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遍く空に捧ぐ  作者: 王里ori
第1章 空に傷がある
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1/3

プロローグ

その夜、空は割れていた。


雲よりも高く、星よりも遠い場所に、白い亀裂が走っている。


雷ではない。

月の光でもない。

夜空そのものを、向こう側から指で押し広げたような傷だった。

亀裂の奥には、闇すら存在していなかった。


ただ、白い。

どこまでも果てのない白。


見つめていると、自分の名前も、立っている場所も、ここへ来た理由さえ、少しずつ薄れていくような白だった。



ぱきり。



空から音がした。

白い傷が、ほんの僅かに広がる。

同時に、山の麓から大勢の悲鳴が聞こえた。


「北の結界が崩れます!」


誰かが叫んだ。


「人を下がらせて!動けない者を先に!」


「間に合いません!」


「それでも動いて!」


参ヶ原(まいがはら)の古い社には、幾つもの篝火が焚かれていた。


石段を駆け上がる者。

怪我人を背負って下りていく者。

祈りを唱える者。

帳面へ文字を書き続ける者。

地面へ手を当て、目を閉じる者。


誰も空を見ないようにしていた。

一度でもあの白を見れば、もう目を逸らすことができなくなる。

そして、見続けていれば、自分が何を恐れていたのかさえ忘れてしまう。


社殿の前には、白い装束をまとった少女が立っていた。

額から血を流しながら、両手を胸の前で合わせている。


「まだ駄目です」


少女の周囲に貼られた札が、一枚ずつ灰になっていく。


「祈りが届かない」


背後で、帳面を抱えた少年が唇を噛んだ。


「届いていないんじゃない。記録される前に消されている」


帳面には、避難した者たちの名前が書かれていた。

だが、墨で記された文字は、端からゆっくり薄れている。


「また一人……」


少年が消えかけた文字をなぞる。


「誰だった?」


隣にいたもう一人の少年が尋ねた。


「わからない」


「何をしていた者だ」


「わからない。でも、ここに名前があった」


少年の手が震えている。


「僕が書いた。確かに僕が書いたのに」


名前が消えた。

空白だけが残る。

誰かがそこにいたという証明すら、なくなっていく。


社殿前の少女が振り返った。


水浜(みはま)


