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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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第9話 喋る傘

 サラは、ゆっくりと傘を見た。


 古びた布。

 少し歪んだ骨。

 何度も握ったせいで、手の形に馴染んだ木の柄。


 見慣れた傘だった。

 イーリスが託した、母の形見のような傘。

 レクシオが最後に押し返した傘。

 カルラに何度も叩き落とされ、それでも握り続けてきた傘。

 サラが勝手に傘次郎と呼んでいる、古びた魔道具。


 その内側から、今、声がした。


「……今」


 サラの声は、自分でも驚くほど小さかった。


「喋った?」


 返事はなかった。


 中庭は静かだった。風は止んでいる。古い木の葉だけが、遅れて思い出したように一枚揺れた。

 サラは傘を持ち上げ、内側を覗き込む。


 布の継ぎ目。

 細い骨。

 補修した跡。

 柄に刻まれた小さな傷。


 何度見ても、ただの傘にしか見えない。いや、ただの傘ではない。そんなことはとっくに知っている。魔素を喰う。魔法となる前に流れるものを奪う。けれど、現象になったものは喰えない。氷も、風も、石も、炎も。万能ではない。だから今日、負けた。それでも、喋るとは聞いていない。


「ねえ」


 サラは傘を揺らした。


「今、喋ったよね」

「揺らすな」


 低い声がした。サラは傘を放り出しかけた。けれど、手は離れなかった。反射的に、強く握っていた。さっき試験場で離した手が、今度は痛いくらい柄に食い込んでいる。


「喋った!」

「二回も同じこと言うな。耳はついてんだろ」

「傘が喋った!」

「名前までつけといて、そこは傘扱いかよ」


 サラは口を開けたまま固まった。

 ありえない。


 魔道具には、特殊な反応を返すものがある。魔素の流れに応じて震えるもの。持ち主の状態を色で示すもの。記録された音声を再生するもの。学院の資料室で見たことがある。けれど、これは違う。記録音声にしては、会話が噛み合いすぎている。魔術反応にしては、口が悪すぎる。


