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第5話 そのワイン代は、あなたの名誉より高い

第5話 そのワイン代は、あなたの名誉より高い


 火傷を治してもらった給仕は、エレノアの侍女に付き添われて大広間を出ていった。床へこぼれたスープは使用人たちが布で拭き、楽団も何事もなかったように演奏を再開している。しかし、マリアが平民の治療を拒んだ場面を見ていた貴族たちは、先ほどまでとは違う目で彼女を見ていた。


「聖女様は、軽傷なら治療なさらないのね」


「けれど、あの料理人は自分が傷ついてまで助けたぞ」


「彼は本当に、ただの使用人なのか?」


 ひそひそと交わされる声を聞き、マリアは薔薇の香油が染み込んだ髪を何度も耳へかけた。ジークも黄金の杯を強く握り、レオンへ注がれる視線を追っている。自分をたたえる祝賀会で、C級の荷物持ちが注目を集めていることが我慢できなかった。


 レオンは厨房へ戻り、火傷を負った右腕へ水をかけていた。白いシャツの袖を肘までまくり、軟膏の上から新しい布を巻き直す。シルフィは隣で腕を組み、黒い給仕服の靴先を何度も床へ打ちつけていた。


「なぜ、あの女を放っておく。お前なら、力を取り戻せるだろう」


「マリアへ貸していた力は、もう返してもらった」


「そうではない。あの女がレオンの功績を自分のものにしている」


「今日、全部を取り戻す必要はない。それより、平焼きパンが三枚残っている。食堂へ持ち帰れば、明日の朝飯になる」


「私は今、一枚食べてもいい」


「食堂へ持ち帰ると言ったばかりだ」


 シルフィが不満そうにパンの籠を見つめたところへ、ジークが入ってきた。彼の頬は酒で赤くなり、手には赤ワインを満たした銀杯がある。後ろにはマリアと数人の若い貴族が続いており、見世物を楽しむような笑みを浮かべていた。


「勝手に厨房へ逃げるな、レオン。お前に話がある」


「俺は王宮から料理を依頼された。仕事は終わったので帰る」


「随分と偉くなったものだな。給仕一人を治した程度で、英雄にでもなったつもりか?」


「英雄のつもりはない。火傷をした人を治しただけだ」


 レオンが前掛けを外そうとすると、ジークは進路を塞いだ。杯からこぼれたワインが、磨かれた床へ赤い点を作っている。甘い葡萄の香りに、マリアの薔薇の香油が混じった。


「C級の分際で、英雄の真似をするな」


 ジークは銀杯を傾け、レオンの頭からワインを浴びせた。冷たい液体が髪から頬を伝い、白いシャツと革の上着を赤く染める。背後にいた貴族たちは笑ったが、大広間から様子を見ていた者たちは言葉を失った。


 シルフィの青緑色の瞳が細くなり、竜の瞳へ変わった。銀色の髪が風もないのに浮き上がり、厨房の窓が激しく震える。棚に並んだ皿が音を立て、天井から細かな埃が落ちてきた。


「その腕を、肩から引きちぎってやる」


「シルフィ、やめろ」


「そいつはお前へ酒をかけた」


「分かっている。だが、皿を割れば弁償になる」


「皿の心配をしている場合か!」


 レオンがシルフィの肩へ手を置くと、窓の震えが止まった。彼は濡れた上着を脱ぎ、厨房に掛けられていた古い布で髪を拭いた。布には小麦粉がついていたため、黒い髪の一部が白くなった。


「似合っているぞ。C級には、その格好がお似合いだ」


「そうか。では、この服の洗濯代も請求へ加えておく」


「請求だと?」


 レオンは背負い袋から、革表紙の帳簿を取り出した。七年間使った帳簿は手垢で黒ずみ、雨に濡れて波打った頁もある。表紙の端は何度も糸で縫い直され、間には薬草の葉と古い領収書が挟まっていた。


