第12話 報告すべきこと
廊下は、中庭よりも冷たかった。石壁に沿って歩くたび、靴音が細く響く。クラリスが数歩先を歩き、エパールが工具鞄を抱えてその後ろをついていく。
サラは少し遅れて歩いた。傘次郎は右手の中にある。いつもの重さ。いつもの古びた柄。けれど、さっきまでと同じではなかった。布の端には、エパールの白い手袋が触れた。骨にも、柄にも、少しだけ。それでも傘次郎はここにある。なくなっていない。
「……サラ」
クラリスが振り返った。
「歩幅、合わせましょうか」
「いい」
サラは短く答えた。少しきつい言い方になったかもしれない。けれど、クラリスは気にした様子を見せなかった。
「では、このままで」
そう言って、歩く速度をほんの少し落とす。合わせましょうか、と聞いてから、勝手に合わせている。サラはそれに気づいて、文句を言おうとして、やめた。
「器用だね」
「何がですの」
「そういうところ」
「心当たりが多くて分かりませんわ」
「自覚あるんだ」
「ありますわ。成長しましたので」
クラリスは涼しい顔で言った。その横で、エパールが小さく息を呑んでいる。サラはそちらを見た。
「どうしたの」
「いえ、カルラ様のところへ行くと思うと、少し緊張が……」
「呼ばれて来たんじゃないの?」
「呼ばれて来ました。呼ばれて来たからこそ緊張します。自分から来たなら逃げ道がありますが、呼ばれていると逃げ道がありません」
「逃げる前提で話さないでよ……」
「逃げません。たぶん」
「たぶん?」
「手帳には『逃げない』と書いてあります」
エパールは工具鞄の外ポケットを押さえた。傘次郎が低く言う。
「手帳に書かねえと逃げるのか」
「はい」
「即答かよ!」
「嘘をつくとばれますので」
「……そこだけは信用できるな」
「信用されました……?」
「してねえよ」
「されてませんでした……」
エパールの肩が落ちる。サラは思わず小さく笑いかけて、すぐ口元を押さえた。
笑うには、まだ早い気がした。
胸元の赤い印は、外套に残ったままだ。
不合格の証。
試験が終わったことを、身体の外側から何度も思い出させてくる。
カルラに会う。
その事実が、廊下を進むほど重くなっていく。
試験場で、カルラはサラを落とした。
手加減ではなく、甘さでもなく、必要なものとして落とした。
サラもそれを分かっている。
分かっているからこそ、きつい。
怒れない。
間違っていると言えない。
だから、逃げ場がない。
「……今さら戻るなよ」
傘次郎が言った。
「戻らない」
「顔が戻りそうだった」
「顔は戻らないでしょ」
「気分の話だ」
「分かってる」
「なら言い返すな」
「言い返したい気分だったの」
「面倒くせえな」
「傘次郎に言われたくない」
言いながら、サラは足を止めなかった。クラリスが何も言わずに前を歩いている。エパールが工具鞄の金具を押さえながらついてくる。
誰もサラの手を引かない。
誰もサラの代わりに扉を叩こうとしない。
カルラの執務室は、廊下の突き当たりにあった。
重い木の扉。
真鍮の取っ手。
扉の横には、学院の紋章が刻まれた小さな板が掛かっている。サラは何度もここへ来たことがある。弟子入りしてから、叱られた回数も、課題を出された回数も、茶を出された回数も数え切れない。それなのに、今日は初めて来る場所みたいに見えた。クラリスが半歩下がる。エパールも同じように下がった。サラは扉の前に残された。
「……私?」
「あなたの報告ですわ」
クラリスが言った。
「でも、一人ではありません」
サラは傘の柄を握る。
傘次郎は黙っていた。
サラは息を吸った。吐いた。
それから、扉を叩いた。
「入れ」
返事はすぐだった。
カルラの声だ。
低く、落ち着いていて、いつも通りだった。
サラは取っ手に手をかける。冷たい金属の感触が、指先に移った。扉を開ける。
執務室の中には、紙と薬草茶の匂いがあった。広い机の上には、試験記録らしき紙束が積まれている。その横に、白い縁取りの焼けたカードが一枚、透明な薄板の上に置かれていた。試験で使われた氷雪系のカードだ。縁は黒く焦げ、魔術回路の一部は焼き切れている。
