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遍く空に捧ぐ  作者: 王里ori
第1章 空に傷がある
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3/3

第二話 「いなくなった犬の探し方」

「絶対に見つける」


窓の向こうの空に残る白い傷へ、俺は言った。


お前(ネロ)を、いなかったことになんかさせないからな」


空の亀裂は、朝の光に溶けるように消えていった。

ほんの数秒前まで、そこに確かに存在していたはずなのに。

残ったのは、いつもと変わらない青空だけ。


雲が流れている。

鳥が飛んでいる。

校舎の屋根が朝日を反射し、眩しく光っている。


世界は、何も起きていない顔をしていた。


「普」


背後から呼ばれた。

振り向くと、爽良が俺のすぐそばに立っていた。

その向こうには蒼遠じいちゃん。

食堂の入口には星夜がいて、頬に残った涙を指で拭っている。


みんなネロを知らない人たち。


昨日まであいつの頭を撫でていた。

餌もやっていた。

一緒に散歩もした。

何度も名前を呼んだ。


それなのに、今は誰一人として覚えていない。

その事実が、急に怖くなった。


「触らないで」


爽良が静かに言った。


「え?」


「その器。しばらく誰も触らないでください」


後半は、食堂にいる寮生たちへ向けた言葉だった。


爽良は普段と変わらない穏やかな口調をしていた。

けれど、その声には生徒会長として皆を従わせるときの強さがある。


朝食を取っていた寮生たちが、何事かとこちらを見る。


「何かあったの?」


「その水受け、割れたの?」


「普、犬がどうとか言ってなかった?」


小さなざわめきが広がった。

誰かが犬という言葉を口にしても、そこにネロの姿は浮かんでいない。

ただ俺が朝から騒いでいるから、その言葉を使っているだけだ。


「詳しいことは後で説明するよ」


爽良はそう言ってから、俺へ向き直った。


「普。この器は、昨日までネロが使っていたんだね」


「そうだよ」


「いつから?」


「ずっとだ」


「ずっと、では記録にならない」


「そんなの……」


いつからだった。


ネロがこの寮へ来た日。


すぐに水入れを買った日。


最初にこの場所へ置いた日。


確かに記憶はあるはずなのに、急に聞かれると輪郭が曖昧になる。


「二年前」


俺は頭を押さえながら答えた。


「星夜と俺がネロを見つけて、飼いたいって言って......じいちゃんと初めて言い合いになった。でも、じいちゃんが許してくれてじいちゃんが買ってきてくれた。最初はもう少し青い模様が濃かったけど、何回も洗って薄くなって」


俺はそう言って、器の縁を指さす。


「ここの欠けは、ネロがひっくり返したときにできたんだ。廊下を走ってきて、止まれなくてぶつかった」


「そのとき、誰がいた?」


「俺と、星夜と……じいちゃんもいた」


星夜を見る。


弟はネロと出会った日のこと。

皿をじいちゃんが買ってきてくれたこと。

......ネロのためにじいちゃんと言い合いになった日のこと。


たぶん、全てが思い出せないみたいで、困ったように器を見つめていた。


何か思い出そうとしている。

けれど、その瞳にあるのは記憶ではなく、名前のわからない痛みだけだった。


「僕は……覚えてない」


星夜が言った。


「ごめん、兄ちゃん」


「謝るなよ」


思ったより強い声が出た。

星夜の肩が小さく跳ねる。


「お前が悪いわけじゃない」


「でも」


「忘れたくて忘れたんじゃないだろ」


俺だって、星夜が嘘をついているとは思っていない。

むしろ本当に覚えていないからこそ、怖かった。

俺も何かの拍子に忘れてしまうんじゃないか。


そうなったらー

ネロは本当に、誰からも名前を呼ばれなくなる。


「普」


爽良がもう一度俺を呼んだ。


「今は、覚えていることを一つずつ残そう」


「残す?」


「人の記憶が変わっているなら、記憶以外のものを調べる」


爽良はポケットから薄い手袋を取り出した。

理科研で使っているものなのだろう。

それを手にはめ、白い器を慎重に持ち上げる。


「写真を撮る。大きさと重さも測る。この欠けや、内側の傷も記録する」


「そんなことして、ネロが見つかるのか?」


「わからない」


「だったら探しに行ったほうが早いだろ!」


「どこを?」


返事ができなかった。


寮。

学校。

昨日歩いた海沿い。

夢で見た山。

空の亀裂の向こう。


探したい場所はいくらでもある。

けれど、どこから探せばいいのかは、何もわからない。


「手がかりがないまま走っても、見落とすだけだ」


爽良は器を窓際の明るい場所へ置いた。


「ネロが存在した痕跡は、まだ残っている。写真にも不自然な空白があった。君が覚えている以上、完全に消えたとは決めつけられない」


「爽良は、信じてくれるの?」


爽良はすぐには答えなかった。

それが少しだけ腹立たしかった。

こんなときくらい、迷わず信じると言ってほしかった。

けれど、爽良は俺の機嫌を取るために嘘を言う人じゃない。


「僕はネロを覚えていない」


爽良は言った。


「だから、“覚えているよ”とは言えない」


「……うん」


「でも、普がこんな嘘をつくとは思わない」


まっすぐな声だった。


「写真の空白も、器も、星夜くんの涙もある。何かが起きた。それだけは信じている」


胸の中に固まっていたものが、ほんの少しだけほどけた。


「だから、一緒に探そう」


「……うん」


「ただし、僕の言うことも聞くこと」


「何でそこで条件つけるんだよ」


「普は一度走り出すと、周りを見なくなるから」


「そんなことない」


「昨日、空を見ながら走ってサッカーボールを顔に受けた人が?」


「それは関係ないだろ!」


爽良の口元が少しだけ緩む。

俺を落ち着かせるために、わざと言ったのだろう。

そうわかっても、少し恥ずかしい。


お祖父様(おじいさま)


