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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編
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12/20

第12話 報告すべきこと

 廊下は、中庭よりも冷たかった。石壁に沿って歩くたび、靴音が細く響く。クラリスが数歩先を歩き、エパールが工具鞄を抱えてその後ろをついていく。

 サラは少し遅れて歩いた。傘次郎は右手の中にある。いつもの重さ。いつもの古びた柄。けれど、さっきまでと同じではなかった。布の端には、エパールの白い手袋が触れた。骨にも、柄にも、少しだけ。それでも傘次郎はここにある。なくなっていない。


「……サラ」


 クラリスが振り返った。


「歩幅、合わせましょうか」

「いい」


 サラは短く答えた。少しきつい言い方になったかもしれない。けれど、クラリスは気にした様子を見せなかった。


「では、このままで」


 そう言って、歩く速度をほんの少し落とす。合わせましょうか、と聞いてから、勝手に合わせている。サラはそれに気づいて、文句を言おうとして、やめた。


「器用だね」

「何がですの」

「そういうところ」

「心当たりが多くて分かりませんわ」

「自覚あるんだ」

「ありますわ。成長しましたので」


 クラリスは涼しい顔で言った。その横で、エパールが小さく息を呑んでいる。サラはそちらを見た。


「どうしたの」

「いえ、カルラ様のところへ行くと思うと、少し緊張が……」

「呼ばれて来たんじゃないの?」

「呼ばれて来ました。呼ばれて来たからこそ緊張します。自分から来たなら逃げ道がありますが、呼ばれていると逃げ道がありません」

「逃げる前提で話さないでよ……」

「逃げません。たぶん」

「たぶん?」

「手帳には『逃げない』と書いてあります」


 エパールは工具鞄の外ポケットを押さえた。傘次郎が低く言う。


「手帳に書かねえと逃げるのか」

「はい」

「即答かよ!」

「嘘をつくとばれますので」

「……そこだけは信用できるな」

「信用されました……?」

「してねえよ」

「されてませんでした……」


 エパールの肩が落ちる。サラは思わず小さく笑いかけて、すぐ口元を押さえた。


 笑うには、まだ早い気がした。

 胸元の赤い印は、外套に残ったままだ。

 不合格の証。

 試験が終わったことを、身体の外側から何度も思い出させてくる。


 カルラに会う。

 その事実が、廊下を進むほど重くなっていく。

 試験場で、カルラはサラを落とした。

 手加減ではなく、甘さでもなく、必要なものとして落とした。

 サラもそれを分かっている。

 分かっているからこそ、きつい。

 怒れない。

 間違っていると言えない。

 だから、逃げ場がない。


「……今さら戻るなよ」


 傘次郎が言った。


「戻らない」

「顔が戻りそうだった」

「顔は戻らないでしょ」

「気分の話だ」

「分かってる」

「なら言い返すな」

「言い返したい気分だったの」

「面倒くせえな」

「傘次郎に言われたくない」


 言いながら、サラは足を止めなかった。クラリスが何も言わずに前を歩いている。エパールが工具鞄の金具を押さえながらついてくる。


 誰もサラの手を引かない。

 誰もサラの代わりに扉を叩こうとしない。


 カルラの執務室は、廊下の突き当たりにあった。

 重い木の扉。

 真鍮の取っ手。


 扉の横には、学院の紋章が刻まれた小さな板が掛かっている。サラは何度もここへ来たことがある。弟子入りしてから、叱られた回数も、課題を出された回数も、茶を出された回数も数え切れない。それなのに、今日は初めて来る場所みたいに見えた。クラリスが半歩下がる。エパールも同じように下がった。サラは扉の前に残された。


「……私?」

「あなたの報告ですわ」


 クラリスが言った。


「でも、一人ではありません」


 サラは傘の柄を握る。

 傘次郎は黙っていた。


 サラは息を吸った。吐いた。

 それから、扉を叩いた。


「入れ」


 返事はすぐだった。

 カルラの声だ。

 低く、落ち着いていて、いつも通りだった。


 サラは取っ手に手をかける。冷たい金属の感触が、指先に移った。扉を開ける。


 執務室の中には、紙と薬草茶の匂いがあった。広い机の上には、試験記録らしき紙束が積まれている。その横に、白い縁取りの焼けたカードが一枚、透明な薄板の上に置かれていた。試験で使われた氷雪系のカードだ。縁は黒く焦げ、魔術回路の一部は焼き切れている。

