皇国 アースガイアの一番長い夜 5 大人になった少年
アルケディウス、貴族街。
宮廷魔術師ソレルティアの館。
臨月を迎えたこの館の女主人の夫は単身赴任中。
故に使用人を休ませた後の寝室では一人。
胎の子を案じながら静かな夜を迎えることが多かった。
だが、彼女は今、子以外にもう一人。
「ソレルティア。僕は弱くなったのだと思います」
甘えるような幼子を慰めていた。
「昨日といい、今日といい。
本当にどうしたのですか? 貴方は?」
正確に言うなら子どもではなく夫ではあるけれどソレルティアにとっては、手のかかる子どものようなもの。ソファに座る彼女の後ろ。
顔を合わせることも躊躇いながらも、自分に甘える様にもたれ掛かる少年を、愛し気に見やる。大陸有数の魔術師、酷薄の神官長、美女たちの誘いも素気無く袖にする氷の貴公子と呼ばれる彼が、自分にだけこんな表情を見せてくれることに微かな優越感を感じながら。
妻の質問に返答を返さないまま、世界の神殿、全てを束ね、未曽有の大災害において復興と対策の指揮を執る大神官は、泣き出しそうな眼差しで言葉を紡ぐ。
「僕は、リオンとマリカと共に宙に向かいます。コスモプランダー撃滅の為に」
「それは聞いています。
貴方が昨夜、帰ってくるなり挨拶よりも先に私に告げた言葉でしょう?」
「ええ。貴方に告げることで逃げ場を無くし、自分を追い込もうとしたのだと思います。
今日の会議でのリオンのように」
昨夜の時点では、まだリオンとマリカがどうするかを聞いてはいなかった。
でも二人は間違いなく宙に向かう。だから自分は共に向かうのだ。と。
まるで他人事のように静かに語る少年の蒼玉の瞳には、確かに以前は見たことも無かった陰のような、惑いが見て取れる。
「言った後、少し、驚きました。
今まで、自分が死ぬかもしれない、などと思ったことは無かった。惑ったこともなかった。リオンとマリカと共に有り、力になることができればそれでいい。と。
散るなら散るで構わない、と思っていた筈なのです」
少年がまだ自分の夫となる前。
出会った頃は確かにそういう生き物であったことを知っている。
何も恐れず、何にも囚われず。
皇王陛下でさえ、思う地位につく為の踏み台で。
ただ、大切な二人の為に自分の全てを使う。
それ故に強く、フェイという存在は正しく無敵だった。
「なのに、時間が経つにつれ怖くなる。
会議で伯母上の顔を見たり、こうして貴女に触れているだけでも、震えがとまらなくなるのです。
僕はどうしてこんなに弱くなってしまったのでしょうか?」
「フェイ?」
「二人と共に行くのが怖い。死ぬのが怖い。
何より、貴女と、貴女の腹の中の子を置いていくのが怖い。
そうして、リオン達の前から逃げてきてしまったのです」
後ろから、自分を抱きとめる手に力が籠っている。
密接した腕の中でソレルティアは、彼を感じていた。
人としての迷い、恐怖、そしてそれにも勝る自分と、二人への思いを。
「いつもの僕であれば、マリカもリオンも、星の為に犠牲になることは無い、と止めたでしょう。
でもあの二人が我が身可愛さ、決意を覆すことなど無いと解っていますから、苦笑し、共に行く、と真っ先に宣言していた筈です。でも……」
『いいか! リオン兄! マリカ!
オレは絶対にいっしょに行くからな。止めても無駄だぞ』
そう一番にリオンに告げたのはアルだった。
アルには家族も無く、褥を共にする女もいない。
仕事はゲシュマック商会だから、いくらでも融通が利く。
そう言ってリオンと拳を合わせるアルを、自分は震えながら見つめていた。
リオンに声はかけられなかった。
なんの躊躇もなくリオンに朗らかに笑いかけられるアルが羨ましかったのかもしれない。
昨日の『神の宣告』と今日の会議の後、二人との会話を避けたのは。
逃げる様にここにきてしまったのは。
「どうして、僕はこんなに弱くなってしまったのでしょうか?
大切なものが増えたから?
知恵もつき、身体も育ち、できることは増えた筈なのに、自分で選んだ立場に絡めとられて動けない。
大人になるということは、弱くなることなのでしょうか?」
背中から抱きすくめられているから彼の顔は見えない。
小さく笑みと吐息を落としたソレルティアは、フェイの腕を掴み、彼の顔を引き寄せた。
思った通り、酷い顔をしている。
親と逸れた子どものような。
そんな愛しい迷い子の首を自分の肩に乗せ口づける。
小鳥のような、触れるだけのキスだけれど、伝わるものはある筈だ。
「それは、弱さではなく、強さですよ。
貴方は、強くなったのです。昔より、ずっと」
「どうしてです? 迷いは術の命中削ぎ、敵を逃します。
味方にも、自分自身にも何の役にも立たないでしょう?」
「いいえ? 人は迷い悩むからこそ、これでいいのか? と常に考える。
その中から、迷いのない時には気付けなかった、新しい何かを見つけることもできるのです」
「迷い、悩むから、こそ……」
「それに貴方は怖い、と言いながらも意志は揺るがしていないでしょう?