爽良がじいちゃんを見る。


「寮の備品記録を確認できますか」


「ああ」


蒼遠じいちゃんは短く頷いた。

その顔には、いつもの豪快さがなかった。


「犬を飼っとった覚えはない。だが、普がここまで言うなら、調べん理由もない」


「じいちゃん」


「ただし」


大きな手が、俺の頭へ乗せられた。


「お前一人で勝手に山だの海だのへ行くな。わかったな」


「まだ行くって言ってない」


「行く顔をしとる」


爽良と同じようなことを言われた。

俺はそんなにわかりやすいのだろうか。


「まずは寮の中だ」


蒼遠じいちゃんが言う。


「犬を飼っとったなら、器一つだけで済むはずがない」


そうだ。


首輪。

散歩用の紐。

餌。

寝床。

玩具。


ネロがここで生きていた証拠は、いくらでもあるはずだった。


「探す」


俺は食堂の出口へ向かった。


「待って、兄ちゃん」


星夜が後ろからついてくる。


「お前は朝飯食べてろ」


「僕も行く」


「覚えてないのに?」


言った直後、後悔した。

星夜の顔が傷ついたように歪む。


「悪い。今のなし」


「......覚えてないから、知りたいんだよ」


星夜は胸元を握った。


「何で僕が泣いたのか。ネロが、どんな犬だったのか」


少し間を置いて、続ける。


「兄ちゃん一人にだけ、覚えさせておきたくない」


俺は何も言えなくなった。


「じゃあ、来い」


「うん」


「でも具合悪くなったら言えよ」


「兄ちゃんこそ」


「俺は平気」


「さっきから顔真っ青だよ」


「これは元から」


「兄ちゃんの顔色が青かったら病気だよ」


こんなときなのに、少し笑ってしまった。

俺たちは並んで、食堂を出た。




最初に向かったのは中庭だった。

寮の裏手にある小さな庭。

中央にはベンチがあり、端には花壇と物置が並んでいる。


昨日までなら、扉を開けた音を聞くだけでネロが駆け寄ってきた。


昼寝をしていても。

餌を食べていても。

星夜が音楽室で使う譜面を庭に広げていても。


ネロはいつだって、人の気配に気づいた。


「ネロ!」


名前を呼ぶ。


風が木の葉を揺らした。

返事はない。


「ネロ!」


もう一度。

やはり何も聞こえない。


中庭の隅に、木製の箱がある。

蒼遠じいちゃんは園芸道具入れだと言った。

けれど、俺にはネロの犬小屋にしか見えなかった。


低い屋根。

正面の丸い入口。

右端には、ネロが退屈すると噛んでいた歯形。


今は入口の前に小さな扉がつけられ、中には箒や肥料の袋が詰め込まれている。


「これが、犬小屋?」


星夜がしゃがみ込む。


「そう」


「最初から物置だったように見える」


「違う」


扉を開く。


箒。

スコップ。

軍手。

肥料。


どれも長くそこに置かれていたように埃を被っている。


「ネロの毛布があった」


「どこに?」


「ここ」


奥の床を指さす。

けれどそこには、丸めた園芸用の網が置かれていた。


「赤い毛布。端っこを何回も噛んで、ぼろぼろになってた」


網をどかす。

下には何もない。

木の床板。

薄い埃。


「兄ちゃん」


「あるはずなんだ」


床へ手をつく。

隙間に指を入れる。


「毛が残ってるかもしれない」


何度も指先で床をなぞる。


木屑。

砂。

乾いた葉。

白い毛は見つからない。


「どこだよ」


胸が苦しくなる。


「絶対ここにいたんだ」


「兄ちゃん」


「毎日ここで寝てた。雷が鳴ると部屋まで逃げてきて、でも普段は俺が呼んでも面倒そうにして」


床を掻く。

爪の間に木屑が入る。


「何か残ってるはずだろ」


「兄ちゃん、手」


「離せよ」


「血が出てる」


星夜に手首を掴まれた。


指先を見る。

爪の脇が赤くなっている。

いつ傷ついたのかも気づかなかった。


「怪我してまで探しても、ネロは喜ばないと思う」


「覚えてないくせに」


また、言ってしまった。

星夜の手から力が抜ける。

俺は唇を噛んだ。


「……ごめん」


「いいよ」


「よくない」


「兄ちゃん、今余裕ないから」


「お前に当たっていい理由にはならないだろ」


星夜は少し黙った。

それから、小屋の中を見た。


「ネロは、ここで寝てたんだね」


「うん」


「どっち向きで?」


「大体、尻を入口に向けてた」


「何で?」


「知らない。顔を奥へ突っ込んで寝るのが好きだった」


「変な犬」


「変なんだよ」


「寝てるとき、静か?」


「すごいいびき」


「犬もいびきかくんだ」


「おっさんみたいな音するぞ」


「聞いてみたかったな」


星夜の言葉に、胸が詰まった。


聞いたことがあるはずなのに。

何度も、うるさいと笑っていたはずなのに。

星夜の中からは、その音も消えている。


「聞かせる」


俺は言った。


「見つけたら、嫌ってほど聞ける」


「うん」


「お前のベッドにも入れてやる」


「それは兄ちゃんのところでいい」


「何でだよ」


「狭いから」


「同じ大きさだろ」


「僕のベッドには楽譜があるから」


昨日と同じ会話。

ネロが消える前にも交わした。

それを覚えているのは、俺だけだ。


「兄ちゃん?」


「何でもない」


顔を上げる。

小屋の入口。

木枠の下に、細い傷が並んでいた。


「これ」


「どうしたの?」


「ネロがつけた傷だ」


三本。

横に並んだ引っかき傷。

小屋へ入るとき、前足の爪が当たってできたものだ。


「園芸道具を入れるだけなら、こんな場所に傷はつかない」


携帯を出し、写真を撮る。

画面に傷は写っている。

消えていない。


「残ってる」


「これがネロのものだって証明できる?」


「今はできない。でも残す」


何でもいい。

証拠になりそうなものは、全部残す。


小屋。

傷。

床。

周りの地面。

写真を何枚も撮る。


「足跡は?」


星夜が言った。


「昨日、雨は降ってないけど、土が柔らかい場所なら」


「探そう」


小屋の周囲へ視線を落とす。

花壇の脇。

水道の前。

ネロがいつも寝転がっていた木陰。

人の靴跡はある。

猫の小さな足跡も。

けれど、ネロの丸い足跡は見つからない。


「兄ちゃん」


星夜が水道の下を指さした。


「これ、違う?」


土の上に、浅い窪みがあった。

丸い形。

その先にも一つ。

さらにもう一つ。


「ネロのだ」


「本当に?」


「たぶん」


断言しかけて、止まる。


猫かもしれない。

他の動物かもしれない。

けれど、少なくとも何かがここを歩いた。

だから、俺たちは足跡を追った。


水道から花壇。

花壇からベンチ。

そして、旧校舎へ続く渡り廊下の方向へ。


途中で土が途切れる。

足跡も消えた。


「こっちへ行った?」


「昨日の夜、白いものを見た場所だ」


「白いもの?」


「窓から見た。旧校舎の入口に、何かいた気がした」


ネロだったのかもしれない。

あのとき、外へ出ていれば。

追いかけていれば。

消える前に捕まえられたかもしれない。


「兄ちゃん」


星夜が袖を引いた。


「自分のせいだと思ってる?」


「……思ってない」


「嘘」


「顔に出てる?」


「すごく」


本当に、皆に言われる。


「昨日、何かできたなんてわからないよ」


「でも」


「空の傷が何なのかも、ネロがどうして消えたかもわからなかった」


 星夜は旧校舎の暗い窓を見た。


「今だって、僕たちは何もわかってない」


「だから怖いんだよ」


「うん」


「次に誰かが消えたらって考えたら」


言葉が止まった。

星夜を見る。


もし次、星夜だったら。

爽良だったら。

カフカやナズナだったら。


皆がその人を忘れて、俺だけが覚えていたら。

想像しただけで、息ができなくなる。


「兄ちゃん」


星夜が俺の手を握った。


「僕はここにいるよ」


「……今はな」


「今いることを、今は信じて」


夢の少年の言葉が蘇る。

名前を呼べるうちは、まだいなくなっていない。


「星夜」


「何?」


「呼んだだけ」


「変なの」


「お前に言われたくない」


握られた手を握り返す。

その体温を確かめる。

温かい。

ここにいる。


俺たちは中庭をもう一度探した。

小屋の裏。

ベンチの下。

植え込み。

排水溝。


一時間近く探して、見つかったのは写真に残した爪痕と、途中で消えた足跡だけだった。




食堂へ戻ると、爽良がノートパソコンを開いていた。

隣では蒼遠じいちゃんが、分厚いファイルを何冊も積み上げている。


「どうだった?」


爽良が聞く。


「小屋の前に傷があった。足跡も少し」


撮った写真を見せる。

