第11話 触れる手
傘次郎が「止まらなかったな」と言ったあと、中庭には妙な沈黙が落ちた。
風が古い木の葉を揺らしている。石床の上を、乾いた葉が一枚、音もなく滑っていった。
さっきまで胸の奥で渦を巻いていたものは、まだ何一つ消えていない。
クラリスが帰ってきたこと。
何も言わずに行ったこと。
試験に落ちたこと。
傘次郎が喋ったこと。
エパールという見知らぬ鍛冶師が、傘次郎を見たがっていること。
全部が同じ場所にあった。
でも、サラは立っていた。
クラリスに「おかえり」と言ったあとも、倒れたり、泣き出したり、逃げ出したりはしていない。
それが少しだけ、不思議だった。
「……止まらなかったって」
サラは傘の柄を握ったまま、小さく言った。
「クラリスに返しただろ」
傘の内側から、低い声が返る。
「……おかえりって言ったこと?」
「他に何がある」
「分かってるけど」
「分かってるなら聞くな」
いつもの調子だった。
サラは傘を睨みかけて、途中でやめた。
睨まなかった。
さっきも、最後は睨まなかった。
それだけのことなのに、傘次郎が少し黙った気がした。
「あの」
おずおずとした声が、横から挟まる。
エパールだった。工具鞄を両手で抱え直し、半歩だけこちらへ近づいている。近づきたい気持ちと、近づいてはいけない気持ちが、両足で喧嘩しているような立ち方だった。
「えっと、今の流れで大変申し上げにくいんですけど」
サラは反射的に傘を抱え直した。強く握ったつもりはなかった。けれど、指先が柄に食い込む。
「……傘次郎のこと?」
「はい。あの、無理にではなくて。今すぐ全部見るとか、そういうことではなくて」
エパールは慌てて両手を振った。
「本当に、見るだけです。触るのも、サラさんが嫌ならしません。開きません。分解しません。持って走りません」
「最後のは、言わないと駄目なの?」
サラが聞くと、エパールは少しだけ目を泳がせた。
「信用を得るために必要かと……」
「逆効果だと思いますわ」
クラリスが静かに言った。エパールはしゅんと肩を落とす。
「……では、省きます」
「省くな」
傘次郎が言った。エパールの目が、ほんの少しだけ輝く。
「反応が早い……」
「喜ぶな」
「すみません」
「謝りながら見るな」
「すみません、目が勝手に」
「その目をどうにかしろ」
「努力します」
「努力じゃなくて今やめろ!」
傘次郎の声が一段上がった。
サラは思わず傘を胸元へ引き寄せた。傘次郎を守るためなのか、傘次郎が騒ぐのを隠すためなのか、自分でも分からなかった。
クラリスが静かに息を吐く。
「エパール」
「はい」
「手帳」
「はいっ」
その一言で、エパールは工具鞄をごそごそと探り、革表紙の小さな手帳を取り出した。表紙には、丸い字で「暴走防止」と書かれている。その下に、別の筆跡で「必ず見ること」と追記されていた。サラは思わずクラリスを見た。
「……何、それ」
「エパールが魔道具を前にすると手順を飛ばすので、フォルスシタデルで作らせました」
「作らせたんだ」
「必要でしたから」
クラリスは涼しい顔で言った。エパールは手帳を胸の前で開き、少しだけ赤くなりながら咳払いする。
「えっと、第一項。興奮したら、まず呼吸」
エパールは一度、息を吸った。吐いた。
「第二項。対象物より先に持ち主を見る」
エパールはサラを見た。
「あの、大丈夫ですか?」
「……大丈夫かは分かんないかも」
サラは正直に言った。エパールは頷いた。
「分かりました。では、第三項。今ここですることと、しないことを分ける」
「いい手帳ですわ」
クラリスが満足げに言う。
「自画自賛じゃない?」
「必要な自賛ですわ」
エパールは手帳を見ながら、ゆっくり続けた。
「今ここですることは、外装確認だけです。布、骨、露先、柄、接合部。触れる場合はその都度確認を取ります。魔素流の簡易観察は、外から見える範囲だけ。中は見ません。開きません。分解しません」
エパールは言葉を切って、サラを見た。
「サラさんが、少しでも嫌だと思ったら止めます」
サラは返事をしなかった。
傘の柄を握る指に、力が入る。
古びた木の感触。
手のひらに馴染みすぎた形。
何度も握ってきた。
雨の日も、訓練のあとも、眠れない夜も、試験場でも、中庭でも。
これを誰かに触らせる。
それだけのことが、喉の奥を詰まらせる。
「今ここではしないことは——」
