第10話 おかえり、クラリス
「出迎えもないなんて、ずいぶん薄情ですわね」
クラリスは、昔と同じような声でそう言った。
声だけは、昔と同じだった。
少し高く澄んだ声。
言葉の端に、どこか偉そうな響きがある。
何年も聞いていなかったのに、忘れていない声だった。
サラは何も言えなかった。
怒るべきなのか、泣くべきなのか、背を向けるべきなのか。
さっきまで、頭の中ではいくつも感情がぶつかっていた。
何も言わずにいなくなった。
どうして今さら。
よりによって、試験に落ちたところなんて見ないで。
けれど、クラリスがそこにいる。
その事実だけが、全部を押し流した。
サラは走り出していた。
傘を握ったまま。
胸元に赤い印を残したまま。
何を言うかも決めないまま。
中庭の入口に立っていたクラリスが、驚いたように目を見開く。
次の瞬間、サラはクラリスに飛びついていた。
旅装の布が腕の中で鳴る。
昔より少し高い位置にある肩。
知らない匂い。
長い道を歩いてきたような、乾いた埃と革の匂い。
その奥に、かすかに残っている懐かしい気配。
クラリスだった。
本当に、クラリスだった。
「……サ、サラ?」
クラリスの声がひっくり返る。
「ちょっと、お待ちなさい。苦しいですわ。あと、その傘、脇腹にめり込んでいます。痛い。痛いですわ」
サラは離れなかった。
離したら、またいなくなる気がした。
そんなことはないと分かっている。
今のクラリスは目の前にいる。
旅装で、背が伸びて、昔より少し落ち着いた顔をして、でも声はクラリスのままだ。
それでも、腕が勝手に力を込める。
「……帰ってきた」
サラは小さく言った。クラリスの身体が、ほんの少しだけ強張った。
「ええ」
返ってきた声は、さっきよりずっと柔らかかった。
「帰ってきましたわ」
その言葉を聞いた瞬間、サラの胸の奥が熱くなった。
帰ってきた。
母は帰ってこなかった。
父も帰ってこなかった。
クラリスも、何も言わずにいなくなった。
でも、今ここにいる。
そのことだけで、どうしようもなく嬉しかった。
「……遅い」
サラはクラリスの肩に顔を伏せたまま言った。
「遅すぎ」
「そうですわね」
「何で、そんな普通に認めるの」
「言い返せませんもの」
クラリスの手が、迷うように宙で止まった。昔のクラリスなら、抱き返すより先に小言を言ったかもしれない。姿勢が悪いとか、人前でみっともないとか、傘が邪魔だとか。でも今のクラリスは、少しだけためらってから、サラの背中に手を置いた。軽く、割れ物に触れるみたいに。それが余計に苦しかった。
「何で」
サラは言った。
「何で、何も言わずに行ったの」
クラリスの手が止まった。
中庭の風が、二人の間を抜ける。
古い木の葉が一枚落ちて、石床を滑った。
「……謝りたかったのです」
クラリスは静かに言った。
「でも、謝ってから行く勇気がありませんでした」
「勇気?」
「ええ。あなたの前に立ったら、あなたに謝ったら、行けなくなると思った。あなたを見たら、フォルスシタデルへ行く理由より、ここに残りたい気持ちの方が大きくなってしまうと思った」
サラはようやく腕を緩めた。でも、完全には離れなかった。クラリスの袖を掴んでいる。子どもの頃みたいに。あのときと違うのは、もう自分も十五歳で、今さらそんなふうに掴むのはみっともないと分かっていることだった。分かっていても、離せなかった。
「……だから、黙って行ったの?」
「はい」
「勝手」
「ええ」
「ずるい」
「そうですわね」
「そこで認めないでよ」
「認めるしかありませんもの」
サラはクラリスの袖を握る手に力を込めた。その勝手を謝ってほしかった。でも、謝られたら許さなければいけない気がして、それも嫌だった。クラリスが帰ってきたことは嬉しい。嬉しいのに、胸の奥にはまだ尖ったものが残っている。
「……それと、手紙」
クラリスが言った。
「戻ることは、手紙で伝えました」
「知らない」
「でしょうね」
「何それ」
「聞きましたわよ。あなた、ここ数日、試験場と訓練場とカルラ様のところ以外に行っていませんでしたでしょう」