「何」


「私を使ってください」


帳面を抱えた少年ー水浜の少年は、息を呑んだ。


「何を言っている」


好宮(このみや)の祈りを、すべて亀裂へ向けます」


「そんなことをすれば君が消える」


「それで閉じるのなら」


「閉じた後はどうする!」


水浜の少年の声が、夜の境内に響いた。


「今夜を越えたとしても、君の名前も、君がここにいたことも消える。救った者たちは、誰に救われたのかさえ覚えていられない!」


「覚えられなくても、命は残ります」


「それを救いと呼ぶのか!」


好宮の少女は、静かに微笑んだ。

無理に作った笑顔だった。


「呼びます」


「何を」


「救いと」


水浜の少年はどこか決意を掲げる表情と声を前に、何も言えなくなった。


その少し離れた場所で、黒い装束の少年が地面へ手をついていた。

指先から伸びる黒い紋が、土の中へ染み込んでいる。


日景(ひかげ)ー」


水浜の少年が呼ぶ。


「なんとかなるか」


「すでに、人の側へ均衡を傾けている」


「もっとだ」


「これ以上は、妖の領域が潰れる」


「今は人が死んでいる!」


「妖が消えれば、次に死ぬのは人だ」


日景の少年は目を開けた。


瞳が、人のものではない細さへ変わっている。


「片方だけを生かしても、世界は保たない」


「では、見捨てろと?」


「違う」


「何が違う!」


「私にも、正しいがわからない」


その言葉に、三人は黙った。


祈る者。

記録する者。

均衡を保つ者。


それぞれに役目があった。

しかし、誰もこの夜を終わらせる方法を知らない。


空の亀裂が、再び音を立てた。



ぱきり。



白い光が山を照らす。


麓から、また一つ悲鳴が消えた。

悲鳴を上げていた者が助かったのではない。

声の主が存在したことそのものが、失われたのだ。


「あとどれくらいですか」


好宮の少女が尋ねる。

日景の少年は空を見上げた。


「五分」


「十分です」


「待て」


水浜の少年が好宮の少女の腕を掴む。


「まだ、きっと、なにかある」


「なにが?」


「わからない。でも、君一人を差し出す以外の方法が」


「ありません」


「ある!」


「なら、教えてください!」


好宮の少女の声が震える。


「五分で、誰も失わずにこの傷を閉じる方法を!」


水浜の少年はその叫びに答えられなかった。

指先から力が抜ける。

好宮の少女は、その手を優しく外した。


「私の名前を、書いておいてください」


「嫌だ」


「水浜」


「絶対に書かない」


「なぜ」


「書いたら、君が消えることを認めるみたいだ」


「書かなければ、本当に何も残りません」


「それでも嫌だ!」


水浜の少年は帳面を胸へ抱き締めた。

泣いていた。


好宮の少女は、もう笑えなかった。

そのときだった。


「名前って、紙に書くだけじゃ駄目なの?」


場違いなほど穏やかな声がした。

三人が同時に振り向く。

石段の途中に、一人の少年が立っていた。


年は十と少しばかりほど。

三人よりも少しだけ幼な気な少年には、白い上着の裾を泥で汚し、頬には小さな擦り傷があった。

どこにでもいる素朴で普通な少年。


ただ、特徴的な淡い色の髪が、夜空の中でもきらりと輝き、夜風に揺れていた。


「君は……」


水浜の少年が目を細める。


「避難したはずだ」


「途中までは」


「なぜ戻った!」


水浜の少年が叫ぶ。


普通の少年は、背負っていた布袋を掲げた。


「忘れ物したから」


「何を」


「これ」


袋の中から、小さな帳面を取り出す。

上等なものではない。

何度も開かれたせいで表紙は擦れ、角が丸くなっている。


「何だ、それは」


「名前を書いた帳面」


少年は頁を開いた。

そこには、細かな文字が隙間なく並んでいた。


村の者たちの名前。

山を下りた子ども。

怪我をした大人。

社に残った者。


そして、すでにいなくなった者。


名前の横には、短い言葉が添えられている。


魚を焼くのが上手。

雨の日に傘を貸してくれた。

笑うと声が大きい。

辛いものが苦手。

左手の小指に傷がある。

歌うと、少し音が外れる。


「文字が消えていない」


水浜の少年が帳面を奪うように受け取った。


「なぜだ」


「何が?」


「僕の記録からは、名前が消えている。なのに、君の帳面には残っている」


「俺に聞かれても」


「同じ名前を書いたのに、どうして」


普通の少年は応えた。


「水浜は、その人の役目を書いたんじゃない?」


「役目?」


「結界を守る人とか、怪我した人とか。俺は、その人のことを書いた」


水浜の少年はそう言われて再び頁を見る。


魚を焼くのが上手。

