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第2話 追放された朝に食べる、焼きたてのパン

第2話 追放された朝に食べる、焼きたてのパン


 王都の西門を出たレオンは、街道を半刻ほど歩いたところで足を止めた。昨夜の雨で道の両側に生えた草は濡れており、朝日を受けた雫が小さく光っている。荷物の軽さにはまだ慣れず、ときどき肩紐が切れたのではないかと背中を確かめてしまった。


 王都の外壁に沿って、旅人向けの小さな市場が開かれていた。木の台には赤い林檎、干した豆、山羊の乳を固めたチーズが並び、肉屋の軒先では太い腸詰めが何本も風に揺れている。焼き窯を積んだ屋台からは、小麦と焦げた薪の匂いが漂っていた。


「焼きたてだよ。胡桃パンが銅貨二枚、白パンが三枚だ。旅のお供にどうだい」


 赤い前掛けをつけたパン屋の女が、平たい籠を差し出した。籠に積まれた丸いパンはまだ湯気を立て、薄い皮の割れ目から白い中身が見えている。レオンは腰の小さな革袋を開き、中に残っている硬貨を数えた。


 銀貨が二枚と、銅貨が二十三枚あった。七年間働いた冒険者の所持金としては少なかったが、少なくともジークから返済を迫られる借金はない。レオンは胡桃パンを一つ買えば十分だと考え、銅貨二枚を取り出したところで、隣の肉屋から漂ってくる燻製肉の匂いに鼻を動かした。


「そっちの燻製肉は、いくらですか」


「小さいので銅貨三枚だ。塩が利いているから、五日は持つよ」


「では、パンを二つと、燻製肉を一つください」


「おや、朝からよく食べるね」


「一つは昼に残します。たぶん」


 パン屋の女は笑い、胡桃パンを二つ紙へ包んだ。肉屋の男は燻製肉を薄く切り、端の小さな一枚を味見用に渡してくれた。レオンが口へ入れると、強い塩味のあとから胡椒と桜木の煙の香りが広がった。


「うまいな」


「そうだろう。うちの親父が夜明け前から煙を見ているんだ。煙が強すぎると苦くなるし、弱ければ日持ちしない。あの人は自分の娘の誕生日を忘れても、肉を燻し始めた時刻だけは忘れないよ」


「それは、娘さんが怒るでしょう」


「昨日も耳を引っ張られていたよ。お客さんも、大事なことは帳面に書いておきな」


 レオンは思わず笑い、使い古した帳面を背負い袋から取り出した。これまではジークたちの薬や装備ばかり記録していた帳面に、「胡桃パン二つ、銅貨四枚。燻製肉、銅貨三枚」と書き込む。自分が食べるものだけを記した一行は、汚れた頁のなかで妙に目立って見えた。


 市場を抜けた先には、古い石造りの水飲み場があった。荷車を止めた農夫が馬に水を飲ませ、その横では二人の子供が桶へ落とした林檎を取り合っている。レオンは街道脇の低い石垣へ腰を下ろし、買ったばかりの胡桃パンを紙から出した。


 パンの表面はぱりっと焼け、割ると白い湯気が上がった。中には細かく砕いた胡桃が練り込まれ、噛むたびに香ばしい油が染み出してくる。レオンは燻製肉を二枚挟み、ゆっくりと一口かじった。


 いつもなら、食事を始めた途端にジークから剣を磨けと呼ばれた。マリアから髪飾りが見つからないと言われ、パンをくわえたまま部屋を探し回ったこともある。今朝は誰もレオンを呼ばず、手にしたパンを取り上げる者もいなかった。


「……温かいパンは、こんな味だったのか」


 冷えたパンでも腹へ入れば同じだと思っていた。だが、焼きたての生地は柔らかく、胡桃の香りもはっきり分かる。急いで飲み込まなくてもよいと気づいたレオンは、二口目を食べる前に水筒の水を飲んだ。


「兄ちゃん、そのパン、もう食わないのか」


 水飲み場にいた男の子が、石垣の前まで来てパンを見つめていた。頬には泥がつき、片方の靴紐がほどけている。レオンが首を横へ振ると、男の子は残念そうに姉らしい少女のところへ戻った。


