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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編
PR
13/21

第13話 残っている事実

 眠れなかった。


 そう言うには、少しだけ嘘があった。目を閉じていた時間はある。寝台の上で横になり、傘次郎を抱えたまま、呼吸だけを数えていた時間もある。けれど、眠ったかと聞かれれば、サラは首を横に振るしかなかった。

 朝になるまで、窓の外の色が何度も変わった。夜の黒が薄くなり、石壁の輪郭が見え、屋根の上に白い光が乗る。フォルシュタットの街は、いつも通りに目を覚ましていった。遠くで鐘が鳴る。店の戸が開く。荷車の車輪が石畳をきしませる。誰かが水を汲み、誰かが朝食の匂いを通りへ逃がす。


 街は、何も知らない顔で朝になった。


 サラは寝台の端に座り、膝の上の傘次郎を見下ろしていた。


 古びた布。

 歪んでいるとエパールに言われた骨。

 何度も握ってきた柄。


 昨夜と同じ傘。

 昨日までとは違う傘。


「……寝てないだろ」


 傘次郎が低く言った。


「寝た」

「嘘つけ」

「目は閉じてた」

「それを寝たとは言わねえ」

「じゃあ、横になってた」

「それは横になってただけだ」

「うるさい」

「眠れなかったって言えば済む話だろうが」


 サラは唇を尖らせる。


「眠れなかった」

「よし」

「何で傘次郎に言わされなきゃいけないの」

「言えたからいいだろ」

「よくない」


 文句を言いながら、サラは傘次郎を抱え直した。昨日の赤い印は、まだ黒い試験用外套の胸元に残っている。カルラに「今日は消さずにおけ」と言われた印だ。


 不合格の証。

 止まった場所の印。

 それから、また歩いたことを忘れないための印。


 外套は椅子の背に掛けてあった。


 今日は、試験ではない。

 討伐でもない。

 確認任務。


 だから、サラは黒い試験用外套ではなく、軽い灰色の外套を手に取った。学院の外壁外確認用に使われる、動きやすいものだ。胸元には赤い印がない。けれど、服を替えたからといって、そこにあったものまで消えるわけではなかった。

 サラは一度だけ、椅子の黒い外套を見た。赤い印は、朝の光の中でもはっきり残っていた。


「持ってくのか」


 傘次郎が聞いた。


「持っていかない」

「いいのか」

「今日は確認任務だから」

「理由になってるようで、なってねえな」

「……持っていったら、ずっとそこを見る気がする」


 サラは灰色の外套を羽織った。


「今は、森を見る」


 傘次郎は少し黙った。

 それから、低く笑うように言った。


「昨日の言いつけ、覚えてるじゃねえか」

「覚えてるよ」

「欲しい答えを拾いに行くな」

「残っている事実を見に行く」

「なら、止まるなよ」

「止まらない」

「戻れよ」

「戻る」


 言葉にすると、少しだけ足が重くなった。


 戻る。


 そう約束することは、思ったより怖い。


 母は「すぐ帰る」と言った。

 レクシオも「どこにも行かない」と言った。


 どちらも、帰ってこなかった。

 だから、自分が「戻る」と言うことが怖い。言えば、言葉が壊れる気がする。壊れたとき、自分だけでなく、待っている人まで傷つける気がする。


 けれど、昨日、言った。

 クラリスに。

 戻ってくるから、と。


 サラは傘次郎を握った。


「行こう」

「おう」


 返事は短かった。


 サラは部屋を出た。廊下には、朝の冷たい空気が流れていた。学院の石壁はまだ夜の湿り気を少し残している。歩くたびに、靴音が低く返ってきた。外壁北東門。そこが集合場所だった。


 途中、カルラの執務室がある廊下の角を通った。扉は閉まっている。中にいるのかどうかは分からない。けれど、サラはその前で少しだけ足を緩めた。


 昨日、自分で叩いた扉。

 報告した場所。

 古い森へ行くことを許された場所。


 サラは扉を見たまま、何も言わなかった。


「入らねえのか」

「入らない」

「挨拶くらいしてけ」

「師匠はたぶん忙しい」

「逃げる理由としては弱いな」

「逃げてない」

「なら行け」

「行く」


 サラは歩き出した。

 中庭の方へ続く廊下に出ると、古い木の影が見えた。昨日、傘次郎が喋り、クラリスが帰ってきて、エパールが傘に触れた場所。木の下には、誰もいなかった。サラは、そこも通り過ぎた。


 外壁北東門の前には、すでにエパールがいた。大きな工具鞄を肩に提げ、灰色の実用外套を着ている。髪は作業の邪魔にならないよう後ろでまとめていたが、やはりところどころ跳ねていた。足元には、小さな記録筒が三本、布で巻かれている。持ち物は多い。けれど、今日はいつもより工具鞄が小さく見えた。