カルラは窓際に立っていた。白い髪を後ろで束ね、黒い外套を肩にかけている。試験場にいたときとほとんど変わらない姿だった。けれど、腕は組んでいない。片手には湯気の立つ杯がある。
カルラはサラを見た。
胸元の赤い印を見た。
傘次郎を見た。
クラリスを見た。
エパールを見た。
最後に、もう一度サラを見た。
「三人と一本か」
「一本って言うな」
傘次郎が言った。
執務室の空気が、ぴたりと止まった。
エパールが小さく「あ」と声を漏らす。
クラリスは目を閉じた。
サラは心臓が一瞬止まったような気がした。
カルラは動かなかった。
杯を持つ指も、眉も、視線も、ほとんど動かなかった。ただ、ほんのわずかに、湯気の向こうで目が細くなった。
「……なるほど」
カルラは杯を机の上に置いた。
「報告すべきことは、それか」
サラは息を呑んだ。
声が出るまで、少し時間がかかった。
「……うん」
「サラ。お前の口で言うんだ」
きつい声ではなかった。
けれど、逃げられない声だった。
サラは傘次郎を握り直す。
「傘次郎が、喋った」
「今、聞いた」
「私だけじゃなくて、クラリスにも、エパールさんにも聞こえた」
「分かっている」
「今日から。少なくとも、私がちゃんと聞いたのは、今日が初めて。試験に落ちたあと、中庭で……私が、待てって言うの、って言ったら」
そこまで言って、サラは言葉を詰まらせた。あのときの自分の声が戻ってくる。
母は帰ってこない。
父も帰ってこなかった。
クラリスも何も言わずにいなくなった。
だから、自分が行くと決めたのに。
また、待てって言うの。
その言葉の直後に、傘次郎が喋った。
待てなんて言ってねーよ。
止まってんのは、お前だ、サラ。
「最初の言葉は」
カルラが聞いた。
サラは顔を上げる。
「……『待てなんて言ってねーよ』」
傘次郎が少しだけ黙った。
「それと、『止まってんのは、お前だ、サラ』って」
「言い方」
クラリスが小さく呟いた。
「事実だろ」
傘次郎が返す。
「事実でも言い方はありますわ」
「お前、さっきからそればっかりだな」
「必要なことですもの」
「必要なのか?」
「とても」
カルラが机の端を指で軽く叩いた。
小さな音だった。
それだけで、三人と一本が黙る。
「続けろ」
サラは頷いた。
「その後、傘次郎と話した。名前は知らないって。自分の正体も分からないって。お母さんのことも、はっきりしたことは知らないって」
「嘘をついた様子は」
カルラが尋ねる。
サラは一瞬迷った。
「……分からない。でも、たぶん、本当に知らないんだと思う」
「根拠は」
「本当に知っていたら、もっと嫌な言い方をすると思う」
「どういう根拠だよ……!」
傘次郎が言った。
「傘次郎だから」
「おい、納得すんなよ、カルラ」
カルラは納得した顔をしていなかった。ただ、記録紙を一枚引き寄せ、短く何かを書きつける。
「クラリス」
「はい」
「お前が最初に聞いたのは」
「中庭です。サラが傘次郎と口論している最中でした。声は、傘の内側から響くように聞こえました。サラの声とは明確に違います。記録音声ではなく、会話の文脈に応答していました」
「エパール」
「はいっ」
エパールの背筋が伸びる。
「お前は」
「同じく中庭です。傘次郎さんの発話は、少なくとも私にも聞こえました。発声器官は外装からは確認できません。布、骨、柄の振動、または魔素流由来の音響化の可能性はありますが、外装確認のみなので断定できません。断定しません。今断定するとクラリス様に叱られます」
「叱るのは私でもある」
「はいっ」
エパールはさらに背筋を伸ばした。
カルラは少しだけ眉を下げた。
「……その手帳は使ったか」
「使いました」
エパールは胸を張りかけて、途中でおずおずと手帳を取り出した。
「暴走防止。表紙にそう書いてあります」
「見れば分かる」
「はい。見れば分かります」
傘次郎が低く言った。
「何で少し誇らしげなんだ」
「手順を守れたので……」
「子どもか」
「傘次郎」
サラが小さく言う。
「言い方」
「お前までそれか」
「必要なことだから」
「流行らせるな」
カルラが、軽く咳払いをする。
全員が黙る。