「これは俺の朝飯だ。でも、こっちは二人で分けろ」


 レオンは二つ目の胡桃パンを取り出し、半分に割って子供たちへ渡した。昼に食べるつもりだったが、子供たちの腹が鳴る音を聞いたあとで自分だけ袋へ戻す気にはなれなかった。少女は弟のほどけた靴紐を結んでから、何度も頭を下げた。


「ありがとう、お兄ちゃん。弟は朝ご飯を食べたのに、すぐお腹が空くの」


「姉ちゃんだって半分食うだろ」


「私は少しでいいの。あんたのほうが小さいんだから」


「二人とも、同じだけ食べろ。パン屋なら、すぐそこだ。もっと欲しければ手伝いをして、銅貨をもらうといい」


 子供たちはパンを持って市場へ走っていった。姉のほうは弟の歩幅に合わせ、何度も振り返ってレオンへ手を振った。レオンは空になった紙を丁寧に畳み、背負い袋の小さなポケットへ入れた。


 食事を終えると、レオンは西の街道を再び歩き始めた。空はすっかり晴れ、雨上がりの地面から草と土の匂いが立ち上っている。街道沿いの畑では、青い頭巾をかぶった女性たちが洗った布を柵へ干し、白いシャツや子供用の靴下が風を受けて並んでいた。


 どこへ行くかはまだ決めていなかった。西へ二日歩けば宿場町があり、さらに先には海があると市場の農夫が教えてくれた。レオンは海を一度しか見たことがなく、そのときもジークの剣を修理する鍛冶屋を探していたため、浜辺へ下りる時間はなかった。


「海へ行くのも悪くないな。魚を焼いて食べるか」


 誰に聞かせるでもなく口にすると、それだけで足が少し速くなった。昼まで歩き、腹が減ったら残った燻製肉を食べる。夜は安い宿へ泊まり、空いている仕事があれば薪割りか厨房の手伝いをするつもりだった。


 街道が森の入口へ近づくと、鳥の声が少なくなった。木陰には昨夜の雨が残り、街道へ張り出した枝から冷たい雫が落ちてくる。レオンは灰色のシャツの袖で額を拭いながら、道端に折れた矢が落ちていることに気づいた。


 矢羽根には、王国軍が使う赤い染料が塗られていた。少し先には馬の蹄跡があり、それに交じって小さな裸足の足跡が森へ続いている。泥の上には黒ずんだ血も落ちていた。


「軍が誰かを追っていたのか」


 レオンは背負い袋を下ろし、短剣と薬袋だけを腰へつけた。自分はもう英雄パーティーの一員ではなく、危険へ首を突っ込む必要もない。それでも、血の跡を見なかったことにして海へ向かえば、今夜は焼き魚の味が分からなくなるだろうと思った。


 足跡を追って森へ入ると、湿った落ち葉が靴の下で音を立てた。苔の生えた倒木のそばには、踏み潰された赤い木の実が散らばっている。近くの茂みから、枝がかすかに折れる音が聞こえた。


「誰かいるのか。俺は王国軍の者じゃない」


 返事はなかったが、荒い呼吸が聞こえた。レオンが両手を見える位置へ上げて茂みを回り込むと、一本の短剣が顔へ向けられた。刃先は鼻先まで届かず、途中で大きく震えている。


「近づくな、人間」


 短剣を持っていたのは、銀色の髪をした若い少女だった。年齢はレオンより少し下に見え、青緑色の瞳は獣のように細くなっている。黒い外套はあちこち裂け、下に着ている深緑色の服には泥と乾いた血がこびりついていた。


「近づかない。だから、その剣を下ろしてくれ。今のお前では、持っているだけでもつらいだろう」


「だまれ。人間の言葉など信じない」


「信じなくていい。俺も、昨日まで一緒にいた人間の言葉を信じて損をしたところだ」


「何の話だ」


「俺が追放された話だ。長くなるから、今はやめておく」


 少女は短剣を握り直そうとしたが、腕に力が入らなかった。膝が崩れ、倒木へ背中をぶつける。レオンが一歩踏み出すと、少女は短剣を横へ振ったものの、刃はレオンの革鎧をかすめただけだった。