 カルラは窓際に立っていた。白い髪を後ろで束ね、黒い外套を肩にかけている。試験場にいたときとほとんど変わらない姿だった。けれど、腕は組んでいない。片手には湯気の立つ杯がある。


 カルラはサラを見た。

 胸元の赤い印を見た。

 傘次郎を見た。

 クラリスを見た。

 エパールを見た。


 最後に、もう一度サラを見た。


「三人と一本か」

「一本って言うな」


 傘次郎が言った。


 執務室の空気が、ぴたりと止まった。

 エパールが小さく「あ」と声を漏らす。

 クラリスは目を閉じた。

 サラは心臓が一瞬止まったような気がした。

 カルラは動かなかった。


 杯を持つ指も、眉も、視線も、ほとんど動かなかった。ただ、ほんのわずかに、湯気の向こうで目が細くなった。


「……なるほど」


 カルラは杯を机の上に置いた。


「報告すべきことは、それか」


 サラは息を呑んだ。

 声が出るまで、少し時間がかかった。


「……うん」

「サラ。お前の口で言うんだ」


 きつい声ではなかった。

 けれど、逃げられない声だった。

 サラは傘次郎を握り直す。


「傘次郎が、喋った」

「今、聞いた」

「私だけじゃなくて、クラリスにも、エパールさんにも聞こえた」

「分かっている」

「今日から。少なくとも、私がちゃんと聞いたのは、今日が初めて。試験に落ちたあと、中庭で……私が、待てって言うの、って言ったら」


 そこまで言って、サラは言葉を詰まらせた。あのときの自分の声が戻ってくる。


 母は帰ってこない。

 父も帰ってこなかった。

 クラリスも何も言わずにいなくなった。

 だから、自分が行くと決めたのに。


 また、待てって言うの。


 その言葉の直後に、傘次郎が喋った。


 待てなんて言ってねーよ。

 止まってんのは、お前だ、サラ。


「最初の言葉は」


 カルラが聞いた。


 サラは顔を上げる。


「……『待てなんて言ってねーよ』」


 傘次郎が少しだけ黙った。


「それと、『止まってんのは、お前だ、サラ』って」

「言い方」


 クラリスが小さく呟いた。


「事実だろ」


 傘次郎が返す。


「事実でも言い方はありますわ」

「お前、さっきからそればっかりだな」

「必要なことですもの」

「必要なのか?」

「とても」


 カルラが机の端を指で軽く叩いた。

 小さな音だった。

 それだけで、三人と一本が黙る。


「続けろ」


 サラは頷いた。


「その後、傘次郎と話した。名前は知らないって。自分の正体も分からないって。お母さんのことも、はっきりしたことは知らないって」

「嘘をついた様子は」


 カルラが尋ねる。


 サラは一瞬迷った。


「……分からない。でも、たぶん、本当に知らないんだと思う」

「根拠は」

「本当に知っていたら、もっと嫌な言い方をすると思う」

「どういう根拠だよ……!」


 傘次郎が言った。


「傘次郎だから」

「おい、納得すんなよ、カルラ」


 カルラは納得した顔をしていなかった。ただ、記録紙を一枚引き寄せ、短く何かを書きつける。


「クラリス」

「はい」

「お前が最初に聞いたのは」

「中庭です。サラが傘次郎と口論している最中でした。声は、傘の内側から響くように聞こえました。サラの声とは明確に違います。記録音声ではなく、会話の文脈に応答していました」

「エパール」

「はいっ」


 エパールの背筋が伸びる。


「お前は」

「同じく中庭です。傘次郎さんの発話は、少なくとも私にも聞こえました。発声器官は外装からは確認できません。布、骨、柄の振動、または魔素流由来の音響化の可能性はありますが、外装確認のみなので断定できません。断定しません。今断定するとクラリス様に叱られます」

「叱るのは私でもある」

「はいっ」


 エパールはさらに背筋を伸ばした。

 カルラは少しだけ眉を下げた。


「……その手帳は使ったか」

「使いました」


 エパールは胸を張りかけて、途中でおずおずと手帳を取り出した。


「暴走防止。表紙にそう書いてあります」

「見れば分かる」

「はい。見れば分かります」


 傘次郎が低く言った。


「何で少し誇らしげなんだ」

「手順を守れたので……」

「子どもか」

「傘次郎」


 サラが小さく言う。


「言い方」

「お前までそれか」

「必要なことだから」

「流行らせるな」


 カルラが、軽く咳払いをする。

 全員が黙る。


 カルラはエパールを見た。


「外装確認をしたな」

「はい。サラさんの許可をいただき、外から見える範囲だけ確認しました。布、骨、露先、柄、接合部です。内部確認、魔石相当部位の有無確認、魔術回路への干渉、補強材の仮当て、分解、分解に近い観察はしていません」

