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遍く空に捧ぐ  作者: 王里ori
第1章 空に傷がある
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2/3

第一話 「今日も空はきれいだった」

空に、大きな傷があった。


夜の色をした天蓋を、誰かが内側から爪で引き裂いたような、細長い白い亀裂。

それは星よりも明るいのに、地上を少しも照らしてはいなかった。


亀裂の向こうには、闇すらない。

ただ、白い。

どこまでも。


何も存在しないはずなのに、何かが際限なく詰め込まれているような、息苦しい白だった。

俺は、見覚えのない山の上に立っていた。


風が吹いている。

足元には背の低い草が広がり、その先には古びた石段と、傾いた鳥居と鐘楼が見えた。

けれど、風の音はしない。


草も揺れているのに、擦れ合う音が聞こえない。

自分の呼吸さえ、ここには存在していないようだった。


「おーい」


声を出したつもりだった。

喉は動いた。

それなのに、音はどこにも届かなかった。

俺は自分の耳を触り、もう一度口を開く。


「誰かいないの?」


やはり声は聞こえない。

代わりに、遠くから歌が聞こえた。


伴奏のない、子どもの声。


高くも低くもない。

上手いのか下手なのかすら、よくわからない。

けれど、その旋律を聞いた瞬間、胸の奥が強く締めつけられた。


知っている。


この歌を、俺は知っている。


どこで聞いたのか。

誰に教わったのか。

......思い出せない。


なのに、次の音が来る前に、どんな音が続くのかわかってしまう。


歌声を追って、俺は草原を歩いた。

足元には道らしい道がない。

それでも、迷う気はしなかった。


石段を上る。


一段。

二段。

三段。


段数を数えていたはずなのに、途中で何段目かわからなくなった。

さっきまで背後にあったはずの草原も、振り返ると見当たらない。


そこには白い霧だけが漂っていた。

歌声は、石段の上から聞こえる。

俺は足を速めた。

やがて、欠けて傾いた鳥居の向こう、さらにその鳥居を潜った向こうにある鐘楼に一人の少年が見えた。


俺と同じくらいの年齢だろうか。


白い装束。

淡い色の髪。

背中しか見えない。


少年は、空の亀裂を見上げながら歌っていた。


「お前ー」


呼びかけた。

今度はしっかりと俺の声が聞こえた。


歌が止まる。

少年はすぐには振り返らなかった。

ただ、反応はこちらに気づいている様子だった。


「ここ、どこ?」


返事はない。

なんならまた歌が再開するー。


......人が声をかけているというのになんというマイペースさ。

人や状況を顧みず歌に熱中する姿は、まるでたった一人の家族である弟を見ているようだった。


ただ、


「その歌、俺……知ってる気がする」


少年の肩が、僅かに動いた。

笑ったようにも見えた。


「お前、誰なの?」


俺は一歩近づいた。

その瞬間、少年の輪郭が白い光へ溶け始める。


「待って」


手を伸ばす。


「待ってってば!」


少年が、ようやく振り返った。

顔は逆光で見えない。

けれど、目が合ったのはわかった。


懐かしい。

......懐かしい?初めて会ったはずなのに。


家族である弟以外で、初めてずっと昔から知っている人を見つけたような気がした。

少年の唇が動く。


「名前を―」


今度は、はっきりと声が聞こえた。


「ー名前を呼べるうちは、まだいなくなってないよ」


空の亀裂が、大きく開いた。

白い光が一気にあふれ、少年も、鐘楼も、鳥居も飲み込んでいく。


「待って!」


俺は少年へ手を伸ばした。

あと少し。


指先が届きそうになったとき―




ー柔らかくて重たい何かが、俺の腹の上へ落ちてきた。


「ぐえっ!」


肺の中の空気が全部押し出された。

夢の景色が吹き飛ぶ。

目を開けると、視界いっぱいに白い毛があった。


「ネロ!重い!」


俺の胸の上に四本の足を突っ張って立っていた白い犬が、嬉しそうに尻尾を振る。


白い身体。

耳だけが薄い茶色。

少し丸い胴体。


朝から人の上に乗っておきながら、悪びれる様子は一切ない。


「わふっ」


「わふっ、じゃない!降りろ!!」


身体を起こそうとすると、ネロは俺の顔を舐め始めた。


「やめろ!顔!顔は駄目!!」


頬から鼻、額まで容赦なく舐め回される。

俺はされるがままになるのも束の間、笑いながらネロの身体を両腕で押し返した。

二段ベッドの上段で暴れたせいで、木製の枠が大きく軋む。


「兄ちゃん、うるさい」


下段から、くぐもった声が聞こえた。


「俺じゃない。ネロに言え」


「ネロは兄ちゃんに乗ってるだけだよ」


「だから被害者は俺だろ!」


毛布の中から、 平戸 星夜(ひらと せいや)が少しだけ顔を出した。

俺と同じようで違う、ほんの少しだけ色素の薄い淡い髪が寝癖で跳ねている。


目は半分も開いていない。

そんな状態でも、弟の顔が妙に整っているのが腹立たしくも誇らしい。


「ネロ」


星夜が片手だけ伸ばす。

ネロは俺の胸から飛び降り、二段ベッドの木枠や梯子を器用に伝って、下段へ移動した。

そして今度は星夜の布団へ潜り込む。


「おい、ネロに甘すぎ」


「兄ちゃんは朝からうるさいからね」


「ネロが起こしたんだよ!」


「ネロは仕事しただけだよ」


毛布の中から、ネロのルンルンに上がった尻尾だけが出ている。

ネロは星夜によく懐いていると思う。

尻尾は今日もそれを表すようにブンブンと上下に揺れている。

星夜はネロを撫でながら、また目を閉じた。


「二度寝するな」


「あと五分」


「その五分、昨日も聞いた」


「昨日の五分と今日の五分は別物」


「デザートは別腹と同じ理論やめなさい。ダメなものはダメ」


俺はベッドから降りた。

布団から出たばかりかつ、フワフワのネロと戯れた後なので床板がひんやりと冷たい。

窓の外からは、朝の海風がカーテンを揺らす音が聞こえている。


ここは、常暁学園(じょうぎょうがくえん)の学生寮。

常暁学園は、海と山の間に広がる常暁(じょうぎょう)市の少し高い山側に建っている学園で、初等部から高等部までの生徒が同じ敷地で学ぶマンモス一貫校。


北を見れば山と、木々の間に点在する神社や祠。

南を見れば市街地と、その向こうの海、あとはお隣の姉妹都市の【黎明(れいめい)市】。


潮の匂いと土の匂いが同時にする、変な街だ。

俺は窓の鍵を外し、少しだけ開いた。


冷たい風が部屋へ入ってくる。

朝の空はよく晴れていた。

薄い青。

遠くに白い雲。

春の空としてはちょうどいい天気だ。


夢で見た空のような傷なんて、どこにもない。


「……何だったんだ、あれ」


「何が?」


呟いた声に、星夜が反応した。


「変な夢見た」


「どんな?」


「神社の鐘楼で知らないけど知ってる感じのやつがいて、歌ってた」


星夜の手が止まる。

毛布から顔を出し、俺を見る。


「歌も気になるけどーその神社と鐘楼って市境の古い神社?」


星夜のいう通り、確かに常暁市と黎明市の市境の山間に古い神社がある。


「どうだろ。神社なんてどこにでもあるし......あそこは昔から立ち入り禁止だからわかんね」


「ふーん。でも、神社に鐘楼なんてある場所なんて少ないから案外そこだったりしてね」


なぜそこに鐘楼があることなんて知っているのやら。

生まれた時にはすでに立ち入り禁止の地域だったので、言われてみればあったようなレベルでしかない。


「変なところ博識だよな」


「ちょっと音楽の制作で必要だったから勉強しただけ」


「音楽のことになると一直線だからなぁ......他のことにも夢中になってくれればいいんだけど」


星夜は音楽が好きで、音楽が趣味で、音楽が得意。

単刀直入に言おう、音楽の天才だ。


孤児院出身の俺と星夜、それぞれ孤児院内でできる遊びで興味を持ったのは別々だった。

俺は外で遊ぶ遊びの方が好きなアウトドア派運動部だったし、星夜は何をやらせても基本的にそつなくこなすが、大体は中で遊ぶ遊びの方が好きなどちらかといえばインドア派文化部だった。

孤児院の限られた範囲で星夜が強く興味を示したのは、子どもたちが集まる講堂に置いてあったパイプオルガンだった。


俺も耳は悪くないが、星夜の(みみ)は別格によく、孤児院の院長のじいちゃんが初めてパイプオルガンの音を聴かせてくれた後、星夜はすぐに楽器に触れ始めた。

楽器に触れ始めてすぐに才覚を発揮していった。


......ちなみに俺はサッカーが好きだ。


「兄ちゃん、僕がやる気出せばなんでもできるの知ってるでしょ」


「知ってるからこそだろ」


なんでもできてそつなくこなしてしまうが故、まだ12年という短い人生しか過ごしてきていないのに、星夜はすでに音楽以外のことへはあまり興味を示さなくなってしまっていた。