「触るな。私は、人間の助けなど必要ない」


「そうか。では、勝手にここへ座って昼飯を食べる」


「出ていけ」


「腹が減った。朝飯を半分、人にやってしまったんだ」


 レオンは少女から三歩離れた場所へ腰を下ろした。背負い袋から小鍋と水筒を取り出し、拾った枝を組んで火打ち石で火を起こす。追放されたおかげでマリアの衣装やジークの剣を運ぶ必要がなくなり、鍋を取り出すのも簡単だった。


 鍋へ水を入れ、刻んだ燻製肉と乾燥させた豆を加えた。昨夜、女将にもらった玉葱が一つ残っていたので、皮をむいて半分だけ薄く切る。玉葱の皮は濡れた地面へ置かず、畳んだ紙の上へまとめた。


 煮立った鍋から、肉と玉葱の匂いが広がった。倒木へ寄りかかっていた少女の鼻がわずかに動き、腹から長い音が聞こえた。少女は聞かれなかったふりをして顔を背けたが、耳の先まで赤くなっている。


「毒が入っている」


「まだ食べてもいないのに、よく分かるな」


「人間は食べ物へ毒を入れる。眠ったところを捕まえて、鎖につなぐ」


「俺が先に食べればいいか」


「毒を飲んで平気な加護を持っているかもしれない」


「ずいぶん用心深いな。では、鍋も匙も、お前が選べばいい」


 レオンは木の器を二つ並べ、少女へ好きなほうを指すよう促した。彼女が左を選ぶと、レオンは先に左の器へスープをよそい、半分を飲んだ。次に右の器へ残りをよそい、焼き直した黒パンと一緒に少女の前へ置いた。


「五分待って、俺が倒れなかったら食べろ。十年待ちたいなら、それでもいい。ただし、冷めるぞ」


「なぜ、そこまでする」


「腹を空かせた人間……いや、人を前にして、一人で食べるのは落ち着かない」


「私は、人ではないかもしれない」


「腹が鳴るなら、食事は必要だろう。そこは同じだ」


 少女はレオンを見つめたまま、しばらく動かなかった。鳥が一羽、木の上で羽を震わせ、枝にたまった雫が鍋のそばへ落ちた。レオンが自分の器からもう一口飲むと、少女は短剣を地面へ置き、木の器を両手で持った。


 最初は舌先で味を確かめるように一口だけ飲んだ。しかし、次の一口は大きく、三口目には匙を使わず器へ直接口をつけていた。銀色の髪が器へ入りそうになり、レオンは新しい布紐を取り出して差し出した。


「髪を結べ。スープへ入るぞ」


「余計なことを言うな」


「髪の入ったスープを飲むのは、お前だ」


「……貸せ」


 少女は布紐を奪うように受け取り、長い髪を後ろで一つに束ねた。手が震えてうまく結べず、二度ほど解けてしまったが、レオンは手を出さずに待った。結び終えると、彼女は残ったスープを飲み、器の底に沈んだ豆まできれいに食べた。


「パンも食べるか」


「毒見をしろ」


「半分しかない。俺も食べたい」


「なら、きれいに半分に分けろ」


「俺を信用したのか」


「していない。同じ大きさでなければ、毒の量が違うかもしれないだけだ」


 レオンは黒パンを半分に割り、少女へ先に選ばせた。少女は少し大きいほうへ手を伸ばしたが、途中で指を止め、小さいほうを取った。レオンは何も指摘せず、大きいほうをさらに少しちぎって彼女の器へ入れた。


 食事を終える頃には、少女の呼吸も落ち着いていた。ただし左の脇腹からは、新しい血がにじんでいる。傷口には折れた矢尻の一部が残り、無理に引き抜けば出血が増える状態だった。


