第6話 英雄が最初に見捨てたもの
第6話 英雄が最初に見捨てたもの
三日後の夜明け、絶望の回廊の前には五百人の王国兵が集められていた。兵士たちは鉄の胸当ての上に灰色の外套を着込み、腰には干し肉と黒パンを入れた布袋を下げている。朝露に濡れた草の上では、炊事係が残った麦粥を鍋から木桶へ移していたが、急な出発命令を受けた兵士の多くは朝食を半分も食べられなかった。
「今日こそ、絶望の回廊を完全攻略する!」
黄金の鎧を着たジークが、岩の上から兵士たちへ呼びかけた。隣には白い聖女服のマリアと、赤い軍服に勲章を並べたガイウス伯爵が立っている。兵士たちは槍を掲げたが、数日前の撤退を知る者の声は小さかった。
「最深部に到達した者には、特別報奨金を与える。竜族の魔力核を回収すれば、王国は永遠の繁栄を手に入れるだろう」
ガイウスは攻略という言葉を使ったが、目的は魔物の討伐ではなかった。最深部にある魔力核を奪い、自分が管理する鉱山へ運ぶつもりだった。魔力核一つで王都全体の魔道具を十年間動かせると知り、彼はすでに商人たちへ売却の約束までしていた。
隊列の中央では、若い兵士ハンスが胸当ての内側を確かめていた。そこにはエレノア王女から渡された小さな魔導記録晶石が縫い込まれている。隣を歩く年上の兵士オットーは、妻が持たせてくれた固い焼き菓子を半分に割り、ハンスへ差し出した。
「食っておけ。中へ入ったら、いつ休めるか分からん」
「娘さんのために焼いたものでは?」
「焦げたから、父ちゃんに持たせたそうだ。焦げていないほうは、自分で食べたよ」
「賢い娘さんですね」
ハンスは焦げた部分をかじり、水筒の水で流し込んだ。王女からは、見たことと聞いたことを晶石へ残すよう命じられている。英雄を監視する役目が必要なのかと疑っていたが、回廊へ入って半刻もたたないうちに答えを知った。
先頭の兵士が石板を踏むと、両側の壁から無数の矢が飛び出した。何人もの兵士が肩や足を射抜かれ、狭い通路へ倒れる。後方のジークは負傷者を避け、もっと早く進めと怒鳴った。
「罠を調べてから進ませてください!」
「五百人もいるのだ。何人かが踏めば、罠の位置は分かる」
「負傷者を後方へ運びます」
「進軍を止めるな。歩けない者は壁際へ置いていけ」
ハンスは倒れた兵士をオットーと一緒に壁際へ運んだ。矢には毒が塗られており、傷口の周囲が紫色に変わっている。マリアが近づいてきたため、負傷した兵士は震える手を伸ばした。
「聖女様、目がかすみます。治療をお願いします」
「その程度で死にはしません。私の魔力は最深部まで温存します」
「解毒だけでも……」
「汚れた手で聖女服をつかまないでください」
マリアは兵士の指を杖で払い、裾についた土を白い布で拭った。使い終えた布を床へ落とすと、後ろにいた従者へ新しい香油を出すよう命じた。薔薇の匂いが毒と血の臭いに重なり、ハンスは口元を押さえた。
一行は兵士を盾にして罠を作動させ、何時間もかけて第三層を越えた。昼食の時間になっても休憩は許されず、兵士たちは歩きながら黒パンをかじった。マリアとガイウスだけは安全な部屋へ入り、銀の皿に載せた鶏肉と葡萄酒を口にした。
「パンが硬くて歯が欠けそうだ」
オットーが小声で言い、干し肉を薄く切ってパンへ挟んだ。ハンスも笑おうとしたが、通路の後方に置き去りにされた負傷者の声が聞こえ、パンを飲み込めなかった。胸元の記録晶石は、兵士たちのうめき声まで残していた。
最深部へ着いたとき、五百人いた兵士は三百人ほどに減っていた。巨大な空洞の中央には、青白い光を放つ魔力核が浮かんでいる。その周囲には竜の姿を刻んだ石柱が並び、床には古い文字で警告が刻まれていた。