 いや、小さいのではない。

 中身を減らされているのだ。


 エパールはサラを見ると、少しぎこちなく背筋を伸ばした。


「お、おはようございます、サラさん」

「おはよう、エパールさん」

「眠れましたか」


 サラは少し迷った。


「横にはなった」

「……なるほど」

「それ、傘次郎にも言われた」

「では、たぶん眠れていませんね」

「何で分かるの?」

「私も、緊張で眠れないときに同じ言い方をします」


 エパールは小さく笑おうとして、失敗した。

 傘次郎が低く言う。


「お前も寝てねえだろ」

「寝ました」

「嘘つけ」

「目は閉じていました」

「同類じゃねえか」

「同類……」


 エパールは少しだけ安心したような顔をしてから、すぐに首を振った。


「いえ、安心している場合ではありませんでした。睡眠不足は判断を鈍らせます。手帳にもそう書いてあります」

「本当に何でも書いてあるね」

「クラリス様が書き足しますので」


 エパールは外ポケットから革表紙の手帳を取り出した。表紙には、相変わらず大きく「暴走防止」と書かれている。端の方には、昨日はなかった小さな紙片が挟まれていた。


「今日の追加です」


 エパールは紙片をめくった。


「『森で分解しない』『封鎖を破らない』『残滓に触らない』『サラさんより先に対象物へ突っ込まない』『傘次郎さんを見つめすぎない』」

「待て、最後のは何だ」


 傘次郎が言った。


「必要事項です」

「見るんじゃねえ」

「見ません。たぶん」

「たぶんを消せ」

「消します」


 エパールは本当に鉛筆を取り出し、紙片の端に何かを書き込んだ。

 サラは少しだけ口元を緩めた。笑ってもいいのか、まだ分からない。でも、笑えないわけでもなかった。


「クラリスは?」


 サラは聞いた。聞いてから、来ないことは分かっていると思い直した。エパールも少しだけ表情を曇らせる。


「学院に残るそうです。帰還報告と、フォルスシタデルからの情報整理があると」

「そっか」

「ただ」

「ただ?」

「門の外には出ない、とおっしゃっていました」


 サラが瞬きをする。

 そのとき、門の内側にある詰所の影から、クラリスが姿を現した。旅装ではない。学院内で動くための整った服装に、軽い外套を羽織っている。髪もきちんと結ばれていて、今から外へ出る人間の姿ではなかった。

 それでも、彼女は門の近くに立っていた。


「おはようございます、サラ」

「……おはよう」

「顔色が悪いですわね」

「開口一番それ?」

「事実ですもの」

「言い方」

「必要なことです」


 昨日から何度も聞いた言葉だった。サラは少しだけ笑った。クラリスは、その笑いを見て、ほんの少し眉を緩めた。


「本当に来ないんだね」


 サラが言うと、クラリスの表情が静かになった。


「ええ。行きません」


 声は揺れていなかった。


「カルラ様に言われたからだけではありません。私が行けば、あなたが森だけを見ることにならない。それは、たぶん本当です」

「……うん」

「ですが、待っているだけではありません」


 クラリスはサラをまっすぐ見た。


「あなたが戻ったら、報告を聞きます。あなたが見たことを、あなたの言葉で」

「うん」

「それから」

「何?」

「遅かったら迎えに行きます」

「昨日も言ってた」

「大事なことは二回言いますわ」

「三回目は?」

「必要なら言います」


 その澄ました返し方が、少しだけ昔のクラリスに似ていた。

 でも、昔とは違う。


 クラリスは門のこちら側に残る。

 サラは門の向こうへ行く。


 その違いが、今ははっきり分かる。


「サラ」


 クラリスが呼んだ。


「何」

「無理をしないで、とは言いません」


 サラは目を上げる。


「あなたは、必要だと思えば無理をします。私がそう言っても、たぶん止まりません」

「……そんなこと」

「ありますわ」

「少しは否定させてよ」

「では、少しだけ」

「そんなこと……あるかも」

「はい」


 クラリスは小さく頷いた。


「だから、別のことを言います」


 風が、外壁の上を抜けていく。

 門番の魔道士が遠くで巡回表を確認していた。

 エパールは手帳を閉じ、黙って待っている。

 傘次郎も何も言わなかった。


 クラリスは言った。


「戻ることを、失敗だと思わないでください」


 サラは息を止めた。


「見て、戻って、報告する。それが今回の任務なのでしょう。なら、戻ることは逃げではありません」

「……うん」

「あなたが戻ってきたら、私はここで報告を聞きます。戻ってこなければ、私は追います」

「うん」

「ですから」


 クラリスは少しだけ言葉を選んだ。


「戻ってきなさい」


 命令の形だった。

 昔と同じ。

 でも、今はそれがありがたかった。


「戻ってくる」


 サラは答えた。

 クラリスは頷いた。

 それから、エパールの方を見た。


「エパール」

「はいっ」

「手帳」

「持ちました」

「封鎖」

「破りません」

「残滓」

「触りません」

「分解」

「しません」

「分解ではないと言い張る分解」

「しません」

「サラを置いて突っ込むこと」

「しません」

「傘次郎を見つめすぎること」

「しません。なるべく」

「なるべく?」

「しません」

「よろしい」


 エパールは緊張した顔で頷いた。

 傘次郎が低く言った。


「お前、飼い慣らされてんな」

「必要な管理ですから……」

「自覚があるのか」

「あります」

「そこは偉いな」

「褒められました……?」

「評価だ」

「カルラ様方式……」


 エパールがしゅんとする。

 そのとき、北東門の詰所から巡回魔道士が一人出てきた。三十代ほどの男で、短く刈った髪に、外壁巡回用の灰色の外套を羽織っている。腰には薄い金属板を束ねたケースがあり、胸元には魔道士協会フォルシュタット支部の紋章が付いていた。