サラは言い返せなかった。確かに、行っていない。試験前の数日は、ほとんど訓練場に籠っていた。追い出されたら中庭で傘を握って座っていた。部屋に戻っても、眠れないまま魔法理論のノートを見ていた。郵便受けを見た記憶はない。
「三日前にはフォルシュタットに着いていました」
「三日前?」
「ええ」
「何で会いに来なかったの」
「試験前のあなたに会って、余計なことを言いたくなかったからです」
「余計なことって?」
「たとえば、今みたいなことです」
クラリスはサラの胸元を見た。
黒い試験用外套に浮かぶ赤い印。
サラは反射的に傘を引き寄せた。
隠すように。
見なかったことにしてほしいように。
クラリスは、赤い印を見たまま、何も言わなかった。
それがかえって痛かった。
「……見てたの」
サラが聞くと、クラリスは頷いた。
「最初から、すべて」
「最悪」
「そうですわね。見ているこちらも、なかなか最悪の気分でしたわ」
「そこは慰めるところじゃないの?」
「慰めてほしくって?」
「……別に」
「なら結構ですわね」
あまりにもクラリスだった。
サラは腹が立った。
腹が立ったのに、少しだけ安心した。
傘の内側で、低い声がぼそりと言った。
「面倒な再会だな」
中庭の空気が止まった。
サラは傘を見た。
クラリスも、傘を見た。
数秒、誰も動かなかった。
サラの背中に冷たいものが走る。
聞こえた。
今、絶対に聞こえた。
クラリスはゆっくり瞬きをした。
「……サラ」
「違う」
「まだ何も聞いていませんわ」
「違う」
「今の声は?」
「違う」
「何がですの」
「全部」
サラは傘を胸元に抱え込んだ。
赤い印を隠すように。
声の出どころを隠すように。
何もかもを隠すように。
傘次郎は悪びれた様子もなく黙っている。
最悪だった。
よりによって、クラリスの前で。
「……傘」
クラリスが言った。その声は、昔の軽口ではなかった。フォルスシタデルで何かを学んだ者の声だった。驚きはある。けれど、それ以上に観察している。
「今、傘が喋りましたの?」
「気のせい」
「気のせいにしては、随分はっきり聞こえましたけれど」
「学院のどこかで誰かが喋ったんじゃない?」
「中庭の真ん中で、あなたが抱えている傘の内側から?」
「反響」
「雑ですわ」
サラは返す言葉をなくした。
クラリスは一歩近づきかけて、途中で止まった。
それ以上近づくとサラが下がると分かったのだろう。
「サラ」
「何」
「その傘、以前から喋りましたの?」
「……今日から」
「今日?」
「たぶん」
「たぶん?」
「私にも分かんないの!」
サラの声が中庭に跳ねた。クラリスは少しだけ目を見開いた。けれど、怒りはしなかった。サラは傘を握り直す。
「試験に落ちて、中庭に来て、喋った。私だって分かんない。何なのかも、いつからなのかも、他の人に聞こえるのかも、何も分かんない」
「カルラ様は?」
「知らない」
「報告は」
「してない」
「なぜ」
「今、喋ったばかりだから!」
「それは、そうですわね」
クラリスはあっさり頷いた。その反応が普通すぎて、サラは逆に戸惑った。
「……驚かないの」
「驚いていますわ」
「そうは見えないけど」
「そう見せない訓練をしましたので」
「何それ」
「必要でしたの」
その一言で、サラは何も聞けなくなった。
必要だった。
クラリスが過ごした数年の中に、サラの知らない訓練や失敗や痛みがある。
そう思うと、聞きたいことが多すぎて、どれも口に出せなかった。
クラリスは傘を見つめる。
「あなたは」
クラリスが言った。
「傘次郎、でしたわね」
「勝手に決めるな」
傘次郎が言った。サラは傘の布を押さえた。
「黙っててって言ったでしょ!」
「言われた覚えはない」
「今言った!」
「遅せーよ」
クラリスは、じっと傘を見ていた。そして、信じられないほど真面目な顔で言った。
「……本当に喋っていますわね」
「だから嫌だったの!」
「なぜですの。すごいではありませんか」
「すごいけど! そういう問題じゃない!」
「問題と言えば……問題ですわ。魔道具が自発的な会話をしているなら、普通は大問題です」
「余計に嫌!」
サラは傘を抱えたまま、クラリスから半歩離れた。
さっきまで袖を掴んでいた手が離れていることに、遅れて気づく。
抱きついた。
それから、離れた。
それだけなのに、胸が少し痛かった。