「魔力を乱す者、大地の守り手を目覚めさせるべからず」
ハンスが文字を読み上げると、ガイウスは杖の先で床をたたいた。
「竜族が我々を脅すために書いた文だ。ジーク、核を取り出せ」
「待ってください。この核は封印の一部です」
「一兵士が英雄へ指図するな。ジーク、お前の聖剣なら切り離せる」
ジークは周囲の視線を確かめ、聖剣を抜いた。刀身に以前の輝きはなかったが、今さら切れないとは言えなかった。両手で剣を握ると、魔力核へ向かって突き立てた。
鈍い音が空洞全体へ響き、魔力核に亀裂が走った。石柱の竜が次々と砕け、地面が大きく揺れる。天井から砂と小石が降り、兵士たちは頭をかばってしゃがみ込んだ。
「核を回収しろ!」
「伯爵、地下から何か来ます!」
「魔力核を先に運べ! あれには金貨十万枚の価値がある!」
裂けた床の下から、巨大な爪が突き出した。続いて岩のような頭と二本の角が現れ、古代魔獣ベヒモスが長い眠りから目を覚ます。赤黒い瞳が開くと、獣の咆哮だけで何十人もの兵士が床へ倒れた。
ジークは聖剣を構えたが、腕が震えて剣先を上げられなかった。ベヒモスが前脚を振り下ろすと、石床が割れ、兵士たちが宙へ投げ出される。ジークは倒れたハンスの腰に転移石があるのを見つけ、それを奪った。
「英雄様、負傷者を先に逃がしてください!」
「黙れ! 俺が死んだら王国は終わるんだ!」
「私たちはどうなるのですか!」
「お前たちは、ベヒモスをここで足止めしろ!」
ガイウスも護衛兵の転移石を取り上げ、自分の胸へ抱え込んだ。マリアの足元には、背中を負傷したオットーが倒れている。彼が聖女服の裾をつかむと、マリアは杖でその手を突き放した。
「聖女様、せめて傷を……」
「離しなさい! 私まで逃げ遅れるでしょう!」
「娘が、家で待っているのです」
「私には関係ありません!」
マリアはオットーを踏み越え、ジークのそばへ走った。三人が転移石を発動させると、白い光が彼らだけを包む。残された兵士たちの声を背に、ジーク、マリア、ガイウスは王都へ転移した。
ハンスは落とした槍を杖代わりにして立ち上がり、オットーを背負った。生き残った兵士たちも互いの肩を貸し、崩れ始めた通路へ向かう。胸元の記録晶石には、英雄が最初に見捨てたものが、声と映像の両方で残されていた。
王都へ逃げ帰ったジークは、広場に集まった民衆の前で外套の埃を払った。マリアは裂けた聖女服をマントで隠し、ガイウスは部下に新しい報告書を用意させる。遠くでは地面が揺れ、王都の屋根から鳥が一斉に飛び立っていた。
「絶望の回廊で、竜族の裏切りを受けた!」
ジークは傷一つない姿で叫んだ。兵士たちは竜族に襲われ、英雄である自分たちは王都へ危機を知らせるため、やむを得ず戻ったのだと説明する。ガイウスはシルフィの容姿を記した手配書を掲げた。
「銀髪の少女シルフィこそ、魔王軍を率いる竜族の王女である! 彼女が古代魔獣を目覚めさせたのだ!」
その日の夕方、街道食堂の扉にも手配書が貼られた。レオンが煮込み鍋を火から下ろす隣で、シルフィは自分の似顔絵を見つめていた。絵の鼻が実物より大きいと言ったあと、紙の下に記された罪状を読んで唇を結んだ。
「私は、あの場所へ行っていない」
「分かっている」
「人間たちは信じない」
「俺は信じる。だから、まず夕飯を食べよう」
レオンは手配書を剥がし、裏返して机のがたつきを直すため脚の下へ挟んだ。外では大地を揺らす低い音が、少しずつ王都へ近づいている。食堂の鍋からは豆と鶏肉の湯気が上がっていたが、今夜は誰もすぐに匙を取らなかった。