俺はだからこそ今後を少し憂いている。


「うーん......音楽が関わるならやるよ?で、どんな人がどんな歌歌ってたの?」


「虚しくもスルーでお兄ちゃんは悲しい。......白い服着た、俺たちと同じくらいの男の子」


「で、どんな曲?」


やっぱり音楽以外に興味なさそうで幸先が思いやられる。

真っ先に歌、音楽なのだ。


「覚えてない」


「歌は知ってたんじゃないの」


「何でわかる?」


「兄ちゃん、そういう顔してた」


「どういう顔だよ」


「何か忘れたときの顔」


星夜は勘も良い。

だから、よくこっちの考えを読まれることも多い。

俺はもう一度、空を見上げた。


夢の中で聞いた旋律を思い出そうとする。

最初の音すら出てこない。

胸に残っているのは、懐かしいという感覚だけだった。


「名前を呼べるうちは……」


「何?」


「いや」


少年の言葉。

それだけは、やけにはっきり覚えている。


<ー名前を呼べるうちは、まだいなくなっていない。>


どういう意味だろう。


「兄ちゃん」


振り返る。


星夜が、ネロの耳を指で摘まんでいた。

ネロは気にせず目を細めている。


「朝ごはん」


「その前に起きろ」


「今日鮭?」


「知らん」


「鮭なら起きる」


「じいちゃんに聞け」


星夜は数秒考えたあと、また布団へ沈んだ。


「ネロ、起こしてやれ」


「わふっ」


俺が言うと、ネロは星夜の顔を舐め始めた。


「ちょっ……ネロ、やめて」


「いい仕事するなあ!」


「兄ちゃんがやらせたんだろ!」


星夜の声と、俺の笑い声と、ネロの吠える声。

それがいつもの朝だった。




寮の廊下を下りると、朝食の匂いがした。


焼き魚。

味噌汁。

炊きたての米。


「鮭だ」


隣を歩いていた星夜の目が、ほんの少しだけ開いた。


「お前、魚だけで起きられるなら毎日自分で起きろよ」


「毎日鮭なら」


「贅沢言うな」


ネロは俺たちの足元を行ったり来たりしながら、食堂へ向かう。

廊下の曲がり角で星夜にぶつかりそうになり、今度は俺の後ろへ回る。


「ネロ、走るなよ」


「わふ」


「返事だけはいいな」


多分星夜か俺に似たんだろう。


食堂の扉を開ける。

中では寮生たちが朝食を取っていた。


眠そうな顔でパンを咥えている高等部生。

宿題の答えを写している中等部生。

昨日のテレビの話をしている元気な初等部生。

早朝練習を終え、すでに二杯目のご飯を食べている運動部員。


いつもの朝の音が、湯気と一緒に満ちている。


「遅いぞ、お前ら」


食事を配っていた水浜 蒼遠(みはま そえん)が、鍋の向こうから声を飛ばした。


寮の子どもたちにとっては“じいちゃん”。

元々、血縁的に頭脳明晰な家系で資産家や政治家を多く輩出している【水浜(みはま)家】の直系の当主で、じいちゃん自身はいくつかの学園の経営と孤児院の経営をしている。


俺はたまたま流れ着いて星夜と孤児だったところをじいちゃんに拾われた。

俺や星夜からすれば、実のじいちゃんであり親といっても過言ではないが、学園では理事長とか創設者とか、外では水浜の当主だとか、もっと立派な肩書きで呼ばれている。


けれど、エプロン姿で味噌汁をよそっているところを見ると、どうしても理事長には見えない。ただのじいちゃん。


「星夜が起きなかった」


「兄ちゃんも寝てた」


「ネロに起こされたけど、俺はすぐ起きた」


「僕もネロに起こされた」


「俺が命令したんだよ」


「結局ネロじゃん」


「朝から元気だなあ」


蒼遠じいちゃんは笑いながら、俺たちのトレーへ鮭を乗せた。


俺の皿には大きめ。

星夜の皿には少し小さめ。


「差がある」


星夜がすぐ気づく。


「早く来た者から大きいのを取る決まりだ」


「兄ちゃんと同時に来た」


「今日先に起きたのは(あまね)だろう」


「兄ちゃんがたまたまネロに起こされただけ。それなら僕もすぐネロに起こされた」


「ネロは先に普を起こした」


じいちゃんに名前を呼ばれ背筋が伸びる。

じいちゃんに名前を呼ばれると心なしかシャキッとする。

言ってる内容が謎理論でもれきとした素晴らしい人だからだろうか。

それとも親に名前を呼ばれるとこういう感じなのだろうか。


「ふふ、」


名前を呼ばれて背筋が伸びるのも束の間、謎理論を朝から展開する星夜とじいちゃんに笑みが溢れる。

じいちゃんはかなり凄いことをしている人らしいが、こうやって訳のわからない冗談やノリで話してくれることがある。

そこが好きで尊敬できる。


思わず朝から笑ってしまっていたが、星夜は納得できない顔で鮭を見つめている。


「俺の少しやるよ」


「いいの?」


「その代わり、放課後に新しい曲聴かせろ」


「安い取引」


「じゃあやらない」


「やっぱりいる」


星夜が即座に答える。


「交渉成立だな」


「お前ら、朝から何の商売しとるんだ」


蒼遠じいちゃんが笑った。

ネロは俺たちの会話が終わるのを待っていたかのように、蒼遠じいちゃんの足元へ座る。


姿勢だけは妙にいい。犬も人も関係なくじいちゃんの前では背筋が伸びるものなのだろうか。

やはりじいちゃんは凄いのかも。


ただ、視線は鮭から動かない。


「駄目だぞ」


蒼遠じいちゃんが言う。

ネロは首を傾げる。


「そんな顔をしても駄目だ」


尻尾が一度、床を叩く。


「塩がついてるからな」


もう一度、尻尾。


「……あとで犬用のささみをやる」


ネロの尻尾が激しく上下へ動く。


「じいちゃん、負けてるじゃん」


「負けとらん。健康を考えた判断だ」


「最初からあげるつもりだったでしょ」


星夜の指摘に、蒼遠じいちゃんは答えず、別の寮生の味噌汁をよそい始めた。

俺たちは、窓際のいつもの席へ向かう。


そこにはすでに、水浜 爽良(みはま そら)が座っていた。

水色の長い髪を高い位置でまとめ、新聞と数枚の資料を机へ広げている。


高等部一年。

一年生ながらも常暁学園の生徒会長で、理科学研究部の中心人物。

俺より二つ年上なのに、学園の中では先生たちより頼りにされているんじゃないかと思う。


「おはよう、普。星夜くんも」


「おはよう、爽良」


「おはようございます」


俺たちが席につくと、爽良は資料を重ね、端へ寄せた。


「今日はちゃんと二人揃ってるね」


「ネロが起こしてくれました」


 星夜が言う。


「俺も起こしたんだけど?」


「兄ちゃんがネロに言ってネロが起こしてくれた。あるいはネロが兄ちゃんに乗ったことでその音で起きれた」


「実行したやつが評価される世界、厳しいな」


ネロは爽良の隣へ座り、膝に顎を乗せる。


「ネロ、おはよう」


爽良が頭を撫でると、ネロは満足そうに目を閉じた。


「こいつ、爽良には大人しいんだよな」


「普は遠慮がないからじゃない?」


「俺も少しは尊重されたい」


「好きだから飛びつくんだよ」


「それで毎朝内臓潰されたらたまらないって」


爽良が笑い、俺のネクタイへ手を伸ばした。


「曲がってる」


「いいよ、これくらい」


「生徒会長として見過ごせない」


「生徒会長、朝食のネクタイまで管轄してるの?」