爽良は一枚ずつ確認した。


「足跡は判別が難しいね」


「やっぱり?」


「大きさは小型から中型の犬に近いけど、地面が乾いている。形が崩れているから、断定はできない」


「ネロは小さくないよ。ちょっと太ってたけど」


「どれくらい?」


「抱えられるくらい」


「普、それも範囲が広いよ」


「じゃあ……米袋より軽い」


「何キロの?」


「じいちゃんが食堂で使ってるやつ」


「三十キロだな」


「そんなに軽くない」


「では三十キロ以上?」


「たぶん十五キロくらい!」


「全然軽いじゃん......最初からそう言って」


「今考えたんだよ!」


爽良は写真の横へ数字を入力する。


「体重推定十五キロ。白い毛。両耳が薄茶色。雄?」


「雄」


「年齢は?」


「わからない。俺と星夜が見つけた時は、もう子犬じゃなかった」


「どこで見つけた」


「それは……」


思い出そうとする。

あの日は、雨だったかな。

いや、晴れていたかもしれない。


寮の門扉にいたのを、俺と星夜が見つけた。

じいちゃんに飼っていいか聞いて、初めて言い合いになって、ケンカした。

命を預かる重さをじいちゃんから教わって、一件落着した。


それで、星夜が名前をつけた。


ネロ。


どうしてその名前にしたのか。


「星夜が名前をつけたんだ」


「僕が?」


「そう。ネロって」


「どうして?」


「知らない。お前に聞こうと思って、そのまま忘れてた」


星夜は困った顔で自分の額へ指を当てる。


「何も出てこない」


「無理するな」


爽良が言った。

星夜は爽良へ向き直る。


「でも、爽良先輩。僕が名づけたなら、何か理由があったはずです」


高等部の爽良へ話すとき、星夜の口調が自然に改まる。


「理由まで消えてるのが、気持ち悪くて」


「気持ちはわかる。でも、思い出そうとして体調を崩したら意味がないよ」


「……はい」


「今は普の記憶を借りよう」


爽良が俺を見る。


「他に、ネロの特徴は?」


「魚が好き」


「犬なのに?」


蒼遠じいちゃんが言う。


「じいちゃんが毎回やってたんだよ」


「犬に味のついた魚はやらんぞ」


「だから犬用のささみも買ってた」


「ささみなら、寮の食材として買っとる」


「違う。青い袋のやつ」


蒼遠じいちゃんがファイルをめくる。


「購入履歴を見てみるか」


数か月分の領収書。


食材。

洗剤。

文房具。

修繕用品。


俺たちも一緒に探す。


「あった」


星夜が一枚の明細を指さした。


商品名。

乾燥鶏ささみ。

犬用。


「これだ!」


「本当だね」


爽良が明細を取り、画面へ入力する。

蒼遠じいちゃんは首を傾げた。


「なぜ犬用を買ったんだ」


「ネロにだよ!」


「わしは犬など飼っとらん」


「じゃあ何で買ったんだよ」


「間違えたんじゃろう」


「間違えて何回も買う?」


同じ商品名が、別の月の明細にもある。


その前の月にも。

さらに前にも。

毎月一袋。


「これ」


爽良の声が低くなる。


「一度の間違いでは説明できない」


「定期的に購入しているな」


蒼遠じいちゃんも、さすがに表情を変えた。


「なのに、買った理由を覚えとらん」


「世界が、理由だけ変えたんだ」


俺は言った。


「ネロがいなくなったから、“間違えて買った”ことにした」


水入れは傘の水受け。

犬小屋は園芸道具入れ。

犬用のささみは買い間違い。


ネロがいたことで生まれたものは残っている。

けれど、その意味だけが別のものへ置き換えられている。


「他にもあるはずだ」


俺たちは明細を探した。


犬用シャンプー。

首輪。

散歩用の紐。

ブラシ。


どれも購入履歴には残っている。

ただし実物は見つからない。


蒼遠じいちゃんの記憶では、シャンプーは掃除用洗剤。

首輪は荷札。

紐は園芸用。

ブラシは絨毯の掃除道具だった。


「そんなわけないだろ」


俺は何度も言った。


でも、蒼遠じいちゃんの中では、それが本当なのだ。

嘘をついているわけではない。

だからこそ、言い争っても何も戻らない。


「物は残っているものと、消えているものがある」


爽良がまとめる。


「用途が変わったものもある。写真はネロの姿だけが消え、周囲の形は残っている。普の記憶は保持され、他の人間の記憶は欠落している」


「欠落?」


「単純に忘れたのとは違うから」


爽良は画面へ言葉を打ち込んだ。

存在記録の欠落。


「まだ仮の呼び方だよ」


「ネロは物じゃない」


「わかってる」


爽良は俺を見る。


「現象へ名前をつけているんだ」


「現象に名前なんて必要?」


「名前がなければ、皆で同じものについて話せない」


俺には、その言葉がなぜか妙に胸へ残った。

名前がなければ。

呼ぶこともできない。


「欠落」


口にする。

ネロが消えた穴。

世界はその穴を、別の記憶で埋めようとしている。


「これ、学校へ持っていける?」


爽良が器を指さした。


「理科研で調べたい」


「割るなよ」


「割らないよ」


「それと、俺のベッドに毛が一本残ってた」


「どこに?」


「毛布」


「まだある?」


「触ってない」


「確認しよう」


部屋へ戻る。


上段の毛布。

端に白い毛が一本。

確かに残っている。

爽良がピンセットでつまみ、小さな透明の袋へ入れた。


「動物の毛か、繊維かは調べればわかる」


「犬だってわかる?」


「顕微鏡だけでは種類の断定は難しい。でも、人の髪や布の繊維とは区別できると思う」


「ネロの証拠になる?」


「少なくとも、普の話を裏づける材料にはなる」


小さな一本の毛。

昨日までなら、服につけば邪魔だと払っていた。

今は宝物みたいに見えた。


「学校へ行こう」


爽良が言う。


「は?」


「もう一つ確認したい場所がある」


「俺、こんな状態で授業受けろって?」


「昨日、ネロは学校まで来たんだろう?」


「うん」


「最後に多くの人がネロを見た場所は学校だ。雨季にも話を聞ける。理科研の機械には空の異常が記録されている」


確かに。

寮だけを探しても、ここから先の手がかりはない。


「授業中に抜け出すなよ」


爽良が念を押す。


「わかってる」


「本当に?」


「……できるだけ」


「普」


「わかったよ!」




通学路。

いつもならカフカとナズナに追いつくため走る道を、今日は星夜と並んでゆっくり歩いた。

爽良は理科研へ器と毛を運ぶため、先に学校へ向かっている。

星夜は何度も何かを言おうとして、結局黙っていた。


「何」


俺から聞く。


「ネロのこと」


「うん」


「もう少し教えて」


星夜は前を向いたまま言った。


「どんな犬だった?」


「朝も説明しただろ」


「白くて、耳が茶色で、少し太ってた」


「そう」


「それ以外」


何から話せばいい。


好きな食べ物。

癖。

性格。

思い出。

全部話したい。

同時に、話すのが怖い。


俺が言葉にするたびに、自分の記憶が正しいのか疑わしくなる。


「お前のピアノが好きだった」


最初に出てきたのは、それだった。


「僕の?」


「音楽室には入れないけど、寮でお前が鍵盤弾いてると、いつも足元で寝てた」


「うるさくなかったのかな」


「お前が間違えると顔上げる」


「本当に?」


「たぶん文句言ってた」


「犬にまで音を判断されてたの?」


星夜が少し笑う。


「あと、お前が新しい曲作ってるときは、俺より先に聴いてた」


「何か悔しい」


「俺は呼んでもらえないからな」


「兄ちゃんはすぐ感想言うから」


「いいだろ、感想」


「最後まで聴く前に言うじゃん」


「だって途中でもいいところあるし」


「だからネロのほうが静かでよかったのかも」


「お前、覚えてないのにネロの気持ちわかったみたいに言うなよ」


今度は二人で笑った。

笑った直後、胸が痛くなる。

この会話の中心にいるネロだけがいない。


「雷が嫌いだった」


「昨日も言ってたね」


「鳴る前からわかるみたいで、机の下に隠れる。星夜の布団に入るときもあった」


「僕の?」


「うん。お前、寝ぼけてネロを俺だと思って抱きしめてた」


「それは嘘」


「本当」


「人と犬を間違えるわけない」


「朝起きて、俺の毛が増えたって言ってた」


「絶対作ってる」


「ネロを見つけたら聞けよ」


言ってから、二人とも黙った。

見つけたら。

自然に出た言葉だった。

見つかることを前提にしている。

そうしないと、歩き続けられない。


「兄ちゃん」


「ん?」


「僕も、見つけたい」


「うん」


「覚えてないからじゃなくて」


星夜は胸へ手を当てた。