「サラさん。エパールさん」

「はい」

「はいっ」

「本日の案内を担当します。カルラ様より、封鎖線前までの案内と待機、救援信号の保持を命じられています」


 巡回魔道士は淡々と言い、薄い赤縁のカードを見せた。


「これは私が保持する救援信号用のカードです。お二人には、簡易連絡札を一枚ずつ渡します。折れば、封鎖線まで信号が届きます」


 サラとエパールは、それぞれ小さな札を受け取った。薄い木片に、赤い線が一本だけ走っている。軽い。けれど、持つと少しだけ指先が温かくなった。


「この札は、通常型ではありません」


 巡回魔道士が続ける。


「魔素は札の中に封じてあります。折れば起動しますので、使用者が魔素を流す必要はありません」

「誰でも使えるってこと?」


 サラが聞いた。


「負傷者や、魔素を乱した者でも使えるように作られています。カルラ様からは、通常型ではなく、必ずこの型を渡すよう念を押されています」

「高そうだな」


 傘次郎が言った。

 巡回魔道士は否定しなかった。


「緊急用ですので」

「否定しねえのかよ」

「事実ですので」


 サラは札を見下ろした。


 カルラは門にはいない。

 けれど、ここにあるものの選び方には、カルラの手が届いている。


「それから」


 巡回魔道士は、今度はサラとエパールの両方を見た。


「確認任務中は、自前の魔素を流す術式を使わないように、とも命じられています」


 エパールがすぐ頷いた。


「痕跡が乱れるから、ですね」

「はい。場の魔素流も、術者側の魔素流も変わります。戻ってから、何が元からあった異常で、何がこちらの干渉だったのか分からなくなる。異常があれば、術式で押さえ込まず、戻って報告してください」

「魔法でどうにかするな、ってことか」


 傘次郎が言った。


「確認任務ですので」


 巡回魔道士は淡々と答えた。

 サラは札を外套の内側へしまった。


 魔法を使うな。

 戦うな。

 解決しようとするな。


 分かっていたはずなのに、改めて言われると、思ったより重かった。


「使う条件は」


 巡回魔道士が続ける。


「魔物再発生の兆候、封鎖結界の急変、魔素濃度の急上昇、負傷、撤退不能、その他判断に迷う異常。迷った場合は折ってください。迷った時点で、使う理由として十分です」

「迷ってもいいんですか」


 サラが聞く。

 巡回魔道士は少しだけ目を細めた。


「迷わない人間の方が危ないです」


 やっぱり、少しだけカルラに似ていた。

 サラは小さく頷いた。


「分かりました」

「では、出発します」


 門が開く。

 重い音が、朝の空気を押し分けた。

 サラは門の向こうを見た。


 外壁の外。

 草地。

 遠くに見える古い森。


 胸の奥が、きゅっと縮んだ。


 昔、サラは正門ではなく、小さな鉄扉から外へ出た。母を迎えに行くために。どこへ行けばいいのかも分からないまま、古びた傘を抱えて走った。


 今は、門が開いている。

 巡回魔道士がいる。

 エパールがいる。

 連絡札がある。

 クラリスが後ろにいる。

 カルラが学院にいる。


 それでも、怖いものは怖かった。


「サラ」


 クラリスが声をかける。


 サラは振り返った。


 クラリスは門の内側に立っていた。

 絶対に、そこから先へは出ないというように。


「行ってきなさい」


 サラは頷いた。


「行ってくる」


 門をくぐる。

 外壁の影が、サラの身体を一瞬だけ覆った。


 それから、朝の光が前に広がった。

 草地は、露で白く光っていた。

 フォルシュタットの外は、街の内側よりずっと静かだった。風の音が大きい。靴裏で草が潰れる音が近い。遠くで鳥が鳴いているのに、その声だけがやけに薄く聞こえる。外壁を離れるほど、街の音は背後へ沈んでいった。


 サラは傘次郎を握った。


「大丈夫ですか」


 エパールが小さく聞いた。


「大丈夫」


 答えてから、サラは少し止まった。


 大丈夫。


 昔からよく使ってきた言葉だ。

 大丈夫ではないときほど、口に出していた気がする。


「……大丈夫じゃないかも」


 言い直すと、エパールが瞬きをした。

 傘次郎が言う。


「進歩したな」

「うるさい」

「褒めてんだよ」

「今のは褒めてるように聞こえない」

「俺に期待すんな」


 エパールは少しだけ笑った。


「大丈夫じゃない、は大事です」

「手帳に書いてある?」

「書いてあります」

「本当に?」

「今、書きます」


 エパールは歩きながら手帳を出そうとして、巡回魔道士に「歩行中の記入はやめてください」と言われた。


「はい……」


 エパールはすぐしまった。


 少しだけ、息ができた。


 古い森へ向かう道は、昔サラが通った獣道とは違った。北東門から続く巡回用の道は、草が低く刈られ、足元には小さな石標が並んでいる。一定間隔で、細い金属杭が地面に打ち込まれていた。魔道士協会の簡易警戒具だと、巡回魔道士が説明した。


 昔は、こんなものは見ていなかった。

 見ている余裕がなかったのか。

 それとも、自分が通った場所にはなかったのか。

 サラには分からなかった。


 森が近づく。

 古い木々が、朝の光を受けてもなお暗い影を落としていた。幹は太く、根は地面の上を這い、枝は互いに絡み合っている。葉の隙間から落ちる光は細く、地面までは届ききらない。

 サラの足が、ほんの少し遅くなる。


「逃げたそうな顔してんぞ」


 傘次郎が言った。


「逃げない」

「なら歩け」

「歩いてる」

「遅くなった」

「分かってる」

「ならいい」


 サラは一歩進んだ。


 森の入口には、封鎖用の杭が立っていた。杭と杭の間に、薄い光の膜が張られている。膜と言っても、目を凝らさなければ見えないほど薄い。ただ、空気の向こう側がわずかに歪み、葉の輪郭が水面越しのように揺れていた。