「今決めた」


結び目を整えられる。

爽良はこういうところが細かい。

自分の身なりはもちろん、人の襟や髪の乱れまで気づく。


「星夜くんはきれいだね」


「兄ちゃんより先に鏡使いましたから」


「俺が先に起きたのに!」


「兄ちゃん、ネロと遊んでた」


「襲われてたんだよ」


「朝から仲がよろしいことで」


いつの間にか蒼遠じいちゃんが隣の席へ座っていた。

自分の茶碗に山盛りの米をよそっている。


「じいちゃん、それ食べすぎじゃない?」


「育ち盛りだからな」


「どこが?」


「人は生涯育ち盛りだ」


「いい言葉みたいに言わないで」


食卓に笑いが起こる。

俺は鮭を半分だけ星夜の皿へ移した。


星夜は何も言わず、その代わり俺の味噌汁に入っていた苦手な椎茸を自分の椀へ移す。

昔からの交換。

言葉にしなくても、自然にそうする。


ネロは机の下で、何かが落ちてこないか待っている。

蒼遠じいちゃんは注意しながら、結局こっそり犬用のささみをやっている。

爽良はそれに気づいているけれど、何も言わない。


何でもない朝だった。

たぶん俺は、こういう時間がずっと続くと思っていた。


「あれ」


爽良が、小さく声を漏らした。


「どうした?」


資料の端に置いていた薄い端末を見ている。

画面には、波のような線が何本も表示されていた。


「今、一瞬だけ数値が跳ねた」


「何の数値?」


「空間振動と電磁波。それから、まだ調整中だけど、音の周波数も」


「何か起きたんですか?」


星夜が身を乗り出す。


「もう戻ってる」


爽良は画面を操作した。


「機械の誤作動かも。最近、風が強いから」


「空にヒビが入ったとか?」


俺が冗談で言った。

爽良が顔を上げる。

目が合った。

どこか怪訝な顔。


「どうして、そう思ったの?」


「え?」


「空のヒビ」


「いや。夢で見ただけ」


「夢?」


星夜もこちらを見る。


「朝話しただろ。山の上で知らない男の子が歌ってて、空に白い傷があったって」


爽良の表情が少し真剣になる。


「どんな場所だった?」


「どんなって……山と、古い鳥居と、石段と......鐘楼」


「他には?」


「白い服の子がいた。顔は見えなかった」


爽良は何かを考え込む。


「爽良?」


「ごめん。何でもないよ」


「絶対何かある顔じゃん」


「本当に、今はまだ何もわからない」


“今はまだ”。


その言い方が引っかかった。

けれど、爽良は端末を伏せ、いつもの柔らかな笑顔へ戻った。


「夢で見た風景が気になるなら、あとで絵に描いておいて。忘れないうちに」


「俺、絵下手だぞ」


「知ってる」


「爽良まで言う?」


「特徴がわかれば十分だよ」


星夜が小さく笑う。


「兄ちゃんのネロの絵、牛みたいだった」


「あれはネロが丸いからだ!」


名前を呼ばれ、ネロが机の下から顔を出す。


「わふ?」


「お前の話」


俺が頭を撫でると、ネロは俺の指を舐めた。


温かい舌。

柔らかい毛。

そこにいることが当たり前すぎて、確認する必要なんてない。


そう思っていた。




登校時間になると、ネロは学園の門までついてきた。


「ネロ、今日は寮で留守番」


俺が言っても、ネロは止まらない。


「わふ」


「返事はいいけど、帰る方向逆だぞ」


星夜が少し先を歩きながら振り返る。


「兄ちゃんが送れば?」


「そうすると俺が遅刻する」


「ネロは普と学校行きたいんだよ」


「犬は学校入れないの」


ネロの首輪を掴み、寮の方向へ身体を向ける。

しかし、俺が手を離すとすぐこちらへ戻ってきた。


「お前、今日どうしたんだ?」


普段は門まで来ても、言い聞かせれば帰る。

今日は妙に離れようとしない。


尻尾は振っている。

怯えているようには見えない。

ただ、俺の足に身体を押しつけている。


「寂しいのかな」


星夜がしゃがみ、ネロの首元を撫でた。


「帰ったら散歩行くから」


「わふ」


「音楽部のあとね」


「俺のサッカー部が終わるの待ってたら遅くなるぞ」


「じゃあ俺が先に行く」


「一人で大丈夫?」


「ネロがいるから一人じゃない」


星夜はそう言って、ネロの額へ自分の額を軽く当てた。

その瞬間。


ちりん。


ネロの首輪についた銀色の鈴が鳴った。

小さな音。

なぜか、胸がざわついた。


「普ー!」


坂道の上から声が飛んでくる。

振り向くと、好宮(このみや)カフカが大きく手を振り、巨乳を揺らしながらこちらに走ってくる。

長いピンク色の髪が朝の風になびいている。

隣にはカフカの妹の好宮(このみや)ナズナが姉とは反対に控えめに手を振る......胸のサイズも控えめだ。

妹は姉とは違い薄紫の髪だ。


二人は双子の姉妹で、常暁市にある好宮神社の巫女でもある。

二人とも常暁学園中等部二年で、俺と同じクラスだ。


「おはよー!」


「おはよう、普。星夜くんも」


「おはようございます」


「おはようございます」


カフカが坂を駆け下りてきた。

そして俺ではなく、真っ先にネロへ抱きついた。


「ネロー!今日もかわいいねえ!」


ネロは少し迷惑そうな顔をする。


「ちょっと、何その顔」


「カフカ、抱きしめ方が強い」


ナズナが冷静に指摘する。


「愛が大きいだけですー」


「ネロの愛は小さくなっています」


「そんなことないよね、ネロ?」


カフカが顔を近づけると、ネロはするりと腕から抜け、俺の後ろへ隠れた。


「振られてんじゃん」


「普、笑った!」


「事実を言っただけだろ」


カフカが俺の肩を叩く。

ネロは俺の脚の間を通り、今度はナズナのそばへ行った。


ナズナが静かに頭を撫でる。

ネロは逃げない。


「何でナズナはいいの?」


「日頃の行いです」


「双子なのに差別!」


「ネロに言ってください」


俺と星夜は顔を見合わせて笑った。

いつもこの学園の門で星夜と別れる。

初等部の校舎は中等部より東側にある。


「放課後、音楽室寄るから」


俺が言うと、星夜は少し眉を上げた。


「サッカー部は?」


「終わってから」


「遅い」


「鮭分けたろ」


「……じゃあ待つ」


「面倒くさいな、お前」


「兄ちゃんほどじゃない」


星夜はネロの首輪を軽く引いた。


「ネロ、帰ろう」


ネロは俺を見上げる。

動こうとしない。


「どうした?」


しゃがんで、両手で顔を挟む。


「いい子で待ってろ。帰ったら遊ぶから」


ネロの額へ、自分の額を当てた。

星夜がしたのと同じように。


「約束」


ネロは俺の鼻を舐めた。


「よし。じゃあ帰れ」


星夜に連れられ、ネロはようやく寮の方向へ歩き始める。

何度もこちらを振り返った。

そのたびに俺は手を振った。


「ネロ、普のこと好きだよね」


カフカが言う。


「知ってる」


「即答」


「毎朝腹に飛び乗ってくるくらいだからな」


「私も飛び乗ろうか?」


「絶対やめろ」


「何でネロはよくて私は駄目なの?」


「ネロもよくないよ!」


カフカが笑う。