エパールは続けた。手帳から顔を上げず、でも声はさっきより落ち着いている。
「内部確認、魔石相当部位の有無確認、魔術回路への干渉、補強材の仮当て、分解、分解に近い観察、分解ではないと言い張る分解です」
「最後のは……?」
サラが聞くと、エパールは目を逸らした。
「……職人界隈で、たまにあります」
「あるんだ」
「ありますわね」
クラリスが遠い目をした。
「何でクラリスが知ってるの」
「フォルスシタデルには、いろいろな方がいらっしゃいましたので」
「いろいろって何」
「今ここでする話ではありませんわ」
またそれだった。サラは少しだけむっとした。けれど、今のクラリスが何でも隠しているとは思わなかった。言わないのではなく、言う順番を選んでいる。そう感じる。それが昔との違いなのかもしれない。
エパールは手帳へ再び目線を戻す。
「カルラ様へ報告してからすることは、本格検査です。作業台、固定具、魔素流測定具、補強材の候補確認。あと、傘次郎さん本人……本人でいいんでしょうか。本人の同意確認」
「俺を数に入れるな」
「はい、入れます」
「聞け」
「聞いたうえで入れます」
「こいつ嫌いだ」
傘次郎が低く言った。エパールは少し傷ついた顔をした。
「嫌われました……」
「今さらですわ」
「クラリス様……」
「でも、嫌われても勝手に触らないなら、まだ挽回の余地はあります」
「ありますかっ?」
「たぶん」
「たぶんでは困りますっ」
「それはあなたの台詞ではありませんわ」
二人のやり取りを聞きながら、サラは少しだけ息を吐いた。
エパールは怖い。
傘次郎を見つめる目は怖い。
さっきの早口も怖い。
分解という単語が出るたびに、胸の奥がきゅっと縮む。
でも、怖いだけではない。
この人は、止まる。
クラリスに止められたら止まった。
手帳を開いたら、手順を見ようとした。
サラが固まれば待った。
傘次郎が嫌がれば、少なくとも聞いてはいる。
聞いているのか怪しいときもあるけれど、まったく聞いていないわけではない。
そこが、少しだけ、分かってきた。
「……カルラおばさんには」
サラは言いかけて、口を閉じた。
その呼び方は昔のままだった。
十五歳にもなって、試験に落ちた直後に、師匠をそんなふうに呼ぶのは子どもっぽい。
分かっている。
でも、サラの中では、カルラはずっとカルラおばさんでもある。
クラリスは何も言わなかった。
エパールも何も言わなかった。
傘次郎だけが言った。
「今さらだろ」
「うるさいなぁ」
「呼び方で止まるな」
「止まってない」
「止まりかけただろ」
サラは傘を揺らした。
「揺らすな」
「揺らされるようなこと言わないで」
「事実だ」
「事実でも言い方ってものがあるでしょ」
「ねえよ」
「ありますわ」
クラリスが即座に言った。
サラと傘次郎が、同時に黙る。
クラリスはごく真面目な顔をしていた。
「言い方はあります。相手が受け取れる形にすることも、言葉の役目ですわ」
「……クラリスがそれ言うの」
サラが言うと、クラリスはわずかに目を伏せた。
「だからこそ、です」
短い言葉だった。
それ以上は続かなかった。
続けたら、何かが開いてしまう。
サラにもそれが分かった。
クラリスは顔を上げる。
「カルラ様には、報告すべきです」
「分かってる」
「でも、今すぐ行く顔ではない。そう言いましたわね」
「うん」
「なら、順番を決めましょう」
「順番?」
「ええ。まず、エパールがここで外から見られる範囲だけ確認する。危険があれば、すぐカルラ様へ。危険がない、または今すぐ悪化するものではないなら、あなたが少し落ち着いてから、私たち全員で報告に行く」
「全員で?」
「もちろんですわ。私も聞きました。エパールも聞きました。サラだけに背負わせるものではありません」
サラはクラリスを見た。
クラリスはまっすぐ見返してきた。
逃げなかった。
言い訳もしなかった。
さっきと同じだった。
サラだけに背負わせるものではない。
その言葉が、胸の奥で少しだけ引っかかった。
何年も前、クラリスは何も言わずに行った。
サラは置いていかれた。
けれど今、クラリスは横にいる。
サラの代わりに持つのではなく、サラだけに持たせないと言っている。
それを信じていいのかは、まだ分からない。
でも、聞こえなかったふりはできなかった。
「……じゃあ」