「傷を見せてくれ。矢尻が残っている」


「触れば、喉を切る」


「その短剣は地面に置いてある」


「拾ってから切る」


「元気が出たなら、スープを作った意味はあったな」


 少女はしばらくレオンを睨んでいたが、やがて外套を少し開いた。深緑色の服は矢で裂かれ、その下の白い肌には黒い紋様が浮かんでいる。人間には存在しない魔力回路が傷の周囲を巡り、矢尻へ触れるたびに青い火花を散らしていた。


 レオンは驚いて手を止めた。少女の体内には、ジークとマリアの魔力を合わせても比べものにならないほど巨大な力が眠っている。それは人間の魔力ではなく、大地の底を流れる竜脈に似ていた。


「何を見た」


「矢尻が深い。抜くときに少し痛む」


「それだけか」


「それ以外に何がある」


 少女はレオンの目を探るように見つめた。瞳孔がさらに細くなり、外套の下では何か硬いものが動いている。レオンは正体を尋ねず、薬袋から消毒用の酒と清潔な布を取り出した。


「名前は」


「なぜ聞く」


「治療中に痛くても動くなと呼びかけるためだ。嫌なら、銀髪でも食いしん坊でもいい」


「食いしん坊と呼んだら、その指を噛み切る。シルフィだ」


「俺はレオンだ。では始めるぞ、シルフィ」


 矢尻を抜いた瞬間、シルフィの体が跳ねた。彼女は声を上げる代わりに下唇を強く噛み、レオンの肩をつかむ。鋭い爪が革鎧へ食い込み、古い縫い目が一つ切れた。


「動くな。もう抜けた」


「痛くないと言った」


「少し痛むと言った」


「少しではなかった」


「次からは、かなり痛むと言うことにする」


「次があると思うな」


 レオンは傷口へ布を当て、《万象循環》を使った。シルフィの体内に入った毒を自分へ移し、乱れた魔力の流れを整えていく。舌の奥に金属のような苦味が広がり、左腕が一瞬しびれたが、矢に塗られていた毒は強いものではなかった。


 ところが治療を進めると、シルフィの背中から銀白色の鱗が浮かび上がった。傷を守るように何枚もの鱗が重なり、その隙間から青緑色の光が漏れる。レオンは布を巻き終えると、外套を元の位置へ戻した。


「終わった。今日は走るな。傷が開く」


「見たのだろう」


「傷なら見た」


「ほかのものだ」


「外套が破れていた。今度、糸を買ったら縫おう」


「私が何者なのか、聞かないのか」


「答えたくないことを聞いても、まともな答えは返ってこない。俺は昨日、それを学んだ」


 シルフィは何か言おうとしたが、口を閉じた。代わりに地面の短剣を拾い、鞘へ収める。立ち上がろうとすると膝が揺れたため、レオンは背中を向けてしゃがんだ。


「何をしている」


「背負う。次の宿まで歩けないだろう」


「私は歩ける」


「三歩で倒れる」


「五歩は歩ける」


「どちらでも大差ない。乗れ」


 シルフィは拒んだものの、実際には二歩目で倒木へ手をついた。レオンは食器を洗って袋へ戻し、彼女を背負った。人一人を背負っているはずなのに、昨日まで運んでいたジークたちの荷物よりずっと軽かった。


 森を抜けた二人は、西の街道をゆっくり進んだ。シルフィは最初、レオンの首へ短剣を当てられるよう右手を自由にしていたが、しばらくすると両腕を彼の肩へ回した。銀色の髪からは雨と草の匂いがし、その下に焦げた木の匂いも染みついていた。


「レオン、お前はどこへ行く」


「海を見るつもりだった」


「海で何をする」


「魚を食べる」


「それだけか」


「ほかには決めていない。昨日、仕事を辞めたばかりだからな」


「追放されたのではなかったか」


「細かいことを覚えているな」


 日が傾き始めた頃、街道の先に古い木造の建物が見えた。軒下には《旅人食堂》と書かれた看板がぶら下がっていたが、雨にさらされて最後の二文字が薄くなっている。入口の脇には洗った鍋が三つ伏せてあり、竿には茶色い前掛けと片方だけの靴下が干されていた。