笑うと声が大きい。


それらは観測に必要な情報ではない。

現象を記録するだけなら、何の役にも立たない言葉だ。

けれど、その無意味な言葉の隣にある名前だけは、消えずに残っている。


「その人が何をしたかじゃなくて」


普通の少年が言う。


「どんな人だったか思い出しながら書いたから、かな」


根拠はない。

理屈にもなっていない。

それでも、文字は残っている。


「君は、何をしに戻ったのですか」


好宮の少女が尋ねる。


普通の少年は空を見上げた。


白い亀裂。

夜を割る傷。


「歌おうと思って」


「歌?」


「下にいるみんな、怖がってた」


「当然です」


「怖いと、声が出なくなるだろ」


少年は社殿横の鐘楼を見た。


「でも、知ってる歌なら歌える」


「歌で、この傷を閉じるつもりか」


日景の少年の声には、僅かな苛立ちが混じった。


「そんな力は、人の歌にはない」


「俺の歌にはないよ」


普通の少年はあっさり認めた。


「じゃあ、なぜ」


「俺一人じゃなくて、みんなで歌うから」


好宮の少女が少年を見る。


「大勢の声を、私の祈りへ重ねるのですか」


「うん」


「祈りの形が崩れます」


「難しい言葉のままだと、みんな歌えない」


「あなたは祈りを何だと――」


「好宮一人のものじゃないだろ」


好宮の少女が息を呑んだ。


「祈りたい人、下にもたくさんいる。家族を助けてほしい人。怖い人。帰りたい人。誰かを忘れたくない人」


普通の少年は笑った。


「好宮が、その人たちの声を借りたらいい」


「しかし」


「好宮一人が消えるより、みんなで少しずつ持ったほうがいい」


次に、水浜の少年を見る。


「水浜は、歌った人のことを覚えてて」


「全員の名前を?」


「名前がわからなかったら、声でもいい」


「声を記録する?」


「泣きながら歌ってたとか。音を外してたとか。それなら、その人がいたってわかるだろ」


そして日景の少年を見る。


「日景は、人にも妖にも歌が聞こえるようにして」


「簡単に言うな」


「難しい?」


「不可能ではない」


「じゃあ、お願い」


日景の少年は普通の少年を睨んだ。

普通の少年は平然と見返している。


「子どもの思いつきだ」


「俺もみんなもまだ子どもじゃん」


あまりにも迷いのない答えに、好宮の少女が小さく吹き出した。

笑ったことに自分で驚き、慌てて口元を押さえる。


普通の少年も笑う。


水浜の少年だけは笑わなかった。


「歌ったら、君はどうなる」


「わからない」


「亀裂は、君を媒介にするかもしれない」


「媒介って?」


「君の声を道にして、こちら側へ入ってくる可能性がある」


「逆もある?」


「逆?」


「俺の歌を道にして、こっちから向こうを押し戻す」


水浜の少年は言葉を失った。

日景の少年が空を見る。


「残り三分」


好宮の少女が立ち上がった。


「やりましょう」


「好宮!」


「どちらにしても、このままでは全員が消えます」


日景の少年も片膝をつく。


「境界を開く。ただし一度だけだ。閉じられなければ、次はない」


普通の少年は鐘楼へ向かおうとした。

水浜の少年が腕を掴む。


「待って」


「時間ないよ」


「名前は」


「え?」


「君の名前を、まだ聞いていない」


少年は少し驚いた顔をした。

それから、困ったように笑う。


「知ってるじゃん」


「今、確認したい」


「急にどうしたの」


「答えて」


水浜の少年の手は震えていた。

普通の少年はその理由に気づいた。


この夜、

誰かが消えるたび、その名は失われていく。

次に消えるのが自分なら、

今ここで名乗らなければ、もう呼んでもらえないかもしれない。


普通の少年は口を開いた。


その瞬間。


空の亀裂が大きく開く。



轟音。



今まで奪われていたすべての音が、一度に山へ落ちてきた。


泣き声。

叫び。

割れる木。

鳴り続ける鈴。


普通の少年の声は、その中へかき消された。


「何だって?」


水浜の少年が聞き返す。


「あとで!」


普通の少年は腕を振り払い、鐘楼へ駆けていった。

好宮の少女が祈りの位置へ戻る。

日景の少年が両手を地面へつく。

水浜の少年は帳面を開いた。


「絶対に聞くからな」


誰へ向けるでもなく呟く。


「終わったら、もう一度。絶対に」


鐘が鳴った。



ごうん。



低い音が、参ヶ原全体へ広がる。


普通の少年が息を吸う。


歌い始める。


それは特別な歌ではなかった。

村の子どもたちが、遊びながら口ずさむ歌。

畑仕事から帰る者が歌う歌。

祭りの夜、酔った大人たちが勝手に歌詞を変える歌。


誰が作ったのかは、誰も知らない。