サラは傘次郎を抱える腕を緩めた。ほんの少し。エパールが息を止めたのが分かった。
「見るだけ、なら」
「はい」
「触るときは、先に言ってね」
「はい」
「私が駄目って言ったら、止めてよ」
「はい」
「分解は?」
「しません」
「本当に?」
「本当に、しません」
エパールの返事は、今度は早口ではなかった。サラはそれを聞いて、少しだけ頷く。
「……お願い、します」
エパールが、ゆっくり頷いた。
「はい。お願いします」
彼女は工具鞄を石床に置いた。金具が小さく鳴る。
サラの肩がわずかに跳ねる。
エパールはそれに気づいたのか、すぐに鞄から手を離した。
「大きな音、苦手ですか?」
「……今は、少し」
サラは小さく答えた。
言ってから、自分で驚いた。
別に、と言うつもりだった。
平気だと言うつもりだった。
でも、言葉は違う形で出た。
エパールは頷いた。
「分かりました。静かに開けます」
それ以上は聞かなかった。かわりに、鞄を開けるときは金具を指で押さえ、音が鳴らないようにした。中から取り出したのは、細い測定具ではなく、柔らかそうな白い布と、薄い革手袋だった。
「道具、使わないの?」
サラが聞くと、エパールは手袋をはめながら答える。
「最初は使いません。持ち主さんが怖がっているときに、いきなり金属を当てると、怖さが増えるので」
その言葉に、サラは返事を失った。
怖い。
そう言われると、反射的に否定したくなる。
怖くない。
別に平気。
子どもじゃない。
そう言いたくなる。
でも、怖いのは本当だった。
傘次郎が壊れるのが怖い。
見られるのが怖い。
何か分かってしまうのが怖い。
分からないままなのも怖い。
エパールは、その全部を聞いていない。
知らないはずなのに、手つきだけはサラの怖さを刺激しないようにゆっくりだった。
「まず、布の状態を見ます」
エパールはサラの顔を見る。
「触ってもいいですか?」
サラは傘を抱えたまま固まった。
触ってもいいか。
ただそれだけの言葉が、胸に重かった。
つい先ほど、古い木のそばに傘次郎を立てて、一歩だけ離れた。
あのときも、足元の石床が遠く感じた。
でも、あれは傘次郎をそこに立てかけたまま、自分が離れただけだった。
今は違う。
誰かの手が、傘次郎に触れる。
サラ以外の手が。
母が託した傘に。
父が最後に押し返した傘に。
ずっと握ってきた傘に。
「嫌なら、やめます」
エパールが言った。
その声は、本当に小さかった。
サラはクラリスを見た。
クラリスは何も言わない。
代わりに、少しだけ頷いた。
行け、とも、やめろ、とも言わない。
ただ、ここにいると示す頷きだった。
傘次郎は黙っている。
珍しく、何も言わなかった。
サラは唇を噛み、それから、小さく言った。
「……大丈夫、です」
エパールはすぐには触れなかった。
「布の端だけ、触ります」
「うん」
「強く押しません」
「うん」
「変だと思ったら、すぐ言ってください」
「分かった」
「傘次郎さんも」
「俺に同意を求めるな」
「嫌なら言ってください」
「嫌だ」
「分かりました。嫌だということは記録します」
「やめるとは言わねえのか」
「サラさんの許可が優先です」
「こいつ嫌いだ」
「二回目です……」
エパールは少し落ち込んだ顔をした。
けれど、手は止まっている。
サラの許可の先へ、勝手には進まない。
それが分かったから、サラはもう一度小さく頷いた。
「……大丈夫」
エパールの指先が、傘の布の端に触れる。
サラの手に力が入った。
世界は壊れなかった。
傘次郎は叫ばなかった。
布は裂けなかった。
骨は折れなかった。
エパールは持って走らなかった。
ただ、白い手袋の指先が、古びた布の縁をそっとなぞっただけだった。
「……古い」
エパールが呟いた。サラの肩が強張る。
「悪い意味ではないです」
エパールはすぐに言い直した。
「年数が経っている、という意味です。でも、傷み方が変です。普通なら、ここまで使い込まれていると、布目がもっと痩せます。陽や雨で繊維が弱って、端から崩れる。でも、これは表面だけ古い。芯が残りすぎている」
「芯?」
「布の奥の強さです。外側は古いのに、内側が生きているような……あっ」
エパールはそこで口を閉じた。
サラは息を止めた。
生きている。
その言葉は、あまりにも近かった。
傘次郎は喋る。
反応する。
文句を言う。