「……傘次郎?」

「その呼び方、まだ続ける気か」

「じゃあ何て呼べばいいの」

「知らん」

「知らないの?」

「俺に聞くな」

「いや、あんたの名前でしょ」

「傘に名前を聞く奴があるか」

「今、自分で傘じゃないみたいなこと言ったじゃん!」

「揺らすな、とは言ったな」


 サラはまた固まった。

 怒っていいのか、驚いていいのか、泣いていいのか分からない。胸の中で、いろんな感情が順番を間違えて押し合っている。


 傘が喋った。

 傘次郎が喋った。


 ずっと黙っていたものが、今になって、よりによって試験に落ちた直後に、サラの一番痛いところを突いてきた。サラは傘を少し睨んだ。


「……前から喋れたの」

「さあな」

「さあなって何」

「分からんもんは分からん」

「自分のことなのに?」

「自分のことが分かってる奴ばかりなら、世の中もう少し静かだろうよ」


 サラは言い返せなかった。何だそれは。説教くさい。傘のくせに。


「じゃあ、今まで黙ってたの」

「たぶんな」

「たぶん?」

「俺が黙ってたのか、お前が聞いてなかったのか、どっちかだ」


 サラの指先がぴくりと動いた。


「それ、どういう意味」

「そのままだ」

「ずっと喋ってたかもしれないってこと?」

「それが分からんと言っている。だが、今日のお前の声はよく聞こえてた」


 傘次郎の声は低い。布の奥、骨のさらに奥から響いてくるようだった。口があるわけではない。どこかが動くわけでもない。ただ、声だけが確かにそこにある。


「待てだの、帰ってこないだの、誰かが認めるまでだの。ごちゃごちゃよく喋ってた」

「聞いてたの?」

「聞こえた」

「いつから」

「うるさくなったあたりから」

「最初からじゃん」

「自覚はあるのか」


 サラは傘を睨み直した。睨んでも、傘は傘だった。だから余計に腹が立った。


「何なの、ほんとに。慰めるなら、もう少し言い方ってものがあるでしょ」

「慰めてほしいのか」

「……別に」

「ならいい」

「よくない!」


 サラの声が中庭に跳ねた。自分で思ったより大きな声だった。サラは慌てて周囲を見る。誰もいない。廊下の方にも人影はなかった。胸元の赤い印が、視界の端で揺れる。


 不合格。

 まだ消えていない。


 外套を脱げば見えなくなる。

 それなのに、脱ぐ気になれなかった。

 見えなくしたところで、消えるわけではないからだ。


 サラは傘を抱え直した。


「私、落ちたんだよ」

「見てた」

「見てたなら、何か言ってよ」

「言ったところで、お前は聞いたのか?」

「……聞いたかもしれないじゃん」

「嘘つけ」


 また言い返せない。サラは胸元の赤い印を見下ろした。


「……手が滑っただけだった」

「嘘だな」

「次なら離さない」

「そこじゃねえ」

「分かってるよ!」


 サラは叫んだ。


 分かっている。

 カルラにも言われた。


 問題は、傘を落としたことではない。

 落とした後に止まったことだ。


 拾いに走る。

 距離を取る。

 傘がなくても間合いを外す。


 選択肢はいくらでもあった。なのに、自分は何もできなかった。そのことが一番悔しい。


「分かってるなら、何を怒ってる」

「分かってるから怒ってるの!」

「面倒くせえな」

「傘に言われたくない!」

「だから傘扱いするな」

「傘次郎って呼ばれたくないなら、自分で名乗りなよ」

「知らんと言った」

「じゃあ傘次郎」

「……」


 初めて、傘次郎が黙った。

 勝った、と思うには、あまりにも小さな勝利だった。


 サラは息を吐いた。胸の奥に溜まっていた熱が、少しだけ抜ける。怒鳴ったせいか、喉が痛い。泣いたわけでもないのに、目の奥が重かった。


「ねえ」

「何だ」

「あんた、何なの」

「傘次郎なんだろ」

「そうじゃなくて」

「魔道具じゃねえのか」

「自分で分からないの?」

「分からん」

「お母さんのことは?」


 言った瞬間、サラは自分の声が細くなったのを感じた。


 お母さん。

 イーリス・アーベント。

 死亡認定。

 白い封筒。

 黒い封蝋。

 協会の使者。

 すぐ帰るから、それまでこの子と待ってて。


 ずっと胸に残っている言葉。

 傘次郎は少しの間、黙った。


「知らん」


 返ってきたのは、それだけだった。サラは傘の柄を握る手を緩めた。


「……知らないの」

「少なくとも、今のお前に話せるようなものはない」

「それ、知ってるけど言わないって意味?」

「知らんと言った」

「ずるい」

「便利な答えが欲しいなら、師匠のところにでも行け」

「師匠だって、何でも知ってるわけじゃない」

「なら、誰も何でもは知らねえんだろ」


 サラは視線を落とした。


 そうだ。

 誰も教えてくれなかった。


 母が本当はどうなったのか。

 父がなぜ戻ってきて、なぜ帰ってこなかったのか。

 クラリスがどうして何も言わずにいなくなったのか。

 傘次郎が何なのか。


 誰も、全部は答えてくれない。

 だから強くなると決めた。

 迎えに行けるくらい強くなると決めた。


 なのに今日、自分は傘を落としただけで止まった。


「……私は」


 サラは小さく言った。


「行きたいだけなのに」

「どこへ」

「分かんない」

「誰を迎えに」

「……分かんない」

「じゃあ、まずそこからじゃねえのか」

「何で傘に正論言われなきゃいけないの」

「さあな」


 傘次郎の声は相変わらず低く、雑だった。けれど、不思議と冷たくはなかった。優しくもない。慰めでもない。ただ、サラが目を逸らそうとするたびに、柄の先で顎を押し上げるような声だった。


