第1話 C級荷物持ちは、もう何も背負わない
第1話 C級荷物持ちは、もう何も背負わない
最難関ダンジョン「絶望の回廊」へ出発する前夜、王都の宿屋《金の鹿亭》では、夕食の片づけが始まっていた。食堂に残っている客は少なく、暖炉のそばでは酔った商人が椅子に寄りかかって眠り、女将が空になった木皿を重ねている。香草をまぶした鶏肉の匂いと、床へこぼれた果実酒の甘酸っぱい匂いが混じるなか、レオンは一人だけ厨房の隅に立ち、翌朝の携帯食を布袋へ詰めていた。
レオンが着ているのは、何度も縫い直した灰色のシャツと、膝の部分が白く擦れた黒いズボンだった。その上には、鍋、毛布、薬瓶、予備の剣、砥石まで詰め込んだ大きな背負い袋がある。食事の時間に遅れたため、自分の皿には冷えた豆の煮込みと、端が硬くなった黒パンしか残っていなかったが、レオンは立ったまま黒パンを一口かじり、薬瓶の数を帳面へ書き込んだ。
「上級解毒薬が八本、治癒薬が十二本、魔力回復薬が六本。ジークの予備の手袋は右が二枚で、左が一枚か。どうして片方ばかりなくすんだ」
独り言を漏らしながら、レオンは赤い糸で縫われた右手用の手袋を袋へ入れた。ジークは戦闘後に装備をその場へ放り出す癖があり、これまでにも手袋を三枚、剣帯を二本、銀製の食器を一組なくしている。銀の匙を探すため、レオンが雨のなかを半日歩いて野営地へ戻ったこともあったが、ジークは礼を言う代わりに、見つけるのが遅いと文句をつけた。
食堂の奥にある扉が開き、磨かれた長靴の音が近づいてきた。現れたジークは、金糸の刺繍が施された白い上着に、濃紺のズボンを合わせていた。明日の出発に備えて新調したらしく、胸元には侯爵家の紋章と、王国から授けられる英雄候補の勲章が輝いている。
「レオン、荷造りをやめろ。お前に話がある」
ジークはレオンの前の椅子へ座ったが、冷えた煮込みを見ると、露骨に顔をしかめた。
「こんな残飯を食っているのか。腹を壊して、明日の朝に仕事を増やすなよ」
「残飯じゃない。女将さんが作った夕食だ。それに、まだ食べられる」
「お前が何を食おうが、もう俺たちには関係ない。荷物を置いたら、部屋へ来い」
ジークはそれだけ言うと、足元にあった背負い袋をまたいで二階へ上がった。レオンは黒パンを煮込みへ浸し、硬くなった部分が柔らかくなるのを待った。ジークが新しい計画を思いつくたび、呼び出されるのはいつも食事の途中だったので、今日も罠の配置か荷物の増加について話すのだろうと考えた。
二階の角部屋には、ジークのほかにマリアも待っていた。マリアは真珠色の聖女服を身につけ、長い金髪には薔薇の香油をなじませていた。丸いテーブルの上には焼き菓子、葡萄、蜂蜜酒が並び、レオンが用意した地図の上には、食べかけの菓子から落ちた粉が散らばっている。
「遅かったですね。呼ばれたら、すぐ来るのが使用人の務めでしょう」
マリアは白い指についた蜂蜜を布巾で拭い、その布巾を地図の上へ置いた。明日使う大切な地図だったが、レオンは何も言わずに布巾をどけ、菓子の粉を袖で払った。羊皮紙の端には茶色い染みが残り、絶望の回廊の入口を示す文字が少しだけ読みにくくなっていた。
「俺は使用人じゃない。冒険者組合の登録では、同じパーティーの構成員になっている」
「細かいことを言うな。荷物を運ぶ者が必要だったから、形式上そうしただけだ」
ジークは蜂蜜酒を飲み、銀の杯をテーブルへ置いた。杯の底が地図の上で小さな円を描いたが、本人は気にも留めていない。レオンは地図を丸めて自分のそばへ引き寄せ、二人が何を言い出すのか待った。
「明日から、お前は黄金の聖剣の一員ではない。今夜限りでパーティーを抜けてもらう」
