地獄が始まった日-3
「六郎、ですか?」
「そう、この子の名前。」
「アイリスの子は六番目に取り上げられたでしょ、だから六郎。ちなみに私の子は三番目だったから三郎よ。」
「アンナ、あなたネーミングセンス無いわね。」
「そう言うリルアは自分の子になんてつけたのよ。」
「アレクサンダーよ、我ながらいい名前だわ。」
「それって物語に出てくる主人公のパクリでしょ、何よ私と変わらないじゃない。」
「なんですって!あなたと一緒にしないでくれるかしら!」
「言ったわね!もう許さないわよ!」
「あはは、二人は元気ですね。」
「聞きましたかあなたの名前は今日から六郎です。どうです?気に入りましたか。」
「わふん♪」
「そうですか気に入りましたか。それは良かった。」
「…本当に良かったです。」
子供を産んでから私たちは部屋に戻されまた同じような生活を与えられました。子供たちはすくすくと成長し日毎に新しい姿を見せてくれました。とうの昔に限界を超えていた私にとってそれだけが心の救いでした。
死んでいく心を数えるだけの日々が続きました。全員がそれから目を背け目の前の仮初の平穏に縋り付いていました。そうしてそんな日々が半年過ぎた時でした。
まだ肌寒さの残る春の始まりに男が度々検診に来るようになりました。
「うん、順調に育っているようだね。良かった良かった、これも君たちのおかげだね。」
「…そうですか、ありがとうございます。」
「うん、本当に感謝しているよ。」
「そうだね、これならそろそろ色々と仕込めそうだ。」
「…仕込むと言うと?」
「…いや、すまないこちらの話だった。忘れてくれ。」
「…。」
「それじゃあ、検診も終わったし私はそろそろ戻るとするよ。」
「…はい、ありがとうございました。」
「「「………。」」」
男が帰ったあとの検診室は静まり返っていました。全員が薄々気づき始めていました。仮初の平穏が終わろうとしていることに。
それは当然のことでした。私達が実験を行われたのは、この子達を産ませるためであり、養育もある程度終わった今私たちを生かしておく意味はありませんでした。
そう考えた私たちのとる行動は一つでした。その夜のことです。アンナたちが私の部屋を尋ねてきました。
「アイリス、話があるんだけど。」
「分かっています。入ってください。」
「…アイリス、貴方も気づいているでしょうけれど、奴の言う役割を果たした今、私たちはもういつ処分されてもおかしくないわ。」
「決断をする時よ、生き残る為に。」
「アイリス、逃げようここから。」
逃走、それが私たちが取れる唯一の生存への道でした。
「…作戦はあるんですね。」
「ええ、あるわ。まずは…。」
そうして私たちは監視の目が少ない真夜中に集まり、作戦を詰めていきました。
「それじゃあ、また明日。」
「はい。」
「…アイリス。」
「!どうしましたか。急に抱きついて。」
「いや、なんだかね。」
「なんだかって…。」
「…ごめんね。でもこれだけは言っておこうと思って。」
「必ずここを一緒に出よう。」
「…ええ、必ず。」
「ウォフ。」
「六郎、起こしてしまいましたか。」
「六郎ちゃんも勿論一緒だよ。」
「ウォフン。」
そうして日々は過ぎ遂にその日はやってきました。
「リルアさんどうでしたか?」
「大丈夫、奴は行ったわ。」
「じゃあ…。」
「ええ、今日決行するわ。」
私たちの考えた作戦は至極シンプルなものでした。男が用事で居ない日を割り出し、警備が薄くなったところを、さらにその手が薄い真夜中に突破する。そう言う作戦でした。
「思ったよりも早かったですね。」
「そうね。」
「しかし、定期的にどこに行っているんでしょうか?」
「…さあ、分からないわ。でも私たちにとっては都合が良いわ。」
「急ぎましょう、そう時間は無いわ。」
「はい。」
「皆、準備は良いわね。」
「ええ、バッチリよ。」
「六郎、少し苦しいかもしれませんが我慢してくださいね。」
「ウォフ。」
「よし、見張りが切り替わるわ。皆行くわよ。」
そうして私たちの逃走が始まりました。
作戦通り、私たちは真夜中の警備が手薄になるのを見計らい窓から脱走しました。
外に出た瞬間感動が身体中を巡りました。およそ三年ぶりの大地でした。夜の冷たい空気が肌を湿らせ、月明かりが辺りを照らしていました。
しかし、そんなことを考えている暇はありません。私たちは背中に括り付けた子供たちに気を配りながら姿を獣へと変容させ一斉に駆け始めました。