「覚えてないのに、ネロの名前を聞くと苦しい。それが、ネロがいた証拠だと思うから」


「そうだな」


「それに」


「それに?」


「兄ちゃんが一人で覚えてるの、しんどそうだから」


俺は星夜の頭を軽く小突いた。


「子どもが気を遣うな」


「兄ちゃんと二歳しか違わない」


「二歳も違う」


「二歳しか、だよ」


いつものやり取り。

ネロがいたときと同じ。

俺たちは同じ道を歩いている。

それだけは変わっていない。


学園の門が見えてきた。

その前に、カフカとナズナが立っている。


「普ー!遅い!」


今日もカフカが大きく手を振る。巨乳も揺れる。


「今日は星夜くんも一緒なんだ」


「おはようございます、普くん。星夜くん」


ナズナが丁寧に頭を下げる。相変わらず控えめだ。


「おはよ」


「おはよう」


カフカは俺の顔を覗き込んだ。


「どうしたの?目、腫れてる」


「寝不足」


「また星夜くんと夜更かし?」


「僕はしてないよ」


「星夜じゃない」


言葉が詰まる。

昨日、ここで何があった。

カフカはネロへ抱きついた。

ナズナは頭を撫でた。

今、二人の中にその記憶はない。


「カフカ」


「何?」


「ネロ、覚えてる?」


「ネロ?」


予想していた答え。

それでも胸が沈む。


「何それ。ゲームのキャラ?」


「犬だよ」


「犬?」


「昨日ここにいた、白い犬」


カフカの笑顔が少しずつ消えていく。


「普、何言ってるの?」


「やっぱり覚えてないか」


「ちょっと待って」


カフカはナズナを見る。


「昨日、犬なんていた?」


「いいえ」


ナズナは静かに答えた。


「少なくとも、私の記憶にはありません」


「でも昨日、お前が抱きついてた」


「私が?」


「ネロ、逃げてたけど」


「犬に逃げられた記憶まで作らないでよ!」


「作ってない!」


声が強くなる。

カフカが一歩下がった。

星夜が俺の袖を掴む。


「兄ちゃん」


「……悪い」


「ううん」


カフカは俺と星夜の顔を交互に見た。


「本気なの?」


「本気」


「冗談じゃなくて?」


「こんな冗談すると思う?」


「普なら、三秒くらいは」


「三秒だけかよ」


「でも、今は違う」


カフカの表情が真剣になる。


「何があったの?」


俺は短く説明した。

昨日までネロがいたこと。

今朝、誰の記憶からも消えていたこと。

写真からも姿が消えたこと。

物だけが別の用途に置き換わっていたこと。


ナズナは一度も口を挟まず聞いていた。


「写真を見せていただけますか」


俺は携帯を渡す。

海沿いで撮った写真。

俺と星夜の間に不自然な空白。

カフカが画面を拡大する。


「普の手、何かを撫でてるみたい」


「ネロの頭」


「星夜くんも、その空白を見てる」


「僕は覚えてないけどね」


ナズナが画面へ指先を近づけた。

触れる直前で、動きを止める。


「ナズナ?」


カフカが呼ぶ。


「何か、感じる?」


「……わかりません」


「わからない?」


「何もないのではなく」


ナズナは言葉を選ぶ。


「何かがあった場所を、無理に塞いだような感覚があります」


「塞いだ?」


「壁の傷を、上から塗り潰したような」


写真の空白を見つめる。


「存在の気配はありません。ですが、存在しなかった場所にしては、整いすぎています」


「どういう意味?」


「普くんと星夜くんの座る距離です。間に何もなければ、不自然に離れすぎています」


「ネロが座ってたから」


「はい」


ナズナは携帯を俺へ返した。


「少なくとも、普くんの話を否定できる写真ではありません」


「信じてくれる?」


「普くんが嘘をついているとは思っていません」


「ナズナ……」


「ただし、ネロという犬を思い出したわけではありません」


「それでもいい」


一人ずつ。

ネロを覚えてはいなくても、ネロがいた可能性を信じてくれる人が増えていく。


「放課後、探そう」


カフカが言った。


「いいの?」


「普一人にやらせたら、絶対立入禁止のところまで行くでしょ」


「......行かない」


「今、少し間があった」


「行く場所による」


「ほら!」


「カフカ」


ナズナが姉をたしなめる。


「授業が始まります」


「わかってるよ。でも放課後は一緒だからね」


「私も同行します」


ナズナが言う。


「この現象が、好宮家の扱うものに近いか確認したいです」


「危なくない?」


星夜が聞く。


「まだわかりません」


「わからないのに行くの?」


「わからないから、確認するのです」


「では、星夜くん。また昼休みに」


「うん」


星夜は初等部の校舎へ向かう。

数歩進んでから振り返った。


「兄ちゃん」


「何?」


「勝手に探しに行かないでよ」


「わかってる」


「本当に?」


「皆、俺を何だと思ってるんだ」


返事はなかった。




授業の内容は、ほとんど頭に入らなかった。


黒板へ書かれる文字。

先生の声。

教科書をめくる音。

全部が、自分とは別の場所で起きているように感じる。


窓の外へ目を向ける。

青空。

ヒビはない。

けれど、一度見えてしまったものは、見えなくなってもそこにあるような気がした。


「平戸」


先生に名前を呼ばれる。


「はい」


「三ページ目を読め」


「何の?」


教室に笑いが起きた。


「数学の授業で教科書を音読したいなら、止めはしないが」


机を見る。

開いていたのは国語の教科書だった。


「……すみません」


「まず数学の教科書を出せ」


また笑われる。

普段なら俺も笑う。

今日はうまくできなかった。

席へ座ると、横から小さな紙が滑ってきた。


カフカからだ。

開く。


<ネロの絵、描いて>


その下に、犬らしい何かが描かれている。

胴体が四角い。

足が短い。

耳だけ茶色に塗られている。

どう見ても食パンに棒を四本つけた生き物だ。


俺も大概絵は下手だけど、カフカも下手だ。

俺は紙の端へ書く。


<もっと丸い>


返す。

少しして戻ってくる。

胴体がさらに丸くなった。


<太い?>


<少し>


<顔は?>


<かわいい>


<具体的に>


具体的にと言われると難しい。

鼻が黒い。

目が丸い。

眠いと片方の耳だけ下がる。

笑っているように口を開ける。


俺は思いつくまま書いた。

紙はカフカと俺の間を何度も往復した。

最後に戻ってきた絵は、最初よりは犬らしくなっていた。


絵の下へ、カフカが名前を書く。


<ネロ>


その二文字を見た瞬間、胸が熱くなった。

俺以外の人が、初めてネロの名前を書いた。

カフカは覚えていない。

それでも今、俺の話を聞いて、名前を残してくれた。


俺はその紙を丁寧に折り、制服のポケットへ入れた。

先生に見つかり、俺とカフカは揃って注意された。


そのあとナズナから、


<授業中の私語と手紙はおやめください>


と敬語で書かれた紙が届いた。

ナズナも参加しているじゃないかと思ったが、それを書くとさらに怒られそうなのでやめた。




昼休み。

俺たちは中庭の同じ場所へ集まった。


昨日、ネロが俺へ飛びついてきた場所。

今日は何もいない。

草が風に揺れているだけだ。

星夜と一緒に、雨季ちゃんも来た。

雨季ちゃんは弁当ではなく、端末と数枚の紙を抱えている。


「普先輩」


「何?」


「確認したいことがあります」


雨季ちゃんは俺の前へ座った。

紫色の瞳が真っ直ぐこちらを向く。


「昨日、私は校門前でネロを発見したのですね」


「そう。雨季ちゃんが連れてきた」


「私は覚えていません」


「うん」


「ですが、昨日の行動記録に不自然な欠落があります」


端末の画面を見せられる。

雨季ちゃんはその日その日の、一日の行動を細かく記録しているらしい。


時刻。

場所。

行動内容。


<十二時十七分。校門前で――>


そこで文章が途切れていた。


「続きがない」


「はい」


「書き忘れたんじゃない?」


カフカが覗き込む。


「直後の記録には、“対象を星夜へ引き渡し、中庭へ移動”とあります」


「対象?」


「何を引き渡したのかがありません」


「ネロだよ」


俺が言う。


「星夜にネロを渡して、二人で中庭へ来た」


「その説明で、行動のつながりは成立します」


雨季ちゃんは紙を一枚取り出した。


「こちらは手書きのメモです」


昨日の日付。

雨季ちゃんの、初等部生にしてはかなり整った字。


<校門前で、>

という言葉のあとに、不自然な空白がある。

空白の後ろには、


<首輪に破損なし>

と書かれている。


「ここにネロって書いてた?」