「魔素流は」

「外から見える範囲の簡易観察だけです。測定具は使っていません。正確な流路や中心部は不明です」

「状態は」


 エパールは手帳を閉じた。今度は手帳を見なかった。


「今すぐ壊れる状態ではありません。骨は折れていません。ただし、試験時に内側から風圧を受けた影響で、一本に負荷が集中した痕があります。柄と接合部にも負荷があります。繰り返せば危険です」

「布は」

「外側は古いです。でも、内側の芯が残りすぎています。普通の経年劣化ではありません。保存状態がいい、という言い方では足りません。表面だけが古く、奥が……」


 エパールはそこで止まった。

 クラリスが見ている。

 サラも見ている。

 傘次郎も、たぶん見ている。


 エパールは言い直した。


「奥の強度が、不自然に残っています」


 クラリスが小さくうなずいた。


「今のは断定しすぎていませんか」

「範囲内ですわ」

「ありがとうございます……」


 カルラは目を伏せ、しばらく黙った。その沈黙が、サラには怖かった。


 怒っているのか。

 驚いているのか。

 考えているのか。

 分からない。


 カルラは、昔からそうだった。感情が全部顔に出るときもあれば、まったく出さないときもある。どちらが本当なのか、サラには分からない。


「カルラ様」


 クラリスが言った。


「報告は以上ではありません。サラは、傘次郎を持ったままですが、エパールに触れることを許可しました」


 サラは思わずクラリスを見た。


「それも言うの?」

「言いますわ」

「何で」

「大事だからです」


 クラリスはまっすぐ言った。


「傘次郎の異常だけではなく、あなたがどこまで進めたかも、カルラ様は知るべきです」

「……そういうもの?」

「そういうものですわ」


 カルラはサラを見た。

 その視線が、試験場のときより少しだけ柔らかい気がした。気のせいかもしれない。


「どこまで許した」

「布の端と、骨と、柄の上の方だけ」

「傘は渡したか」

「渡してない」

「作業台に置いたか」

「置いてない」

「手を離したか」

「離してない」

「そうか」


 カルラは短く言った。

 サラは唇を結ぶ。


「それだけ……」

「それだけではない」


 カルラの声は、静かだった。


「お前にとっては、それだけではないだろう」


 サラは何も言えなかった。

 胸元の赤い印が、また熱を持ったような気がした。


「だが」


 カルラは続ける。


「それで合格になるわけでもない」


 サラの肩が、小さく揺れた。


 分かっていた。

 分かっていたはずなのに、その言葉は刺さった。


「……うん」

「泣くなよ。泣いていないな」

「泣いてない」

「泣きそうな顔ではあるが」

「うるさい」

「師匠に向かってうるさいとは何だ」

「ごめんなさい」


 反射的に謝ると、カルラが少しだけ目を細めた。


「今のは素直だな」

「今は、喧嘩する元気がないだけ」

「なら、それも報告に含めておく」

「含めないで」

「冗談だ」

「分かりづらいって」

「私もそう思いますわ」


 クラリスが言った。


 カルラがゆっくりクラリスを見る。


「クラリス」

「はい」

「お前も少しは遠慮を覚えたかと思っていたが」

「覚えたからこそ、必要なときだけ言っています」

「そうか。では必要だったのだな」

「はい」

「後で帰還報告を出せ。三日前に戻っていながら報告がなかった理由も添えろ」

「……はい」


 クラリスの背筋が少しだけ硬くなった。


 サラはクラリスを見る。

 クラリスは顔を逸らさなかった。けれど、少し困ったように眉を寄せている。

 カルラはそれ以上追及しなかった。


「さて」


 カルラは机の上の焼けた白いカードを持ち上げた。


「傘次郎の発話について、名前をつけるな」


 サラは瞬きをする。


「名前?」

「人格魔道具、憑依魔道具、記録器、魂宿り、守護具。呼び名はいくらでも作りようがある。だが、今はどれにも分類するな」


 カルラの声が、少し低くなる。


「名前をつけると、分かった気になる。分かった気になると、見落とす」


 エパールが小さく頷いた。

 クラリスも黙って聞いている。

 傘次郎だけが言った。


「珍しくまともだな」

「お前も黙って聞け」

「はい」


 サラは思わず傘を見た。


「今、素直だったね」

「相手による」

「私には?」

「お前は言い返すから面倒だ」

「傘次郎が先に言うからでしょ」

「お前も相当言うぞ」

「今それ話すところじゃない」

「お前が振ったんだろ」


 カルラは深く息を吐いた。


「会話は自然だな」


 それは、ただの感想ではなかった。確認だった。


 サラは黙った。

 クラリスも黙った。

 エパールが小さく頷く。


「自然すぎます。反応が早く、文脈理解があります。サラさんとの関係性に応じた返し方をしています。今のところ、単純な記録再生には見えません」

「見えない、だな」

「はい。断定しません」

「よろしい」


 カルラは白いカードを置いた。


「次に、蒼炎について確認する」


 その言葉が出た瞬間、サラの指が柄に食い込んだ。

 傘次郎も黙った。


 蒼炎。

 あの日、森の奥で出た火。

 父の血と、魔物の牙と、古びた傘と、サラの叫びの間に現れたもの。

 サラを焼かず、魔物だけを焼いた蒼い炎。


「サラ」


 カルラが呼ぶ。


「はい」

「あの日以後、蒼炎を自分の意思で出せたことは」

「……ない」

「訓練中も」

「一度もない」

「試験中も」

「出なかった」

「出そうとしたか」


 サラは少し迷った。


「……分からない。出したいと思ったことはある。でも、出し方は分からない」

「それでいい」

「いいの?」

「よくはない。だが、事実としてそれでいい」


 カルラは記録紙に短く書いた。


「蒼炎と発話を同じ現象として扱うな。関係がある可能性はある。だが、現時点では別々の未確定事項だ」

「別々」

「そうだ。混ぜるな。分かったふりをするな」


 サラは頷いた。


 エパールが恐る恐る手を上げる。


「あの、カルラ様」

「何だ」

「本格検査は、いつ行いますか」


 サラの身体が固まった。傘次郎が低く唸る。エパールはすぐに両手を振った。


「あっ、今すぐではなく、予定の確認です。今ここで作業台に置いてくださいという意味ではありません。分解という意味でもありません。手帳にも『予定確認と作業開始は違う』と書いてあります」

