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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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11/16

第11話 触れる手

 傘次郎が「止まらなかったな」と言ったあと、中庭には妙な沈黙が落ちた。


 風が古い木の葉を揺らしている。石床の上を、乾いた葉が一枚、音もなく滑っていった。


 さっきまで胸の奥で渦を巻いていたものは、まだ何一つ消えていない。


 クラリスが帰ってきたこと。

 何も言わずに行ったこと。

 試験に落ちたこと。

 傘次郎が喋ったこと。

 エパールという見知らぬ鍛冶師(スミス)が、傘次郎を見たがっていること。


 全部が同じ場所にあった。

 でも、サラは立っていた。

 クラリスに「おかえり」と言ったあとも、倒れたり、泣き出したり、逃げ出したりはしていない。


 それが少しだけ、不思議だった。


「……止まらなかったって」


 サラは傘の柄を握ったまま、小さく言った。


「クラリスに返しただろ」


 傘の内側から、低い声が返る。


「……おかえりって言ったこと?」

「他に何がある」

「分かってるけど」

「分かってるなら聞くな」


 いつもの調子だった。

 サラは傘を睨みかけて、途中でやめた。

 睨まなかった。

 さっきも、最後は睨まなかった。

 それだけのことなのに、傘次郎が少し黙った気がした。


「あの」


 おずおずとした声が、横から挟まる。

 エパールだった。工具鞄を両手で抱え直し、半歩だけこちらへ近づいている。近づきたい気持ちと、近づいてはいけない気持ちが、両足で喧嘩しているような立ち方だった。


「えっと、今の流れで大変申し上げにくいんですけど」


 サラは反射的に傘を抱え直した。強く握ったつもりはなかった。けれど、指先が柄に食い込む。


「……傘次郎のこと?」

「はい。あの、無理にではなくて。今すぐ全部見るとか、そういうことではなくて」


 エパールは慌てて両手を振った。


「本当に、見るだけです。触るのも、サラさんが嫌ならしません。開きません。分解しません。持って走りません」

「最後のは、言わないと駄目なの?」


 サラが聞くと、エパールは少しだけ目を泳がせた。


「信用を得るために必要かと……」

「逆効果だと思いますわ」


 クラリスが静かに言った。エパールはしゅんと肩を落とす。


「……では、省きます」

「省くな」


 傘次郎が言った。エパールの目が、ほんの少しだけ輝く。


「反応が早い……」

「喜ぶな」

「すみません」

「謝りながら見るな」

「すみません、目が勝手に」

「その目をどうにかしろ」

「努力します」

「努力じゃなくて今やめろ!」


 傘次郎の声が一段上がった。

 サラは思わず傘を胸元へ引き寄せた。傘次郎を守るためなのか、傘次郎が騒ぐのを隠すためなのか、自分でも分からなかった。

 クラリスが静かに息を吐く。


「エパール」

「はい」

「手帳」

「はいっ」


 その一言で、エパールは工具鞄をごそごそと探り、革表紙の小さな手帳を取り出した。表紙には、丸い字で「暴走防止」と書かれている。その下に、別の筆跡で「必ず見ること」と追記されていた。サラは思わずクラリスを見た。


「……何、それ」

「エパールが魔道具を前にすると手順を飛ばすので、フォルスシタデルで作らせました」

「作らせたんだ」

「必要でしたから」


 クラリスは涼しい顔で言った。エパールは手帳を胸の前で開き、少しだけ赤くなりながら咳払いする。


「えっと、第一項。興奮したら、まず呼吸」


 エパールは一度、息を吸った。吐いた。


「第二項。対象物より先に持ち主を見る」


 エパールはサラを見た。


「あの、大丈夫ですか?」

「……大丈夫かは分かんないかも」


 サラは正直に言った。エパールは頷いた。


「分かりました。では、第三項。今ここですることと、しないことを分ける」

「いい手帳ですわ」


 クラリスが満足げに言う。


「自画自賛じゃない?」

「必要な自賛ですわ」


 エパールは手帳を見ながら、ゆっくり続けた。


「今ここですることは、外装確認だけです。布、骨、露先、柄、接合部。触れる場合はその都度確認を取ります。魔素流の簡易観察は、外から見える範囲だけ。中は見ません。開きません。分解しません」