「記憶はありません」


雨季が紙を光へ透かす。


「ですが、紙には筆圧の跡があります」


斜めから見る。

確かに、何かの文字を書いたような凹みが残っている。

インクだけが消えている。


「読める?」


星夜が聞く。


「完全には。ただ、二文字程度です」


「ネロだ」


「可能性はあります」


「何で文字まで消えるんだよ」


「消えるようなペンで書くと記録の意味がなくなりますからね。当然ですが、消えないペンで書いてますよ」


俺は紙を見つめた。


「皆の頭の中だけじゃないのか」


「写真からも姿が消えています」


雨季ちゃんが言う。


「記憶だけではなく、記録も変化していると考えるべきです」


「でも、買い物の記録は残ってた」


「商品名は残り、購入理由が別のものとして認識されていました」


「残るものと消えるものに違いがある?」


「あると思います」


雨季ちゃんは端末を操作する。


「現時点で考えられるのは、ネロという存在へ直接結びつく情報ほど消えやすいということです」


「直接?」


「写真に写ったネロ自身。ネロという名前。ネロを発見したという記録」


「水入れやシャンプーは?」


「物だけなら、他の用途へ置き換えられます。完全に消す必要がないのでしょう」


「誰にとって?」


雨季ちゃんの指が止まる。


「わかりません」


世界。

空の向こう。

何かの意思。

誰がネロを消した。

何のために。


「普先輩は、今もネロの名前を書けますか」


「書けるよ」


雨季ちゃんからペンを借りる。

手書きのメモの空白へ書く。


<ネロ>

二文字。


「消えない」


カフカが言う。


「すぐには、ですね」


雨季ちゃんが時計を見る。


「時間経過を確認します」


「俺が書いたら残るのかな」


「可能性はあります」


「俺だけが覚えてるから?」


「普先輩の記憶と、普先輩が作った記録には、同じ原因が作用しているのかもしれません」


「それなら」


俺は鞄の中を探った。

授業で使っているノート。


数学は途中で終わっている。

国語には落書きが多い。

できるだけ何も書いていないものを探す。


「兄ちゃん、何するの?」


「ネロのことを書く」


「今?」


「今から」


写真も変わる。

人の記憶も変わる。

雨季ちゃんの文字も消える。

俺の頭の中だけに置いておいたら、いつか俺まで忘れるかもしれない。


「忘れる前に、全部書く」


最初の白いページを開いた。


名前。

<ネロ>


特徴。

<白い犬>

<両耳が薄い茶色>

<雄>

<体重は十五キロくらい>


好きなもの。

<魚が好き>

<犬用のささみも好き>


嫌いなもの。

<野菜はあまり食べない>

<雷が嫌い>


日常的な様子。

<寝るといびきをかく>

<散歩の途中で魚屋の前から動かなくなる>

<俺の腹へ飛び乗って起こす>

<星夜のピアノを聴くと寝る>

<カフカに強く抱きしめられると逃げる>

<ナズナに撫でられると大人しい>

<爽良の膝に顎を乗せる>

<蒼遠じいちゃんから、こっそりささみをもらっている>


書き始めると、止まらなかった。


「字、汚い」


星夜が横から言う。


「読めればいい」


「あとで自分でも読めなくなるよ」


「じゃあお前が清書して」


「僕、覚えてない」


「今俺が言ったことを書けばいいだろ」


星夜は少し迷い、俺から別の紙を受け取った。


「何から?」


「ネロ。白い犬」


星夜が書く。


<ネロ>

<白い犬>


「両耳が茶色」


「薄い茶色」


「細かいな」


「大事だろ」


「はいはい」


星夜がまた書く。

雨季ちゃんは俺たちの手元を観察している。


「二人の文字が、どの程度保持されるか比較できます」


「実験みたいに言うなよ」


「実験です」


「ネロの記録だ」


「記録を残すための実験です」


言い方は冷静だが、雨季ちゃんも自分の紙へネロの名前を書き直していた。

消えた文字の上に。

何度でも。


「私も書く」


カフカが手を挙げる。


「さっきの絵も貼ろうよ」


「食パンみたいなやつ?」


「後半はちゃんと犬だったでしょ!」


「私も、感じたことを記録します」


ナズナもノートを開いた。

覚えていない人たちが。

俺の話を聞いて、ネロの名前を書いている。

それだけで、少しだけ呼吸が楽になった。


「名前を呼べるうちは」


無意識に呟く。


「何?」


カフカが聞く。


「夢の少年が言ってた」


俺はノートの一番上へ書いた。


<名前を呼べるうちは、まだいなくなってない>


「だから、書く」


星夜が俺の文字を見た。

その横へ、自分の字で同じ言葉を書く。


「僕も覚える」


雨季が時計を確認する。


「普先輩が最初に書いてから、十分経過しました」


「文字は?」


「消えていません」


俺のノート。

星夜の紙。

カフカの絵。

ナズナの記録。

雨季ちゃんの書き直した文字。

今のところ、どれも残っている。


「一人が覚えている間は、他の人が新しく作った記録も残るのかもしれません」


雨季ちゃんが言う。


「普先輩の記憶が、ネロの存在をこちら側へつなぎ止めている可能性があります」


「俺が忘れたら?」


聞いてから後悔した。

雨季ちゃんは答えなかった。

答えられないのだろう。


「忘れない」


自分で答える。


「絶対に」


予鈴が鳴った。

昼休みの終わり。


俺はノートを閉じ、胸へ抱えた。

これが最初の記録だった。

世界から消えたものの名前を。

俺が忘れないために残す帳面。




放課後。

理科学研究部の部室へ入ると、爽良が顕微鏡を覗いていた。


雨季ちゃんはすでに初等部から移動し、端末へ昼の記録を入力している。


「どうだった?」


俺が聞く。


「少なくとも、布の繊維ではない」


爽良は顕微鏡から顔を上げた。


「哺乳類の体毛だと思う」


「犬?」


「可能性は高い。でも、この一本だけでネロのものとは断定できない」


「寮の部屋に、白い毛の動物はいない」


俺が言う。


「僕たちに記憶がないだけで、別の動物が入った可能性も考えないといけない」


「慎重すぎない?」


カフカが机へ寄りかかる。


「爽良会長って、普の話信じてるんでしょ?」


「信じているよ」


「じゃあネロの毛でいいじゃん」


「信じることと、証明することは別だから」


爽良は透明の袋を光へ透かした。


「僕たち以外の人へ説明するとき、“普がそう言っているから”だけでは通じない」


「面倒くさいね、研究って」


「面倒な作業で、間違いを減らすんだよ」


「爽良先輩」


星夜が手を挙げる。


「僕たちが書いた記録は、まだ残っています」


「雨季から聞いたよ」


爽良は俺のノートを受け取った。

一ページ目から読む。


「詳しく書いたね」


「忘れたくないから」


「いいと思う」


爽良はページをめくる。


カフカの描いた犬の絵が貼ってある場所で、少し口元を緩めた。


「これは?」


「ネロ」


「食パンじゃないからね!」


カフカが先回りして怒る。


「何も言ってないよ」


「顔に出てる!」


ほんの一瞬、部室に笑いが生まれた。

ネロが消える前の日常に戻ったような気がする。


でも、机の上には白い毛と、水入れと、不自然な写真が並んでいる。

戻ったわけではない。


「現在までに確認できたことを整理します」


雨季が大型画面へ資料を映した。


「一、普先輩以外の人物から、ネロに関する過去の記憶が失われています」


画面に一と表示される。


「二、写真・文章など、ネロへ直接結びつく記録が欠落しています」


二。


「三、ネロが使用していたとされる物品の一部は残っていますが、別の用途として認識されています」


三。


「四、普先輩が新しく作成した記録と、それを参照して私たちが作成した記録は、現時点では消えていません」


四。


「五、昨日観測された空の異常と、ネロの消失時刻には関連がある可能性があります」


画面に、昨日の波形が表示された。

途中から枝分かれし、ヒビのような形になっている。


「消失時刻ってわかるの?」


俺が聞く。


「正確にはわかりません。ただし、午前零時十三分に、寮周辺の観測値が大きく変化しています」


「俺が寝たあと」


「はい」


「その時間、ネロはまだ僕たちの部屋にいた?」


星夜が聞く。


「わからない。俺、寝てた」


「僕も」


「午前零時十三分より前の、最後の記憶は?」


雨季ちゃんに聞かれる。


「ネロを撫でて、名前呼んで」


思い出す。

枕の半分を占領した身体。

胸元に押しつけられた頭。

温かい呼吸。


「寝る直前まではいた」