ナズナも、ほんの少し口元を緩めていた。


その向こうで、星夜とネロの姿が坂の角へ消える。

鈴の音だけが、しばらく聞こえていた。




一時間目の英語で、俺は先生に当てられた。


「平戸。次の文章を訳せ」


黒板には、長い英文。

見たことのない単語。

俺は立ち上がったものの、一文字も頭に入ってこない。


隣の席から、カフカが小さな声で囁いた。


「私は昨日、図書館で巨大な鮭を見ました」


意味がわからない。

しかし先生は待ってくれない。


「私は昨日、図書館で巨大な鮭を見ました」


教室が静まり返った。

先生が眼鏡を押し上げる。


「平戸」


「はい」


「どの単語が鮭だ」


「flakeの部分ですかね」


「フレーク=鮭じゃないぞ」


教室中に笑いが起きる。

カフカは机へ顔を伏せ、肩を震わせている。


「カフカ!」


「ご、ごめん……朝、鮭の話してたから……」


「関係ないだろ!」


反対側から小さく折られた紙が滑ってくる。

ナズナだ。

開くと、正しい訳がきれいな字で書かれている。


「ナズナ、もう少し早く!」


「試験ではありませんので、自分で考えるべきです」


「カフカには最初から止めてくれよ!」


「カフカは止めても聞きません」


「ナズナまでひどい!」


「好宮双子、平戸......授業中だ」


「「「すみません!!!」」」


三人で声を揃える。

また教室に笑いが起きた。


休み時間になると、カフカが俺の机の前へ来た。


「怒ってる?」


「怒ってる」


「鮭一匹で?」


「巨大な鮭だぞ」


「そこ?」


ナズナも席を立ち、こちらへ来る。


「普くんが素直にわからないと言えばよかったのです」


「先生に当てられたら、何か答えたくなるだろ」


「だからカフカの言葉をそのまま?」


「普って人を信じやすいよね」


「カフカに言われると腹立つな」


カフカだって明るい性格で誰とでも仲良いし、人を信じやすい性格だろ......。

カフカは笑いながら、窓の外を見る。


「今日、空きれいだね」


「急にどうした」


「いや、何となく」


俺も窓の外へ目を向けた。

雲一つない青空。

朝よりも色が濃くなっている。

夢の中の空とは、まるで違う。


「普、朝から変な顔してたよ」


「どんな顔」


「何か思い出せないときの顔」


星夜と同じことを言う。


「俺ってそんなにわかりやすい?」


「うん」


「はい」


二人が同時に答える。


「嫌だなあ」


「何を思い出そうとしてたの?」


「夢で聞いた歌」


「歌?」


カフカの目が輝く。


「恋の歌?」


「何でそうなる」


「夢に知らない男の子が出てきたなら、運命の出会いかも」


「男の子って言ったっけ?」


「今言った」


「あ」


ナズナが真面目な顔で聞く。


「どのような人でした?」


「白い服で、同い年くらい。顔は見えなかった」


「何を話したのですか」


「名前を呼べるうちは、まだいなくなってないって」


カフカが首を傾げる。


「どういう意味?」


「俺が聞きたい」


ナズナは笑わなかった。


「夢の場所は、覚えていますか」


「山の上。古い鳥居と鐘楼があった」


「神社?」


「たぶん」


「好宮の神社に似てた?」


「いや。もっと古くて、壊れかけてた」


 ナズナは少し考え込む。


参ヶ原(まいがはら)には、古い社が残っていると聞いたことがあります」


「参ヶ原?」


「常暁市と黎明市の間にある山地の神社です。その辺り一辺の地名と神社の名前が参ヶ原(まいがはら)といいます。」


「初等部時代に社会科で習ったじゃない......」


カフカが呆れる。


「名前は知ってるよ。行ったことないだけ」


「まあ私たちが生まれるよりもずっと昔に立ち入り禁止になったみたいだしね。神社やってる私たちもほとんどないもん」


ナズナは窓の外、北側の山を見る。


「夢で見る理由は、わかりません」


「ただの夢だろ」


「そうかもしれません」


言葉ではそう答えたが、ナズナの表情は少し硬かった。

チャイムが鳴る。


俺たちはそれぞれの席へ戻った。

教科書を開きながら、もう一度だけ空を見る。


そのとき、

白い線が見えた。


「え」


空の中央。

髪の毛よりも細い、白い傷。


まばたきをする。

消えていた。


「平戸?」


先生に呼ばれる。


「どうした」


「……何でもないです」


空を見ても、もう何もない。

目の錯覚。

飛行機雲。

窓硝子についた傷。


いくらでも理由は考えられる。

それなのに、心臓が妙に速く打っていた。




昼休み。


俺たちは中庭で弁当を食べていた。

カフカはナズナが作ったらしい弁当にプラスして購買で買ったパンを三つ。

ナズナは自分で作ったらしい小さな弁当。


俺は蒼遠じいちゃんが用意した弁当箱を開く。

鮭が入っていた。


「また鮭」


多分今朝の授業の一件を思い出して笑ったのだろう。

カフカが笑う。


「うるさい」


「巨大?」


「普通」


「図書館で捕まえたやつ?」


「まだ言う?」


ナズナが俺の弁当を覗く。


「普くん、野菜も食べてください」


「あとで食べる」


「その“あとで”は食べない人の言葉です」


「見張るなよ」


弁当の端に入ったブロッコリーを箸で摘む。

仕方なく口へ入れる。

野菜は嫌いだ。特に緑色のものは。

......それこそ鮭とか海産物のほうが美味い。


「偉い」


カフカが拍手した。


「子ども扱いするな」


「中学生は子どもでしょ」


「お前もだろ」


「私はカフカだから」


「意味わかんね〜」


そのとき、中庭の反対側から声がした。


「平戸先輩!」


初等部の女子制服を着た子が、こちらへ走ってくる。

爽良のいとこで星夜と同じクラスの涼風すずかぜ 雨季うきだ。

そのすぐ後ろには星夜もいる。


「兄ちゃん」


「星夜。どうした?」


「ネロが来た」


「は?」


星夜が後ろを指す。

植え込みの間から、白い犬が勢いよく飛び出してきた。


「ネロ!?」


俺が立ち上がる。

次の瞬間、ネロが胸へ飛びついてきた。


「うわっ!」


弁当箱を持ったまま後ろへ倒れそうになる。

カフカとナズナが左右から支えてくれた。


「危なっ!」


「ネロ、学校入ってきたのか?」


ネロは俺の制服へ前足をかけ、顔を舐める。


「やめろって! 昼飯の味するだろ!」


「わふっ」


「どこから来たの?」


カフカが嬉しそうに頭を撫でる。

今度は逃げない。

むしろ全員がいることに安心しているように見えた。


「門のところにいたのを、私が気づいたんです」


雨季ちゃんが答える。


「雨季が見つけた頃と同時に先生が寮へ連絡しようとしてたから、僕が預かった」


「首輪抜けたのか?」


確認する。

切れてはいない。

誰かが留め具を外さない限り、外へ出られないはずだ。


「今朝、ちゃんと小屋につないだよな」


「うん」


「じいちゃんが散歩させたとか?」


「蒼遠さんは今、会議です」


雨季ちゃんが言った。

涼風 雨季(すずかぜ うき)