カルラはエパールを見た。
「外装確認をしたな」
「はい。サラさんの許可をいただき、外から見える範囲だけ確認しました。布、骨、露先、柄、接合部です。内部確認、魔石相当部位の有無確認、魔術回路への干渉、補強材の仮当て、分解、分解に近い観察はしていません」
「魔素流は」
「外から見える範囲の簡易観察だけです。測定具は使っていません。正確な流路や中心部は不明です」
「状態は」
エパールは手帳を閉じた。今度は手帳を見なかった。
「今すぐ壊れる状態ではありません。骨は折れていません。ただし、試験時に内側から風圧を受けた影響で、一本に負荷が集中した痕があります。柄と接合部にも負荷があります。繰り返せば危険です」
「布は」
「外側は古いです。でも、内側の芯が残りすぎています。普通の経年劣化ではありません。保存状態がいい、という言い方では足りません。表面だけが古く、奥が……」
エパールはそこで止まった。
クラリスが見ている。
サラも見ている。
傘次郎も、たぶん見ている。
エパールは言い直した。
「奥の強度が、不自然に残っています」
クラリスが小さくうなずいた。
「今のは断定しすぎていませんか」
「範囲内ですわ」
「ありがとうございます……」
カルラは目を伏せ、しばらく黙った。その沈黙が、サラには怖かった。
怒っているのか。
驚いているのか。
考えているのか。
分からない。
カルラは、昔からそうだった。感情が全部顔に出るときもあれば、まったく出さないときもある。どちらが本当なのか、サラには分からない。
「カルラ様」
クラリスが言った。
「報告は以上ではありません。サラは、傘次郎を持ったままですが、エパールに触れることを許可しました」
サラは思わずクラリスを見た。
「それも言うの?」
「言いますわ」
「何で」
「大事だからです」
クラリスはまっすぐ言った。
「傘次郎の異常だけではなく、あなたがどこまで進めたかも、カルラ様は知るべきです」
「……そういうもの?」
「そういうものですわ」
カルラはサラを見た。
その視線が、試験場のときより少しだけ柔らかい気がした。気のせいかもしれない。
「どこまで許した」
「布の端と、骨と、柄の上の方だけ」
「傘は渡したか」
「渡してない」
「作業台に置いたか」
「置いてない」
「手を離したか」
「離してない」
「そうか」
カルラは短く言った。
サラは唇を結ぶ。
「それだけ……」
「それだけではない」
カルラの声は、静かだった。
「お前にとっては、それだけではないだろう」
サラは何も言えなかった。
胸元の赤い印が、また熱を持ったような気がした。
「だが」
カルラは続ける。
「それで合格になるわけでもない」
サラの肩が、小さく揺れた。
分かっていた。
分かっていたはずなのに、その言葉は刺さった。
「……うん」
「泣くなよ。泣いていないな」
「泣いてない」
「泣きそうな顔ではあるが」
「うるさい」
「師匠に向かってうるさいとは何だ」
「ごめんなさい」
反射的に謝ると、カルラが少しだけ目を細めた。
「今のは素直だな」
「今は、喧嘩する元気がないだけ」
「なら、それも報告に含めておく」
「含めないで」
「冗談だ」
「分かりづらいって」
「私もそう思いますわ」
クラリスが言った。
カルラがゆっくりクラリスを見る。
「クラリス」
「はい」
「お前も少しは遠慮を覚えたかと思っていたが」
「覚えたからこそ、必要なときだけ言っています」
「そうか。では必要だったのだな」
「はい」
「後で帰還報告を出せ。三日前に戻っていながら報告がなかった理由も添えろ」
「……はい」
クラリスの背筋が少しだけ硬くなった。
サラはクラリスを見る。
クラリスは顔を逸らさなかった。けれど、少し困ったように眉を寄せている。
カルラはそれ以上追及しなかった。
「さて」
カルラは机の上の焼けた白いカードを持ち上げた。
「傘次郎の発話について、名前をつけるな」
サラは瞬きをする。
「名前?」
「人格魔道具、憑依魔道具、記録器、魂宿り、守護具。呼び名はいくらでも作りようがある。だが、今はどれにも分類するな」
カルラの声が、少し低くなる。
