第7話 C級荷物持ち、王都を救う
第7話 C級荷物持ち、王都を救う
古代魔獣ベヒモスが王都へ迫った朝、街道食堂では朝食のスープが手つかずのまま冷めていた。裏庭にはレオンが洗った灰色のシャツと、シルフィの深緑色の服が干されていたが、大地が揺れるたびに物干し竿から雫が落ちた。バルドは窓枠を押さえ、棚から落ちそうになる皿を一枚ずつ床へ下ろした。
「王都から煙が上がっている」
シルフィは白いシャツの上に黒い外套を羽織り、窓の外を見つめていた。遠くの城壁よりも高い場所に、ベヒモスの二本の角が見える。風に乗って鐘の音と人々の叫び声が届き、食堂の馬小屋にいた馬まで前脚で地面をかいた。
「レオン、行くのか」
バルドは冷めたスープへ黒パンを浸しながら尋ねた。レオンは答えず、壁へ貼られていたシルフィの手配書を剥がした。王国は自分をC級の無能と呼び、シルフィを魔王軍の王女として追っている。
「俺たちが助ける義務はありません」
「そうだな。ここに残っても、誰も責められん」
「でも、王都には市場のパン屋がいる。食堂へ来てくれた旅人も、火傷をした給仕もいる」
「なら、答えは出ているじゃないか」
バルドは食器棚から古い革手袋を取り出し、レオンへ投げた。騎士だった頃に使っていた物で、指の部分には何度も縫った跡がある。レオンが手にはめると少し大きかったが、破れた箇所は丁寧に補修されていた。
「生きて帰ってこい。今夜の豆を水につけてしまったから、二人分も食べるのは面倒だ」
「鶏肉も残しておいてください」
シルフィが言うと、バルドは呆れたように鼻を鳴らした。レオンは治癒薬、包帯、水筒を背負い袋へ詰める。七年間持ち歩いてきた荷物よりずっと少なく、必要な物を自分で選べる袋は肩へかけても重くなかった。
王都の城門前では、貴族の馬車が道を塞いでいた。宝石箱、絵画、銀食器、衣装箱まで積み込もうとする者たちが、先へ出せと御者を怒鳴りつけている。その一方で、徒歩で逃げてきた平民は兵士に押し戻され、城門の外に取り残されていた。
「侯爵家の馬車だぞ! 平民をどかせ!」
「私のドレス箱を置いていくなんて許しません!」
「子供が倒れています。せめて馬車へ乗せてください!」
「汚れた服で近づくな!」
レオンは馬車の間を抜け、倒れていた男の子を抱き上げた。薄い茶色の服は埃まみれで、片方の靴がなくなっている。レオンが水筒を飲ませると、男の子は母親のスカートへしがみついた。
「西門へ向かってください。街道沿いに食堂があります。バルドという足の悪い男がいますから、手伝ってやってください」
「食堂の人が怒りませんか」
「口は悪いですが、子供を追い出すような人ではありません」
城壁の外では、ジークが騎士団を率いてベヒモスと向かい合っていた。黄金の鎧には泥がつき、聖剣の光も戻っていない。ジークが何度切りつけても、岩のような皮膚には細い傷すら残らなかった。
「なぜ切れない! 俺はSSR級の聖剣使いだぞ!」
「ジーク様、下がってください。私が結界を張ります!」
マリアは真珠色の聖女服を着ていたが、裾は泥を吸って灰色になっていた。杖を掲げると薄い光の壁が現れたものの、ベヒモスが前脚を振り下ろしただけで粉々に砕けた。衝撃でマリアは転び、持っていた聖印を草むらへ落とした。
「無理です! 私たちだけでは戦えません!」
「レオンから力を取り戻せ! あいつはどこにいる!」
「もう来ています」
レオンの声に、ジークが振り返った。兵士たちも道を開けたが、歓迎する者はいなかった。シルフィの顔を知る兵士が弓へ矢をつがえ、隊長は手配書を取り出した。
「魔王軍の王女シルフィだ! あの女がベヒモスを呼び寄せた!」
「違う。ベヒモスを目覚めさせたのは、魔力核を壊した人間だ」
「竜族の言葉を信じるな! 射て!」