「誰が書いた」


 カルラが聞く。


「クラリス様です」

「だろうな」


 クラリスは否定しなかった。


 カルラは椅子を引き、ようやく座った。


「本格検査は行う。ただし、今日ではない」


 サラは息を吐きかけて、途中で止めた。


「今日じゃない?」

「お前は試験に落ちた直後だ。クラリスは帰還報告も済んでいない。エパールは外装確認で十分暴走しかけた」

「しかけてはいません」


 エパールが小声で言う。

 クラリスが睨んだ。


「しかけましたわ」

「はい……」

「傘次郎も、今この場で納得して作業台に乗るとは思えん」

「絶対乗らん」


 傘次郎が即答した。


「そういうことだ」


 カルラはサラを見る。


「サラ。今すぐ預けろとは言わない」


 その言葉に、サラはようやく息を吐いた。

 けれど、次の言葉は予想できた。


「だが、いつまでも抱えたままにもできない」


 やっぱり。


 サラは傘の柄を握る。


「分かってる」

「本当にか」

「分かってはいる」

「できるか」

「……まだ、分からない」

「なら、それでいい」


 サラは顔を上げた。


 カルラは、厳しい顔のままだった。


「できると言ってできないより、分からないと言える方がましだ。今日のお前は、少なくともそれを言えている」

「それ、褒めてる?」

「評価している」

「褒めてはないんだ」

「褒められたいのか」

「……今は、ちょっと」


 言ってから、サラは自分で驚いた。

 カルラも少しだけ目を見開いた。

 クラリスが何も言わない。

 エパールも何も言わない。

 傘次郎も黙っている。


 サラは顔が熱くなるのを感じた。


「今のなし」

「なしにはならん」


 カルラは静かに言った。

 そして、少しだけ声を柔らかくした。


「よく報告に来てくれた」


 たったそれだけだった。

 それだけなのに、サラの喉が詰まった。

 褒め言葉としては短すぎる。

 優しさとしては硬すぎる。

 カルラらしいと言えば、あまりにもカルラらしい。


 でも、今はそれで十分だった。


「……はい」


 サラはどうにか返事をした。

 傘次郎がぼそりと言う。


「止まらなかったな」

「黙って」

「褒めてやったんだが」

「今言われると泣きそうになるから黙って」

「面倒くせえな」

「傘次郎」


 クラリスが静かに言った。


「今のは、黙るところですわ」

「……分かったよ」


 傘次郎は黙った。

 珍しく、本当に黙った。


 カルラは記録紙をまとめ、机の端へ置いた。


「この件は、当面私の管理下に置く。学院全体へは流さない。協会への正式報告も、内容を整理してからだ」

「大問題じゃないの?」


 サラは聞いた。


「大問題だから、雑に広げない」


 カルラは即答した。


「自発会話する魔道具などという言葉だけが先に走れば、傘次郎を取り上げろと言う者も出る。封印しろと言う者も、研究材料にしろと言う者も出るだろう」


 サラの手が、また強くなる。


「だから、まず私が止める」


 カルラは言った。


「だが、なかったことにもできない。記録は残す。聞いた者も明記する。外装確認結果も添える。嘘はつかない。ただし、出す順番と出す相手は選ぶ」


 クラリスが小さく頷いた。


「言葉も報告も、受け取れる形にする必要がありますものね」

「お前に言われると少々腹が立つな」

「なぜですの」

「成長しているからだ」


 クラリスが少しだけ目を伏せる。


「……ありがとうございます」

「褒めていない」

「評価ですね」

「そうだ」


 サラは二人を見て、少しだけ口元を緩めた。


 クラリスは、本当に変わった。

 昔と同じように偉そうで、言い方も相変わらずで、でも、少し違う。

 言葉を選ぶ。

 選んだ上で、必要なことは言う。


 その変化が、嬉しいのか、寂しいのか、まだ分からない。


 カルラは机の引き出しを開け、小さな封筒を取り出した。黒い封蝋ではない。学院の簡易封だ。赤い縁取りがあり、緊急度が中程度であることを示している。


「本来なら、これは明日の朝に回すつもりだった」


 カルラは封筒を机の上に置いた。


 サラは嫌な予感がした。


「何?」

「外壁外、古い森の封鎖区画から報告が上がっている」


 古い森。


 その言葉だけで、部屋の温度が下がったように感じた。サラの手の中で、傘次郎がわずかに重くなる。クラリスの表情も変わった。ほんの少しだった。けれど、サラには分かった。エパールだけが、事情を完全には知らずに周囲を見ている。