「名前をつけると、分かった気になる。分かった気になると、見落とす」
エパールが小さく頷いた。
クラリスも黙って聞いている。
傘次郎だけが言った。
「珍しくまともだな」
「お前も黙って聞け」
「はい」
サラは思わず傘を見た。
「今、素直だったね」
「相手による」
「私には?」
「お前は言い返すから面倒だ」
「傘次郎が先に言うからでしょ」
「お前も相当言うぞ」
「今それ話すところじゃない」
「お前が振ったんだろ」
カルラは深く息を吐いた。
「会話は自然だな」
それは、ただの感想ではなかった。確認だった。
サラは黙った。
クラリスも黙った。
エパールが小さく頷く。
「自然すぎます。反応が早く、文脈理解があります。サラさんとの関係性に応じた返し方をしています。今のところ、単純な記録再生には見えません」
「見えない、だな」
「はい。断定しません」
「よろしい」
カルラは白いカードを置いた。
「次に、蒼炎について確認する」
その言葉が出た瞬間、サラの指が柄に食い込んだ。
傘次郎も黙った。
蒼炎。
あの日、森の奥で出た火。
父の血と、魔物の牙と、古びた傘と、サラの叫びの間に現れたもの。
サラを焼かず、魔物だけを焼いた蒼い炎。
「サラ」
カルラが呼ぶ。
「はい」
「あの日以後、蒼炎を自分の意思で出せたことは」
「……ない」
「訓練中も」
「一度もない」
「試験中も」
「出なかった」
「出そうとしたか」
サラは少し迷った。
「……分からない。出したいと思ったことはある。でも、出し方は分からない」
「それでいい」
「いいの?」
「よくはない。だが、事実としてそれでいい」
カルラは記録紙に短く書いた。
「蒼炎と発話を同じ現象として扱うな。関係がある可能性はある。だが、現時点では別々の未確定事項だ」
「別々」
「そうだ。混ぜるな。分かったふりをするな」
サラは頷いた。
エパールが恐る恐る手を上げる。
「あの、カルラ様」
「何だ」
「本格検査は、いつ行いますか」
サラの身体が固まった。傘次郎が低く唸る。エパールはすぐに両手を振った。
「あっ、今すぐではなく、予定の確認です。今ここで作業台に置いてくださいという意味ではありません。分解という意味でもありません。手帳にも『予定確認と作業開始は違う』と書いてあります」
「誰が書いた」
カルラが聞く。
「クラリス様です」
「だろうな」
クラリスは否定しなかった。
カルラは椅子を引き、ようやく座った。
「本格検査は行う。ただし、今日ではない」
サラは息を吐きかけて、途中で止めた。
「今日じゃない?」
「お前は試験に落ちた直後だ。クラリスは帰還報告も済んでいない。エパールは外装確認で十分暴走しかけた」
「しかけてはいません」
エパールが小声で言う。
クラリスが睨んだ。
「しかけましたわ」
「はい……」
「傘次郎も、今この場で納得して作業台に乗るとは思えん」
「絶対乗らん」
傘次郎が即答した。
「そういうことだ」
カルラはサラを見る。
「サラ。今すぐ預けろとは言わない」
その言葉に、サラはようやく息を吐いた。
けれど、次の言葉は予想できた。
「だが、いつまでも抱えたままにもできない」
やっぱり。
サラは傘の柄を握る。
「分かってる」
「本当にか」
「分かってはいる」
「できるか」
「……まだ、分からない」
「なら、それでいい」
サラは顔を上げた。
カルラは、厳しい顔のままだった。
「できると言ってできないより、分からないと言える方がましだ。今日のお前は、少なくともそれを言えている」
「それ、褒めてる?」
「評価している」
「褒めてはないんだ」
「褒められたいのか」
「……今は、ちょっと」
言ってから、サラは自分で驚いた。
カルラも少しだけ目を見開いた。
クラリスが何も言わない。
エパールも何も言わない。
傘次郎も黙っている。
サラは顔が熱くなるのを感じた。
「今のなし」
「なしにはならん」
カルラは静かに言った。
そして、少しだけ声を柔らかくした。
「よく報告に来てくれた」
たったそれだけだった。
それだけなのに、サラの喉が詰まった。
褒め言葉としては短すぎる。
優しさとしては硬すぎる。
