を掴んで顔からはがそうとするけど、僕も負けない。必死に抵抗する。
「僕は、凜なの。佐藤だけど、凜なの。ちゃんと、名前で呼んで欲しい」
自分で言いながら、なんでこんなことを叫んでるんだろうって言う気持ちがちょっとずつ浮かび上がってきた。
「……凜」
ピタッと、動けなくなった。
「佐藤凜、―いったい何がどうなのか、ちゃんと説明して欲しい」
僕に顔を掴まれたまま律はまっすぐに僕を見てそう言った。
とたんに、僕はサーっと正気に戻る。
雨がひどくて、みんなの姿を見失って、不安で一杯になって。律に、八つ当たりしちゃった。律は、悪くないのに。子供みたいなわがままを叫んじゃった。
「あ…――、あの…ごめん…」
雨の音が怖くて、生き物の気配も声もない今、律だけが現実だから。
だから、律にちゃんと伝えたいのに。また顔から雨が出てくる。
そんな顔を見られたくなくて律から手を放して俯いてしまう。
「ごめん…ごめん、ごめんなさい…」
小さな子供みたいに「ごめんなさい」だけを繰り返した。それしか言葉が出なかった。
僕の手を顔からはがして、律は僕を覗き込んできた。
「凜も…、怖くなったんだな。―僕もだよ。なんだか二人きりになって他に誰もいなくて、不安で、凜の様子も不安定になって。正直に言えば、どうしたらいいかわからなくて…。でも凜がいてくれて助かった。だから、僕こそ、ごめんな。
僕がもっとしっかり班長をしていたら凜を怖がらせなかったな、本当にごめん」
「………律…」
こんなにたくさん律と話したの、初めてかもしれない。
「それに言わせてもらえば、苗字で呼んでたのは、凜も一緒だぞ。僕こそ、凜が僕なんてどうでもいいから名字で呼んでるんだと思ってた」
違うって思ってぶんぶん頭を振る。
「そんなことない! 僕は、颯太みたいに目立ってないから、いきなり良く分からないやつに名前で呼ばれたら…嫌じゃないかなって…思って…」
「二年生の時からずっと同じクラスだろ?それは凜だけだったよ、良く分からないやつって言うのは…ちょっとあってるかも」
良く分からないのは、そうなんだ…。
「内気でおとなしくて、毎回学年が変わるたびに周りに対して滅茶苦茶緊張してただろう?僕より長く一緒の友達がいるのに、毎回気を使ってるなぁ、遠慮してるなぁって不思議だった」
「……だって、僕は、目立たないから…みんなに忘れられるから…」
二年生になった時、一年生で同じクラスだった子に話しかけたら「初めまして」って言われたんだ。一人じゃなく、ほかにも同じような反応されて、僕は母さんと同じ周囲に埋没しちゃう、地味で平凡で…忘れられやすいんだって思い知ったんだ。
やばい、思い出したらまた胸が痛くなる。
「そう? 僕は最初から、凜の事をしっかり覚えていたよ。―まぁ、佐々木のせいだけど」
「え…?」
雨でよく聞こえなかった。聞き返そうとしたときに、今度は本当に誰かが呼んでいる声が聞こえた。