「古い森って」


 サラの声は、自分でも驚くほど低かった。


「お父さんが……」


 その先は言えなかった。

 カルラは言葉を継がせなかった。


「そうだ。数年前の魔物残滓を封鎖している区画だ」


 エパールの顔が変わる。


 興味ではない。

 理解しようとする顔だった。


「残滓に、何か?」

「封鎖結界の一部に揺らぎが出ている。魔素濃度が微弱に上昇。魔石崩壊後の残留反応としては不自然だと、巡回魔道士から報告があった」

「暴走の兆候ですか」


 エパールが思わず前のめりになる。

 すぐに手帳を取り出しかけ、クラリスに見られて止まった。


「……呼吸します」

「そうなさい」


 クラリスの短い許可を受けて、エパールは息を吸った。吐いた。


 カルラは続ける。


「現時点で魔物の再発生は確認されていない。封鎖も維持されている。だから急行案件ではない」

「でも、調査は必要なんでしょ」


 サラは言った。


「必要だ」

「だったら、行く」


 カルラはすぐには答えなかった。


 サラは傘次郎を握る。

 今度は、傘にしがみつくためではなかった。


「あそこは、お父さんが死んだ場所だよ」

「だからだ」

「だから、行く」


 サラの声が揺れた。

 でも、止まらなかった。


「行かないで済むなら、ずっと行かない。考えないで済むなら、ずっと考えない。でも、そこに何か起きてるなら、知らないままにしたくない」


 レクシオの倒れた森。

 蒼炎が出た場所。

 魔物が崩れた場所。

 クラリスが間に合わなかった場所。

 カルラが現場指揮をした場所。

 ヴィクトールが父の魔素反応を確認した場所。


 そこへ行く。


 足が震えないと言えば嘘になる。

 でも、今言わなければ、また待つだけになる気がした。


「お前は今日、不合格になった」


 カルラが言う。


「知ってる」

大魔道士(ソーサラー)ではない」

「知ってる」

「私の弟子だ」

「知ってる」

「なら、弟子として行け」


 サラは顔を上げた。


「……いいの?」

「行きたいと言ったのはお前だ」

「止めないの?」

「止めたら止まるのか」


 サラは少し黙った。


「……たぶん、止まらない」

「なら、条件をつける方が現実的だ」


 カルラは机の上の報告書を指で押さえた。


「ただし、私は同行しない」


 その言葉に、サラだけでなく、クラリスもエパールも顔を上げた。


「来ないの?」

「来ない」


 カルラは短く言った。


「私が動けば、封鎖区画の異常はその時点で大事になる。協会にも学院にも、余計な目が増える。今必要なのは、大魔道士(ソーサラー)が現地を制圧することではない。最初の確認だ」

「でも、危ないかもしれない」

「危ないなら撤退しろ」


 カルラの声は鋭かった。


「それが今回の第一条件だ。戦うな。解決しようとするな。封鎖を破るな。残滓に触れるな。異常を見つけたら記録し、戻って報告する。お前たちの任務は討伐ではない。確認だ」


 サラは黙った。


 カルラが同行しない。

 それは、少し怖かった。

 けれど同時に、少し違う何かもあった。


 試されている。


 でも、試験場のように落とすためではない。

 現場へ出るために、条件を渡されている。


「封鎖区画の外には巡回魔道士を置く」


 カルラは続けた。


「救援信号用のカードも持たせる。撤退経路も指定する。異常があれば、すぐ戻れ。戻る判断も、今回の任務に含める」

「戻る判断……」

「そうだ」


 カルラはサラを見た。


「迎えに行くことは、進むことだけではないのだろう」


 サラは息を止めた。

 それは、傘次郎が言ったことだった。


 帰る道を守ること。


 カルラは傘次郎を見ていない。

 けれど、見ているようだった。


「無茶をする者は、帰る道を壊す。帰る道を壊す者に、誰かを迎えに行く資格はない」


 その言葉は、静かに刺さった。

 サラは傘次郎を握ったまま、頷いた。


「……分かった」

「本当にか」

「分かった。戦いに行くんじゃない。見て、戻って、報告する」

「よし」

「私も行きますわ」


 クラリスが言った。その声は、予想していたみたいにまっすぐだった。サラはクラリスを見る。クラリスはサラではなく、カルラを見ていた。


「私は、あの森を知っています。あの日、そこへ走りました。封鎖区画までの地形も、巡回魔道士への連絡手順も分かります。護衛としても、撤退判断の補助としても、同行できます」

「駄目だ」


 カルラは即答した。


 クラリスの目がわずかに揺れる。


「なぜですの」

「お前が行けば、サラは森だけを見ることにならない」


 カルラは静かに言った。


「森を見る。父の死を思い出す。蒼炎を思い出す。傘次郎を見る。エパールの観察を見る。そのうえで、お前の顔も見ることになる」


 クラリスは何も言わなかった。


「多すぎる」


 その一言は、厳しかった。

 でも、突き放す声ではなかった。


「今回は、サラが自分の足で見て、自分で戻ってくる場だ。お前が横に立つ場ではない」

「……私は、また待つ側ですの?」


 クラリスの声は小さかった。

 サラの胸が、きゅっと縮む。

 その言葉には、怒りよりも痛みがあった。


 また待つ。


 置いていかれる。


 追いつけない。


 クラリスにとっても、それは傷なのだと分かる。


「違う」


 カルラは言った。


「戻ってくる場所を守る側だ」


 クラリスが顔を上げる。


「明日、お前は学院に残れ。帰還報告を出し、フォルスシタデルから持ち帰った情報を整理しろ。サラたちが戻ったとき、報告を受けられる場所にいろ。異常があって信号が上がれば、次に動く準備をしておけ」

「それは……待つことと、何が違いますの」

「戻ってくる前提で待つことは、ただ置いていかれることとは違う」


 カルラの声が少しだけ低くなる。


「お前は、サラを追いかけるために帰ってきたのだろう。なら今は、追いかける前に、帰る場所を作れ」


 クラリスは唇を結んだ。

 サラは何も言えなかった。


 クラリスが行かない。

 それは、少し不安だった。

 でも、どこかで分かってもいた。


 クラリスが一緒に来たら、自分はきっと森だけを見られない。あの日、クラリスが間に合わなかったことも、何も言わずに去ったことも、帰ってきたことも、全部一緒に抱えてしまう。それはたぶん、今の自分には多すぎる。