 扉を開けると、油と古い木材の匂いがした。食堂には六つのテーブルがあったが、客は一人もいない。窓際には萎れかけた草花が空き瓶へ挿され、奥の席では白髪交じりの大男が、穴の開いた靴下を太い指で縫っていた。


「食事なら、豆のスープしかないぞ。肉は一昨日で切れた」


 男は針へ糸を通そうとしながら言った。右足を投げ出して座っており、膝には厚い革の固定具をつけている。針穴が見えないらしく、糸の先を何度も舐めては眉間にしわを寄せていた。


「宿を探しています。この子が怪我をしているので、ベッドを一つ貸してください」


「宿屋じゃない。二階は俺の物置だ」


「床でも構いません。代金が足りなければ、薪割りか皿洗いをします」


「料理はできるか」


「野営料理なら七年作りました」


「では、厨房にあるもので何か作れ。食えるものが出てきたら、物置の荷物をどけてやる」


 店主はバルドと名乗り、針と靴下をテーブルへ置いた。レオンはシルフィを椅子へ座らせ、厨房をのぞいた。棚には乾燥豆、芽が出かけた芋、皺の寄った人参、底にわずかに残った小麦粉があるだけだった。


「昨日のスープが鍋に入っている。腐ってはいないと思う」


「思うでは困ります」


「匂いを嗅いで、自分で決めろ。俺は昼に食って平気だった」


「昼から何も食べていないのですか」


「客が来なかったから、作るのが面倒だった」


 レオンが鍋の蓋を開けると、冷えた豆のスープの表面に薄い膜が張っていた。匂いに問題はないが、塩味だけで旨味が足りない。レオンは残った燻製肉を細かく切り、芋と人参を加えて煮込み直すことにした。


 小麦粉へ水と塩を混ぜ、丸く伸ばして鉄板へ並べた。発酵させる時間はないため、薄い平焼きパンにする。棚の奥で乾燥させた香草を見つけると、バルドは食堂から大声を出した。


「それは三年前に旅商人から買ったやつだ。まだ使えるか」


「先に言ってください。香りは残っていますが、三年は長すぎます」


「捨てるのはもったいないだろう」


「では、食べる前にバルドさんが毒見をしてください」


「さっきの娘と同じことを言うな」


 シルフィが厨房の入口から顔を出した。いつの間にか椅子を引きずってきたらしく、座ったまま鍋を見つめている。レオンがまだできていないと言うと、彼女は床板の傷を数えていただけだと答えた。


 平焼きパンが焼けると、小麦の香りが食堂へ広がった。燻製肉を加えたスープからも湯気が上がり、古い店に人が暮らしている匂いが戻ってくる。バルドは靴下を縫う手を止め、厨房のほうへ顔を向けた。


「客がいないのに、料理の匂いがするのは久しぶりだな」


「バルドさんの店でしょう」


「妻が死んでから、まともなものは作っていない。豆を煮るか、芋を焼くか、その二つだ」


「肉を焼くという選択もあります」


「肉は高い」


「では、明日、森で食べられる草と茸を探します。毒茸まで鍋へ入れないでください」


「お前、泊まるのは今夜だけじゃなかったのか」


 レオンは答える前に、スープを三つの器へよそった。シルフィの器には柔らかく煮えた芋を多めに入れ、バルドには燻製肉を多くした。自分の器には鍋底に残った豆と、形の崩れた人参を入れた。


「レオン」


「何だ」


「私の肉より、お前の肉が少ない」


「怪我人は肉を食べろ」


「私はもう治った」


「では、明日から働いてもらう」


「何をすればよい」


「まず、食べたあとの器を厨房へ運ぶ」


 シルフィは真剣な顔でうなずき、平焼きパンをスープへ浸した。一口食べると、青緑色の瞳がわずかに大きくなる。次からはパンを小さくちぎるのをやめ、半分ほどまとめてスープへ入れた。


 食事を終える頃、外では再び小雨が降り始めていた。窓を打つ雨音のなか、バルドは二階の物置から古い毛布を二枚持ってきた。毛布には埃の匂いがついていたため、レオンは裏口の竿へ干し、代わりに自分の毛布をシルフィへ渡した。