 エパールは言葉を切って、サラを見た。


「サラさんが、少しでも嫌だと思ったら止めます」


 サラは返事をしなかった。

 傘の柄を握る指に、力が入る。

 古びた木の感触。

 手のひらに馴染みすぎた形。

 何度も握ってきた。

 雨の日も、訓練のあとも、眠れない夜も、試験場でも、中庭でも。

 これを誰かに触らせる。

 それだけのことが、喉の奥を詰まらせる。


「今ここではしないことは——」


 エパールは続けた。手帳から顔を上げず、でも声はさっきより落ち着いている。


「内部確認、魔石相当部位の有無確認、魔術回路への干渉、補強材の仮当て、分解、分解に近い観察、分解ではないと言い張る分解です」

「最後のは……?」


 サラが聞くと、エパールは目を逸らした。


「……職人界隈で、たまにあります」

「あるんだ」

「ありますわね」


 クラリスが遠い目をした。


「何でクラリスが知ってるの」

「フォルスシタデルには、いろいろな方がいらっしゃいましたので」

「いろいろって何」

「今ここでする話ではありませんわ」


 またそれだった。サラは少しだけむっとした。けれど、今のクラリスが何でも隠しているとは思わなかった。言わないのではなく、言う順番を選んでいる。そう感じる。それが昔との違いなのかもしれない。


 エパールは手帳へ再び目線を戻す。


「カルラ様へ報告してからすることは、本格検査です。作業台、固定具、魔素流測定具、補強材の候補確認。あと、傘次郎さん本人……本人でいいんでしょうか。本人の同意確認」