「迎えに行くってのは、走り出すことだけじゃねえ」

「じゃあ何」

「帰る道を守ることだろ」


 サラの胸が、どくんと鳴った。

 森の匂いがよみがえる。


 湿った土。

 燃える牙。

 倒れた父の腕。

 血に濡れた手。

 押し返された傘。


 帰れ。

 サラ。

 君だけは。

 帰れ。


 頭の奥で、壊れた鐘みたいに言葉が鳴った。サラは傘の柄を握る。指先が震えていた。


「……それ、誰かに聞いたの?」

「覚えてないな」

「またそんなこと」

「俺にも分からん。ただ、言ったらお前が嫌な顔をした」

「最悪」

「当たりか」

「最悪」


 サラは額を傘の柄に押しつけた。


 痛い。

 木の硬さが、ちゃんと現実だった。


 傘次郎は喋っている。けれど、何でも教えてくれるわけではない。母のことも、父のことも、正体も、何も分からない。それでも、黙っていた時とは違う。傘次郎は、ただの形見ではなくなった。ただの武器でも、ただの盾でもない。サラを止めたものが、サラに止まるなと言っている。何だそれは。本当に、腹が立つ。


「じゃあ、どうすればいいの」


 サラは聞いた。


「師匠には、考える前に動けって言われた。でも、何をすればいいか分からない。傘が手にない時の自分なんて、考えたことない。考えたら怖い。だって、あんたがなかったら、私には……」

「足がある」


 傘次郎が言った。


「手もある。目も耳もある。息もしてる」

「そんなの当たり前でしょ」

「まずは当たり前のものを数えろ」


 サラは黙った。

 傘次郎は続けた。


「俺が手元にない時、お前は何もなくなるわけじゃねえ。お前から俺がなくなるだけだ」

「それが怖いんじゃん」

「怖くても足は動く」

「動かなかった」

「今日はな」


 サラは顔を上げた。


「明日も動かないとは限らん」


 傘次郎の声が、中庭の空気を低く震わせた。


「落ちたのは試験だ。お前の足じゃねえ」


 胸元の赤い印が、じわりと熱を持った気がした。

 サラはゆっくり息を吸う。


 落ちたのは試験。

 足ではない。


 そんな言い方で、何かが変わるわけではない。

 不合格は不合格だ。

 カルラが下した判定は覆らない。

 大魔道士(ソーサラー)にはなれなかった。


 けれど、ほんの少しだけ、呼吸がしやすくなった。


「……じゃあ」


 サラは傘を見た。


「練習すればいいの」

「かもしれんな」

「そこは言い切ってよ」

「俺は師匠じゃねえ」

「喋る傘のくせに無責任」

「落ちた弟子よりはましだ」

「ほんっと腹立つ!」


 サラは傘を地面に突き立てた。石の隙間に柄の先が軽く触れる。古びた傘は、古い木のそばに斜めに立った。少し不安定だ。風が吹けば倒れそうだった。サラは思わず手を伸ばす。