「お前はどうする」


「椅子を並べて寝る。以前もよくやっていた」


「毛布を半分使えばいい」


「寝相が悪い人間と一枚の毛布を使うと、朝には全部取られる」


「私は寝相など悪くない」


「さっき、椅子で眠りながら三回蹴られた」


「傷が痛んだだけだ」


 バルドは二人の会話を聞きながら、縫いかけの靴下を裏返した。糸は大きく曲がり、穴よりも縫った部分のほうが目立っている。レオンが見かねて針を借りると、バルドは少し考えてから靴下を差し出した。


「料理だけでなく、裁縫もできるのか」


「仲間の服を七年直していました。剣士は袖を破り、聖女は裾を踏んで裂きます」


「便利な男だな。どうして追放された」


「便利だったことに、誰も気づかなかったからでしょう」


「なら、気づかなかった連中が馬鹿だった。それだけだ」


 レオンの指が、針を持ったまま止まった。バルドは特別なことを言ったつもりもないらしく、残ったスープを鍋から自分の器へ足している。レオンは曲がっていた縫い目をほどき、同じ間隔で糸を通し直した。


 二階の物置には、古い椅子、割れた皿、空の酒瓶が積まれていた。三人で荷物を廊下へ運び出すと、壁際から干からびた林檎が一つ出てきた。バルドは去年の冬から捜していたと言い、シルフィはもう食べられないと真顔で止めた。


 床を掃き、窓を開けると、雨に濡れた土の匂いが入ってきた。部屋には小さなベッドが一つしかないため、シルフィがそこを使い、レオンは食堂の椅子で眠ることになった。レオンが階下へ戻ろうとすると、シルフィがシャツの裾をつかんだ。


「明日の朝、お前はここを出るのか」


「傷の具合を見てから決める。俺は海へ行くつもりだったが、お前まで来る必要はない」


「なぜだ」


「追っていた王国軍から逃げるなら、人間の俺と一緒にいるほうが危険かもしれない。それに、俺は金も仕事もない」


「料理はできる」


「それだけでは、旅はできない」


「傷も治せる。服も縫える。火も起こせる。片方しかない靴下も直せる」


「最後のものは旅に必要ないだろう」


 シルフィはベッドの上へ座り、借りた毛布を膝までかけた。洗った銀色の髪はまだ少し濡れ、レオンが貸した白いシャツの袖から細い指だけが出ている。彼女は枕元へ置いた短剣を確認してから、まっすぐレオンを見た。


「あなたが行くところへ、私も行きます。まだ、料理のお礼を返していませんから」


「スープ一杯の礼にしては、大げさだ」


「パンも食べた。治療も受けた。背負ってもらった。それに、今夜の肉も食べた」


「よく覚えているな」


「借りたものは返す。私は、借りた力を自分のものだとは言わない」


 レオンはジークとマリアの顔を思い出した。二人は七年間借り続けた力を、自分たちの才能だと言い張った。目の前の少女は、半分の黒パンまで借りとして数えている。


「分かった。ただし、明日から器は自分で運べ。食べた分は働いて返してもらう」


「任せろ。器くらい百枚でも運べる」


「この店には三十枚もない。割るなよ」


「竜……ではなく、私は手先が器用だ」


 シルフィは慌てて言い直し、毛布を鼻まで引き上げた。レオンは聞かなかったふりをして部屋を出たが、階段を下りる途中で口元が緩んだ。下ではバルドが空になった鍋を前に座り、明日の朝食まで全部食べてしまったことを後悔していた。


「レオン、明日の朝も何か作れるか」


「食材がありません」


「裏の鶏が卵を産む。たぶん二つはある」


「三人いるのに、二つですか」


「俺は豆でいい。もう一度温めれば食える」


「分かりました。では、明日の朝に考えます」


 レオンは食堂の椅子を三つ並べ、畳んだ上着を枕にした。厨房には洗って伏せた三人分の器が並び、冷えた鉄板には平焼きパンの香りが残っている。昨日までは夜が明ければ誰かの荷物を背負うだけだったが、今夜は明日の朝食について考えながら目を閉じた。



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