「その後、何か音を聞きませんでしたか」


「……鈴」


「鈴?」


「夢かもしれない。でも、遠くで一回鳴った気がする」


星夜が顔を上げる。


「僕も」


「お前も?」


「覚えてないと思ってた。でも今、兄ちゃんが言ったら」


星夜は耳元へ手を当てる。


「ちりんって。すごく遠くから」


「記憶が戻った?」


「ネロのことは戻ってない。音だけ」


雨季ちゃんが入力する。


「午前零時十三分前後、普先輩と星夜が鈴の音を認識した可能性」


「その鈴は、ネロの首輪についていたものですね」


ナズナが確認する。


「うん」


「現在、首輪や鈴は?」


「見つかってない」


「物ごと消えたのですね」


「写真から消えたのと同じかも」


カフカが言う。


「ネロに直接くっついてたものだから」


雨季ちゃんがカフカを見る。


「その可能性はあります」


「お、褒められた?」


「可能性を認めただけです」


「雨季ちゃん厳しいなあ」


「通常です」


「では、仮説を提示します」


雨季ちゃんは画面を切り替えた。


「第一。ネロは元々存在せず、普先輩にのみ偽の記憶が形成された可能性」


「まだ俺を疑ってる?」


「可能性を排除していないだけです」


「写真も毛もあるだろ」


「それらも、偽の記憶と同時に生成された可能性があります」


「そんな何でもありなの?」


カフカが言う。


「現象の性質が不明なため、あります」


「雨季」


星夜が少し不満そうに呼ぶ。


「兄ちゃんが嘘をついてるわけじゃない」


「嘘とは言っていません」


「偽の記憶って」


「普先輩自身に責任がなくても、外部から記憶を与えられた可能性があります」


「星夜」


俺が止める。


「いいよ。全部調べるって話だから」


星夜は納得していない顔をしながらも黙った。


「第二」


雨季ちゃんが続ける。


「ネロは存在したが、普先輩以外の人間の記憶と、外部の記録だけが改変された可能性」


「一番普通だね」


カフカが言う。


「現時点では、どの仮説も普通ではありません」


「確かに」


「第三。ネロは現在とは異なる記録、あるいは異なる状態の世界に存在し、その記憶だけが普先輩に残されている可能性」


「別の世界?」


カフカの声が少し弾む。


「異世界転移みたいな?」


「小説の読みすぎです」


「なろうでよくあるじゃん」


「現実の検討に、物語の定型を持ち込まないでください」


「でも、空の向こうに別世界があるかもよ?」


「完全には否定しません」


「否定しないんだ」


「第四」


雨季ちゃんが画面へ最後の文章を表示する。


「ネロは実在し、現在もどこかに存在する。しかし、私たちが認識できない領域へ移動した可能性」


息を呑む。


「生きてる?」


「わかりません」


「でも、どこかにいるかもしれない」


「はい」


その一言だけで、胸の中に小さな火が灯る。


「それを探す」


「方法が必要です」


爽良が言った。


「普。昨日、ネロが学校へ来たとき、誰が最初に見つけた?」


「雨季ちゃん」


「場所は?」


「校門」


「そのあと、中庭へ来た」


「はい」


雨季ちゃんが頷く。


「その間の記憶はありません。ただし、行動記録から経路は推測できます」


「ネロは昨日、寮から学校へ一度来ている」


爽良が地図を表示する。


「どうやって首輪を外したのか。なぜ学校へ来たのか。何かに呼ばれていたのかもしれない」


「昨日、ネロは俺から離れたがらなかった」


「空の異常を感じていた可能性があります」


「なら、学校のどこかに手がかりがある」


俺は立ち上がった。


「探そう」


「まだ説明は終わっていません」


「歩きながら聞く」


「普先輩」


雨季ちゃんが呆れたように俺を見る。


「皆で行けばいいだろ」


カフカも立ち上がる。


「今日の授業中、ずっと探すって約束してたし」


「私も参ります」


ナズナも続く。


「昨日感じた音の違和感が、場所によって変化するか確認します」


星夜も鞄を持つ。


「僕も行く」


「星夜くんは」


爽良が言いかける。


「大丈夫です、爽良先輩」


「昨日の音に反応していた。無理はしないで」


「はい」


爽良は少し迷ったあと、ため息をついた。


「全員で動こう。ただし、勝手に別れない。立入禁止区域には許可なく入らない」


皆の視線が俺へ集まる。


「何で俺見てるの?」


「最も可能性が高いので」


雨季ちゃんが答えた。




最初に校門を調べた。

昨日、雨季ちゃんがネロを見つけた場所。


門の外。

植え込み。

警備室の裏。

地面には多くの生徒の足跡があり、犬のものを見分けるのは難しい。


「昨日、どちらから来たと思う?」


爽良が雨季ちゃんへ聞く。


「記憶にはありません」


「身体の動きとして残ってない?」


「身体の動き?」


「思い出せなくても、無意識に視線が向く場所とか」


雨季ちゃんは門の前へ立った。

目を閉じる。


昨日と同じように、校舎側から歩いてくる。

門へ近づく。

足が止まる。


顔が、右へ向いた。

旧校舎側の細い道。


「こちらです」


雨季ちゃんが目を開ける。


「確信はありません。ですが、自然に視線が向きました」


「行こう」


細い道を進む。

普段、生徒はあまり使わない。

旧校舎の裏手と、寮の中庭側をつなぐ道。

昨日ネロが寮から抜け出したのなら、通った可能性がある。


「何か感じる?」


カフカがナズナへ聞く。


「まだ何も」


ナズナは周囲へ意識を向けている。


「霊の気配はありません」


「霊じゃないの?」


「少なくとも、一般的な霊障とは異なります」


「祓えば戻るとかは?」


「不用意に祓って、ネロとのつながりまで消す危険があります」


「じゃあ祓わないほうがいいね」


「はい」


ナズナの声は真剣だった。


「これは、悪意を持つ何かが取り憑いている状態には見えません。むしろ」


「むしろ?」


「ネロだけが、世界の外側へ押し出されたような」


世界の外。

空の亀裂の向こうに見えた、白い場所。

背筋が冷える。


「兄ちゃん」


星夜が急に立ち止まった。


「どうした?」


「聞こえる」


「何が?」


「音」


全員が黙る。

風。

遠くの運動部。

木々のざわめき。


「どんな音?」


爽良が尋ねる。


「四つ」


星夜が指で空中を叩く。

昨日、音楽室で弾いた四つの音。

夢の少年の歌。


「どこから?」


星夜は旧校舎を見上げた。


「中」


古い建物。

現在は一階の資料室以外、ほとんど使われていない。

窓は暗い。

誰かがいる様子はない。


「許可を取ろう」


爽良が言う。


「職員室へ行ってくる。ここで待っていて」


「俺も行く」


「普は星夜くんと一緒にいて」


「でも」


「二人を離したくない」


意味を理解する。

昨日、空のヒビを見たのは俺と星夜。

ネロの名前に反応したのも星夜。

俺たちのどちらかに異変が起きる可能性を、爽良は考えている。


「わかった」


「五分で戻る」


爽良が校舎へ向かう。

俺たちは旧校舎の入口前で待った。

扉は閉まっている。

曇った硝子の向こうに、暗い廊下が見える。


「星夜、まだ聞こえる?」


「うん」


「歌?」


「たぶん」


「ネロの鈴は?」


星夜は目を閉じる。


「……わからない」


俺も耳を澄ます。

何も聞こえない。

星夜にしか聞こえていない。


「どんな歌?」


カフカが小声で聞く。


「昨日の四つの音」


「歌詞は?」


「ない。でも、誰かが呼んでる」


「誰を?」


「僕を」


空気が変わった。


「星夜」


弟の腕を掴む。


「中へ行くなよ」


「行かないよ」


「本当に?」


「鍵かかってるし」


「そういう問題じゃない」


星夜は俺の手を見る。


「兄ちゃん、痛い」


「ごめん」


力を緩める。

そのとき。



ちりん。



聞こえた。

小さな鈴。

扉の向こう。


「ネロ!」


俺は取っ手を掴んだ。

回す。

開かない。


「ネロ!いるのか!」


扉を叩く。


「普、待って!」


カフカが止める。


「今、鈴が鳴った!」


「私も聞いた」


カフカの顔から色が消えている。


「ナズナは?」


「聞こえました」


ナズナは扉を見つめていた。


「ですが、扉の向こうからではありません」


「じゃあどこから?」


「遠い場所です」


昨日と同じ。

鈴はすぐそばにあるようで、別の場所から響いている。


「ネロ!」


もう一度名前を呼ぶ。

扉の向こうで。



かり。



何かが木を引っかいた。

全員が息を止めた。


 