ジークは、明日の天気でも知らせるような口調で言った。窓の外では細い雨が降り始め、屋根から落ちる水が桶を一定の間隔で鳴らしていた。レオンは丸めかけた地図を広げ直し、聞き間違いではないか確かめるようにジークの顔を見た。
「明日は絶望の回廊へ入る予定だ。荷物は誰が持つ」
「新しい従者を三人雇った。全員、少なくともB級の加護を持っている」
「野営の経験はあるのか。あの回廊では火炎石が使えないから、普通の薪と火打ち石が必要になる。第三層には幻惑草が生えている。見分け方を知らない者が触れば――」
「そういう話はもういい」
ジークは片手を上げ、レオンの言葉を遮った。聖剣の柄に触れながら椅子へ深く座り、磨かれた長靴の先で床を二度たたく。戦闘中に作戦が気に入らないときも、彼は同じ仕草をしていた。
「昨日、王国軍から正式な話が来た。絶望の回廊を攻略すれば、俺たちは救国の英雄として任命される。王宮での拝謁も、貴族を招いた祝賀会も予定されている」
「それと俺を外すことに、何の関係がある」
「分からないのですか。C級の雑用係が英雄パーティーに交じっていたら、私たちまで笑われてしまいます」
マリアは焼き菓子を半分に割り、果物の蜜が入った部分だけを口へ運んだ。残した外側は、空の皿ではなく地図の端へ置かれた。彼女は王都で評判の菓子を毎晩二つ食べるが、硬いところは太るからと必ず残し、その片づけもレオンに任せていた。
「レオン、あなたにも分相応の場所があります。荷運びなら、商隊でも鉱山でも雇ってもらえるでしょう。私たちと同じ場所へ立とうと考えなければ、困ることはありません」
「俺が、いつ同じ場所へ立たせてくれと言った」
「態度の問題です。最近は作戦にまで口を出すようになりました。荷物持ちなら、命じられたとおり働けばよいのです」
レオンは返事をせず、テーブルの上の帳面を開いた。七年間使い続けた帳面は手垢で黒ずみ、何度も雨に濡れたため、端が波打っている。そこには薬の数や食料の値段だけでなく、仲間が受けた傷、使った魔力量、貸し与えた耐性まで細かく記録されていた。
「分かった。追放は受け入れる。今月分の報酬と、これまで俺が立て替えた薬代を精算してくれ」
ジークは一瞬だけ目を丸くしたあと、マリアと顔を見合わせて笑った。マリアは口元へ手を当てたが、肩が何度も揺れている。窓際の燭台から蝋が垂れ、磨かれた机の上で白い塊になった。
「報酬だと? お前は俺たちと行動したおかげで、高級な宿に泊まり、珍しい料理も食えた。それで十分だろう」
「宿で俺が寝ていたのは馬小屋か厨房だ。食事も、今夜のように残ったものを食べていた」
「雑用係が英雄と同じ部屋で眠れるわけがないでしょう。あなたに支払うお金があるなら、神殿へ寄付したほうが多くの人を救えます」
「その神殿へ運んだ治癒薬も、俺が材料を買って作ったものだ」
レオンは帳面の該当する頁を開いた。マリアの治療に使った薬草、包帯、消毒用の酒、そのすべてが日付とともに記されている。だがマリアは帳面を見ることもなく、香油の匂いが残る髪を肩の後ろへ払った。
「お金のことばかりで、見苦しい人ですね。私たちは明日、国民のために命を懸けて戦うのですよ」
「だから俺の金は払わないのか」
「しつこいぞ、レオン。追放だけで済ませてやると言っているんだ」
ジークは腰の聖剣を少しだけ鞘から抜いた。青白い光が室内へ広がり、壁に掛けられた絵の金縁を照らした。その輝きを見たマリアは満足そうに笑い、レオンは剣へ流れ込んでいる魔力の大半が、自分から送り続けてきたものだと改めて確認した。
「背負い袋は置いていけ。中にある装備も薬も、黄金の聖剣の財産だ」
「この袋は俺が買った。鍋も毛布も薬も、すべて俺の金でそろえたものだ」
「お前一人では使い道がないだろう。聖剣の予備も入っているはずだ。それに、お前には分不相応な品ばかりだ」