星夜と同じ初等部六年。


黄緑色の髪を三つ編みにし、紫の瞳でネロを観察している。

小学生とは思えないくらい落ち着いていて、爽良と一緒に理科研究部へ出入りしている。

多分落ち着きとか、頭の良さは水浜家の親戚筋だからなのだろう。


「首輪の留め具に破損はありません」


雨季ちゃんがしゃがみ、ネロの首元を見る。


「意図的に外された可能性があります」


「誰が?」


「わかりません」


「ネロ、自分で外した?」


カフカが聞く。


「犬に外せる構造ではありません」


「じゃあ誰かが学校へ連れてきたってこと?」


ナズナが周囲を見回す。


「それなら、なぜここへ置いていったのでしょう」


ネロは俺の足元へ身体を寄せたまま、離れない。

今度は朝とは違って怯えている気持ちが紛れている気がする。

まるで俺たちと離れるのを怖がっているような。


「どうしたんだ、お前」


頭を撫でる。

首輪の鈴が鳴る。

ちりん。


夢の中の歌が、一瞬だけ脳裏をよぎった。


旋律は思い出せない。

ただ、胸が締めつけられる。


「平戸先輩?」


雨季ちゃんの声で我に返る。


「何?」


「今、顔色が変わりました」


「朝見た夢を思い出しただけ」


「空に傷がある夢?」


雨季ちゃんが聞く。


「星夜から聞いたの?」


「先ほど」


星夜を見る。


「言ったの?」


「曲の話してたから」


「夢の旋律を覚えているのですか」


「いや。俺は覚えてない」


星夜が隣へ座り、膝を軽く叩く。

ネロは俺から離れ、星夜の膝へ顎を乗せた。


「でも、兄ちゃんが夢の話したとき、少しだけ音が浮かんだ」


「どんな?」


「四つだけ」


星夜は指で地面を叩いた。

一定ではない間隔。

四つの音を表しているらしい。


「昼休みが終わったら、音楽室で確かめる」


「授業は?」


「ちゃんと出るよ」


「普段の行動が信用されていないだけです」


雨季ちゃんが淡々と言う。


「雨季、僕そんなに授業抜けない」


「音楽室へ行くためなら抜けます」


「二回だけ」


「二回も?」


俺が言うと、星夜が不満そうにこちらを見る。


「兄ちゃんだってサッカーの試合で早退する」


「それは公欠!」


カフカがネロを撫でながら笑う。


「賑やかだねえ」


ナズナはネロの鈴を見つめていた。


「ナズナ?」


「何でもありません」


「何か気になる?」


「少しだけ、音が遠く聞こえました」


「遠く?」


「鈴はここにあるのに、別の場所から鳴ったような」


もう一度、俺が鈴へ触れる。

ちりん。

今度は普通の音に聞こえた。


「気のせいかもしれません」


ナズナは言った。

その言葉を、今日だけで何度聞いただろう。


俺の夢も。

空の白い線も。

ナズナが感じた音も。


全部、気のせい。

そう言えば、簡単に日常へ戻れる。


昼休みの終わりを告げる予鈴が鳴る。


「ネロ、どうする?」


「俺が寮へ連れて帰る」


「普、次の授業は移動教室だよ」


カフカが言う。


「終わってからじゃ間に合わない」


「私が連れていきます」


雨季ちゃんが立ち上がった。


「初等部の担任には事情を話しているので、寮にも連絡してから連れて行きます」


「一人で大丈夫?」


「星夜くんにも来てもらいます」


「授業は?」


「サボりではないし、私と星夜くんなら少しくらい抜けたところで大丈夫ですよ」


「雨季ちゃん、そういうときだけ大胆だよな」


「合理的な判断です」


星夜がネロの首輪を持つ。


「ネロ、帰るよ」


ネロは動かない。

俺を見上げている。


「放課後、すぐ帰るから」


しゃがみ、頭を撫でる。


「今度こそいい子で待ってろ」


ネロの鼻先が、俺の手のひらへ触れた。

温かい息。


「約束な」


「わふ」


ネロは短く鳴いた。

その声が、なぜか別れの挨拶みたいに聞こえた。




放課後。

グラウンドには強い風が吹いていた。


「普、右!」


チームメイトの声に反応し、俺は走る。


ボールが来る。

足元へ収める。


一人抜く。


前にはディフェンダーが二人。

左へ行くと見せて、右へ切り返す。

相手の重心が動いた瞬間に、間を抜ける。


「行け!」


ゴールまで十数メートル。

キーパーが前へ出る。


シュートを打とうとして、ふと空が目に入った。


青い。

雲は薄い。

その中央に、白い傷があった。


朝や授業中に見たものより、ずっとはっきりしている。

細い亀裂が一本。

そこから枝分かれするように、幾つもの線が伸びていた。



ぱきり。



音がした。


グラウンドから音が消えた。

仲間の声。

風。

靴が土を蹴る音。

全部なくなる。


俺はボールを追いながら、空を見上げた。


亀裂の向こうから、歌が聞こえる。

夢の歌。

あの少年の声。

その中に、別の音が混ざった。



ちりん。



ネロの鈴。


「―兄ちゃん」


星夜の声が聞こえた。


「星夜?」


足が止まる。

次の瞬間、顔面へ何かが激突した。


「ぶっ!」


ボールだった。

俺は勢いよく後ろへ倒れる。


音が戻る。


「普!?」


「大丈夫か!」


仲間たちが駆け寄ってくる。

鼻が痛い。

涙が出る。


「空見ながら走るなよ!」


「いや、今……」


起き上がり、空を見る。


亀裂は消えていた。


青空。

どこにでもある、放課後の空。


「何だよ」


胸の奥が嫌に騒がしい。


グラウンドの外。

フェンスの向こうに、星夜が立っていた。

音楽部の活動を終えたらしい。

隣には雨季ちゃん。


星夜も、俺と同じ場所を見上げている。

目が合った。

星夜の顔から血の気が引いていた。

俺は練習を早めに切り上げた。




「見た?」


音楽室へ入るなり、星夜が聞いた。


「空のやつ?」


「うん」


「見た」


星夜がピアノの前へ座る。

雨季ちゃんは窓際の机へ端末を置き、何かの記録を確認している。


「どんなふうに見えた?」


「白いヒビ。朝の夢より細かったけど、ちゃんと割れてた」