かり。


 

かり。



三度目。

爪。

犬が扉を引っかくような音。


「ネロ!」


取っ手を強く引く。

鍵は開かない。


「兄ちゃん、下」


星夜が指さす。

扉と床の隙間。

白い毛が一本、こちら側へ出てきた。

風もないのに揺れている。


「ネロの毛」


手を伸ばす。


「待ってください!」


ナズナの声が響いた。


指先が毛へ触れる寸前。

扉の表面に、細い白い線が走った。

空で見たものと同じ。


亀裂。


一筋。

二筋。


木目の上へ広がる。


「下がって!」


ナズナが俺の腕を引く。

俺たちは扉から距離を取った。


白い亀裂の周囲から、扉の色が薄くなっていく。

向こう側が透けているのではない。

木そのものが、白へ塗り潰されていく。


「何、これ」


カフカが息を呑む。


星夜が一歩、扉へ近づく。


「星夜!」


俺が肩を掴む。


「歌が」


「行くな」


「でも、ネロがいる」


「俺が行く」


「兄ちゃんも駄目だよ!」


白い亀裂が、扉の中央まで伸びる。



ぱきり。



あの音。

空が割れたときと同じ音。


扉の下。

床の埃の上に、一つの跡が現れた。


丸い肉球。

犬の足跡。


「ネロ」


俺が名前を呼ぶ。


もう一つ。

足跡が増える。

扉の向こうから、こちらへ歩いてくるように。


一つ。

また一つ。

けれど、姿はない。


白い足跡だけが、埃の上へ浮かんでいく。

俺たちの目の前まで来て、止まった。


「見えてる?」


声が震える。


「皆、見えてるよな?」


「見えてる」


カフカが答える。


「私にも見えます」


ナズナ。


「記録しています」


雨季ちゃんが端末を向けている。


「僕も見えてる」


星夜。

俺一人じゃない。

皆が見ている。

ネロがいた証拠。

今もどこかにいる証拠。


「爽良が戻るまで消えるなよ」


俺は携帯でも写真を撮る。


「頼むから」


足跡の一つへ手を伸ばす。

触れる直前、指先に温かい息が当たった。


「ネロ?」


何もいない空間。

けれど、確かに何かがいる。

俺の手のひらへ鼻先を押しつける、いつもの感触。


「ネロ!」


掴もうとする。

腕の中には何も入らない。



 ちりん。



鈴が鳴った。


足跡が、一つずつ消え始める。


「待て!」


最初に現れたものから薄れていく。


「消えるな!」


写真を確認する。

画面の中では、足跡の部分だけが白くぼやけている。

形が残っていない。


「雨季ちゃん、記録は!」


「映像が乱れています!」


「ナズナ!」


「私では止められません!」


最後の足跡が消える。

扉の白い亀裂も閉じていく。


「ネロ!」


俺は何度も名前を呼んだ。


「ネロ! ネロ!」


扉へ拳を叩きつける。


「ここにいるんだろ!」


返事はない。

木を引っかく音も。

鈴も。

何も聞こえない。


白い毛だけが、床に残っていた。

俺はそれを拾った。

指の間に挟む。


朝、ベッドで見つけたものより少し長い。

柔らかい。


「残った」


ナズナが呟く。


「名前を呼び続けたからでしょうか」


「わからない」


俺は毛を握る。


「でも、いた」


皆を見る。


「皆も見たよな」


「うん」


カフカが頷く。


「私はネロを覚えてない。でも今、あの足跡は見た」


「私もです」


ナズナが言う。


「扉の向こうに、何らかの存在がいました」


「観測記録は大部分が破損しています」


雨季ちゃんが端末を見る。


「ですが、異常な数値変化は残っています」


星夜は閉じた扉へ手を当てた。


「もう歌は聞こえない」


「ネロは?」


「鈴も」


廊下の向こうから足音がした。

爽良が鍵を持って走ってくる。


「何があった!」


俺たちの顔を見るなり、普段より強い声を出した。


「ネロがいた」


俺は言った。


「扉の向こうに」


「扉?」


「足跡が出た。鈴も鳴った」


爽良は雨季ちゃんを見る。


「記録は?」


「映像は破損しています。しかし全員が同一の現象を確認しました」


「星夜くんは?」


「大丈夫です、爽良先輩」


「本当に?」


「はい」


爽良は俺たちを一人ずつ確認してから、扉の鍵を開けた。


「離れていて」


ゆっくり扉を引く。

中にあったのは、古い音楽準備室だった。


積み上げられた譜面台。

壊れた椅子。

黄ばんだ楽譜。

埃を被ったオルガン。


犬はいない。

白い空間もない。


「ネロ!」


中へ入る。


「ネロ!」


机の下。

棚の裏。

オルガンの陰。

どこにもいない。


「確かにここから聞こえたんだ」


「普」


「足跡もあった!」


「信じてる」


爽良が俺の肩を掴む。


「今は信じる」


「今はって」


「僕自身が見ていなくても、五人が同じものを見た。記録にも異常が残っている」


爽良は閉じかけた俺の拳へ触れた。


「それに、その毛がある」


指を開く。

白い毛。


「ネロはいた」


爽良が、初めてその名前を断言した。


「そして今も、どこかにいる可能性がある」


喉の奥が熱くなる。


「絶対見つける」


「うん」


「連れ戻す」


「その方法を探そう」


爽良は旧音楽準備室を見回した。


「ただし、今日のような亀裂へ不用意に触れないこと」


「でもネロが」


「普まで消えたら、誰がネロを覚えていられる?」


その言葉で、動けなくなった。

俺が消えたら。

俺が忘れたら。

今度こそネロは、誰からも名前を呼ばれなくなる。


「普先輩の記憶は、現在確認できる唯一の完全な記録です」


雨季ちゃんが言った。


「ご自身を守ることも、ネロを探す行為に含まれます」


「……わかった」


本当は納得しきれていない。

扉の向こうにネロがいたなら、今すぐ壊してでも入りたい。

それでも、爽良と雨季ちゃんの言うことは正しい。


「この部屋は、しばらく立入禁止にする」


爽良が言う。


「観測機器を設置して、変化を記録する。蒼遠さんと先生にも報告するよ」


「好宮家には?」


ナズナが尋ねた。


「ナズナたちはどう思う?」


「報告は必要です」


ナズナは答える。


「ですが、現段階で封印や祓いを行うべきではありません。ネロとのつながりを断つ危険があります」


「わかった。まずは事実だけ共有しよう」


「はい」


カフカが俺の横へ来た。


「普」


「何」


「ネロ、いたね」


「うん」


「見えなかったけど」


「うん」


「でも、鼻で普の手触ったんでしょ?」


「たぶん」


「じゃあネロも、普のこと覚えてるよ」


そうだ。

ネロは、こちらへ歩いてきた。

俺の手へ鼻先を当てた。

俺が呼ぶ名前に応えた。

世界がネロを忘れても。

ネロは俺を忘れていない。


それだけで、まだ終わっていないと思えた。




寮へ戻ったころには、空が橙色に染まっていた。


蒼遠じいちゃんへ旧校舎で起きたことを説明する。

最初は険しい顔で聞いていたが、俺たち全員の証言と、二本目の白い毛を見ると、長い間黙り込んだ。


「参ヶ原の話と似とる」


やがて、低い声で言った。


「空のヒビ?」


「ああ。物や人が消え、周囲からその記憶が失われたという伝承だ」


「ネロは参ヶ原にいるの?」


「まだそうとは言えん」


「でも関係あるんだろ」


「可能性はある」


「じいちゃん、何か隠してない?」


蒼遠じいちゃんの眉が僅かに動く。


「何でそう思う」


「朝からずっと、驚き方が変だから」


ネロを覚えてはいない。

でも、空の傷の話を知っている。


「知っとることは、伝承だけだ」


蒼遠じいちゃんは答えた。


「少なくとも今は、それ以上のことは言えん」


「今は?」


「確かでない情報で、お前たちを混乱させたくない」


爽良と同じような言い方。


「大人って、皆そうやって後回しにするよな」


「普」


爽良が止める。


「だって」


「蒼遠さんも調べると言ってる」


「その間にネロが」


「焦る気持ちはわかる。でも、今日つながった道が、明日も同じ場所にあるとは限らない」