「俺を数に入れるな」

「はい、入れます」

「聞け」

「聞いたうえで入れます」

「こいつ嫌いだ」


 傘次郎が低く言った。エパールは少し傷ついた顔をした。


「嫌われました……」

「今さらですわ」

「クラリス様……」

「でも、嫌われても勝手に触らないなら、まだ挽回の余地はあります」

「ありますかっ?」

「たぶん」

「たぶんでは困りますっ」

「それはあなたの台詞ではありませんわ」


 二人のやり取りを聞きながら、サラは少しだけ息を吐いた。

 エパールは怖い。

 傘次郎を見つめる目は怖い。

 さっきの早口も怖い。

 分解という単語が出るたびに、胸の奥がきゅっと縮む。

 でも、怖いだけではない。

 この人は、止まる。

 クラリスに止められたら止まった。

 手帳を開いたら、手順を見ようとした。

 サラが固まれば待った。

 傘次郎が嫌がれば、少なくとも聞いてはいる。

 聞いているのか怪しいときもあるけれど、まったく聞いていないわけではない。

 そこが、少しだけ、分かってきた。


「……カルラおばさんには」


 サラは言いかけて、口を閉じた。

 その呼び方は昔のままだった。

 十五歳にもなって、試験に落ちた直後に、師匠をそんなふうに呼ぶのは子どもっぽい。

 分かっている。

 でも、サラの中では、カルラはずっとカルラおばさんでもある。


 クラリスは何も言わなかった。

 エパールも何も言わなかった。

 傘次郎だけが言った。


「今さらだろ」

「うるさいなぁ」

「呼び方で止まるな」

「止まってない」

「止まりかけただろ」


 サラは傘を揺らした。


「揺らすな」

「揺らされるようなこと言わないで」

「事実だ」

「事実でも言い方ってものがあるでしょ」

「ねえよ」

「ありますわ」


 クラリスが即座に言った。

 サラと傘次郎が、同時に黙る。

 クラリスはごく真面目な顔をしていた。


「言い方はあります。相手が受け取れる形にすることも、言葉の役目ですわ」

「……クラリスがそれ言うの」


 サラが言うと、クラリスはわずかに目を伏せた。


「だからこそ、です」


 短い言葉だった。

 それ以上は続かなかった。

 続けたら、何かが開いてしまう。


 サラにもそれが分かった。

 クラリスは顔を上げる。


「カルラ様には、報告すべきです」

「分かってる」

「でも、今すぐ行く顔ではない。そう言いましたわね」

「うん」

「なら、順番を決めましょう」

「順番?」

「ええ。まず、エパールがここで外から見られる範囲だけ確認する。危険があれば、すぐカルラ様へ。危険がない、または今すぐ悪化するものではないなら、あなたが少し落ち着いてから、私たち全員で報告に行く」

「全員で?」

「もちろんですわ。私も聞きました。エパールも聞きました。サラだけに背負わせるものではありません」


 サラはクラリスを見た。

 クラリスはまっすぐ見返してきた。

 逃げなかった。

 言い訳もしなかった。

 さっきと同じだった。

 サラだけに背負わせるものではない。

 その言葉が、胸の奥で少しだけ引っかかった。

 何年も前、クラリスは何も言わずに行った。

 サラは置いていかれた。

 けれど今、クラリスは横にいる。

 サラの代わりに持つのではなく、サラだけに持たせないと言っている。

 それを信じていいのかは、まだ分からない。

 でも、聞こえなかったふりはできなかった。


「……じゃあ」


 サラは傘次郎を抱える腕を緩めた。ほんの少し。エパールが息を止めたのが分かった。


「見るだけ、なら」

「はい」

「触るときは、先に言ってね」

「はい」

「私が駄目って言ったら、止めてよ」

「はい」

「分解は?」

「しません」

「本当に?」

「本当に、しません」


 エパールの返事は、今度は早口ではなかった。サラはそれを聞いて、少しだけ頷く。


「……お願い、します」


 エパールが、ゆっくり頷いた。


「はい。お願いします」


 彼女は工具鞄を石床に置いた。金具が小さく鳴る。

 サラの肩がわずかに跳ねる。

 エパールはそれに気づいたのか、すぐに鞄から手を離した。


「大きな音、苦手ですか?」

「……今は、少し」


 サラは小さく答えた。

 言ってから、自分で驚いた。

 別に、と言うつもりだった。

 平気だと言うつもりだった。

 でも、言葉は違う形で出た。


 エパールは頷いた。


「分かりました。静かに開けます」


 それ以上は聞かなかった。かわりに、鞄を開けるときは金具を指で押さえ、音が鳴らないようにした。中から取り出したのは、細い測定具ではなく、柔らかそうな白い布と、薄い革手袋だった。