クラリスは、その距離を見ていた。
「サラ」
クラリスの声が少し柔らかくなる。
「まだ、私に怒っていますのね」
「怒ってる」
「でしょうね」
「そんな普通に受け止めないでよ」
「怒られる覚悟くらいはしてきましたもの」
「じゃあ謝ってよ」
クラリスは、まっすぐサラを見た。
「あなたを置いていったことは、私の弱さです」
クラリスは言った。
「言い訳はしません」
サラは、何も言えなかった。
置いていった。
その言葉を、クラリスの口から聞きたかったのかもしれない。
でも、聞いたら聞いたで、苦しかった。
「何も言わずに行って、ごめんなさい」
頭を下げる。ほんの少しではない。きちんと、深く。昔のクラリスなら、こんなふうに頭を下げるまでにもっと時間がかかったはずだ。
「あなたを置いていって、本当にごめんなさい」
サラの胸が痛んだ。
「……置いていったんじゃないって、言わないの」
「言いませんわ」
「何で」
「あなたにとってそうだったのなら、私が違うとは言えませんわ」
サラは黙った。
クラリスは顔を上げる。
「ただ、言わせてください」
「何」
「あのとき、行かなかったら、私はずっとあの日の自分のままだったと思います」
サラは、言葉の続きを待った。
クラリスの声が、少し低くなる。
「何もできなかった自分のまま、あなたの隣に立つのが怖かった」
「……だから、行ったの」
「ええ」
「私を置いて?」
「ええ」
「勝手」
「ええ」
クラリスは逃げなかった。
サラは、それがまた少し悔しかった。
「じゃあ、何をしに行ったの」
「追いつきに」
クラリスは言った。
「次は、追いつけるようになるために」
サラは、その言葉を聞いた瞬間、あの日駆け出したときのことを思い出した。
クラリスが走ってきた音。
待てと叫ぶ声。
サラの肩に触れた手。
それでも何も止められなかった日。
クラリスの中にも、あの日が残っている。
けれど、クラリスは今、「間に合わなかった」とは言わなかった。
サラも、聞かなかった。
その言葉は、まだここで出してはいけない気がした。
「……今度は、追いつくって」
サラは呟いた。
クラリスの目が、わずかに揺れた。
「どうして、それを」
「知らない。今、何となく」
「そうでしたの」
クラリスは少しだけ笑った。その笑みは、泣きそうに見えた。
「本当は、戻ってきたときに、真っ先にそう言うつもりでした」
「言ってない」
「あなたが赤い印をつけて、傘と喧嘩していたので」
「喧嘩してない」
「していましたわ」
「してない!」
「今もしてるだろ」
傘次郎が低く言った。
「黙って!」
「お黙りなさい!」
声が重なった。
サラとクラリスは、同時に傘を睨んだ。
それから、二人とも動きを止めた。
少しだけ、沈黙が落ちる。
次の瞬間、クラリスが小さく吹き出した。
サラも、耐えきれなかった。
笑うつもりなんてなかったのに、変な声が漏れた。
泣き声にも似ていた。
笑い声にも似ていた。
どちらでもなかった。
クラリスは口元を押さえた。
「何ですの、この傘」
「私が聞きたい」
「カルラ様に言った方がいいですわ」
「分かってる」
「でも、今すぐ言いに行く顔ではありませんわね」
「……うん」
サラは胸元の赤い印を見下ろした。
クラリスも、それ以上は言わなかった。
その代わり、彼女は中庭の入口の方を振り返る。
「……エパール」
クラリスが呼ぶと、廊下の向こうで小さな物音がした。
金具の鳴る音。
革鞄の留め具か、工具か。
学院の廊下には不似合いな、細かく硬い音だった。
「あ、はい。えっと、入っても……いいですか?」
おずおずとした声がした。
中庭の入口に、クラリスとは別の少女が顔を出す。
サラやクラリスより少し年上に見えた。髪は作業の邪魔にならないよう後ろでまとめられているが、ところどころ跳ねている。肩から大きな工具鞄を提げ、両手でその紐を握っていた。旅装ではあるが、クラリスのものよりずっと実用寄りで、袖口には細かな焦げ跡がある。
少女はサラを見ると、慌てて頭を下げた。
「は、初めまして。エパールです。あの、クラリス様に連れてきてもらって、その、魔道具の製作とか修繕とか改良とか、そういうのを少し……少しだけ、やってます」