 封鎖結界。

 その外側には、魔道士協会の封鎖札が三枚、赤い紐で結ばれている。


 巡回魔道士は足を止めた。


「ここが外縁封鎖線です。現在、主要封鎖は維持されています。お二人が入れるのは、この線の内側、外縁部の観察範囲までです。中心部へは入らないでください」

「中心部は」


 エパールが聞いた。


「古い魔物残滓の封鎖点です。カルラ様から、残滓接触は厳禁と通達されています」

「はい。触りません」


 エパールはすぐに答えた。

 巡回魔道士は頷き、封鎖線の横にある細い隙間へ手をかざした。金属杭の一部が淡く光り、膜が人ひとり通れる程度に薄くなる。


「中へ入ったら、まず足元の白線を確認してください。白線の内側が外縁観察範囲です。そこから奥へは行かない。封鎖札には触れない。異常があれば、戻る。よろしいですね」

「はい」

「はい」

「傘も」


 巡回魔道士が傘次郎を見る。

 傘次郎が低く言った。


「傘に返事求めんな」


 巡回魔道士の表情が止まった。

 サラは思わず傘次郎を抱え込む。


「あ、えっと、その」

「ご安心を、報告は受けています」


 巡回魔道士は、予想より落ち着いていた。


「ただ、実際に聞くと驚きますね」

「ですよね……」


 エパールが小声で言う。

 傘次郎は不機嫌そうに黙った。

 サラは巡回魔道士を見た。


「あの、どこまで聞いてますか」

「カルラ様からは、あなたの傘が自発発話する異常魔道具であり、取り扱い情報は限定管理とだけ。分類名をつけるなとも言われています」

「……そうですか」

「私は見張りです。研究者ではありません。なので、今聞いたことは必要な記録にだけ残します」


 巡回魔道士は、カルラと同じような硬さで言った。


「……分かりました」


 サラは少しだけ肩の力を抜いた。

 全部の大人が、傘次郎を取り上げようとするわけではない。

 そう思えた。


「それじゃあ、行きます」


 サラは言った。

 エパールが隣で頷く。


 二人は封鎖線の内側へ足を踏み入れた。


 空気が変わった。

 森の匂いが濃くなる。

 湿った土。

 古い葉。

 樹皮。

 わずかな焦げ臭さ。


 けれど、その焦げ臭さは普通の火の匂いではなかった。

 焼けた木ではない。

 燃え残りでもない。

 もっと薄く、焦げ臭さとも違う、どこか異質な匂い。

 鼻で嗅いでいるのか、皮膚で感じているのか分からない。


 サラは立ち止まった。


 白い線が地面に描かれている。

 石灰ではない。細かな白い粒を魔術的に固定した線だ。外縁観察範囲は、森の入口から数十歩ほど奥まで。そこから先には、さらに薄い封鎖膜が幾重にも重なっていた。


 中心部は見えない。

 見えないはずだった。

 けれど、サラにはそこに何があるのか分かる気がした。


 あの場所。

 レクシオが倒れた場所。

 魔物が崩れた場所。

 蒼い炎が灯った場所。


「サラさん」


 エパールの声が聞こえた。


「足、白線の外です」


 サラは足元を見た。

 つま先が、ほんの少しだけ白線を越えかけていた。


 息を呑む。

 すぐに一歩下がった。


「ごめん」

「謝ることではありません。戻ったので」


 エパールは震えた声で言った。


 怖いのだと思った。

 サラだけではなく、エパールも。


 森が怖い。

 封鎖が怖い。

 残滓が怖い。

 自分が手順を破りそうになることも、たぶん怖い。


「今の、記録します」


 エパールは手帳ではなく、腰の記録板を取り出した。


「外縁部入場直後、サラさん、白線を越えかける。声かけにより即時後退。原因は視覚誘導、または心理的引き寄せの可能性。断定しない」

「そこまで書くの?」

「書きます。戻れたことも書きます」


 サラは少し黙った。


「……ありがとう」


 エパールが顔を上げる。


「いえ。記録ですので」


 傘次郎がぼそりと言った。


「記録にしては優しいな」

「優しくはありません。必要です」

「またそれか」

「流行っていますので」

「流行らせるな」


 サラは、さっきより少しだけ呼吸を深くした。

 外縁部の地面は、普通の森とは少し違っていた。葉が落ちている。枝もある。湿った土もある。けれど、ところどころ、地面に蒼白い粒が混じっている。灰に似ているが、灰ではない。砂に似ているが、触れたら砂ではないと分かる気がした。


 触れてはいけない。


 サラは自分の手を握った。


 エパールは膝をつきそうになり、すぐに思い直してしゃがみ込んだ。地面には触れない。小さな測定札を二枚、白線の内側ぎりぎりに置く。札は淡い黄色の光を放ち、すぐに青みを帯びた。


「魔素濃度、上がっています」


 エパールの声が変わった。弱気なままではあるが、観察する者の声だった。


「カルラ様の報告通り、微弱上昇。ただし、一定ではありません。……揺れています」

「揺れてる?」

「はい。濃くなって、薄くなって、また濃くなる。封鎖結界の呼吸……いえ、比喩です。比喩としての呼吸です」

「分かってる」

「よかったです」


 エパールは記録板に書き込む。


「揺らぎの周期は短いです。残滓そのものが増えているというより、結界と残留魔素の間で、何かが引っ張り合っているように見えます。見えるだけです。断定しません」


 サラは、森の奥を見た。


 薄い封鎖膜の向こうで、空気が揺れている。

 そこに蒼い光はない。

 魔物もいない。

 レクシオもいない。


 それなのに、サラの身体は覚えていた。


 湿った土の匂い。

 剛毛が腐葉土を擦る音。

 燃える牙。

 レクシオの手。

 古びた傘。

 蒼い炎。


「……蒼炎反応は」


 サラは聞いた。

 自分で聞いたくせに、聞きたくなかった。


 エパールは測定札をもう一枚置いた。今度の札は、青ではなく、白く光った。


「あります」


 短い言葉だった。

 サラの胸が詰まる。


「ただし、炎として残っているわけではありません。火種でもありません。再発火の兆候とも、今は言えません」

「じゃあ、何?」

「……焼け跡ではありません」


 エパールは地面を見つめた。


「普通の火なら、何かを焼いた跡が残ります。炭、灰、熱変性、周囲の焦げ。でも、ここにあるのは、焼いた跡というより……」


 言葉を探す。


「焼かなかった跡です」


 サラは、意味がすぐには分からなかった。


「焼かなかった跡?」

「はい。周囲の葉や土の構造は残っています。けれど、魔素の流れだけが、一部だけ抜けています。魔物由来と思われる魔素反応は極端に薄いのに、森そのものの反応は残っている。つまり、何かを無差別に燃やしたのではなく、対象を選んで削ったように見えます」