「音は?」


「歌と、ネロの鈴」


星夜の指が止まる。


「僕も」


「ネロの音が聞こえた?」


「歌の中に混ざってた」


「ネロは寮に戻ったんだよな」


「戻しました」


雨季ちゃんが答える。


「寮の職員へ直接引き渡しています。首輪も確認しました」


「じゃあ何で」


「現時点では説明できません」


雨季ちゃんが端末をこちらへ向けた。

画面に、細い波形が表示されている。


「午後四時十二分。理科研究部の観測機器が、短時間の異常を記録しました」


「俺が空を見た時間だ」


「おそらく」


「音の記録もある?」


「通常の可聴域では何もありません。しかし、一部の周波数に不自然な乱れがあります」


星夜が画面を覗き込む。


「音にできる?」


「数値を音程へ変換することは可能です」


「やって」


雨季ちゃんは少し驚いた顔をしたが、すぐ端末を操作し始めた。


「時間がかかります」


「どれくらい?」


「数分です」


星夜はピアノへ向き直る。


「朝、兄ちゃんの夢を聞いたとき、浮かんだ音」


鍵盤へ指を置く。


一音目。


少し間を空けて二音目。


三音目。


四音目。


短い旋律。

四つの音しかないのに、胸の奥へ引っかかった。


「知ってる」


口から言葉が出た。


「やっぱり?」


「どこで聞いたかはわからない」


「続き、わかる?」


「わからないけど」


俺は目を閉じた。

夢の少年。

白い装束。

ひび割れた空。


名前を呼べるうちは。


声にならないまま、旋律を口ずさむ。

四つの音の続き。

自分で歌っているのに、自分の曲ではないような感覚。


星夜が、俺の歌った音をピアノでなぞる。

旋律が少しずつ形になる。


「兄ちゃん、本当に知らないの?」


「知らない」


「でも合ってる気がする」


「俺も」


雨季ちゃんの端末から、小さな音が鳴った。


「変換が終了しました」


スピーカーから、低い雑音が流れる。


風のような。

雨のような。


耳を澄ますと、その奥に不規則な音がある。


星夜が弾いた四音。

俺が続けた旋律。

同じだった。


「一致しています」


雨季ちゃんが言う。


「完全ではありませんが、主要な音程の配列は同一です」


「俺たちが知らない歌が、観測機器に記録されてるってこと?」


「そうなります」


「俺は夢で聞いた」


「僕は兄ちゃんの話を聞いて浮かんだ」


星夜が鍵盤を見つめる。


「この曲、誰のだろ」


誰も答えられない。

窓から夕日が差し込み、ピアノの黒い表面に反射している。

俺は空を見た。

もうヒビはない。


「今日、ネロ変だった」


星夜が言う。


「朝も学校へ来たときも、兄ちゃんとか僕らから離れたがらなかった」


「寂しかったんじゃないですか?」


「ネロ、普段はあんなことしない」


雨季ちゃんが端末の記録へ視線を落とす。


「寮へ戻したあとも、入口の前から動かなかったそうです」


「誰に聞いたの?」


「職員から連絡がありました」


「何で雨季ちゃんに?」


「私が連絡して連れていったからですね」


「何か気づいてたのかな」


俺の声に、星夜がこちらを見る。


「ネロが?」


「空のヒビとか」


「犬は人間より音や匂いに敏感です」


雨季ちゃんが答える。


「人間が認識できない異常を、先に感じ取った可能性はあります」


「帰ろう」


俺は立ち上がった。


「今すぐ?」


「ネロの散歩、約束した」


星夜もピアノの蓋を閉じる。


「僕も行く」


「雨季ちゃんは?」


「理科研へ戻ります。爽良兄さんへ記録を報告する必要があります」


「今日はもう遅くなるぞ」


「必要なことです」


雨季ちゃんは端末を抱えた。


「ただし、平戸先輩」


「普でいいよ」


「では、普さん」


「それも何か距離あるな」


「ネロに異変があれば、すぐ連絡してください」


「わかった」


音楽室を出る前に、星夜がもう一度だけピアノを振り返った。


「曲、続き作る?」


俺が聞く。


「作るんじゃなくて、思い出すんだと思う」


「誰が?」


「わからない」


星夜は自分の指先を見た。


「でも、もうどこかにある気がする」




寮へ戻ると、ネロは玄関の前に座っていた。

職員が用意した毛布の上にも乗らず、扉を見つめている。

俺の姿を見つけた瞬間、立ち上がった。


「ネロ!」


こちらへ駆けてくる。

両腕を広げる。

ネロが胸へ飛び込んできた。


「うわっ!」


朝と同じ。

今度は踏ん張り、倒れずに受け止める。


「待ってたのか?」


ネロは俺の頬を舐める。


「わかった、わかった! 散歩行こうな!」


星夜が隣で笑う。


「兄ちゃん、顔べたべた」


「お前もやられろ」


ネロの身体を星夜へ向ける。


「やめて」


そう言いながら、星夜も笑っている。

首輪へ散歩用の紐をつけ、俺たちは寮を出た。


夕方の街。

坂道を下れば、海が見える。

商店街では夕食の支度をする匂いが漂い、学校帰りの生徒たちが店先で話している。


ネロはいつもの道を進む。

電柱の匂いを嗅ぎ。

道端の猫に無視され。

魚屋の前では動かなくなり。


「ネロ、今日は買わないぞ」


俺が引っ張っても、踏ん張る。


「鮭あるよ」


星夜が店先を指す。


「お前も止まるな」


「見るだけ」


「朝食べただろ」


「鮭は一日一回って決まりない」


魚屋のおばさんが笑いながら出てきた。


「今日も兄弟揃って鮭かい?」


「俺は違います」


「兄ちゃん、英語の授業で鮭の話したんだよ」


「何で知ってる?」


「カフカ姉ちゃんから連絡きた」


「あいつ余計なことを!」


魚屋のおばさんが、ネロ用に塩のついていない魚の切れ端をくれた。


ネロは嬉しそうに食べる。


「甘やかされてるなあ」


「普ちゃんたちと一緒だよ」


「俺たちも?」


「街中に育ててもらってるだろ」


おばさんはそう言って笑った。

俺は少し照れくさくなり、曖昧に笑い返した。


海沿いの道まで出る。