シルフィはレオンを突き飛ばし、自分の外套を脱ぎ捨てた。銀色の髪が広がり、背中から大きな翼が現れる。白い光のなかで少女の体は銀白色の竜へ変わり、城壁よりも高く舞い上がった。
「レオンには、触れさせない!」
竜となったシルフィはベヒモスの角へ体当たりし、その巨体を王都から押し戻した。翼が起こした風で馬車が揺れ、積み上げられていた銀食器が道へ散らばる。シルフィは爪を地面へ食い込ませ、ベヒモスの進撃を止めた。
「やはり竜族だったぞ!」
「二匹とも魔物だ! 銀の竜を先に射落とせ!」
王国軍の矢が一斉に放たれた。シルフィはベヒモスを押さえるため翼を広げたまま動けず、何本もの矢を背中に受けた。銀白色の鱗に血が流れ、翼の動きが鈍くなった。
「やめろ! 彼女は王都を守っている!」
レオンが叫んでも、次の矢が放たれた。彼はシルフィの前へ走り、《万象循環》を発動させる。矢はレオンへ届く直前で光の粒となり、その力が両腕へ吸い込まれた。
「レオン、どけ! お前まで死ぬ!」
「一人で背負うな。俺は、その苦しさを知っている」
レオンはシルフィに刺さった矢を一本ずつ抜き、傷と痛みを自分へ移した。革手袋の下から血がにじみ、灰色のシャツには赤い染みが広がる。それでも彼は膝をつかず、ベヒモスへ向き直った。
ベヒモスの角の間に赤黒い光が集まり始めた。竜脈核から吸収した魔力が破壊光線となり、王都の城壁へ向けられる。ジークは聖剣を捨て、マリアと一緒に壊れた馬車の陰へ逃げ込んだ。
「結界を張れ、マリア!」
「魔力がありません!」
「レオン、俺たちへ力を寄越せ!」
「断る」
ベヒモスの破壊光線が放たれた。レオンは両手を広げ、正面から赤黒い光を受け止めた。熱と衝撃が体を貫き、革靴の底が土を削ったが、《万象循環》は破壊の力を少しずつ吸収していった。
七年間、レオンは仲間の傷、毒、疲労を引き受けてきた。吹雪の夜も、毒を吐いた朝も、誰にも知られず力を循環させ続けた。その積み重ねが、今は何千人もの命を守る力となっていた。
「壊すための力なら、大地へ返す!」
レオンは吸収した魔力を地面へ流した。乾いてひび割れていた土が淡い緑色に光り、そこから草が芽吹いた。枯れていた街路樹に葉が戻り、踏み荒らされた畑には小さな白い花が咲いた。
魔力を失ったベヒモスは、低いうなり声を上げて前脚を折った。レオンは最後に残った暴走の力まで大地へ流し、巨大な頭へ手を当てた。赤黒かった瞳が穏やかな茶色へ戻り、ベヒモスは眠るように地面へ横たわった。
「倒した……のか?」
「殺していない。暴走していた魔力を抜いただけだ」
兵士たちは剣や弓を下ろした。城門の外にいた民衆から、一人、また一人と歓声が上がる。レオンはその声を聞きながら、竜の姿から人間へ戻ったシルフィのもとへ歩いた。
シルフィは破れた白いシャツを着た姿で、草の上に倒れていた。銀色の髪には土がつき、背中には矢の傷が残っている。レオンが抱き上げると、彼女は薄く目を開いた。
「私は、王都を守ったのか」
「ああ。誰よりも先に戦った」
「それなら、聖女か英雄になれるだろうか」
「ならなくていい」
レオンはシルフィの背中を支え、城門へ背を向けた。民衆は二人のために道を開け、先ほどまで矢を放っていた兵士たちは頭を下げる。ジークとマリアだけが、泥のついた服のまま離れた場所に立っていた。
「英雄なんかにならなくていい。帰ろう。俺たちの食堂へ」
「鶏肉は残っているだろうか」
「バルドが食べていなければな」
「それは急いだほうがいい」
シルフィはレオンの首へ腕を回し、目を閉じた。二人の前には、大地から芽吹いた草が街道に沿って続いている。王都を救ったC級荷物持ちは歓声の中心へ戻らず、今夜の豆と鶏肉が待つ小さな食堂へ歩き始めた。