カルラらしいと言えば、あまりにもカルラらしい。
でも、今はそれで十分だった。
「……はい」
サラはどうにか返事をした。
傘次郎がぼそりと言う。
「止まらなかったな」
「黙って」
「褒めてやったんだが」
「今言われると泣きそうになるから黙って」
「面倒くせえな」
「傘次郎」
クラリスが静かに言った。
「今のは、黙るところですわ」
「……分かったよ」
傘次郎は黙った。
珍しく、本当に黙った。
カルラは記録紙をまとめ、机の端へ置いた。
「この件は、当面私の管理下に置く。学院全体へは流さない。協会への正式報告も、内容を整理してからだ」
「大問題じゃないの?」
サラは聞いた。
「大問題だから、雑に広げない」
カルラは即答した。
「自発会話する魔道具などという言葉だけが先に走れば、傘次郎を取り上げろと言う者も出る。封印しろと言う者も、研究材料にしろと言う者も出るだろう」
サラの手が、また強くなる。
「だから、まず私が止める」
カルラは言った。
「だが、なかったことにもできない。記録は残す。聞いた者も明記する。外装確認結果も添える。嘘はつかない。ただし、出す順番と出す相手は選ぶ」
クラリスが小さく頷いた。
「言葉も報告も、受け取れる形にする必要がありますものね」
「お前に言われると少々腹が立つな」
「なぜですの」
「成長しているからだ」
クラリスが少しだけ目を伏せる。
「……ありがとうございます」
「褒めていない」
「評価ですね」
「そうだ」
サラは二人を見て、少しだけ口元を緩めた。
クラリスは、本当に変わった。
昔と同じように偉そうで、言い方も相変わらずで、でも、少し違う。
言葉を選ぶ。
選んだ上で、必要なことは言う。
その変化が、嬉しいのか、寂しいのか、まだ分からない。
カルラは机の引き出しを開け、小さな封筒を取り出した。黒い封蝋ではない。学院の簡易封だ。赤い縁取りがあり、緊急度が中程度であることを示している。
「本来なら、これは明日の朝に回すつもりだった」
カルラは封筒を机の上に置いた。
サラは嫌な予感がした。
「何?」
「外壁外、古い森の封鎖区画から報告が上がっている」
古い森。
その言葉だけで、部屋の温度が下がったように感じた。サラの手の中で、傘次郎がわずかに重くなる。クラリスの表情も変わった。ほんの少しだった。けれど、サラには分かった。エパールだけが、事情を完全には知らずに周囲を見ている。
「古い森って」
サラの声は、自分でも驚くほど低かった。
「お父さんが……」
その先は言えなかった。
カルラは言葉を継がせなかった。
「そうだ。数年前の魔物残滓を封鎖している区画だ」
エパールの顔が変わる。
興味ではない。
理解しようとする顔だった。
「残滓に、何か?」
「封鎖結界の一部に揺らぎが出ている。魔素濃度が微弱に上昇。魔石崩壊後の残留反応としては不自然だと、巡回魔道士から報告があった」
「暴走の兆候ですか」
エパールが思わず前のめりになる。
すぐに手帳を取り出しかけ、クラリスに見られて止まった。
「……呼吸します」
「そうなさい」
クラリスの短い許可を受けて、エパールは息を吸った。吐いた。
カルラは続ける。
「現時点で魔物の再発生は確認されていない。封鎖も維持されている。だから急行案件ではない」
「でも、調査は必要なんでしょ」
サラは言った。
「必要だ」
「だったら、行く」
カルラはすぐには答えなかった。
サラは傘次郎を握る。
今度は、傘にしがみつくためではなかった。
「あそこは、お父さんが死んだ場所だよ」
「だからだ」
「だから、行く」
サラの声が揺れた。
でも、止まらなかった。
「行かないで済むなら、ずっと行かない。考えないで済むなら、ずっと考えない。でも、そこに何か起きてるなら、知らないままにしたくない」
レクシオの倒れた森。
蒼炎が出た場所。
魔物が崩れた場所。
クラリスが間に合わなかった場所。
カルラが現場指揮をした場所。
ヴィクトールが父の魔素反応を確認した場所。
そこへ行く。
足が震えないと言えば嘘になる。
でも、今言わなければ、また待つだけになる気がした。
「お前は今日、不合格になった」
カルラが言う。
「知ってる」