「道具、使わないの?」


 サラが聞くと、エパールは手袋をはめながら答える。


「最初は使いません。持ち主さんが怖がっているときに、いきなり金属を当てると、怖さが増えるので」


 その言葉に、サラは返事を失った。

 怖い。

 そう言われると、反射的に否定したくなる。

 怖くない。

 別に平気。

 子どもじゃない。

 そう言いたくなる。

 でも、怖いのは本当だった。

 傘次郎が壊れるのが怖い。

 見られるのが怖い。

 何か分かってしまうのが怖い。

 分からないままなのも怖い。

 エパールは、その全部を聞いていない。

 知らないはずなのに、手つきだけはサラの怖さを刺激しないようにゆっくりだった。


「まず、布の状態を見ます」


 エパールはサラの顔を見る。


「触ってもいいですか?」


 サラは傘を抱えたまま固まった。

 触ってもいいか。

 ただそれだけの言葉が、胸に重かった。

 つい先ほど、古い木のそばに傘次郎を立てて、一歩だけ離れた。

 あのときも、足元の石床が遠く感じた。

 でも、あれは傘次郎をそこに立てかけたまま、自分が離れただけだった。

 今は違う。

 誰かの手が、傘次郎に触れる。

 サラ以外の手が。

 母が託した傘に。

 父が最後に押し返した傘に。

 ずっと握ってきた傘に。


「嫌なら、やめます」


 エパールが言った。

 その声は、本当に小さかった。


 サラはクラリスを見た。

 クラリスは何も言わない。

 代わりに、少しだけ頷いた。

 行け、とも、やめろ、とも言わない。

 ただ、ここにいると示す頷きだった。

 傘次郎は黙っている。

 珍しく、何も言わなかった。

 サラは唇を噛み、それから、小さく言った。


「……大丈夫、です」


 エパールはすぐには触れなかった。


「布の端だけ、触ります」

「うん」

「強く押しません」

「うん」

「変だと思ったら、すぐ言ってください」

「分かった」

「傘次郎さんも」

「俺に同意を求めるな」

「嫌なら言ってください」

「嫌だ」

「分かりました。嫌だということは記録します」

「やめるとは言わねえのか」

「サラさんの許可が優先です」

「こいつ嫌いだ」

「二回目です……」


 エパールは少し落ち込んだ顔をした。

 けれど、手は止まっている。

 サラの許可の先へ、勝手には進まない。

 それが分かったから、サラはもう一度小さく頷いた。


「……大丈夫」


 エパールの指先が、傘の布の端に触れる。

 サラの手に力が入った。


 世界は壊れなかった。

 傘次郎は叫ばなかった。

 布は裂けなかった。

 骨は折れなかった。

 エパールは持って走らなかった。


 ただ、白い手袋の指先が、古びた布の縁をそっとなぞっただけだった。


「……古い」


 エパールが呟いた。サラの肩が強張る。


「悪い意味ではないです」


 エパールはすぐに言い直した。


「年数が経っている、という意味です。でも、傷み方が変です。普通なら、ここまで使い込まれていると、布目がもっと痩せます。陽や雨で繊維が弱って、端から崩れる。でも、これは表面だけ古い。芯が残りすぎている」