俺は黙った。


旧音楽準備室。

足跡。

白い亀裂。

見つけたと思った瞬間、消えた。


「明日から、理科研で交代して部屋を観測する」


爽良が言う。


「空の異常が起きた時刻、星夜くんが歌を聞いた時刻、ネロの痕跡が現れた時刻を比較する」


「俺は何をすればいい?」


「記録を続けて」


「それだけ?」


「それが一番大事だ」


「でも」


「普にしかできない」


爽良は俺のノートを指す。


「ネロがどんな犬だったか。何が好きで、誰とどう過ごしたのか。それは機械では記録できない」


ネロがただの犬だったと記録するだけでは、ネロを残したことにはならない。


「わかった」


ノートを胸へ抱く。


「全部書く」


「うん」


「皆が思い出すまで」




夜。

俺と星夜は、二段ベッドの間に座っていた。


机の上にはノート。

最初の数ページは、すでにネロのことで埋まっている。


「次、何を書く?」


星夜が聞く。


「散歩の道」


「海沿い?」


「海沿いと、商店街。魚屋の前で毎回止まる」


「魚屋のおばさんは覚えてないのかな」


「明日聞く」


「写真ある?」


「ネロは消えてる」


「背景を見れば、どこにいたかわかるかも」


携帯の写真を一枚ずつ見る。


俺と星夜の間の空白。

カフカの腕が、何もない場所を抱いている写真。

爽良の膝に手を置き、空中を撫でている写真。

蒼遠じいちゃんが、床へ向けてささみを差し出している写真。


どれも変だ。

ネロがいないことで、全員が意味のわからない行動をしているように見える。


「この写真」


星夜が指さす。


海沿い。

俺と星夜が座っている。

俺たちの間には空白。


「ここにネロがいたんだね」


「うん」


「僕、ネロを見てる」


「たぶん、お前の膝に顎乗せてた」


「重かった?」


「重いって文句言ってた」


「僕が?」


「俺が代わろうかって言ったら、別にいいって」


「覚えてない」


「知ってる」


星夜の声が沈む。


「ごめん」


「だから謝るなって」


「でも、兄ちゃんが話すたびに、僕だけ知らないみたいで」


「お前だけじゃない」


「兄ちゃん以外、皆だよね」


「うん」


星夜は写真を見つめる。


「それでも、僕はネロと一緒にいたんだ」


「いたよ」


「僕、ネロのこと好きだった?」


「好きだった」


「ネロは?」


「お前のこと大好きだった」


「本当に?」


「ピアノ聴きながら寝てたって言っただろ」


「寝てたなら、退屈だったんじゃない?」


「安心してたんだよ」


「兄ちゃんの解釈?」


「俺にはわかる」


「犬の気持ちが?」


「ネロの気持ちはわかる」


星夜が少し笑った。


「じゃあ、書いて」


「何を」


「ネロは僕のピアノを聴くと、安心して眠った」


「自分で書けば?」


「兄ちゃんが覚えてることだから」


俺はノートへ書いた。


<ネロは、星夜のピアノを聴くと安心して眠る>


文字にすると、思い出が少しだけ形を持つ。


「次」


「兄ちゃんに飛びついて起こす」


「もう書いた」


「顔を舐める」


「書いた」


「魚が好き」


「それも」


「いびき」


「ある」


「……僕、全然覚えてないから、他に出てこない」


「じゃあ俺が話す」


俺は一つずつ思い出した。


<ネロは雨上がりの水たまりを避ける>

<身体が濡れるのが嫌いなくせに、海へ近づきたがる>

<砂浜では走る>

<ボールを投げても、持って帰ってこない>

<俺がサッカーをしていると、ボールではなく俺を追いかける>

<星夜の楽譜を一度踏んで、足跡をつけた。星夜は怒ったけれど、その楽譜を捨てなかった>

<カフカが作った首飾りをつけられ、一日中不満そうだった>

<ナズナの膝では大人しい>

<雨季ちゃんの持っている機械の音を嫌がる>

<爽良が勉強をしていると、教科書の上へ顎を置く>

<蒼遠じいちゃんが厨房にいると、入口で待つ>


話しているうちに、ネロが部屋へ戻ってきたような気がした。

姿はない。

音もない。

それでも、思い出の中では動いている。


「ネロって、皆のこと好きだったんだね」


星夜が言う。


「うん」


「皆もネロのこと好きだった」


「うん」


「それを、皆が忘れたんだ」


「忘れさせられた」


俺は言い直した。


「皆は悪くない」


「兄ちゃん、朝は僕に怒ったのに」


「反省してる」


「珍しい」


「お前な」


星夜は笑った。

俺も笑う。

少しの間、普通の兄弟に戻れた。


「兄ちゃん」


「何」


「もし僕が消えたら」


笑いが止まった。


「そういうこと言うな」


「でも」


「言うな」


強く遮る。

星夜は膝の上で手を握った。


「今日、旧校舎で歌が僕を呼んでた」


「聞いた」


「ネロじゃない、別の誰かだったと思う」


「夢の少年?」


「わからない」


「だったら余計に近づくな」


「うん」


「絶対だぞ」


「うん」


「俺に黙って一人で行くな」


「兄ちゃんもだよ」


「俺は」


「兄ちゃんも」


星夜の声が強くなる。


「ネロを覚えてるのは兄ちゃんだけなんでしょ。兄ちゃんがいなくなったら、ネロもいなくなる」


爽良と雨季ちゃんにも同じことを言われた。

星夜に言われると、さらに重い。


「わかった」


「本当に?」


「お前ら、何回聞くんだよ」


「兄ちゃんが信用ないから」


「わかったって」


俺は小指を出した。


「約束」


星夜が俺の小指を見る。


「子どもっぽい」


「お前は子どもだろ」


「兄ちゃんも」


「早くしろ」


星夜は自分の小指を絡めた。


「一人で行かない」


「お互いに」


「うん」


指を離す。


机の上のノートへ目を戻す。

一ページ目。


<名前を呼べるうちは、まだいなくなっていない>

その下に、ネロの名前。

文字は消えていない。


「今日は下で寝る」


俺が言う。


「何で?」


「お前が勝手に出ていかないように」


「狭いよ」


「ネロが寝てたんだから入る」


「兄ちゃんはネロより大きい」


「詰めろ」


「嫌だ」


「兄命令」


「そういう権限ない」


言い争いながら、結局俺は星夜の下段へ入った。


二人で寝るには狭い。

星夜は壁際へ追いやられ、文句を言っている。


昔は同じ布団で寝ていた。

今は互いに身体が大きくなって、肩も足もぶつかる。


「兄ちゃん、重い」


「ネロもこんな感じだっただろ」


「覚えてない」


「じゃあ今覚えろ」


「兄ちゃんを犬として?」


「違う!」


星夜が小さく笑う。


明かりを消す。

暗闇。

窓の外では、風が木々を揺らしている。


「兄ちゃん」


「何」


「おやすみ」


「おやすみ」


少しして、星夜の呼吸が穏やかになる。

眠ったらしい。

俺は目を閉じられなかった。


ネロ。


名前を心の中で呼ぶ。


白い毛。

茶色い耳。

鈴の音。

鼻先の感触。

忘れないように、何度も思い返す。


そのとき、机の上で、紙が擦れる音がした。


体を起こす。

暗い部屋。

窓は閉まっている。

風は入らない。


それでも、ノートのページが一枚だけめくれていた。


「……ネロ?」


小さく呼ぶ。

返事はない。


ベッドから抜け出し、机へ向かう。

月明かりの下で、ノートを開く。

俺が書いた文字は残っている。


<ネロ>


何度見ても、消えていない。

その下。

白かったはずの余白に、小さな跡がついていた。

丸い肉球。

薄く濡れた犬の足跡。

旧校舎で見たものと同じ。


指で触れる。

まだ冷たい。


「ネロ」


名前を呼んだ。

遠く。

旧校舎のある方向から。



ちりん



鈴が一度だけ鳴った。

俺はノートを抱き締めた。


「待ってろ」


誰にも聞こえない声で言う。


「絶対、そこまで行くから」


窓の外。

夜空にはヒビ一つない。

それでも俺には、その向こう側に。

白い犬が、一人でこちらを待っているような気がした。

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