第8話 王都全体に流された、英雄たちの真実
第8話 王都全体に流された、英雄たちの真実
ベヒモスの暴走が収まった翌朝、街道食堂の二階には薬草を煮る匂いが満ちていた。シルフィは背中へ包帯を巻き、レオンから借りた白いシャツを着てベッドに座っている。窓辺には血を洗い落とした深緑色の服が干され、バルドは焦げた卵焼きを三等分しながら、もう一度焼き直すべきか悩んでいた。
「焦げた部分を取れば食える」
「ほとんど残らないぞ」
「卵は貴重だ。私が全部食べる」
「怪我人だからといって、三人分を食べるな」
レオンが皿をシルフィから遠ざけると、食堂の扉が激しくたたかれた。訪ねてきたのは王女の侍従ルイスで、青い外套の裾には朝露がついている。彼は階段を上り、エレノアからの書状をレオンへ差し出した。
「本日の正午、王都中の魔導投影塔を起動します。殿下は、お二人にも立ち会っていただきたいとお考えです」
「シルフィは怪我をしている」
「私は歩ける。昨日もベヒモスを押し返した」
「今朝、靴下をはこうとしてベッドから落ちただろう」
「床が近づいてきたのだ」
レオンは王都へ行くか迷ったが、エレノアの書状には、絶望の回廊から生還した兵士についても記されていた。ベヒモスを鎮めたあと、レオンはシルフィを食堂へ送り届け、再び回廊へ戻っていた。崩れた通路を《万象循環》で支え、ハンスやオットーを含む百人以上の兵士を救出したのだ。
正午前、王都の中央広場には数千人の民衆が集まった。パン屋は店を閉め、洗濯途中の女性は前掛けのまま駆けつけ、職人たちは作業着についた木屑を払いながら投影塔を見上げている。広場の隅では焼き栗売りが商売を続け、甘く焦げた匂いが人混みの間を漂っていた。
「本当に英雄たちの記録を見せるのか?」
「昨日、真っ先に逃げたという噂だぞ」
「聖女様は、負傷兵を助けなかったらしい」
レオンとシルフィは広場の端に立った。シルフィは背中の包帯を隠すため黒い外套を羽織り、銀色の髪を一本の三つ編みにしている。周囲の者は彼女が手配書の少女だと気づいたが、昨日王都を守った竜へ石を投げる者はいなかった。
投影塔の前に、濃紺の正装をまとったエレノアが現れた。隣には負傷したハンスが立ち、胸当てから取り出した魔導記録晶石を両手で持っている。王女が合図すると、王都に設置されたすべての投影塔へ巨大な映像が浮かび上がった。
最初に映ったのは、絶望の回廊へ入る五百人の兵士たちだった。罠を踏んで倒れた兵士を見ながら、ジークが進軍を止めるなと命じている。次に、毒を受けた兵士の手を杖で払うマリアの姿が映った。
『その程度で死にはしません。私の魔力は最深部まで温存します』
広場から声が消えた。映像の中では、マリアが聖女服についた土を拭き、使用済みの布を負傷兵のそばへ捨てている。神殿から見物に来ていた司祭たちは顔を伏せ、聖女の肖像画を持ってきた商人は、それを裏返して地面へ置いた。
映像は最深部へ進んだ。床に刻まれた警告を兵士が読み上げたにもかかわらず、ガイウスは魔力核を奪うよう命じている。ジークの聖剣が核を砕き、ベヒモスが目覚めると、民衆から低いどよめきが起きた。
『俺が死んだら王国は終わるんだ!』
負傷兵から転移石を奪うジークの声が、王都中へ響き渡った。ガイウスは護衛兵の石を取り上げ、マリアは治療を求めるオットーを突き飛ばしている。三人だけが光に包まれて消え、置き去りにされた兵士たちの顔が映ったところで、映像は終わった。
「竜族の裏切りではなかったのか」
「魔力核を壊したのはジークだ」
「俺の兄は、あいつらのために回廊へ行ったんだぞ!」
民衆の声が大きくなり、広場の警備兵たちも槍を握ったまま動かなかった。エレノアは次に、レオンから預かった革表紙の帳簿を掲げた。雨に濡れて波打った頁が風でめくれ、挟まれていた薬草の葉が一枚落ちた。
「王家は、この帳簿を冒険者組合、宿屋、薬屋、鍛冶屋の記録と照合しました。記載された日付、支払額、負傷者の状態は、すべて一致しました」