「芯?」

「布の奥の強さです。外側は古いのに、内側が生きているような……あっ」


 エパールはそこで口を閉じた。

 サラは息を止めた。


 生きている。


 その言葉は、あまりにも近かった。


 傘次郎は喋る。

 反応する。

 文句を言う。

 自分の正体を知らないと言う。


 だから、生きていると言われても、今さらのような気もする。

 けれど、魔道具としてそう言われると、別の怖さがあった。


「比喩です」


 エパールは慎重に言った。


「今のは、比喩です。断定ではありません。すみません、言い方が悪かったです」

「……うん」


 サラは頷いた。

 クラリスが静かにエパールを見る。


「今のように、断定しないこと」

「はい」

「分からないことは、分からないまま置くこと」

「はい」

「サラの前で、面白がりすぎないこと」

「はい……」


 エパールは小さくなった。


「ごめんなさい。面白いとは、思っています。でも、面白いだけではないです」


 サラはエパールを見た。エパールは傘次郎から目を離さないまま、続ける。


「これは、魔道具としては変です。でも、それより先に、大事に使われてきたものです。そこを間違えたら、見えるものも見えなくなりますから」


 さっきまでの早口ではなかった。弱気で、少し頼りない。けれど、道具を見る目だけはまっすぐだった。サラは、傘の柄を握る手を少しだけ緩めた。


「次、骨を見ます」


 エパールが言う。


「触ってもいいですか?」

「……どこ?」

「ここです。一本目、と呼びましょうか。試験で風圧を受けたときに、たぶんここへ負荷が集中しています」

「分かるの?」

「歪み方で、少し。完全には分かりません。ここで断定するとクラリス様に怒られます」

「よく分かっていますわ」


 クラリスが頷いた。エパールは傘の骨に触れた。


「……うん。やっぱり、少し歪んでます。でも折れてはいません。補強するなら、外側に重い材を足すより、接合部の逃げを作る方がいいかもしれません」

「逃げ?」

「力が入ったときに、全部を受け止めるのではなく、逃がす場所です。硬くするだけだと、次は別のところが折れます」


 サラはその言葉を聞いて、少しだけ眉を寄せた。


 硬くするだけだと、別のところが折れる。

 それは傘の話だった。

 でも、傘だけの話ではない気がした。


「……壊れにくくするって、硬くすることじゃないの?」

「違う場合が多いです」


 エパールは少しだけ考えながら言った。


「大事なのは、受け止めるところと、逃がすところを間違えないことです。全部を受け止めようとすると、壊れます。全部を逃がすと、守れません。その間を作ります」


 サラは黙った。

 クラリスも、黙っていた。

 傘次郎も、珍しく口を挟まなかった。


 受け止めるところと、逃がすところ。


 サラは今まで、全部を傘次郎で受け止めようとしていたのかもしれない。

 母が帰ってこないことも。

 父が帰ってこなかったことも。

 クラリスが何も言わずに行ったことも。

 自分が試験に落ちたことも。

 迎えに行きたい気持ちも、帰る道が分からない怖さも。

 全部、傘を握る手の中へ押し込んできた。

 だから、傘が手元になくなった瞬間、自分までなくなったように感じた。


「……サラ?」


 クラリスの声で、サラははっとした。


「何でもない」

「そうは見えませんけれど」

「……今は、何でもないことにして」


 言ってから、サラは少しだけ顔を伏せた。クラリスが黙る。押してこなかった。聞き出そうともしなかった。


「分かりましたわ」


 ただ、それだけ言った。その距離が、少しだけありがたかった。


 エパールは、骨から手を離した。


「今のところ、すぐ壊れる感じではありません。けど、試験と同じ負荷が何度も来たら危ないです。特に内側から風を受ける形は苦手だと思います」

「……そうだね」


 サラは小さく言った。


 あのときの感覚が、腕に戻る。

 傘の内側で風が渦を巻き、骨が軋み、柄が手の中で暴れた。

 守ろうとした。

 壊したくなかった。

 だから力が抜けた。

 その後、何もできなかった。


「知ってるなら、次は少しだけ準備できます」


 エパールが言った。サラは顔を上げる。


「準備?」

「はい。壊れにくくすることも準備です。でも、それだけじゃなくて、壊れそうになったときにどうするかを決めておくのも準備です」

「……どうするか」

「傘の角度を変えるのか、畳むのか、あえて開くのか、距離を取るのか、手を離して拾い直すのか。吸魔を狙うのか、盾として使うのか。私は戦えないので、戦い方は分かりません。でも、道具が壊れるときの形なら少し分かります」