「着ている革鎧も脱いでください。私たちの名前を使って買ったものですから」
マリアはレオンの上着を値踏みするように見た。革鎧には魔獣の爪で裂かれた跡があり、肩の部分には違う色の革が縫いつけられている。ジークをかばって受けた傷だったが、あのときジークは倒れたレオンを置いて魔獣の角だけを持ち帰ろうとした。
七年間の出来事が、帳面の頁をめくるように一つずつ浮かんだ。吹雪の夜に三人分の毛布をジークたちへ渡し、自分は濡れた外套をかぶって見張りをした。マリアが毒を受けたときには《万象循環》で毒を引き受け、彼女が暖炉の前で眠っているあいだ、レオンは厩舎の桶へ何度も血を吐いた。
討伐から戻った夜、ジークたちは祝杯をあげ、レオンは厨房で焦げついた鍋を洗った。料理人が気の毒がって残してくれたアジに似た川魚の干物を、冷えたスープへ入れて食べたこともある。翌朝、マリアは空になった鍋を見て、使用人が勝手につまみ食いをしたと宿屋の主人へ苦情を言った。
「七年か」
レオンが呟くと、ジークは片方の眉を上げた。
「何だ」
「七年間、俺はお前たちを仲間だと思おうとしていた。作戦中に名前を呼ばれなくても、食卓に俺の椅子がなくても、いつかは認めてもらえると思っていた」
「まだそんな思い違いをしていたのか。お前は最初から荷物持ちだ」
ジークは笑い、マリアも蜂蜜酒の杯を持ち上げた。二人は乾杯するように杯を合わせたが、レオンの分は用意されていない。軽くぶつかった銀の音を聞きながら、レオンは帳面の最後の頁を開いた。
そこには、加護契約を通じて二人へ貸し与えている力が記されていた。ジークには筋力、反応速度、危険察知、魔力回復、炎と毒への耐性。マリアには魔力量、治癒力、状態異常解除、患者の苦痛をレオンへ移す肩代わりの力が与えられている。
「最後に確認する。俺を追放するという決定は変わらないんだな」
「何度言わせる。お前はもう黄金の聖剣には必要ない」
「明日の朝になって、泣いて戻りたいと言っても無駄ですよ。私たちはあなたより優秀な従者を雇ったのですから」
「分かった」
レオンは帳面を閉じ、右手を加護契約の紋章がある胸元へ当てた。薄いシャツの下で、円環を重ねた紋章が温かくなる。長年つながれていた無数の糸が見えるようになり、その先ではジークとマリアが、何も知らずにレオンの力を吸い上げ続けていた。
「今日まで貸していたものは、全部返してもらう」
レオンが指を握ると、室内の蝋燭が一斉に揺れた。ジークの聖剣を包んでいた青白い光が細い帯となって抜け出し、レオンの胸へ吸い込まれていく。マリアの首に掛けられた聖印からも金色の粒があふれ、夜の蛍のように室内を舞ってから消えた。
「何をした」
ジークが聖剣を抜いたが、刀身は磨かれた鉄の色をしていた。何度振っても光は戻らず、剣先が机の角へ当たって焼き菓子の皿を床へ落とす。皿が割れる音に驚いたマリアは立ち上がり、破片で右手の人差し指を切った。
「痛い。ジーク、何をしているのですか」
「その程度、自分で治せるだろう」
「もちろんです。この傷へ、女神の慈悲を」
マリアが聖印を握って祈ると、指先に淡い光がともった。しかし傷は塞がらず、血の粒が白い聖女服へ落ちた。彼女はもう一度呪文を唱え、三度目には声を裏返らせたが、赤い染みは少しずつ大きくなった。
「治りません。どうしてですか。レオン、あなたが何かしたのでしょう」
「俺は自分の力を返してもらっただけだ。治癒の力が本当にお前のものなら、その傷くらい治せるはずだ」
「返しなさい。今すぐ私の力を返しなさい」
「今、自分の力だと言ったばかりだろう」