自分の正体を知らないと言う。
だから、生きていると言われても、今さらのような気もする。
けれど、魔道具としてそう言われると、別の怖さがあった。
「比喩です」
エパールは慎重に言った。
「今のは、比喩です。断定ではありません。すみません、言い方が悪かったです」
「……うん」
サラは頷いた。
クラリスが静かにエパールを見る。
「今のように、断定しないこと」
「はい」
「分からないことは、分からないまま置くこと」
「はい」
「サラの前で、面白がりすぎないこと」
「はい……」
エパールは小さくなった。
「ごめんなさい。面白いとは、思っています。でも、面白いだけではないです」
サラはエパールを見た。エパールは傘次郎から目を離さないまま、続ける。
「これは、魔道具としては変です。でも、それより先に、大事に使われてきたものです。そこを間違えたら、見えるものも見えなくなりますから」
さっきまでの早口ではなかった。弱気で、少し頼りない。けれど、道具を見る目だけはまっすぐだった。サラは、傘の柄を握る手を少しだけ緩めた。
「次、骨を見ます」
エパールが言う。
「触ってもいいですか?」
「……どこ?」
「ここです。一本目、と呼びましょうか。試験で風圧を受けたときに、たぶんここへ負荷が集中しています」
「分かるの?」
「歪み方で、少し。完全には分かりません。ここで断定するとクラリス様に怒られます」
「よく分かっていますわ」
クラリスが頷いた。エパールは傘の骨に触れた。
「……うん。やっぱり、少し歪んでます。でも折れてはいません。補強するなら、外側に重い材を足すより、接合部の逃げを作る方がいいかもしれません」
「逃げ?」
「力が入ったときに、全部を受け止めるのではなく、逃がす場所です。硬くするだけだと、次は別のところが折れます」
サラはその言葉を聞いて、少しだけ眉を寄せた。
硬くするだけだと、別のところが折れる。
それは傘の話だった。
でも、傘だけの話ではない気がした。
「……壊れにくくするって、硬くすることじゃないの?」
「違う場合が多いです」
エパールは少しだけ考えながら言った。
「大事なのは、受け止めるところと、逃がすところを間違えないことです。全部を受け止めようとすると、壊れます。全部を逃がすと、守れません。その間を作ります」
サラは黙った。
クラリスも、黙っていた。
傘次郎も、珍しく口を挟まなかった。
受け止めるところと、逃がすところ。
サラは今まで、全部を傘次郎で受け止めようとしていたのかもしれない。
母が帰ってこないことも。
父が帰ってこなかったことも。
クラリスが何も言わずに行ったことも。
自分が試験に落ちたことも。
迎えに行きたい気持ちも、帰る道が分からない怖さも。
全部、傘を握る手の中へ押し込んできた。
だから、傘が手元になくなった瞬間、自分までなくなったように感じた。
「……サラ?」
クラリスの声で、サラははっとした。
「何でもない」
「そうは見えませんけれど」
「……今は、何でもないことにして」
言ってから、サラは少しだけ顔を伏せた。クラリスが黙る。押してこなかった。聞き出そうともしなかった。
「分かりましたわ」
ただ、それだけ言った。その距離が、少しだけありがたかった。
エパールは、骨から手を離した。
「今のところ、すぐ壊れる感じではありません。けど、試験と同じ負荷が何度も来たら危ないです。特に内側から風を受ける形は苦手だと思います」
「……そうだね」
サラは小さく言った。
あのときの感覚が、腕に戻る。
傘の内側で風が渦を巻き、骨が軋み、柄が手の中で暴れた。
守ろうとした。
壊したくなかった。
だから力が抜けた。
その後、何もできなかった。
「知ってるなら、次は少しだけ準備できます」
エパールが言った。サラは顔を上げる。
「準備?」
「はい。壊れにくくすることも準備です。でも、それだけじゃなくて、壊れそうになったときにどうするかを決めておくのも準備です」
「……どうするか」
「傘の角度を変えるのか、畳むのか、あえて開くのか、距離を取るのか、手を離して拾い直すのか。吸魔を狙うのか、盾として使うのか。私は戦えないので、戦い方は分かりません。でも、道具が壊れるときの形なら少し分かります」
エパールはそこで、少しだけ困ったように笑った。
「だから、サラさんが止まらないための選択肢を、道具側から増やすことはできます」