「……分かりましたわ」


 クラリスはゆっくりと言った。


「今回は、残ります」


 声は揺れていなかった。でも、指先はわずかに握られていた。


 サラは口を開きかけた。

 何か言いたかった。

 でも、何を言えばいいのか分からない。


 ごめん。

 ありがとう。

 待ってて。

 戻るから。


 どれも違う気がした。


 クラリスが先に、サラを見た。


「サラ」

「……何」

「戻ってきなさい」


 それは命令みたいだった。

 昔と同じ、少し偉そうな言い方。

 でも、昔とは違った。


「戻ってきたら、報告を聞きますわ。あなたが見たことを、あなたの口で」


 サラは息を吸う。

 それから、頷いた。


「うん。戻ってくる」


 クラリスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。

 傘次郎がぼそりと言う。


「言ったな」

「言ったよ」

「なら戻れよ」

「分かってる」


 カルラは次にエパールを見る。


「エパール」

「はいっ」

「お前は戦闘要員ではない」

「はい。とても違います」

「だが、魔物残滓、魔石崩壊、蒼炎反応の痕跡を見る目は必要だ。行くか」


 エパールは一瞬、サラを見た。

 そして、傘次郎を見た。


 傘次郎が低く言う。


「見るな」

「すみません」

「謝るなら見るな」

「はい」


 エパールは視線を下げ、それからカルラへ向き直った。


「行きます。戦えません。でも、見られるものは見ます。断定しない範囲で」

「よろしい」


 カルラは封筒から報告書を取り出し、三人の前へ広げた。


「明朝、外壁北東門に集合。封鎖区画までは巡回魔道士が案内する。区画の内側へ入るのは、サラ、エパールの二名。ただし外縁部までだ。巡回魔道士は封鎖線前で待機する。クラリスは同行しない。私は学院に残る。傘次郎の件の記録整理、協会への報告範囲の調整、そして万一に備えた救援体制の準備をする」