レオンは割れた皿を拾おうとして、伸ばした手を止めた。これまでなら誰かが割った食器も、こぼした酒も、黙って片づけていた。だが今夜から、それはレオンの仕事ではなかった。
「床に破片が残っている。踏まないように気をつけろ」
「待て、レオン。俺の聖剣を元に戻せ」
「それはSSR級《聖剣の使い手》である、お前の仕事だ」
「命令だ。俺に力を渡せ」
「俺は、もうお前の仲間でも使用人でもない」
レオンは帳面を脇へ抱え、背負い袋を持って部屋を出た。背後ではジークが聖剣へ魔力を流そうと唸り、マリアが治らない指を押さえてレオンの名を叫んでいた。七年間、二人が彼の名を続けて呼んだのは、それが初めてだった。
一階へ下りると、女将が厨房の入口で洗った皿を布巾に並べていた。石鹸と煮込み料理の匂いが漂い、窓辺には翌朝使う白い前掛けが干されている。レオンが背負い袋を下ろすと、鍋と薬瓶がぶつかり、耳慣れた音を立てた。
「こんな時間に出ていくのかい。雨が降っているよ」
「今夜で仕事を辞めました。部屋代を払えるほど手持ちがないので、すぐ出ます」
「馬鹿を言うんじゃないよ。あんた、夕飯だってろくに食べていないだろう」
女将は台の上に残っていた豆の煮込みを鍋へ戻し、火へかけた。そこへ刻んだ玉葱と薄切りの腸詰めを足し、木杓子でゆっくり混ぜる。温め直された煮込みから湯気が上がると、レオンの腹が小さく鳴った。
「パンも持っておいき。昨日のだから少し硬いけど、炙れば食べられる。雨がやむまで馬小屋で寝ていいからね」
「でも、代金を――」
「七年間、あの連中が散らかした部屋を片づけてくれただろう。夜中に厨房を借りたあとは、私よりきれいに磨いてくれた。宿代なら、とっくに払いすぎているよ」
女将は布袋へ黒パンと腸詰めを詰め、煮込みを木の器へよそった。レオンは椅子に座り、湯気で曇った表面を匙でかき混ぜた。最初の一口は少し塩辛かったが、温かい豆が喉を通ると、冷えていた指先まで熱が戻ってきた。
「おいしいです」
「七年も通って、初めてまともに感想を言ったね。いつも呼びつけられて、途中で席を立っていたから」
「これからは、最後まで食べられます」
「それなら、ゆっくり食べな。鍋は逃げやしないよ」
雨がやんだのは、空が白み始めた頃だった。レオンは宿の裏手にある井戸で顔を洗い、灰色のシャツの上から革鎧を着直した。女将にもらったパンを背負い袋の一番上へ入れたが、ジークの予備の剣とマリアの大量の衣装を床へ置いてきたため、袋は今までの半分ほどの重さしかなかった。
王都の門へ続く石畳には水たまりが残り、朝の風が濡れた土と焼きたてのパンの匂いを運んできた。牛乳売りの荷車が軋みながら通り過ぎ、店先ではパン屋の少年が白い粉のついた前掛けをはたいている。レオンは肩紐の位置を直そうとして、背中へ食い込む重さがないことに気づいた。
「こんなに軽かったのか」
七年間、何をするにも三人分の荷物を背負っていた。剣も薬も毛布も、彼らの失敗も機嫌も、すべて自分が持つものだと思っていた。だが、王都の門を出ても足を止める声はなく、朝日を受けた街道は東と西の二つに分かれていた。
レオンは、絶望の回廊とは反対の西へ足を向けた。どこへ行くかは決めていなかったが、昼になったら女将にもらったパンを食べ、夜になる前には雨をしのげる場所を探せばよい。誰の命令も書かれていない一日を前にして、レオンは軽くなった背負い袋を揺らしながら歩き出した。
その頃、《金の鹿亭》の二階では、ジークが光らない聖剣を何度も床へたたきつけ、マリアが治らない指へ布を巻いていた。二人の怒鳴り声に起こされた客が廊下へ顔を出し、女将は割れた皿の代金を請求するため、帳面を片手に階段を上っていった。レオンが七年間片づけ続けた部屋には、こぼれた蜂蜜酒と菓子の粉と割れた陶器が、そのまま残されていた。