選択肢。
カルラも言った。
傘次郎も言った。
拾いに走る。
距離を取る。
間合いを外す。
次を選ぶ。
今、エパールは別の角度から同じことを言っている。
傘を壊れにくくする。
壊れそうなときの動きを決める。
怖さを減らす。
それは、サラを強くすることではないのかもしれない。
でも、止まらないための支えにはなる。
「……次は、柄を見ます」
エパールが言った。
サラの手が、柄を握り直す。
ここだけは、ほとんど自分の手の一部みたいな場所だった。
布や骨よりも、ずっと近い。
何度も握った。
眠るときにも握った。
試験場で離した瞬間、心臓が落ちたように感じた場所。
エパールはすぐに気づいた。
「嫌なら、ここは後にします」
サラは返事ができない。
エパールは待っている。
クラリスも待っている。
傘次郎も、黙っている。
サラは自分の手を見た。
指が白くなるほど、柄を握っている。
これでは、エパールは触れない。
触ってもいいと言ったのは、自分だ。
でも、本当に触らせるとなると、手が勝手に拒む。
傘次郎が低く言った。
「無理なら無理でいい」
サラは瞬きをした。
「……何それ」
「聞こえなかったか」
「聞こえたけど」
「なら聞き返すな」
「傘次郎がそういうこと言うの、変」
「俺を何だと思ってんだ」
「口の悪い傘」
「間違ってねえな」
サラは少しだけ笑った。
それから、ゆっくり息を吸った。
無理なら無理でいい。
それは甘やかしではなかった。
逃げ道でもなかった。
無理なら、今はそこまで。
でも、無理かどうかを決めるのは、自分。
サラは指を一本ずつ緩めた。
完全には離さない。
柄の下の方は握ったまま。
でも、上の方を少しだけ空ける。
「……ここなら」
エパールの目が丸くなった。クラリスの表情が、ほんの少し柔らかくなる。
「ここだけなら、いいです」
「はい」
エパールは短く答えた。
今度は、余計なことを言わなかった。
白い手袋の指が、サラの手のすぐ上に触れる。
柄の古い木目を、そっと確かめる。
サラの指とは違う温度。
違う動き。
けれど乱暴ではない。
サラは息を止めた。
少しして、息を吐いた。
世界は壊れなかった。
「……接合部に負荷があります」
エパールは静かに言った。
「でも、今すぐ危険というほどではありません。むしろ、ここまで使っていてこの程度で済んでいるのが変です。普通ならもっと緩みます」
「変ばっかり」
サラが言うと、エパールは困ったように眉を下げた。
「はい。変です」
「そこは否定しないんだね」
「嘘をつくと、たぶんすぐばれるので」
「さっきも言ってた、それ」
「はい。よくばれます」
クラリスが横で静かに頷いた。
「本当に、すぐばれますわ」
「クラリス様……」
「なので、エパールは嘘をつかせない方が有用です」
「言い方」
サラは思わず言った。
エパールは少しだけ肩を縮めたが、嫌そうではなかった。
たぶん、こういうやり取りに慣れているのだろう。
クラリスとエパールの間には、サラの知らない時間がある。
それを思うと、胸の奥が少し痛む。
でも、さっきほど鋭くはなかった。
知らない時間がある。
それでも、クラリスは帰ってきた。
それを何度も確かめるように、サラはクラリスを見た。
「何ですの」
「別に」
「別にという顔ではありませんわ」
「……見ただけ」
「そうですの」
クラリスは少しだけ笑った。追及はしなかった。
エパールが柄から手を離す。
「外から見える範囲は、ここまでです」
サラは思わず聞いた。
「もう?」
「はい。約束なので」
「……もっと見るのかと思った」
「見たいです」
エパールは即答した。傘次郎が低く唸る。
「ですが、今は見ません」
エパールは言い直した。
「中は見ません。魔素流も、今の簡易確認だけです。これ以上は、カルラ様へ報告してからの方がいいです。サラさんも、その方がいいと思います」
「私が?」
「はい」
「え、何で」
「今、すごく頑張っている顔なので」
サラは口を閉じた。
反射的に否定しようとした。
頑張ってない。
これくらい平気。
見せるだけならできる。
触らせた。
まだ大丈夫。
でも、言葉にならなかった。
エパールは手袋を外し、きちんと畳んだ。
「今日は、傘次郎さんを壊さないための確認でもありました。でも、それ以上に、サラさんが怖くない範囲を探す確認だったと思います」