「七年間分の未払い賃金、俺が立て替えた薬代、食料費、装備の修理費だ。正規のパーティー構成員に支払われるはずだった成功報酬も含まれている」


「馬鹿馬鹿しい。荷物持ちに払う金などない」


「冒険者組合では、俺も構成員として登録されている。報酬は均等に分ける契約だった」


「お前は俺たちと行動できただけで十分な利益を得ただろう」


「では、その利益とやらを帳面から差し引いてくれ」


 騒ぎを聞きつけたエレノアが、侍従ルイスを連れて厨房へ入ってきた。濃紺のドレスの裾を侍女が持ち上げ、濡れた床を避けている。レオンは王女へ一礼し、帳面を開いた。


「一年目、報酬の未払いが金貨四百二十枚。二年目は六百八十枚。上級治癒薬と解毒薬の立て替えが七年間で金貨二千三百枚。聖剣の修理費、聖女服の洗濯代、破損した宿の備品代もあります」


「宿の備品など、俺には関係ない!」


「椅子を剣で切ったのはジークだ。酔って花瓶を割ったのはマリアだが、二人とも俺の給料から引かせた」


「覚えていません」


「帳面には日付と宿の名前、店主の署名がある」


 マリアは帳面をのぞき込み、唇を歪めた。そこには、彼女が治療を失敗した患者へレオンが薬を使った記録も残されている。傷や毒をレオンが肩代わりした日には、その後に購入した薬の種類まで書かれていた。


「最終的な請求額は、金貨一万二千枚です」


 大広間まで聞こえる声でレオンが告げると、楽団の演奏が止まった。金貨一万二千枚は、地方貴族の屋敷が買えるほどの金額だった。厨房の入口へ集まっていた者たちから、どよめきが起きた。


「でたらめだ! そんな帳面、今ここで処分してやる!」


 ジークはレオンの手から帳面を奪い、頁を破ろうとした。しかし、エレノアが扇を閉じて彼の手首を打った。帳面は床へ落ちる前にルイスが受け止め、王女へ差し出した。


「これは王家が証拠品として預かります」


「殿下、荷物持ちの妄言を信じるのですか?」


「宿屋と冒険者組合の記録を調べれば、真偽は分かります。それより、絶望の回廊第三層を攻略した証拠を提出してください」


「証拠なら、ガイウス伯爵が持っています」


「討伐したという魔王軍幹部の遺体、魔石、現場を記録した晶石。そのどれでも構いません」


 ジークは答えられなかった。マリアも首に下げた聖印へ触れたまま、視線をそらしている。祝賀会の客たちは、壇上に飾られた英雄の勲章と、黙り込んだ二人を交互に見た。


「三日だ!」


 ジークは突然、腰の聖剣を抜いた。以前のような光は宿らず、刀身には厨房の灯りが鈍く映っている。それでも彼は剣先を高く掲げ、集まった貴族たちへ向き直った。


「三日後、俺は王国軍を率いて絶望の回廊を完全攻略する! 今度こそ最深部へ到達し、俺が真の英雄であることを証明してみせる!」


「ジーク様なら、必ずできますわ」


 マリアも慌てて彼の隣へ並んだが、その声は震えていた。ガイウス伯爵は遠巻きに二人を見ながら、口ひげを撫でている。エレノアは返却された帳簿を胸元へ抱き、何も言わなかった。


 レオンは厨房の布で、もう一度濡れた髪を拭いた。シルフィが持ってきた平焼きパンの籠には、いつの間にか一枚しか残っていない。レオンが見ると、シルフィは二枚ともジークへ投げるつもりで食べただけだと言い張った。


「レオン、お前も三日後に来い。俺がどれほど優れているか、その目で見せてやる」


「俺に勝つ必要はない」


「怖くなったのか?」


「今度こそ、自分の力だけで戦えばいい」


 レオンは赤く染まった上着を腕へ掛け、シルフィとともに大広間を出た。背後では、使用人が床へこぼれた高級ワインを布で拭いている。その代金よりも高くつくものをジークが失ったことに、本人だけがまだ気づいていなかった。



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