 エパールはそこで、少しだけ困ったように笑った。


「だから、サラさんが止まらないための選択肢を、道具側から増やすことはできます」


 選択肢。

 カルラも言った。

 傘次郎も言った。

 拾いに走る。

 距離を取る。

 間合いを外す。

 次を選ぶ。

 今、エパールは別の角度から同じことを言っている。

 傘を壊れにくくする。

 壊れそうなときの動きを決める。

 怖さを減らす。

 それは、サラを強くすることではないのかもしれない。

 でも、止まらないための支えにはなる。


「……次は、柄を見ます」


 エパールが言った。

 サラの手が、柄を握り直す。

 ここだけは、ほとんど自分の手の一部みたいな場所だった。

 布や骨よりも、ずっと近い。

 何度も握った。

 眠るときにも握った。

 試験場で離した瞬間、心臓が落ちたように感じた場所。


 エパールはすぐに気づいた。


「嫌なら、ここは後にします」


 サラは返事ができない。

 エパールは待っている。

 クラリスも待っている。

 傘次郎も、黙っている。

 サラは自分の手を見た。

 指が白くなるほど、柄を握っている。

 これでは、エパールは触れない。

 触ってもいいと言ったのは、自分だ。

 でも、本当に触らせるとなると、手が勝手に拒む。


 傘次郎が低く言った。


「無理なら無理でいい」


 サラは瞬きをした。


「……何それ」

「聞こえなかったか」

「聞こえたけど」

「なら聞き返すな」

「傘次郎がそういうこと言うの、変」

「俺を何だと思ってんだ」

「口の悪い傘」

「間違ってねえな」


 サラは少しだけ笑った。

 それから、ゆっくり息を吸った。

 無理なら無理でいい。

 それは甘やかしではなかった。

 逃げ道でもなかった。

 無理なら、今はそこまで。

 でも、無理かどうかを決めるのは、自分。

 サラは指を一本ずつ緩めた。

 完全には離さない。

 柄の下の方は握ったまま。

 でも、上の方を少しだけ空ける。


「……ここなら」


 エパールの目が丸くなった。クラリスの表情が、ほんの少し柔らかくなる。


「ここだけなら、いいです」

「はい」


 エパールは短く答えた。

 今度は、余計なことを言わなかった。


 白い手袋の指が、サラの手のすぐ上に触れる。

 柄の古い木目を、そっと確かめる。

 サラの指とは違う温度。

 違う動き。

 けれど乱暴ではない。

 サラは息を止めた。

 少しして、息を吐いた。


 世界は壊れなかった。


「……接合部に負荷があります」


 エパールは静かに言った。


「でも、今すぐ危険というほどではありません。むしろ、ここまで使っていてこの程度で済んでいるのが変です。普通ならもっと緩みます」

「変ばっかり」


 サラが言うと、エパールは困ったように眉を下げた。


「はい。変です」

「そこは否定しないんだね」

「嘘をつくと、たぶんすぐばれるので」

「さっきも言ってた、それ」

「はい。よくばれます」


 クラリスが横で静かに頷いた。


「本当に、すぐばれますわ」

「クラリス様……」

「なので、エパールは嘘をつかせない方が有用です」

「言い方」


 サラは思わず言った。

 エパールは少しだけ肩を縮めたが、嫌そうではなかった。

 たぶん、こういうやり取りに慣れているのだろう。


 クラリスとエパールの間には、サラの知らない時間がある。

 それを思うと、胸の奥が少し痛む。

 でも、さっきほど鋭くはなかった。


 知らない時間がある。

 それでも、クラリスは帰ってきた。

 それを何度も確かめるように、サラはクラリスを見た。


「何ですの」

「別に」

「別にという顔ではありませんわ」

「……見ただけ」

「そうですの」


 クラリスは少しだけ笑った。追及はしなかった。


 エパールが柄から手を離す。


「外から見える範囲は、ここまでです」


 サラは思わず聞いた。


「もう?」

「はい。約束なので」

「……もっと見るのかと思った」

「見たいです」


 エパールは即答した。傘次郎が低く唸る。


「ですが、今は見ません」


 エパールは言い直した。


「中は見ません。魔素流も、今の簡易確認だけです。これ以上は、カルラ様へ報告してからの方がいいです。サラさんも、その方がいいと思います」

「私が?」

「はい」

「え、何で」

「今、すごく頑張っている顔なので」


 サラは口を閉じた。

 反射的に否定しようとした。


 頑張ってない。

 これくらい平気。

 見せるだけならできる。

 触らせた。

 まだ大丈夫。


 でも、言葉にならなかった。

 エパールは手袋を外し、きちんと畳んだ。


「今日は、傘次郎さんを壊さないための確認でもありました。でも、それ以上に、サラさんが怖くない範囲を探す確認だったと思います」