 エパールはそこで手を止めた。


「見えます。断定しません」

「……それは、蒼炎が魔物だけを焼いたってこと?」

「少なくとも、この痕跡だけを見るなら、そう見えます」


 サラは傘次郎を見た。


「何か分かる?」

「知らん」


 即答だった。


「本当に?」

「本当だ」

「何も?」

「何も」


 傘次郎の声は、いつもより低かった。

 サラは柄を握る。


「でも、重い」


 傘次郎が黙る。


「傘次郎、さっきから少し重い」

「……気のせいだ」

「気のせいじゃない」

「なら、そうなんだろ」

「何それ」

「俺にも分からねえんだよ」


 その言葉は、珍しく荒くなかった。ただ、苛立っているように聞こえた。


 分からないことへの苛立ち。

 自分が何かも分からないまま、痕跡だけが反応していることへの苛立ち。


 サラはそれ以上聞かなかった。


「エパールさん」

「はい」

「傘次郎、重くなってる」


 エパールの顔がぱっと上がった。

 次の瞬間、手帳が半分出た。

 クラリスの紙片が見えた。


 傘次郎を見つめすぎない。


 エパールは手帳を戻した。


「……見るだけでいいですか」

「どこを?」

「布と骨の反応。外から、距離を取って。触りません」


 サラは傘次郎を見る。


「だって」

「嫌だ」

「触らないって」

「見られるのも嫌だ」

「でも、重くなってる」

「俺の勝手だ」

「勝手に重くなられると困るんだけど」

「お前も勝手に不安になるだろ」

「それは……そうだけど」


 傘次郎はしばらく黙った。

 それから、低く言った。


「近づけるなよ」

「うん」

「触らせるなよ」

「うん」

「喜ばせるなよ」

「それは私には無理」

「努力しろ」


 サラは少し笑った。


「エパールさん。近づきすぎないで。触らないで。喜びすぎないで」

「最後が一番難しいです」

「努力して」

「はい」


 エパールは距離を保ったまま、測定札を傘次郎の近くにかざした。触れない。札の先端がわずかに青く光る。


 エパールの目が輝きかける。

 そして、必死に戻る。


「……反応があります。傘次郎さん本体というより、傘次郎さんの外側を流れる魔素が、封鎖区画の揺らぎに合わせて少し乱れています」

「危ない?」

「今すぐ危険とは言えません。ただ、同調……いえ、同期……いえ、似た周期の揺れが出ています。断定しません。断定しませんが、記録します」

「それ、良くないやつ?」


 サラは聞いた。

 エパールは少し迷った。


「分かりません。でも、分からないから、長く留まらない方がいいです」


 サラは頷いた。


 戻る判断も、任務に含める。


 カルラの声が頭の中で響いた。


「じゃあ、必要なことだけ見る」

「はい」

「あと何が必要?」


 エパールは周囲を見た。


「魔石崩壊反応の確認です。残滓そのものには触りません。外縁部から見える範囲で、粒子の形だけ記録します」


 エパールは工具鞄から小さな観察鏡を取り出した。レンズに直接触れないよう布で包み、地面から離してかざす。蒼白い粒が、鏡の内側に拡大されて映った。


 エパールは、息を呑んだ。


「何?」

「……崩れています」

「魔石が?」

「はい。でも、普通の崩れ方ではありません。魔石が砕けて散ったなら、粒子の向きはもっとばらばらになるはずです。これは、砕けた形のまま、並びが残っています」

「並び?」

「回路みたいに」


 エパールは言って、すぐ首を振った。


「いえ。魔術回路と断定しません。自然亀裂かもしれません。ただ、魔石崩壊後の粒子配列としては、不自然です」

「それは、何かが残ってるってこと?」

「残っている、というより」


 エパールは言葉を探す。


「壊れた形が、まだ働いているように見えます」


 サラの背中が冷たくなる。


 壊れた形が、まだ働いている。

 それは、魔物の話なのか。

 魔石の話なのか。

 レクシオの話なのか。

 傘次郎の話なのか。


 考えたくないものが、いくつも重なった。


「サラ」


 傘次郎が呼んだ。


「分かってる」

「まだ何も分かってねえぞ」

「分かってる」

「欲しい答えを拾うな」


 サラは奥歯を噛んだ。

 言われたくなかった。


 でも、言われなければ、たぶん踏み出していた。


 白線の向こうへ。

 封鎖膜の奥へ。

 何かが残っているなら、知りたい。

 父の何かがあるなら、見たい。

 蒼炎の理由があるなら、掴みたい。


 でも、それは確認任務ではない。

 欲しい答えを拾いに行くことだ。


 サラは拳を握った。


「エパールさん」

「はい」

「今の、記録できた?」

「できました」

「なら、戻る」


 エパールが顔を上げた。


「いいんですか」

「よくない」


 サラは正直に言った。


「でも、戻る」


 言葉にすると、胸の奥が痛んだ。


 奥へ行きたい。

 もっと見たい。

 何かあるなら、置いていきたくない。

 それでも、戻る。


「記録して、戻って、報告する。そういう任務だから」


 エパールは、少しだけ目を見開いた。

 そして、頷いた。


「はい」


 二人は測定札を回収した。

 そのときだった。


 森の奥で、何かが揺れた。

 風ではない。

 木の葉でもない。


 封鎖膜の向こうで、蒼白い粒がふわりと浮き上がった。