「大魔道士ではない」
「知ってる」
「私の弟子だ」
「知ってる」
「なら、弟子として行け」
サラは顔を上げた。
「……いいの?」
「行きたいと言ったのはお前だ」
「止めないの?」
「止めたら止まるのか」
サラは少し黙った。
「……たぶん、止まらない」
「なら、条件をつける方が現実的だ」
カルラは机の上の報告書を指で押さえた。
「ただし、私は同行しない」
その言葉に、サラだけでなく、クラリスもエパールも顔を上げた。
「来ないの?」
「来ない」
カルラは短く言った。
「私が動けば、封鎖区画の異常はその時点で大事になる。協会にも学院にも、余計な目が増える。今必要なのは、大魔道士が現地を制圧することではない。最初の確認だ」
「でも、危ないかもしれない」
「危ないなら撤退しろ」
カルラの声は鋭かった。
「それが今回の第一条件だ。戦うな。解決しようとするな。封鎖を破るな。残滓に触れるな。異常を見つけたら記録し、戻って報告する。お前たちの任務は討伐ではない。確認だ」
サラは黙った。
カルラが同行しない。
それは、少し怖かった。
けれど同時に、少し違う何かもあった。
試されている。
でも、試験場のように落とすためではない。
現場へ出るために、条件を渡されている。
「封鎖区画の外には巡回魔道士を置く」
カルラは続けた。
「救援信号用のカードも持たせる。撤退経路も指定する。異常があれば、すぐ戻れ。戻る判断も、今回の任務に含める」
「戻る判断……」
「そうだ」
カルラはサラを見た。
「迎えに行くことは、進むことだけではないのだろう」
サラは息を止めた。
それは、傘次郎が言ったことだった。
帰る道を守ること。
カルラは傘次郎を見ていない。
けれど、見ているようだった。
「無茶をする者は、帰る道を壊す。帰る道を壊す者に、誰かを迎えに行く資格はない」
その言葉は、静かに刺さった。
サラは傘次郎を握ったまま、頷いた。
「……分かった」
「本当にか」
「分かった。戦いに行くんじゃない。見て、戻って、報告する」
「よし」
「私も行きますわ」
クラリスが言った。その声は、予想していたみたいにまっすぐだった。サラはクラリスを見る。クラリスはサラではなく、カルラを見ていた。
「私は、あの森を知っています。あの日、そこへ走りました。封鎖区画までの地形も、巡回魔道士への連絡手順も分かります。護衛としても、撤退判断の補助としても、同行できます」
「駄目だ」
カルラは即答した。
クラリスの目がわずかに揺れる。
「なぜですの」
「お前が行けば、サラは森だけを見ることにならない」
カルラは静かに言った。
「森を見る。父の死を思い出す。蒼炎を思い出す。傘次郎を見る。エパールの観察を見る。そのうえで、お前の顔も見ることになる」
クラリスは何も言わなかった。
「多すぎる」
その一言は、厳しかった。
でも、突き放す声ではなかった。
「今回は、サラが自分の足で見て、自分で戻ってくる場だ。お前が横に立つ場ではない」
「……私は、また待つ側ですの?」
クラリスの声は小さかった。
サラの胸が、きゅっと縮む。
その言葉には、怒りよりも痛みがあった。
また待つ。
置いていかれる。
追いつけない。
クラリスにとっても、それは傷なのだと分かる。
「違う」
カルラは言った。
「戻ってくる場所を守る側だ」
クラリスが顔を上げる。
「明日、お前は学院に残れ。帰還報告を出し、フォルスシタデルから持ち帰った情報を整理しろ。サラたちが戻ったとき、報告を受けられる場所にいろ。異常があって信号が上がれば、次に動く準備をしておけ」
「それは……待つことと、何が違いますの」
「戻ってくる前提で待つことは、ただ置いていかれることとは違う」
カルラの声が少しだけ低くなる。
「お前は、サラを追いかけるために帰ってきたのだろう。なら今は、追いかける前に、帰る場所を作れ」
クラリスは唇を結んだ。
サラは何も言えなかった。
クラリスが行かない。
それは、少し不安だった。
でも、どこかで分かってもいた。
クラリスが一緒に来たら、自分はきっと森だけを見られない。あの日、クラリスが間に合わなかったことも、何も言わずに去ったことも、帰ってきたことも、全部一緒に抱えてしまう。それはたぶん、今の自分には多すぎる。