夕日は水平線へ近づき、海面を橙色に染めていた。

防波堤へ座る。


星夜は靴を脱ぎ、足をぶらぶらさせる。


ネロは俺たちの間に丸くなった。


「今日、変だったな」


俺が言う。


「何が?」


「全部」


夢。


空のヒビ。


知らない歌。


学校へ来たネロ。


「爽良に話したほうがいいと思う」


「雨季が話すよ」


「自分たちでも」


「兄ちゃん、あの夢の子のこと気になる?」


「気になるっていうか」


海を見ながら考える。


「懐かしかった」


「知らない人なのに?」


「うん」


「顔も見えてないのに?」


「うん」


「変なの」


「自分でもそう思う」


ネロが身体を起こし、俺の膝へ顎を乗せた。


「お前は何か知ってる?」


頭を撫でる。


「わふ」


「知ってるって?」


「何でもネロに聞くのやめなよ」


「返事してくれるから」


「兄ちゃんより賢いかも」


「お前今日ずっと俺に厳しいな」


星夜が少し笑う。


夕日が沈む。

空の青が、少しずつ紫へ変わっていく。

その高いところに、また白い線が見えた。


今度は一瞬ではなかった。


「星夜」


「うん」


「見えてる?」


「見えてる」


俺たちは同時に空を見上げる。


細い亀裂。

音はない。

けれど、確かにそこにある。


ネロが立ち上がった。

空へ向かって低く唸る。


「ネロ?」


毛が逆立っている。

尻尾は下がっていた。

今まで見たことのないほど怯えている。


星夜が身体を抱く。


「大丈夫」


ネロは震えている。


空の亀裂が、ほんの少し広がった。

その向こうから、白い光がにじむ。


歌が聞こえた。

俺と星夜が音楽室で再現した、あの旋律。


ネロの鈴が鳴る。

ちりん。

歌の中に音が混ざる。


次の瞬間。


亀裂が消えた。

海の音が戻る。

夕暮れの空。

何事もなかったように、星が一つ光り始めている。


「……帰ろう」


星夜が言った。

声が少し震えていた。


「うん」


俺たちは急いで寮へ戻った。

帰る間、ネロは一度も俺たちから離れなかった。




夕食の食堂。

俺と星夜は、爽良と蒼遠じいちゃんに今日のことを話した。


「二人とも、同じものを見たんだね」


爽良は真剣に聞いていた。


「グラウンドと、海沿いで」


「空に白い亀裂」


「雨季の機械にも異常が出た」


星夜が言う。


「曲も同じだった」


 爽良は持っていた箸を置く。


「夢で聞いた曲が、観測波形から作った音と一致したの?」


「完全じゃないけど」


「偶然では説明しにくいね」


蒼遠じいちゃんは、いつもの豪快な笑いを見せなかった。


「じいちゃん、何か知ってる?」


俺が聞く。


「……空が割れる話は、昔話としてなら残っとる」


「昔話?」


「参ヶ原の古い伝承だ。空に白い裂け目が生まれ、そこから人や物が消えたという」


朝の夢。

ナズナが言った参ヶ原。


「本当にあったの?」


「伝承だと言っただろう」


「でも、じいちゃん信じてる顔してる」


蒼遠じいちゃんは俺を見る。

その瞳には、俺の知らない色があった。


「信じるかどうかは、調べてから決める」


爽良と似た言葉。

血のつながった祖父と孫だからなのかもしれない。


「明日、理科研で詳しく調べよう」


爽良が言った。


「普と星夜くんは、見たものや聞いたものをできるだけ書いておいて」


「俺、絵下手だけど」


「文章でもいい」


「曲は僕が残す」


星夜が言う。

食堂の入口では、ネロが水を飲んでいた。


白い陶器の器。

飲み方が下手で、床へ水が飛び散る。


「ネロ、またこぼしてるぞ」


俺が言うと、ネロはこちらを見る。

口元から水が垂れている。


「兄ちゃんが拭けば?」


「何で俺」


「ネロは兄ちゃんを待ってた」


「それと掃除は別だろ」


文句を言いながら、雑巾を取りに行く。

屈んで床を拭いていると、ネロが俺の背中へ顎を乗せてきた。


「重いって」


「わふ」


「今日、ずっと甘えてるな」


ネロの首元を撫でる。

鈴が鳴る。

ちりん。


その音を聞くと、やはり胸の奥がざわついた。


「今日は一緒に寝るか?」


「ネロ、兄ちゃんのベッド狭いよ」


星夜が言う。


「同じサイズだろ。それならお前の下段に入れればいい」


「僕のところはもっと狭いよ。」


「楽譜が散らばってたらそりゃあ......ネロが決めるだろ」


蒼遠じいちゃんが笑う。


「犬に主導権を握られた兄弟だな」


ようやく、いつもの表情へ戻っていた。

俺も笑った。


爽良がネロの頭を撫でる。

星夜が水入れを洗う。

蒼遠じいちゃんが夕食の片づけを始める。


何も変わっていない。


空にヒビを見たことも。

夢で知らない少年に会ったことも。

今この食堂にいる限り、遠い出来事のように感じられた。


「ネロ」


名前を呼ぶ。

ネロが俺を見る。


「今日はちゃんと寝かせろよ」


尻尾が床を叩く。

答えたつもりなのだろう。




夜。


二段ベッドの上段へ上がると、ネロもついてきた。


「お前、本当にここで寝るの?」


ベッドは一人用。

俺とネロが横になると、かなり狭い。

ネロは気にせず、枕の半分を占領した。


「兄ちゃん」


下段から星夜が呼ぶ。


「何」


「ネロ、そっち選んだ?」


「勝った」


「何に?」


「お前との勝負」


「してない」


ネロが寝返りを打ち、尻を俺の顔へ向ける。


「勝ってないかも」


「おやすみ」


「早いな」


俺はネロの身体を少し押し、寝る場所を確保した。

毛が頬に触れる。

温かい。


「ネロ」


小さく呼ぶ。

耳が動く。


「今日、怖かったのか?」


返事はない。

背中を撫でる。


「大丈夫だぞ」


自分にも言い聞かせるように。


「俺も星夜もいるから」


ネロが身体を反転させ、俺の胸元へ顔を押しつけた。


「おやすみ」


目を閉じる。

しばらくすると、下段から星夜の寝息が聞こえ始める。

ネロの呼吸も。


窓を鳴らす風。

遠くの波の音。