「……怖くない範囲」

「はい。さっきより少し分かりました」

「何が?」

「どこまでなら進めるかです」


 エパールは工具鞄に布と手袋をしまう。


「見せてもらえました。布に触らせてもらえました。骨も、柄も、少しだけ見せてもらえました。今日は、そこまでです」

「それだけでいいの?」

「それだけ、ではないです」


 エパールは首を振った。


「これは、かなり大事です」


 サラは返事をしなかった。


 かなり大事。


 そう言われても、自分がしたことは、小さすぎる気がした。

 傘次郎を渡したわけではない。

 作業台に置いたわけでもない。

 エパールに預けたわけでもない。

 ただ、持ったまま、触らせただけ。

 それだけ。


「本当に一歩ずつですわね」


 クラリスが言った。その声はからかいではなかった。

 サラは傘次郎を見る。


「……また言われた」

「俺は言ってねえ」

「言いそうだった」

「言おうとはしたな」

「ほら」

「先に言われたんでな」

「悔しいの?」

「んなこたぁねえよ」

「何かありそうですわね」


 クラリスがすかさず言った。

 傘次郎が黙る。


 サラは今度こそ、少し笑った。

 笑ってから、自分で驚いた。


 笑えるのか。


 試験に落ちた直後で、胸元には赤い印が残っていて、クラリスは帰ってきて、傘次郎は喋って、エパールに触らせて、まだ何一つ解決していないのに。

 それでも、笑い声は出た。

 小さくて、すぐ消えたけれど。


「……カルラ様に報告しましょう」


 クラリスが言った。

 サラの胸が、また少し重くなる。


 カルラに会う。

 試験場で不合格を告げられてから、まだまともに顔を合わせていない。

 いや、さっき会ったばかりだ。

 カルラの声も、言葉も、まだ耳に残っている。

 大魔道士(ソーサラー)とは、強い魔道具を持つ者ではない。

 想定していた手段が折れたとき、それでも次を選べる者の称号だ。

 その言葉が痛い。

 今カルラに会えば、また自分の弱さを見られる気がした。

 傘次郎が喋ったことも、エパールに触らせるのが怖かったことも、クラリスに抱きついたことも、全部見透かされる気がした。


「……今から?」

「ええ」


 クラリスは短く答えた。


「魔道具が自発的に会話した。しかも他者にも聞こえた。エパールが言う通り、これは大問題です」

「うん」

「それに、カルラ様はあなたの師匠です」

「うん」

「隠して後で知られる方が、よほど面倒ですわ」

「それは、そう」

「そして何より」


 クラリスは少しだけ声を柔らかくした。


「あなた一人で報告する必要はありません」


 サラは顔を上げる。


「私も行きます。エパールも行きます。傘次郎も当然行きます」

「俺を巻き込むな」

「中心人物でしょう」

「傘だ」

「なら中心傘ですわ」

「変な言葉を作るな」


 エパールが小さく手を上げた。


「あの、私も行った方がいいと思います。カルラ様に招集された身でもありますし、今見た範囲のことは報告できます。断定しない範囲で」

「断定しない範囲で」


 クラリスが念押しする。


「はい。断定しない範囲で」


 サラは傘を抱え直した。

 完全には離さない。

 まだ渡せない。

 でも、さっきエパールは触れた。

 サラは逃げなかった。

 それは消えない。


「……分かった」


 サラは言った。


「行く」

「ええ」


 クラリスが頷く。エパールが工具鞄を持ち上げる。そのとき、金具が鳴りそうになったが、彼女は慌てて手で押さえた。小さな音だけが鳴った。


「すみません」

「……もう大丈夫だから」


 サラは言った。

 エパールは、少しだけ安心したように頷いた。


 中庭の入口へ向かって、クラリスが先に歩き出す。

 昔なら、サラの手を引いたかもしれない。

 今は引かない。

 ただ、数歩先で立ち止まり、待つ。

 エパールはその後ろを少しおどおどしながらついていく。


「……行くよ」


 サラは傘次郎に言った。


「誰に言ってんだ」

「傘次郎」

「持ってんだろ」

「だから言ってるの」

「意味が分からん」

「分からなくていい」


 サラは一歩踏み出した。


 胸元の赤い印はまだ消えていない。

 クラリスへの怒りも、まだ消えていない。

 傘次郎を手放す怖さも、消えていない。


 でも、足は動いた。

 廊下へ入る直前、傘次郎がぼそりと言った。


「一歩目だな」

「……何が」

「触らせた。止まらなかった。なら、次がある」


 サラは立ち止まりかけた。

 けれど、止まらなかった。


「うるさい」


 そう返して、歩き続けた。

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