 地面から剥がれるように、細かな砂が空気へ浮かび、線を描く。


 それは、ほんの一瞬だけ、何かの形に見えた。


 低く、分厚い四足。

 盛り上がった肩。

 左右に突き出した牙。

 蹄が腐葉土をえぐる音が、聞こえた気がした。


 サラの身体が凍った。


 違う。


 これは魔物ではない。

 再発生は確認されていない。

 封鎖は維持されている。


 分かっている。


 でも、身体は先に覚えていた。


 燃える牙。

 レクシオの背中。

 血の匂い。

 帰れ。

 サラ。

 君だけは。


「サラさん!」


 エパールの声が遠くで聞こえた。

 蒼白い粒が、封鎖膜にぶつかった。

 膜が一瞬、強く揺れる。

 空気が押し返されるように、外縁部へ圧が走った。


「傘次郎!」


 サラは反射的に叫んだ。


「もう形になっちまってる!」


 傘次郎の声が鋭く返る。


「喰えねえ、下がれ!」


 圧が来る。

 風ではない。

 熱でもない。

 けれど、身体を押す現象として形になっている。

 傘次郎では吸えない。


 分かっている。

 試験と同じだ。


 発動前の魔素流なら吸える。

 現象化したものは吸えない。

 傘があっても、万能ではない。


 サラは一瞬、蒼い炎を思った。


 出て。


 魔物だけを焼いた炎。

 サラを焼かなかった炎。

 レクシオの最後に灯った炎。


 出て。


 何も起きなかった。

 傘の骨に蒼い筋は走らない。

 火が息を吸う音もしない。

 ただ、普通の恐怖だけが胸を叩いた。

 蒼炎は出ない。


 サラは唇を噛んだ。


 なら、次。

 次を選ぶ。


 サラは傘次郎を前へ出すのではなく、横に引いた。傘で受けるのではなく、自分の身体を少し沈める。足を白線の内側へ戻す。エパールの外套の袖を掴む。


「戻る!」

「はい!」


 エパールの返事は震えていたが、足は動いた。

 二人は封鎖線の方へ走った。

 背後で、封鎖膜が低く震える。

 蒼白い粒が散る。


 サラは振り返りそうになった。


 見たい。


 本当に魔物ではないのか。

 父の何かが残っているのか。

 蒼炎の痕跡が何をしているのか。


 見たい。


「振り返るな!」


 傘次郎が怒鳴った。


「分かってる!」

「嘘つけ!」

「今分かった!」


 サラは走った。

 エパールの袖を掴んだまま、白線を越えずに、外縁部の出口へ向かう。

 封鎖線の向こうで巡回魔道士が動いた。


「異常ですか!」

「封鎖膜が揺れました!」


 エパールが叫ぶ。


「魔物再発生ではありません! 残留粒子の一時的な浮上、形状形成、圧力発生! たぶん! 断定しません!」

「戻ってください!」


 巡回魔道士が封鎖線の隙間を開く。

 サラとエパールは、そこへ飛び込むように抜けた。


 外へ出た瞬間、空気が変わった。

 森の匂いが薄くなる。

 街の方から吹く風が、ほんの少しだけ暖かく感じられた。

 サラは数歩進んでから、ようやく足を止めた。


 膝が震えている。

 手も震えている。

 エパールの袖をまだ掴んでいた。


「あ、ごめん」


 サラは手を離した。


「いえ……助かりました」


 エパールは息を整えながら言った。


「私、たぶん、測定札を拾いに戻ろうとしていました」

「拾ったよ」

「はい。拾いました。でも、もう一枚、奥側のを見てから戻りたいと思いました」

「……私も奥を見ようとした」


 二人は少しだけ黙った。

 巡回魔道士が封鎖線を閉じ、カードを確認する。


「魔素濃度、外縁で一時上昇。現在は低下。主要封鎖は維持。救援信号を上げるほどの急変ではないと判断します。ただし、即時報告対象です」

「戻ります」


 サラは言った。

 巡回魔道士は一度だけ封鎖線を確認し、頷いた。


「了解しました。異常は確認済みです。学院に戻ります」


 エパールが、小さく息を吐いた。


「……戻る判断」

「うん」

「任務に含まれていました」

「うん」

「できましたね」


 サラは返事に迷った。


 できた。


 そう言っていいのか分からなかった。


 奥へ行きたかった。

 蒼炎を出したかった。

 何かを掴みたかった。

 できなかったことの方が多い。


 でも。


「戻ってる」


 傘次郎が言った。

 サラは傘を見る。


「できたかどうかは知らねえ。でも、戻ってる」

「……うん」


 サラは頷いた。

 それなら、今はそれでいい気がした。


 帰り道は、行きより長く感じた。

 森が背後へ遠ざかっていく。外壁が近づいてくる。街の音が少しずつ戻ってくる。途中、エパールは何度も記録板を見返した。歩きながら書こうとして、そのたびに巡回魔道士に止められた。三回目には、傘次郎が「歩け」と言った。


「はい……」


 エパールは素直に従った。

 サラは何度か後ろを振り返りたくなった。そのたびに、傘次郎が柄の内側で小さく震えた。見るな、と言われている気がした。だから、見なかった。


 北東門が見えたとき、サラはようやく、自分が息を詰めていたことに気づいた。

 門の内側に、クラリスがいた。朝と同じ場所ではない。少し奥の詰所の前。手には書類束を抱えている。本当に仕事をしていたのだと分かる。けれど、サラたちが見えた瞬間、クラリスは書類を脇に寄せた。駆け寄りはしなかった。門の内側で待っていた。