全部、いつもの夜だった。


眠りへ落ちる直前。


耳元で、あの少年の声がした気がした。

名前を呼べるうちは―


「……ネロ」


俺は無意識に名前を呼んだ。

胸元の犬が、小さく身動きする。

そこにいる。

それを確かめ、俺は眠った。




翌朝。

目覚めた瞬間、何かがおかしいと気づいた。


身体が軽い。

腹の上にいつも寝起きにあるはずの重みがない。

顔を舐める舌も。

枕を奪う白い身体もない。


「ネロ?」


上半身を起こす。

ベッドの上には、俺しかいない。

毛布の端に白い毛が一本ついている。


床を見る。

いない。


「ネロ」


ベッドから降りる。


机の下。

カーテンの裏。

部屋の隅。

どこにもいない。


「星夜、起きろ」


下段の毛布を剥がす。


「ん……あと五分」


「ネロがいない」


星夜が目を開けた。


「ネロ?」


「部屋にいないんだ。廊下へ出たのかもしれない」


星夜はぼんやり俺を見る。

その顔に、昨日までとは違うものがあった。


「誰?」


嫌な予感がした。

俺の動きが止まる。


「……何言ってるんだよ」


「ネロって誰?」


「ふざけるなって」


「ふざけてない」


星夜は本気でわからない顔をしていた。


「犬だよ。白くて、耳だけ茶色の。昨日一緒に散歩しただろ」


「僕たち、犬飼ってないよ」


喉が乾く。


「お前、昨日ネロと学校まで来たじゃん」


「学校へは一人で行った」


「昼休みに連れてきた」


「何を?」


「ネロを!」


声が大きくなる。

星夜が驚いて身体を起こした。


「兄ちゃん、夢の話?」


「違う!」


俺は部屋を飛び出した。


廊下。


「ネロ!」


階段。


「ネロ!」


食堂。


入口の脇に、白い陶器の器が置かれている。


「これ!」


朝食の準備をしていた蒼遠じいちゃんを呼ぶ。


「じいちゃん、この水入れ!」


「朝からどうした」


「ネロのだろ!ネロ、どこにいる?」


「ネロ?」


蒼遠じいちゃんが眉を寄せる。


「誰のことだ」


頭の中で、何かが崩れた。


「犬だよ。寮で飼ってる!」


「ここで犬は飼っとらんぞ」


「嘘だ」


「普?」


爽良が食堂へ入ってくる。

俺は駆け寄る。


「爽良、ネロを知らない?」


「ネロ?」


「昨日撫でてただろ。朝食のとき。俺たちと一緒にいた白い犬!」


爽良は戸惑った顔をした。


「ごめん。何の話かわからない」


「そんなはずない」


俺は携帯を取り出した。

昨日、海沿いで撮った写真。

俺と星夜。

その間に座っていたネロ。


画面を開く。


写真には、俺と星夜しか写っていなかった。

二人の間には、不自然な空白。

俺の手は、何もない場所を撫でる形になっている。

星夜の視線も、空白へ向けられている。


「嘘だろ」


指が震える。


別の写真。

食堂。

中庭。

商店街。


どの写真にもネロはいない。

昨日、確かに一緒にいたのに。


「普」


爽良が俺の肩へ触れる。


「落ち着いて」


「いたんだよ」


「うん」


「絶対にいた」


「わかったから」


「わかってない!」


肩の手を振り払う。

食堂の入口。

水入れ。

床には、水をこぼし続けた跡がある。


「これ、ネロの水入れだ」


蒼遠じいちゃんは器を見る。


「傘立ての水受けだろう」


「違う!」


「前からそこに置いてある」


「ネロが毎日使ってた!」


世界がネロのいた場所へ別の理由を押し込んでいる。


犬小屋は園芸道具入れ。

水入れは傘の水受け。

写真の中には空白。

誰の記憶にもいない。


「星夜」


振り返る。

星夜は食堂の入口に立っていた。


「昨日、ネロの鈴の音を聞いたよな」


「……覚えてない」


「空のヒビは?」


「それは覚えてる」


「歌は?」


「覚えてる」


「ネロのことだけ?」


星夜が胸元へ手を置く。

顔を歪めた。


「何か、変」


「何が?」


「名前を聞くと」


星夜の目から、涙が一筋落ちた。

本人が一番驚いた顔をする。


「星夜?」


「知らないのに」


頬の涙へ触れる。


「ネロなんて知らないのに、何でこんなに悲しいんだろ」


俺は何も言えなかった。

知らない。

記憶はない。

それでも、何かを失った痛みだけが残っている。


窓の外。

朝の空に、白い亀裂が走った。


昨日よりも長く。

昨日よりも深く。



ぱきり。



今度は、はっきりと音がした。

俺だけが見ている。

亀裂の向こうから、小さな鈴の音が聞こえた。



ちりん。



「ネロ」


名前を呼ぶ。

返事はない。


けれど、俺は覚えている。

白い毛。

茶色い耳。

少し太った身体。

朝、腹の上へ飛び乗ってきた重さ。

顔を舐める舌。

海沿いで、俺と星夜の間に座っていた温かさ。


全部、覚えている。


世界中が忘れても。

写真から消えても。

最初からいなかったことにされても。


「ネロ」


もう一度、名前を呼んだ。

呼ばなければ、本当に消えてしまう気がした。

夢の少年の声が、耳の奥で蘇る。


―名前を呼べるうちは、まだいなくなってないよ。


その日、俺は初めて知った。

いなくなることと、死ぬことは、同じじゃない。


死んだ人は、誰かが悲しむ。

名前を呼び、思い出し、泣くことができる。


けれど、最初からいなかったことにされたものは。

誰にも探してもらえない。

誰にも悲しんでもらえない。


だから俺は、覚えていようと思った。

たとえ世界中が忘れても。

俺だけは、その名前を呼べるように。


「絶対に見つける」


窓の向こうの亀裂へ、俺は言った。


「お前を、いなかったことになんかさせないからな」


白い傷が、朝日に溶けるように消えていく。

最後にもう一度だけ。



ちりん



遠い空の向こうから、鈴の音が聞こえた。


今日も空はきれいだったけど、どこかいつもと違う空だった。

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