「……分かりましたわ」
クラリスはゆっくりと言った。
「今回は、残ります」
声は揺れていなかった。でも、指先はわずかに握られていた。
サラは口を開きかけた。
何か言いたかった。
でも、何を言えばいいのか分からない。
ごめん。
ありがとう。
待ってて。
戻るから。
どれも違う気がした。
クラリスが先に、サラを見た。
「サラ」
「……何」
「戻ってきなさい」
それは命令みたいだった。
昔と同じ、少し偉そうな言い方。
でも、昔とは違った。
「戻ってきたら、報告を聞きますわ。あなたが見たことを、あなたの口で」
サラは息を吸う。
それから、頷いた。
「うん。戻ってくる」
クラリスの表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
傘次郎がぼそりと言う。
「言ったな」
「言ったよ」
「なら戻れよ」
「分かってる」
カルラは次にエパールを見る。
「エパール」
「はいっ」
「お前は戦闘要員ではない」
「はい。とても違います」
「だが、魔物残滓、魔石崩壊、蒼炎反応の痕跡を見る目は必要だ。行くか」
エパールは一瞬、サラを見た。
そして、傘次郎を見た。
傘次郎が低く言う。
「見るな」
「すみません」
「謝るなら見るな」
「はい」
エパールは視線を下げ、それからカルラへ向き直った。
「行きます。戦えません。でも、見られるものは見ます。断定しない範囲で」
「よろしい」
カルラは封筒から報告書を取り出し、三人の前へ広げた。
「明朝、外壁北東門に集合。封鎖区画までは巡回魔道士が案内する。区画の内側へ入るのは、サラ、エパールの二名。ただし外縁部までだ。巡回魔道士は封鎖線前で待機する。クラリスは同行しない。私は学院に残る。傘次郎の件の記録整理、協会への報告範囲の調整、そして万一に備えた救援体制の準備をする」
「救援体制?」
「お前たちが信号を上げたら、私が動く」
カルラはさらりと言った。
「だから、信号を上げる前に格好をつけるな。助けを呼ぶことを恥と思うな。これはクラリスにも言ったことだ」
クラリスがわずかに目を伏せる。
「覚えています」
「よろしい。明日は同行しなくても、お前にはお前の役割がある」
「はい」
サラは報告書を見る。
封鎖区画。
古い森。
残留魔素濃度。
結界揺らぎ。
魔石崩壊反応。
知らない言葉ばかりではない。けれど、そこに父の名前はない。
レクシオ・アーベント。
その名前は書かれていない。ただの現場として、残っている。それが少しだけ、寂しかった。
「目的は三つ」
カルラが言った。
「封鎖結界の確認、魔素濃度上昇の原因調査、残滓に残る異常反応の有無確認。戦闘は目的ではない」
「蒼炎も?」
サラは聞いた。
カルラは少し黙った。
「可能性はある」
その言葉だけで、サラの胸が詰まる。
「ただし、探しに行くのは蒼炎ではない」
カルラは言った。
「残っている事実を見に行く。欲しい答えを拾いに行くな」
サラは唇を噛んだ。
それは、たぶん自分に必要な言葉だった。
森に行けば、父の何かが残っているかもしれない。
蒼炎の理由が分かるかもしれない。
傘次郎の正体に近づくかもしれない。
そう思いたくなる。
でも、欲しい答えを拾いに行けば、見えるものも見えなくなる。
さっきエパールが言ったことと似ていた。
魔道具として変でも、それより先に大事に使われてきたものだと見なければいけない。
森も同じなのかもしれない。
父を失った場所である前に、現場だ。
封鎖区画だ。
危険があるかもしれない場所だ。
「……分かった」
サラは言った。
「分かった、けど。行く」
「それでいい」
カルラは報告書を畳んだ。
「今日は解散だ。サラは休め」
「……眠れると思う?」
「眠れなくても横になれ。食え。水を飲め。傘を握っていてもいい。ただし、握ったまま徹夜するな」
「何で分かるの」
「お前の師匠だからだ」
「師匠って便利だね」
「便利ではない。面倒だ」
カルラは立ち上がる。そして、ふと思い出したようにエパールを見た。