「離れろ」


 傘次郎が言った。

 手が止まった。


「……何で」

「言ったのはお前だ」

「いきなり?」

「試験もいきなりだったろ」


 サラは伸ばしかけた手を握り込んだ。


 中庭に、サラと傘次郎だけがいる。


 試験官はいない。

 立会人もいない。

 敵もいない。


 ただの練習だ。

 たった数歩、傘から離れるだけ。


 それなのに、胸が苦しい。

 手の中に何もない。

 それだけで、指が落ち着かない。

 視線が勝手に傘へ戻る。


 倒れないか。

 骨が歪んでいないか。

 誰かに触られないか。


 馬鹿みたいだと思った。

 傘だ。

 魔道具だけれど、今は立てかけてあるだけだ。

 敵がいるわけでもない。

 風だって、ほとんど吹いていない。


 それでも、怖い。


「一歩」


 傘次郎が言った。


「まず一歩でいい」


 サラは足元を見た。石床には、小さな葉が一枚落ちている。試験場の石床ほどではないが、中庭の地面にも細かい傷があった。

 訓練の合間、何度もここで座り込んだ。泣けなかった日も、眠れなかった日も、ここには来た。


 サラは右足を後ろへ引いた。

 傘から、半歩離れる。

 胸が痛い。


「一歩だ」

「分かってる」

「半歩で誤魔化すな」

「見えてるの?」

「たぶんな」

「便利な目だね」

「目かどうかも知らん」


 サラは肩に入った力を抜こうとして、うまくいかなかった。


 もう半歩、下がる。

 傘までの距離が、一歩分になる。


 たったそれだけだった。


 けれど、手の中には何もない。

 傘の柄の感触が消えている。

 指先が空を掴む。

 落ち着かない。

 すぐに戻りたい。


「ほら」


 傘次郎が言った。


「死んでない」

「……うるさい」

「倒れてもいない」

「分かってる」

「止まってもいない」


 サラは息を止めた。


 止まっていない。


 そう言われて初めて、自分がまだ立っていることに気づいた。


 一歩だけ。

 でも、動いた。

 サラは傘を見た。


 古びた布。

 少し曲がった骨。

 母が託し、父が押し返し、サラが何年も握ってきたもの。


 そこから一歩離れても、世界は壊れなかった。


 何も解決していない。

 でも、壊れなかった。


「……もう一歩?」


 サラが言うと、傘次郎は少しだけ黙った。


「調子に乗るな」

「何でよ」

「今のお前は、一歩離れただけで偉業を成し遂げた顔をしてる」

「してない!」

「してる」

「目がないくせに!」


 言い返した瞬間、廊下の方から足音が聞こえた。

 サラの肩が跳ねる。


 誰か来る。


 反射的に傘へ駆け寄り、柄を掴んでしまった。

 掴んだ瞬間、安心が胸に広がる。

 それがまた悔しかった。


「戻ったな」


 傘次郎がぼそりと言った。


「人が来たから!」

「理由があると戻るのか」

「今のは違う!」

「何が」

「違うの!」


 小声で言い合いながら、サラは中庭の入口へ目を向けた。足音は一人分ではなかった。軽い靴音と、少し遅れて響く別の足音。学院の廊下を歩く音に混じって、聞き慣れない金具の小さな鳴りがある。

 サラは息を潜める。カルラだろうか。立会人だろうか。それとも、試験結果を聞きつけた誰かが、慰めにでも来たのだろうか。今は誰にも会いたくなかった。胸元にはまだ赤い印が残っている。目元もきっと酷い。傘に向かって喋っていたところを見られたかもしれない。サラは傘を抱き寄せた。


「傘次郎」

「何だ」

「今の声、他の人にも聞こえる?」

「分からん」

「本当に役に立たない」

「分からんもんは分からん」

「じゃあ、黙ってて」

「お前が先に黙れ」

「私は普通に喋れるからいいの」

「普通に傘と喋ってる奴が何を言ってる」


 サラは傘の布を押さえた。そこに口があるわけでもないのに。


「静かにして」


 足音が中庭の入口で止まる。

 光が揺れた。

 朝の光の中に、人影が立つ。


 最初に見えたのは、旅装の裾だった。

 次に、見覚えのある立ち姿。

 背筋が伸びていて、少しだけ偉そうで、けれど昔よりずっと落ち着いた気配。


 サラの胸が、大きく揺れた。


 会いたかった。

 ずっと会いたかった。


 でも、今ではない。

 今の自分を見られたくない。


 赤い印。

 落ちた試験。

 傘に向かって怒鳴っていた声。


 何も言わずにいなくなった相手に、最初に何を言えばいいのかも分からない。

 その人影が、一歩、中庭へ入った。


「……サラ」


 声がした。

 何年も聞いていなかったのに、忘れていない声だった。


 サラの指が、傘の柄を強く握る。

 息が浅くなる。

 怒るべきなのか、泣くべきなのか、背を向けるべきなのか、何も選べない。


 その迷いを見透かしたように、傘次郎が低く言った。


「止まるなよ」


 サラは、胸元の赤い印を見下ろした。それから、顔を上げる。

 中庭の入口で、少女が少しだけ眉を上げる。昔より背が伸びていた。髪も、服も、立ち方も違う。けれど、その目はクラリスのものだった。クラリスはサラの胸元の赤い印を見て、それから傘を見て、最後にサラの顔を見た。数秒だけ、何も言わなかった。そして、昔と同じように、少しすました声で言った。


「出迎えもないなんて、ずいぶん薄情ですわね」

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