 サラは門をくぐった。外壁の影を抜ける。クラリスの前で足を止める。


「戻った」


 それだけ言った。

 クラリスの目が、ほんの少しだけ揺れた。


「ええ」


 クラリスは頷いた。


「おかえりなさい」


 サラは息を吸った。

 その言葉は、胸に痛かった。

 でも、嫌ではなかった。


「ただいま」


 言えた。

 クラリスは、少しだけ笑った。


「報告は?」

「師匠にする」

「もちろんです。私も聞きます」

「うん」


 サラは少し迷ってから、先に一つだけ言った。


「蒼炎は、出なかった」


 クラリスの表情が変わった。

 サラは続ける。


「出したいと思った。でも、出なかった」

「……そう」

「普通の炎も、使わなかった。戦いに行ったんじゃないから」

「ええ」

「でも、怖かった」

「ええ」

「戻った」

「ええ」


 クラリスは一つずつ受け取った。

 サラは、少しだけ楽になった。


 巡回魔道士が報告札をまとめる。


「カルラ様の執務室へ向かいます。緊急ではありませんが、即時報告案件です」

「分かりましたわ」


 クラリスが頷く。


「私も同席します。カルラ様から、帰還後の報告を受けるよう言われていますので」


 サラはクラリスを見る。


「本当に、待ってただけじゃなかったんだ」

「言ったでしょう。戻ってくる場所を守る側です」

「うん」

「もっとも」

「何?」

「待つのは、なかなか腹が立ちますわね」


 サラは瞬きをした。

 それから、少し笑った。


「クラリスらしい」

「褒めていますの?」

「評価してる」

「カルラ様方式ですわね」

「流行ってるね」

「流行らせた覚えはありません」


 四人と一本は、学院へ向かった。


 カルラの執務室に着いたとき、昨日と同じように、扉は重く見えた。

 けれど、今日はサラ一人で前に出る必要はなかった。いや、前に出るのはサラだった。けれど、一人ではなかった。

 サラは扉を叩いた。


「入れ」


 返事はすぐだった。

 昨日と同じ声。

 サラは扉を開けた。


 カルラは机の前に立っていた。机上には、昨日よりも多い紙束がある。傘次郎の件の記録だろうか。古い森の封鎖図だろうか。白い縁取りのカードも、何枚か並べられている。

 カルラはサラたちを見た。


 サラ。

 エパール。

 クラリス。

 巡回魔道士。

 傘次郎。


 順に見て、最後にサラへ視線を戻す。


「戻ったな」

「戻ったよ」


 サラは答えた。

 カルラは短く頷いた。


「報告を」


 サラは息を吸った。

 何から言えばいいのか、一瞬迷った。

 エパールが記録板を抱え直す。巡回魔道士が封鎖線の測定札を机の上へ置く。クラリスが少し後ろに立つ。

 サラは、自分の言葉で言うことにした。


「封鎖区画の外縁部に入った。白線の内側だけ。中心部には行ってない。残滓には触らなかった。封鎖も破ってない」

「よし」

「魔法も、使わなかった」


 カルラの目がわずかに動いた。


「使おうとはしたか」


 サラは少しだけ黙った。


「……蒼炎が出てほしいとは思った」

「通常の炎は」

「使ってない」

「理由は」

「確認任務だから。あと、使ったら、何が元からあったものか分からなくなるって言われたから」


 カルラは巡回魔道士を見た。


「伝えたな」

「はい。術式による干渉禁止、通常型ではない連絡札の使用条件、いずれも伝達済みです」

「よし」


 カルラは短く書き留めた。


「続けろ」

「魔素濃度は、報告通り上がってた。でも、一定じゃなくて、濃くなったり薄くなったりしてた」


 カルラがエパールを見る。

 エパールはすぐ頷いた。


「外縁部測定札で確認しました。結界揺らぎと残留魔素の間に周期的な変動があります。原因は未確定です。残滓そのものが増殖しているとは断定できません」

「蒼炎反応は」


 カルラが聞く。

 その言葉に、サラの指が柄に触れた。


「ありました」


 エパールが答えた。


「ただし、炎として残っているわけではありません。再発火の兆候とも断定できません。痕跡としては、焼いた跡というより、対象だけを削ったような魔素流の欠落が見られます」

「言葉を選ぶように」

「はい。蒼炎反応らしき痕跡は確認。ただし、性質・再現性・発動条件は未確定」

「よし」


 カルラは記録紙に短く書いた。


「魔石崩壊反応は」

「不自然です」


 エパールの声が少し強くなった。


「魔石の崩壊粒子と思われる蒼白い粒が、ばらばらに散逸していません。粒子配列に偏りがあり、外縁部から見える範囲では、壊れた形のまま何らかの流れを保っているように見えました。魔術回路とは断定しません」

「断定しないのは良い」


 カルラは言った。


「だが、疑うべき点として記録する」

「はい」

「異常発生は」


 巡回魔道士が一歩前に出る。


「外縁部観察中、封鎖膜奥の残留粒子が一時的に浮上し、四足獣に似た形状を取りかけました。魔物再発生とは判断していません。主要封鎖は維持。外縁部に圧力変動が生じましたが、二名は即時後退。救援信号は使用していません」

「使うべきだったか」


 カルラが聞く。

 巡回魔道士は少し考えた。


「迷いました。ただ、封鎖の急変は一時的で、後退可能、負傷なし、魔物実体化なし。即時報告で足りると判断しました」

「サラ」


 カルラが視線を向ける。


「お前は」


 サラは指先を握った。


「私も、迷った」

「信号を上げるべきか」

「それも。でも、それより、奥を見に行きたいと思った」


 クラリスが息を止めた気配がした。

 カルラは何も言わなかった。

 サラは続ける。


「魔物みたいな形が見えた。たぶん、魔物じゃない。でも、昔の魔物に見えた。だから、もっと見たかった。お父さんの何かがあるんじゃないかと思った。蒼炎の理由も、傘次郎のことも、何か分かるんじゃないかと思った」