「少し?」
クラリスが横目で見る。エパールは肩を縮めた。
「……わりと、やってます」
「かなり、でしょう」
「かなり、やってます」
クラリスは満足げに頷いた。
「紹介しますわ。エパール。フォルスシタデルで知り合った鍛冶師です」
「鍛冶師……」
サラが呟くと、エパールは慌てて両手を振った。
「あっ、でも、戦う方は全然です。武器を振るとか、前に出るとか、そういうのは本当に無理で。音が大きいとびっくりしますし、魔物とか出たらたぶん隠れます。隠れる場所がなかったら、えっと、泣くかもしれません」
「泣くんだ……」
「はい。たぶん」
エパールは真面目に頷いた。
妙な人だった。
弱気で、おどおどしていて、クラリスの後ろに半分隠れるように立っている。
けれど、工具鞄だけはしっかり抱えている。
クラリスはサラの傘へ視線を向けた。
「彼女を連れてきた理由はいくつかあります。表向きは、魔道具の修繕と改良研究。カルラ様からの招集でした」
「表向き?」
「細かい話は、今ここですることではありませんわ」
「そういう言い方、怪しいんだけど」
「怪しくありません。必要な準備です」
クラリスはそう言って、サラの傘を見る。
「ただ、さっきの試験を見て思いました」
サラの身体が強張る。
クラリスは構わず続けた。
「あなたが止まったのは、傘を落としたからではありません。でも、傘が壊れると思った瞬間に手を離したのも事実でしょう」
サラは何も言えなかった。
図星だった。
風が傘の内側で渦を巻いたとき、骨が折れると思った。
だから力が抜けた。
壊したくなかった。
失いたくなかった。
「なら」
クラリスは言った。
「壊れにくくすればいい」
サラは顔を上げた。
「……傘次郎を?」
「ええ。もちろん、それだけであなたの問題が解決するとは思っていませんわ。あなた自身が動けるようになる必要はあります」
「うん」
「でも、怖さを減らすことはできますわ」
クラリスの声は静かだった。
「大事なものを大事にしたまま、戦えるようにする。そういう方法もあるでしょう」
サラは傘を見た。
傘次郎は何も言わなかった。
古びた布。
少し歪んだ骨。
何度も握った柄。
母が託し、父が押し返し、今は喋るようになった傘。
壊れにくくする。
それは、少し怖い言葉でもあった。
中を見られる。
正体に近づく。
何かが分かってしまうかもしれない。
でも、試験場で骨が軋んだ音を思い出すと、胸が冷えた。
あの音は、もう聞きたくない。
「……傘次郎」
サラは小さく呼んだ。
「嫌?」
「嫌だな」
即答だった。
エパールが顔を上げた。さっきまで不安そうに鞄の紐を握っていた指が、ぴたりと止まる。
「……今」
エパールの声が変わった。
「今、喋りました?」
サラは嫌な予感がした。
「え、えっと」
「喋りましたよね? 傘が。いえ、傘型魔道具が。声帯構造なし。可動部なし。なのに自然応答。しかも否定反応が速い。人格反応? 記録音声? でも文脈に即応してる。魔素振動は? 布? 骨? 柄? どこから出てるんですかその声。外装は古いのに反応が新しい。いや新しいというより、古すぎて分類不能の可能性も」
早口だった。
さっきまでの弱気はどこかへ消えていた。
エパールは工具鞄を開きかける。
中から金属製の細い測定具、小さなレンズ、折り畳み式の工具がちらりと見えた。
「近くで見てもいいですか? 触っていいですか? 開いていいですか? いえ開くって傘として開く方です、分解ではなく。分解はしません。まだ。たぶん。必要ならいつか。あ、でも今じゃないです。今じゃないので逃げないでください」
「逃げるに決まってるだろ!」
傘次郎が言った。
エパールの目が輝いた。
「拒否が自然!」
「喜ぶな!」
「感情表現らしき応答!」
「話を聞け!」
「聞いてます!」
「聞いてねえだろ!」
サラは傘次郎を抱えて後ずさった。
クラリスが静かに言う。
「……エパール」
「ひゃい!」
その一言で、エパールはぴたりと止まった。
「落ち着きなさい」
「はい……」
「サラは試験に落ちた直後です。傘も、今は彼女から無理に取り上げるものではありません」
「あ……」
エパールはようやくサラの胸元の赤い印に気づいた。そして、さっきまでの勢いがしゅんと縮む。