「救援体制?」

「お前たちが信号を上げたら、私が動く」


 カルラはさらりと言った。


「だから、信号を上げる前に格好をつけるな。助けを呼ぶことを恥と思うな。これはクラリスにも言ったことだ」


 クラリスがわずかに目を伏せる。


「覚えています」

「よろしい。明日は同行しなくても、お前にはお前の役割がある」

「はい」


 サラは報告書を見る。


 封鎖区画。

 古い森。

 残留魔素濃度。

 結界揺らぎ。

 魔石崩壊反応。


 知らない言葉ばかりではない。けれど、そこに父の名前はない。


 レクシオ・アーベント。


 その名前は書かれていない。ただの現場として、残っている。それが少しだけ、寂しかった。


「目的は三つ」


 カルラが言った。


「封鎖結界の確認、魔素濃度上昇の原因調査、残滓に残る異常反応の有無確認。戦闘は目的ではない」

「蒼炎も?」


 サラは聞いた。

 カルラは少し黙った。


「可能性はある」


 その言葉だけで、サラの胸が詰まる。


「ただし、探しに行くのは蒼炎ではない」


 カルラは言った。


「残っている事実を見に行く。欲しい答えを拾いに行くな」


 サラは唇を噛んだ。

 それは、たぶん自分に必要な言葉だった。


 森に行けば、父の何かが残っているかもしれない。

 蒼炎の理由が分かるかもしれない。

 傘次郎の正体に近づくかもしれない。


 そう思いたくなる。


 でも、欲しい答えを拾いに行けば、見えるものも見えなくなる。


 さっきエパールが言ったことと似ていた。


 魔道具として変でも、それより先に大事に使われてきたものだと見なければいけない。


 森も同じなのかもしれない。


 父を失った場所である前に、現場だ。

 封鎖区画だ。

 危険があるかもしれない場所だ。


「……分かった」


 サラは言った。


「分かった、けど。行く」

「それでいい」


 カルラは報告書を畳んだ。


「今日は解散だ。サラは休め」

「……眠れると思う?」

「眠れなくても横になれ。食え。水を飲め。傘を握っていてもいい。ただし、握ったまま徹夜するな」

「何で分かるの」

「お前の師匠だからだ」

「師匠って便利だね」

「便利ではない。面倒だ」


 カルラは立ち上がる。そして、ふと思い出したようにエパールを見た。


「エパール」

「はい」

「明日、封鎖区画で分解はするな」

「しません」

「分解に近い観察もするな」

「しません」

「分解ではないと言い張る分解は」

「しません」

「よし」


 傘次郎がぼそりと言った。


「信用されてねえな」

「傘次郎さんも、明日は勝手に変な反応をしないでください」

「俺に言うな」

「言います。反応されたら記録しなければいけないので」

「やっぱりこいつ嫌いだ」

「三回目です……」


 エパールは肩を落とした。


 サラは傘を抱え直す。

 不思議だった。


 カルラに報告した。

 傘次郎が喋ったことも、エパールに触らせたことも、外装確認の結果も、全部話した。

 蒼炎のことも、少しだけ話した。

 明日は、父が死んだ森へ行くことになった。


 カルラは来ない。

 クラリスも来ない。


 それは怖い。

 けれど、怖いから行けない、とは思わなかった。

 むしろ、二人がいないからこそ、自分で見て、自分で戻ってこなければならない。


 重い。

 怖い。

 でも、さっきまでより、少しだけ息ができる。

 隠していないからかもしれない。