「それで」

「戻った」


 サラはカルラを見た。


「欲しい答えを拾いに行くなって、言われたから」


 カルラの目が、少しだけ細くなった。


「それだけか」

「傘次郎にも言われた」

「余計なことを言っただけだ」


 傘次郎が低く言う。


「余計ではない」


 カルラは即答した。

 傘次郎が黙る。


「続けろ」

「傘次郎は、外縁部で少し重くなった。エパールさんが距離を取って測ったら、封鎖区画の揺らぎに合わせて、外側の魔素が乱れてるって」

「触ったか」

「触ってない」

「近づきすぎたか」

「札をかざしただけ」

「傘次郎」


 カルラが呼ぶ。


「お前自身は、何か分かったか」

「何も」

「本当にか」

「本当にだ」

「嘘なら後で面倒になるぞ」

「悪いが、嘘つくほど分かってねえ」


 傘次郎の声には、苛立ちがあった。

 カルラはそれを聞いて、短く記録した。


「よし。分からないものは分からないまま置く」


 サラは、その言葉に少しだけ息を吐いた。


 分からないまま置く。

 それが、こんなに難しいことだとは思わなかった。


 カルラはエパールを見る。


「回収物は」

「ありません」


 エパールはすぐ答えた。


「残滓には触れていません。封鎖材にも触れていません。測定札と記録のみです。回収したいものは、ありました」

「正直でよろしい」

「でも、回収していません」

「なおよろしい」


 エパールは少しだけ胸を張った。

 傘次郎が言った。


「そこは誇っていいんじゃねえの」

「誇っていいんですか……!」

「知らん」

「どっちですか……」


 緊張していた空気が、ほんの少しだけ緩んだ。

 カルラは記録紙をまとめた。


「現時点で確定できることは少ない」


 全員が黙る。


「魔物再発生は未確認。封鎖は維持。だが、結界揺らぎと魔素濃度変動は事実。蒼炎反応らしき痕跡も残っている。魔石崩壊反応にも不自然な配列がある。傘次郎の外側の魔素流にも、一時的な乱れが確認された」


 カルラはサラを見た。


「そして、お前たちは戻った」


 サラは唇を結んだ。


「うん」

「よく戻った」


 短い言葉だった。

 昨日の「よく報告に来てくれた」と似ていた。

 硬くて、短くて、足りないようで。

 でも、今のサラには十分だった。


「……うん」

「褒めているのではない」


 カルラが言う。


「分かってる。評価でしょ」

「そうだ」


 サラは少し笑った。


「でも、ちょっと嬉しい」


 カルラは一瞬、返答に困った顔をした。

 クラリスが横で小さく笑う。


「カルラ様」

「何だ」

「そこは、黙っておくのが正解ですわ」

「お前は最近、私に口答えが増えたな」

「成長しましたので」

「便利な言葉にするな」


 傘次郎がぼそりと言う。


「お前ら、全員面倒くせえな」

「あなたも含まれていますわ」

「俺は傘だ」

「一本って言われると怒るくせに」

「それとこれとは別だ」


 エパールが小さく笑い、すぐ口元を押さえた。

 サラも笑いかけて、今度は止めなかった。


 怖かった。

 森は怖かった。

 蒼炎は出なかった。

 父のことも、傘次郎のことも、何も分からなかった。

 分かったのは、分からないことがまだあるということだけだった。


 それでも、戻った。

 報告した。

 クラリスが聞いている。

 カルラが記録している。

 エパールが震えながらも見たことを書いている。

 傘次郎が文句を言いながら、サラの手の中にある。


「サラ」


 カルラが呼んだ。


「はい」

「赤い印は、まだ残しているか」


 サラは少し驚いた。


「外套には」

「持ってきていないな」

「うん」

「なら、消して返却していい」


 サラは目を瞬いた。


「いいの?」

「役目は果たした」

「役目」

「お前は、止まったところから歩いた。報告に来た。森へ行った。戻った。もう、赤い印に覚えさせておく必要はない」


 カルラは静かに言った。


「次は、お前が覚えておけ」


 サラは何も言えなかった。

 胸元には、今は赤い印がない。

 でも、その場所に手を当てる。


 昨日、印があった場所。

 止まった場所。

 歩いた場所。

 戻った場所。


「……分かった」


 サラは答えた。

 カルラは頷き、記録紙を閉じた。


「今日はここまでだ。エパールは記録を清書して私へ提出しろ。巡回記録は封鎖班へ回す。クラリスは帰還報告の続きだ」

「はい」

「はい」

「サラは休め」

「また?」

「まただ」

「眠れると思う?」

「眠れなくても横になれ」

「それ、昨日も聞いた」

「昨日も必要で、今日も必要だ」

「……はい」


 サラは傘次郎を抱え直した。

 執務室を出るとき、クラリスが隣に並んだ。


「報告、聞きましたわ」

「うん」

「戻りましたわね」

「うん」

「次に遅かったら、迎えに行きます」

「三回目」

「大事なことですもの」


 サラは小さく笑った。


「分かった」


 廊下には、昼前の光が差していた。

 朝より高く、昨日より少しだけ眩しい光。


 サラは歩く。

 傘次郎を持って。

 クラリスと並んで。

 エパールの足音を後ろに聞きながら。


 古い森で何が起きているのかは、まだ分からない。

 父の答えも、蒼炎の理由も、傘次郎の正体も、そこでは掴めなかった。

 けれど、掴めなかったまま戻ってきた。

 欲しい答えを拾いに行かず、残っている事実だけを持ち帰った。


 それが、今日の任務だった。

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