宙に行くことも。今、この時私達ではなく、お二人に寄り添う事も」
「……ええ。すみません。ソレルティア。
僕は貴女と、生まれてくる子を置いて宙に行く。この星と、二人を守る為に」
「ほら。お二人だけではなく貴方は、星を守ると言った」
夫の返事に妻は、勝ち誇ったように笑う。
「この星に私達がいることを知っているから。私達を守ろうとしてくれているから。
お二人の事だけ考え、戦っていた時とは違う。
貴方は本当の意味で『星』を守る。守る事ができる魔術師に、大人になったのですよ」
妻の信頼とぬくもり、そして輝く笑みは、迷う少年の闇を灯火となって照らし出す。
「そこまで、考えて口にしたわけではないのですが……。ええ、そうだといいですね」
自分の居場所とやるべきことを取り戻せば、彼は己の道行に惑うことは無い。その紺碧の瞳には意志と力が宿る。
負けない。負けてなどやるものか。
彼は男であり、大切な妻子を守る夫であり、大人なのだから。
「ソレルティア。僕は行きます。
リオンと共に。我らが星を狙うコスモプランダーを排除する為に」
「ええ。自信をもって。
この星を守る為には、そして何よりリオンには貴方が必要ですから」
「そうでしょうか?」
「彼をもし一人戦わせれば、星の為に、人々の為にと命を投げ出してしまう可能性があるでしょう。でも、貴方や、皇子、他の人が側にいるならばきっと思いとどまってくれる筈です。
もし、危ういと感じたら私からの伝言を伝えて下さい」
「伝言?」
「ええ、結婚式の約束を忘れないで。と」
「ああ、そうですね。大事な祝儀を無かったことにされては叶わない」
二人の結婚式の時、リオンは約束してくれた。
一人で戦う事はしない。
フェイを必ず、ソレルティアの所に連れて戻る。と。
星の海で戦えるのは改造を施されたリオンだけかもしれないけれど。
自分にもできること、助けられることはきっとある筈だ。
故国の守護神、『風の精霊神』からも忠告と力を貰っているし。
何よりも自分はもう、一人では無いのだから。
「ソレルティア」
もう一度、今度は自分からフェイは妻の顔に自分のそれを寄せ、唇を啄んだ。
深く、舌を絡め、息を交わし、互いを確かめ合う。
「行ってきます。
次に帰ってくるときは多分、コスモプランダーを倒した後。
その頃には、お腹の子も外に出てきて、僕を迎えてくれるでしょうか?」
「いってらっしゃい。二人で貴方の帰りを待っています」
「女の子ならマリア。男の子ならレオンハルト。
どちらでも無事に生まれてくれれば、それでいいです。ソレルティアも無理はしないで、身体を大事にして下さい」
「私の事は心配しないで。皇王妃様や皆様方が助けて下さいますから」
「ええ。僕は貴女達が生きるこの星を守る、リオンとマリカを助けてきます」
フェイは瞬きの間に姿を消した。
もう目を閉じても、銀と青の残像しか残っていない。
「私は……嘘つきですね」
ソファから重い身体をゆっくりと持ち上げると壁に向かう。
「彼に行って欲しくはない。
本心ではそう思います。でも、風を箱の中に閉じ込めても腐るだけ。
私は鳥の羽ばたきを助け、空を自由に駆ける彼を、愛したのですから」
誰にも告げる事の出来ない弱音を、彼女は親友とも相棒とも言える杖にだけ零す。
装飾品のように飾られた魔術師の杖に触れると、ほのかなぬくもりを感じるのは気のせいだろうけれど。
「リオン様、マリカ様。
フェイを、この星をよろしくお願いいたします」
目を閉じて祈りを捧げるソレルティア。
彼女は気付かなかったかもしれないが、彼の杖から分けられた虹色の光が彼女と胎の子を包んでいた。
護り導くように。
フェイは、ソレルティアにマリカとリオンの外見が変わるかもしれない。ということを伝えたりはしなかった。
そんな事、彼には、彼らには何の意味もない。
どんな姿になろうとも、心がマリカとリオンであるのなら、何も変わる事はないのだし。
「気持ちを切り替えましょう。
アルやリオン、皇子達もしっかりと話をして。
僕らが留守にする間、また大聖都でトラブルが起きないようにガルフにも頼まないと。
コスモプランダーとの戦いなど、まだ本当の敵との戦いに比べたら序章に過ぎないのですから」
フェイが、甘えを断ち切り大人としての決意と覚悟を決めた頃。
彼らを支え続けてきた大人の一人、ガルフもまた。
「商人には商人の戦い方がある」
自分の戦い方。その行く先を心に決めていた。