けれど、誰もが知っている歌だった。


最初は、少年一人の声。


やがて、好宮の祈りが重なる。

難しい祭詞ではない。

歌える言葉へ変えられた、短い祈り。


日景が境界を開く。

人の世界からだけではない。


山の奥。

森の影。

古い祠。


人ならざるものたちがいる場所へも、歌が届いていく。


麓で、一人の子どもが声を出した。

次に、その母親。

怪我をした男。

名前を忘れた老人。

社を守る者。

山に潜む妖。


一つ。


また一つ。


不揃いな声が、歌へ加わる。


音を外している。

泣いている。

歌詞を間違えている。


それでも歌う。


少年は鐘楼から、すべての声を受け取った。

好宮が祈りへ変える。

水浜が、聞こえた声を書き残す。

日景が、どちらの世界にも偏らないよう道を整える。


白い亀裂が震えた。



ぱきり。



光があふれる。

普通の少年の足元が透け始めた。


「おい!」


水浜の少年が叫ぶ。


歌は止まらない。

少年の指先から、色が消えていく。

白い光へ溶けるように。


その姿だけではない。

水浜の少年の記憶から、少年の声が薄れていく。


一緒に食べたもの。

交わした言葉。

初めて会った日。


一つずつ、思い出せなくなる。


「待て」


水浜の少年は帳面へ筆を走らせた。

少年の名を書こうとする。


だが、最初の一文字が出てこない。


「君の名前は」


少年がこちらを見る。


歌いながら笑っている。


「名前を教えてくれ!」


水浜の少年の叫びが届いたのか。

少年の唇が動いた。


しかし、声は聞こえない。

代わりに、別の言葉だけが胸へ届いた。



―名前を呼べるうちは、まだいなくなってないよ。



亀裂が閉じ始めた。

白い傷の両端が、歌によって縫い合わされていく。

少年の身体もまた、白へ吸い込まれていく。


足。


腕。


肩。


顔。


最後に残った口元は、まだ歌っていた。


空の亀裂が閉じる。

歌が途切れた。


夜空に星が戻った。

鐘楼には、誰もいなかった。


水浜の少年は立ち尽くしていた。

誰かがいた。

ここで歌っていた。

自分はその誰かを知っていた。


それなのに、名前が出てこない。


顔も。


声も。


何一つ、思い出せない。

ただ、胸が痛い。

涙が止まらない。


「誰だった」


水浜の少年は、空白の帳面を見つめる。


「誰が、ここで歌ったんだ」


好宮の少女も泣いていた。

日景の少年は目を伏せている。

三人とも、答えられない。


足元に、小さな帳面が落ちていた。

誰かが持っていたものだ。


水浜の少年は震える手で拾い上げる。


頁には、数多くの名前が残っている。

最後の頁だけが墨が滲んでいたり、薄れたりしていて読むことができない。


いや。

辛うじて読める文字が、二つ。


―平戸。


「ひらと」


水浜の少年は、何度もその音を口にした。


「平戸」


名字なのか。

名前なのか。

誰を指すのか。


もうわからない。

それでも、その言葉だけは忘れてはいけないと思った。


筆を取る。

空白の下へ書く。


<この名を持つ者が今夜、参ヶ原にいた>


続けて書く。


<私たち参ヶ原の者は、その者の歌によって救われた>


だが、文字は書いた端から薄れていく。


「消えるな」


水浜の少年は上から何度も書き直す。


「消えるな!」


墨が重なり、紙が破れる。

それでも文字は消えていく。


結局、最後に残ったのは、元々書かれていた二文字。

平戸。

ただそれだけ。

歴史が普通の少年を忘れるのは容易だった。




ー長い年月が過ぎた。


祈りを行った好宮家は想いを見届け、【念力】として後世に継いだ。


記録を残した水浜家は人々を記憶し、【学力】として後世に継いだ。


均衡を保った日景家は人と妖を繋ぎ止め、【妖力】として後世に継いだ。


三家は参ヶ原の時代から現代の常暁市と黎明市の時代までにおいて、この地を守ってきた名家として名を遺すこととなる。


けれど、

歌を捧げた者の名は、歴史のどこにも残らなかった。


参ヶ原を救った歌は、作者不明の童歌となった。


常暁へ。


黎明へ。


海と山が見える街へ。


名もない旋律だけが、長い時間を渡っていく。


そしてある朝、

何も知らない一人の普通の少年が、夢の中でその歌を聞いた。


ひび割れた空の下で、

名前を失った少年と名前を持った少年、普通の少年が二人、出会った。


目を覚ました彼の上へ、白い犬が飛び乗る。

まだ、その犬の名を世界中が覚えていた朝。


すべてが始まる、ほんの少し前のことだった。

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