「す、すみません。あの、私、魔道具のことになると、その、ちょっと……」
「ちょっと?」
サラが言うと、クラリスが静かに訂正した。
「かなり、ですわ」
「……かなり、です」
エパールは小さく頷いた。
サラは警戒しながらも、少しだけ力を抜いた。
暴走しているときは危ない。けれど、そうでないときのエパールは、むしろ頼りなさそうなくらいだった。目が合うとすぐ逸らすし、声も小さい。工具鞄を盾みたいに抱えている。クラリスがサラを見る。
「腕は確かです。そこは保証します」
「クラリスが?」
「私と、鍛冶師という称号が」
「じゃあ、たぶん大丈夫……なのかな」
「たぶんでは困りますわね」
「だって、さっき分解って言った」
「い、言ってません!」
エパールが慌てて顔を上げる。
「分解は最後にしますって言いそうになっただけで、言ってません!」
「言いそうにはなったんだ」
「はい……」
「正直だね」
「嘘をつくと、たぶんすぐばれるので」
サラは思わず息を吐いた。悪い人ではなさそうだった。少なくとも、敵意はない。興味はありすぎるくらいある。
「……見てもらうだけなら」
サラは言った。
エパールの顔がぱっと明るくなりかける。
クラリスが咳払いした。
エパールは急いで表情を引き締めた。
「は、はい。見ます。見るだけです。外装確認、骨の歪み、柄の接合部、魔素流の通り方。触るときは許可を取ります。勝手に開きません。勝手に分解しません。勝手に持って走りません」
「……最後の何?」
「念のためです!」
「やろうとしたことあるの?」
「……昔、一回だけ」
クラリスが額に手を当てた。
「エパール」
「今はしません!」
サラは傘を抱え直した。
「傘次郎は?」
「嫌だと言ったが」
「でも、壊れるよりはよくない?」
「雑に扱われるくらいなら壊れた方がましだ」
「壊れないでよ」
「なら雑に扱わせるな」
「丁寧なら?」
「そこじゃねえ……!」
エパールが小さく手を上げた。
「丁寧にします。本当に。たぶん、怖くないようにします。えっと、魔道具さんが怖がるかは分からないですけど、持ち主さんが怖くないように」
その言い方は、さっきの早口とは違っていた。弱気で、少し頼りない。でも、真面目だった。
「私は戦い方は教えられません。たぶん、サラさんの後ろで震えてる側です」
エパールは苦笑する。
「でも、魔道具が壊れる怖さなら少し分かります。大事な道具ほど、壊れるのが怖い。壊したくないから、手が止まることもある」
サラは顔を上げた。
「だから、見せてください。壊さないために。サラさんが、傘を守ることだけで止まらなくて済むように」
その言葉は、カルラとも、傘次郎とも、クラリスとも違った。
エパールはサラを叱っていない。
けれど、甘やかしてもいない。
できることを、できる場所から差し出している。
サラは少しだけ迷ってから、傘を抱える腕を緩めた。完全には離さない。まだ、渡せない。でも、エパールに見えるように、少しだけ前へ出す。
傘次郎が低く言った。
「本当に一歩ずつだな」
「うるさい」
サラは小さく返す。
クラリスがそれを見て、少しだけ笑った。その笑みは、昔よりもずっと静かだった。
「サラ」
「何」
「言いそびれていました」
「何を」
クラリスは一瞬だけ視線を迷わせ、それからサラを見た。
「ただいま、サラ」
中庭に、やわらかな光が差していた。
サラは傘を握ったまま、何も言えなかった。
言いたいことは、まだ多すぎる。
怒っている。
会いたかった。
何で黙って行ったの。
手紙なんて知らない。
帰ってきたなら、もっと早く言って。
試験に落ちたところなんか見ないで。
見ていてくれてよかった。
置いていかないで。
今度は、何も言わずに行かないで。
どれも正しくて、どれも足りなかった。
だからサラは、今選べる一つだけを選んだ。
「……おかえり、クラリス」
声は小さかった。それでも、言えた。
クラリスは一度だけ、目を伏せた。
エパールは空気を読んだのか読んでいないのか、工具鞄を抱えて静かに頷いている。
傘次郎だけが、布の奥でぼそりと言った。
「止まらなかったな」
サラは傘の柄を握り直した。
今度は、睨まなかった。