「……怖くない範囲」
「はい。さっきより少し分かりました」
「何が?」
「どこまでなら進めるかです」
エパールは工具鞄に布と手袋をしまう。
「見せてもらえました。布に触らせてもらえました。骨も、柄も、少しだけ見せてもらえました。今日は、そこまでです」
「それだけでいいの?」
「それだけ、ではないです」
エパールは首を振った。
「これは、かなり大事です」
サラは返事をしなかった。
かなり大事。
そう言われても、自分がしたことは、小さすぎる気がした。
傘次郎を渡したわけではない。
作業台に置いたわけでもない。
エパールに預けたわけでもない。
ただ、持ったまま、触らせただけ。
それだけ。
「本当に一歩ずつですわね」
クラリスが言った。その声はからかいではなかった。
サラは傘次郎を見る。
「……また言われた」
「俺は言ってねえ」
「言いそうだった」
「言おうとはしたな」
「ほら」
「先に言われたんでな」
「悔しいの?」
「んなこたぁねえよ」
「何かありそうですわね」
クラリスがすかさず言った。
傘次郎が黙る。
サラは今度こそ、少し笑った。
笑ってから、自分で驚いた。
笑えるのか。
試験に落ちた直後で、胸元には赤い印が残っていて、クラリスは帰ってきて、傘次郎は喋って、エパールに触らせて、まだ何一つ解決していないのに。
それでも、笑い声は出た。
小さくて、すぐ消えたけれど。
「……カルラ様に報告しましょう」
クラリスが言った。
サラの胸が、また少し重くなる。
カルラに会う。
試験場で不合格を告げられてから、まだまともに顔を合わせていない。
いや、さっき会ったばかりだ。
カルラの声も、言葉も、まだ耳に残っている。
大魔道士とは、強い魔道具を持つ者ではない。
想定していた手段が折れたとき、それでも次を選べる者の称号だ。
その言葉が痛い。
今カルラに会えば、また自分の弱さを見られる気がした。
傘次郎が喋ったことも、エパールに触らせるのが怖かったことも、クラリスに抱きついたことも、全部見透かされる気がした。
「……今から?」
「ええ」
クラリスは短く答えた。
「魔道具が自発的に会話した。しかも他者にも聞こえた。エパールが言う通り、これは大問題です」
「うん」
「それに、カルラ様はあなたの師匠です」
「うん」
「隠して後で知られる方が、よほど面倒ですわ」
「それは、そう」
「そして何より」
クラリスは少しだけ声を柔らかくした。
「あなた一人で報告する必要はありません」
サラは顔を上げる。
「私も行きます。エパールも行きます。傘次郎も当然行きます」
「俺を巻き込むな」
「中心人物でしょう」
「傘だ」
「なら中心傘ですわ」
「変な言葉を作るな」
エパールが小さく手を上げた。
「あの、私も行った方がいいと思います。カルラ様に招集された身でもありますし、今見た範囲のことは報告できます。断定しない範囲で」
「断定しない範囲で」
クラリスが念押しする。
「はい。断定しない範囲で」
サラは傘を抱え直した。
完全には離さない。
まだ渡せない。
でも、さっきエパールは触れた。
サラは逃げなかった。
それは消えない。
「……分かった」
サラは言った。
「行く」
「ええ」
クラリスが頷く。エパールが工具鞄を持ち上げる。そのとき、金具が鳴りそうになったが、彼女は慌てて手で押さえた。小さな音だけが鳴った。
「すみません」
「……もう大丈夫だから」
サラは言った。
エパールは、少しだけ安心したように頷いた。
中庭の入口へ向かって、クラリスが先に歩き出す。
昔なら、サラの手を引いたかもしれない。
今は引かない。
ただ、数歩先で立ち止まり、待つ。
エパールはその後ろを少しおどおどしながらついていく。
「……行くよ」
サラは傘次郎に言った。
「誰に言ってんだ」
「傘次郎」
「持ってんだろ」
「だから言ってるの」
「意味が分からん」
「分からなくていい」
サラは一歩踏み出した。
胸元の赤い印はまだ消えていない。
クラリスへの怒りも、まだ消えていない。
傘次郎を手放す怖さも、消えていない。
でも、足は動いた。
廊下へ入る直前、傘次郎がぼそりと言った。
「一歩目だな」
「……何が」
「触らせた。止まらなかった。なら、次がある」
サラは立ち止まりかけた。
けれど、止まらなかった。
「うるさい」
そう返して、歩き続けた。