 一人で持っていないからかもしれない。


「サラ」


 カルラが呼んだ。


「はい」

「今日は傘次郎を持って帰れ」


 サラは一瞬、言葉の意味が分からなかった。


「え?」

「本格検査は今日ではないと言った。だから持って帰れ」

「……うん」

「ただし」

「ただし?」

「明日、森へ行く前に、もう一度状態を確認する。外からだ。エパールが触るかどうかは、お前と傘次郎が決めろ」


 傘次郎がすぐ言った。


「俺は嫌だ」

「私は……」


 サラは柄を見る。

 即答はできなかった。

 でも、即答できないことを、前ほど悪いと思わなかった。


「明日、決める」


 カルラは頷いた。


「それでいい」


 クラリスが扉の方へ歩く。エパールが工具鞄を抱え直す。サラも一歩踏み出した。

 そのとき、カルラが小さく言った。


「サラ」


 振り返る。


「赤い印は、今日は消さずにおけ」


 サラは胸元を見た。


「何で」

「忘れないためだ」

「不合格を?」

「違う」


 カルラの目は、まっすぐだった。


「止まったところから、また歩いたことをだ」


 サラは何も言えなかった。


 胸元の赤い印を見る。

 それは不合格の印だった。

 でも、今はそれだけではない気がした。


 試験場で止まった印。

 中庭で一歩離れた印。

 クラリスにおかえりと言った印。

 エパールに触らせた印。

 カルラへ報告に来た印。


 全部が同じ場所にある。

 消えていない。

 でも、歩いた。


「……はい」


 サラは答えた。


 執務室を出ると、廊下の空気がまた冷たかった。けれど、さっきよりは怖くなかった。クラリスが隣に立つ。エパールが少し後ろで手帳をしまっている。サラは傘次郎を握り、歩き出した。


「明日、森だって」


 サラは小さく言った。


「聞いてた」


 傘次郎が返す。


「怖い?」

「俺に聞くな」

「じゃあ、私が怖い」

「だろうな」

「でも、行く」

「だろうな」


 サラは少しだけ笑った。


「そこは止めないんだ」

「止めて止まるなら、カルラが止めてる」

「そうだね」


 隣で、クラリスが小さく息を吐いた。サラはそちらを見る。


「クラリス」

「何ですの」

「……戻ってくるから」


 言ってから、サラは胸が少し痛くなった。

 それは、母が言った言葉に似ていた。


 すぐ帰るから。

 それまでこの子と待ってて。


 言ったあとに、その重さに気づいた。

 クラリスも気づいたのだと思う。


 でも、クラリスは顔を逸らさなかった。


「ええ」


 クラリスは言った。


「待っていますわ」


 その声は静かだった。


「ただし、遅かったら迎えに行きます」

「……うん」

「今度は、追いつきます」


 サラは何も言えなかった。

 言ったら、泣きそうだった。


 傘次郎がぼそりと言う。


「戻ってこいよ」


 サラは足を止めかけた。

 けれど、止まらなかった。


「……うん」


 廊下の先には、朝より少し高くなった光が差していた。


 明日、古い森へ行く。

 父が倒れた場所へ。

 蒼炎が出た場所へ。

 クラリスが、今度は待っている場所へ。

 まだ何も分からない場所へ。


 怖い。

 でも、足は動いている。


 サラは傘次郎を握ったまま、クラリスとエパールと一緒に、廊下を進んだ。

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