投影塔には、組合が保管していた七年間分の任務記録が映された。黄金の聖剣が毒の沼地を攻略した日、レオンだけが三日間寝込んでいた。マリアが百人を治したと発表された日には、レオンが大量の治癒薬を自費で購入し、全身から血を流して宿へ運ばれた記録が残っていた。
「黄金の聖剣が達成したとされる任務では、毎回、レオンが仲間の毒、呪い、疲労を肩代わりしていました。ジークの身体能力も、マリアの治癒力も、彼の《万象循環》によって支えられていたのです」
「嘘です!」
広場へ連れてこられていたマリアが、衛兵の腕を振りほどいた。昨日の聖女服ではなく薄い灰色のワンピースを着ており、薔薇の香油も使っていない。彼女は首に下げた聖印を握り、人混みへ向けて掲げた。
「私はSSR級《光の女神の寵愛》を授かった聖女です。C級の男に支えられるはずがありません!」
「では、再鑑定を受けなさい」
エレノアの命令で、大神殿から新しい神託晶石が運ばれた。マリアが手を置くと、晶石に浮かんだ文字は、B級《小治癒》だった。司祭長は古い鑑定書を調べ、ガイウスから金貨五千枚を受け取った神官が等級を書き換えていたことを認めた。
「違います。私は聖女です。皆も、そう呼んでいたでしょう!」
「呼ばせていたのは、あなた自身です」
エレノアが告げると、マリアの手から聖印が落ちた。金属の乾いた音が広場へ響き、誰も拾おうとしなかった。ジークも黄金の外套で顔を隠し、投影塔を見ないようにしている。
「この茶番をやめろ!」
ガイウスが護衛を引き連れ、投影塔の前へ進み出た。赤い軍服には勲章をすべて着け、腰には儀礼用の剣を下げている。彼はレオンとシルフィを指さし、反逆者として逮捕するよう命じた。
「竜族を王都へ引き入れたのはレオンだ! この男が兵士たちを操り、偽の映像を作った!」
王国兵たちは動かなかった。ガイウスがもう一度命令すると、包帯を巻いたハンスと、杖をついたオットーが隊列の前へ出た。二人の後ろには、絶望の回廊から生還した兵士たちが並んでいる。
「我々を見捨てたのは、ガイウス伯爵です」
「レオン殿は危険な回廊へ戻り、最後の一人が外へ出るまで通路を支えてくれました」
「その男を捕らえろ! 最高司令官である私の命令だ!」
「お断りします」
兵士たちは一斉に槍を地面へ置いた。石畳へ金属音が重なり、ガイウスの護衛まで剣から手を離した。赤い軍服を着た伯爵だけが、誰にも守られず広場の中央に残された。
王城の階段から、国王アルフォンスが姿を現した。病のため細くなった体を黒い礼服で包み、杖をつきながらエレノアの隣へ立つ。国王はジーク、マリア、ガイウスの三人を見渡し、杖の先を石畳へ打ちつけた。
「ガイウス・グランベルを、王国軍最高司令官の職から解任する。ジーク・フォン・ゴールド、マリア・レイヴンとともに拘束し、王家の裁判へ送れ」
「陛下、私がいなければ軍は動きません!」
「昨日、軍を動かしたのは、置き去りにされた兵士たちだ」
王国兵がガイウスの剣と勲章を取り上げた。ジークは自分が英雄だと叫び、マリアは聖女服を返してほしいと泣きついたが、二人の声に耳を傾ける者はいない。かつて三人へ拍手を送った民衆は、偽りの英雄たちが連行される姿を黙って見送った。
エレノアはレオンへ帳簿を返した。レオンは汚れた表紙を袖で拭き、剥がれかけた糸を指で押さえる。七年間の記録は復讐の道具ではなく、自分が働き、耐え、誰かを救ってきた証しとして手元へ戻った。
「帰ろう、シルフィ。バルドが豆を焦がしている頃だ」
「卵焼きより焦がすのは難しいぞ」
「だから心配なんだ」
二人が広場を離れると、王都中の投影塔から英雄をたたえる紋章が消された。代わりに映し出されたのは、絶望の回廊から生還した兵士たちの名前だった。レオンは一度だけそれを振り返り、シルフィと並んで街道食堂への道を歩きだした。