憎くも身体の変化が役に立った瞬間でした。やせ細っていた身体は完全に回復しまるで自分のものでは無いような力強さを発揮していました。駆ける身体はまるで風のようで、一瞬で建物との距離を離していきました。
「全員着いて来てるわね。」
「このまま突っ切るわよ。」
「やったわね、アイリス。これで私たちやっと助かるわ!」
「ええ、アンナ!」
逃げれる、その場に居る誰もが確信しました。希望が心を照らし、身体を震わせました。自由になれるそんな期待が胸を包んだ時でした。
夜の闇を割くようなそんな悲鳴が後方から聞こえてきました。恐る恐る振り向いた先にいたのは闇に紛れるような黒い毛皮を纏った獣でした。
その獣は後方にいた仲間の首を噛みちぎるとその捉えた獲物には目もくれず血走った眼光をこちらに向けていました。
瞬間、理解しました。私たちが感じていた希望は仮初のものでしか無かったのだと。
私達は駆けるしかありませんでした。誰も仲間の仇討ちなどと考えている余裕はありませんでした。
私たちが駆け出すと、獣は遠吠えを上げました。振り返ることなくその意図を理解しました。遠吠えの後何匹もの獣の足音が後方でなり始めました。その音は次第に近くなっていき、一人また一人と仲間は飲み込まれるように消えて行きました。
そうして気づけば残ったのは私とアンナ、リルアさんのみになりました。
「このままじゃ追いつかれる!」
「……。」
「…二手に別れましょう。」
むせ返るような恐怖の中でリルアさんが呟きました。
「私が奴らを引きつけるわ。」
「それって…!」
「ダメです、リルアさん。それじゃ貴方が!」
「…良いのよ、こうなったのは指揮をした私の責任だから。」
「だから、せめて託すわ。」
次の瞬間、言葉を伝えるよりも早く彼女は左へと駆け出しました。『逃げる』為ではなく『逃がす』為に。
「さぁ、追ってきなさい!」
その声と共に遠吠えが鳴り、後方でなっていた足音が離れていくのを感じました。その足音は彼女の声と共に離れていきやがて消えていきました。その姿を私達はついぞ振り返ることはありませんでした。
…その後一体どれだけ走ったのでしょうか。彼女のおかげもあり、追ってくる足音は数えられる程度まで減っていました。天の星は次第に数を減らし、地平線の先にある森が光を纏い始めていました。
ですが、私達は既に限界を迎えていました。慣れない身体に我が子を背負っての逃走。極限状態の中で私たちの神経は擦り切れ僅かに残った希望だけが身体を動かしている状態でした。
「あと少し…。」
折れそうな心を震わせ、前を見据えた時でした。もう何度目かの絶望がそこに立っていました。
そこに居たのはリルアさんが連れていた、獣の一団でした。
「回り込まれて…。」
そう気づいた時には既に四方を囲まれた後でした。
「グルルルッ!」
私達の逃走はそこで終わりました。所詮私達は奴らの掌の上で踊っていただけだったのだと思い知らされました。
「…ここまで、なんですね。」
「…せめて六郎だけでも。」
「アイリス。」
その声はアンナのものとは思えない、静けさでした。
「…一か八かよ、強行突破するしかないわ。」
「…そうですね、せめて一矢報いましょう。リルアさん達の為にも。」
「グルルルッ!」
「…ッ!!」
同時に飛び出した、そのはずでした。ほんの一瞬アンナが前に出ると、進路を塞いでいた獣を吹き飛ばしました。
「アイリス、今よ!!」
「…!」
私はそれに続き何とか包囲網を抜け出しました。
「凄い!アンナも早く!!」
それが最後でした。呼びかけるために振り向くとそこには息も絶え絶えに佇んだアンナの姿がありました。
「…アンナ?」
「…ごめんね、アイリス。」
アンナは体力を使い果たしていました。残り少ない力を私を逃がすために使ったせいで。
「アンナ、早く!!」
「生きて。」
既に包囲を抜けた私に何匹かの獣が走り出していました。私は、私はアンナの声に応えるしかありませんでした。
私は森に向かって全力で走りました。背後では鈍いブチブチという音が響いていました。それでも私は走りました。振り向くことなく走り続けました。
森に入ると獣たちの足音や唸り声は次第に遠のいていきました。おそらく蟲を恐れてのことでしょう。奴らは森に入ってはきませんでした。
そうして私と六郎は逃げ延びました。何一つ守れず、奪われながらアンナたちのおかげで生かされたのです。