「エパール」
「はい」
「明日、封鎖区画で分解はするな」
「しません」
「分解に近い観察もするな」
「しません」
「分解ではないと言い張る分解は」
「しません」
「よし」
傘次郎がぼそりと言った。
「信用されてねえな」
「傘次郎さんも、明日は勝手に変な反応をしないでください」
「俺に言うな」
「言います。反応されたら記録しなければいけないので」
「やっぱりこいつ嫌いだ」
「三回目です……」
エパールは肩を落とした。
サラは傘を抱え直す。
不思議だった。
カルラに報告した。
傘次郎が喋ったことも、エパールに触らせたことも、外装確認の結果も、全部話した。
蒼炎のことも、少しだけ話した。
明日は、父が死んだ森へ行くことになった。
カルラは来ない。
クラリスも来ない。
それは怖い。
けれど、怖いから行けない、とは思わなかった。
むしろ、二人がいないからこそ、自分で見て、自分で戻ってこなければならない。
重い。
怖い。
でも、さっきまでより、少しだけ息ができる。
隠していないからかもしれない。
一人で持っていないからかもしれない。
「サラ」
カルラが呼んだ。
「はい」
「今日は傘次郎を持って帰れ」
サラは一瞬、言葉の意味が分からなかった。
「え?」
「本格検査は今日ではないと言った。だから持って帰れ」
「……うん」
「ただし」
「ただし?」
「明日、森へ行く前に、もう一度状態を確認する。外からだ。エパールが触るかどうかは、お前と傘次郎が決めろ」
傘次郎がすぐ言った。
「俺は嫌だ」
「私は……」
サラは柄を見る。
即答はできなかった。
でも、即答できないことを、前ほど悪いと思わなかった。
「明日、決める」
カルラは頷いた。
「それでいい」
クラリスが扉の方へ歩く。エパールが工具鞄を抱え直す。サラも一歩踏み出した。
そのとき、カルラが小さく言った。
「サラ」
振り返る。
「赤い印は、今日は消さずにおけ」
サラは胸元を見た。
「何で」
「忘れないためだ」
「不合格を?」
「違う」
カルラの目は、まっすぐだった。
「止まったところから、また歩いたことをだ」
サラは何も言えなかった。
胸元の赤い印を見る。
それは不合格の印だった。
でも、今はそれだけではない気がした。
試験場で止まった印。
中庭で一歩離れた印。
クラリスにおかえりと言った印。
エパールに触らせた印。
カルラへ報告に来た印。
全部が同じ場所にある。
消えていない。
でも、歩いた。
「……はい」
サラは答えた。
執務室を出ると、廊下の空気がまた冷たかった。けれど、さっきよりは怖くなかった。クラリスが隣に立つ。エパールが少し後ろで手帳をしまっている。サラは傘次郎を握り、歩き出した。
「明日、森だって」
サラは小さく言った。
「聞いてた」
傘次郎が返す。
「怖い?」
「俺に聞くな」
「じゃあ、私が怖い」
「だろうな」
「でも、行く」
「だろうな」
サラは少しだけ笑った。
「そこは止めないんだ」
「止めて止まるなら、カルラが止めてる」
「そうだね」
隣で、クラリスが小さく息を吐いた。サラはそちらを見る。
「クラリス」
「何ですの」
「……戻ってくるから」
言ってから、サラは胸が少し痛くなった。
それは、母が言った言葉に似ていた。
すぐ帰るから。
それまでこの子と待ってて。
言ったあとに、その重さに気づいた。
クラリスも気づいたのだと思う。
でも、クラリスは顔を逸らさなかった。
「ええ」
クラリスは言った。
「待っていますわ」
その声は静かだった。
「ただし、遅かったら迎えに行きます」
「……うん」
「今度は、追いつきます」
サラは何も言えなかった。
言ったら、泣きそうだった。
傘次郎がぼそりと言う。
「戻ってこいよ」
サラは足を止めかけた。
けれど、止まらなかった。
「……うん」
廊下の先には、朝より少し高くなった光が差していた。
明日、古い森へ行く。
父が倒れた場所へ。
蒼炎が出た場所へ。
クラリスが、今度は待っている場所へ。
まだ何も分からない場所へ。
怖い。
でも、足は動いている。
サラは傘次郎を握ったまま、クラリスとエパールと一緒に、廊下を進んだ。




