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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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14/17

第14話 追いついた少女

 赤い印は、もうなかった。


 黒い試験用外套は、昨日のうちに返した。


 胸元に浮かんでいた、不合格の証。

 止まった場所の印。

 それから、また歩いたことを忘れないための印。


 カルラに言われた通り、消して返した。


 次は、お前が覚えておけ。


 だから、覚えている。


 傘次郎を落としたこと。

 止まったこと。

 報告に行ったこと。

 古い森へ行ったこと。

 怖かったこと。

 戻ったこと。


 朝、目を覚ましたサラは、何もない胸元に一度だけ手を置いた。


「何してんだ」


 学院寮の狭い部屋で、寝台の脇に立てかけてある傘次郎が言った。


「何でもない」

「何でもねえ奴は、朝っぱらから自分の胸を押さえねえよ」

「胸じゃなくて、ここ」

「胸だろ」

「印があったところ」

「最初からそう言え」

「聞く前から分かってたくせに」

「知らん」

「絶対分かってた」

「証拠は」

「今までの傘次郎」

「雑な証拠だな」


 サラは寝台から立ち上がった。

 この部屋を借りてから、もうしばらく経つ。

 寝台。

 机。

 小さな棚。

 窓際に置いた訓練用の荷物。

 必要なものは揃っている。帰ろうと思えば、実家にはいつでも帰れる。鍵もある。家も残っている。


 ただ、まだ帰っていない。


 学院の方が訓練場に近い。

 カルラの執務室にも近い。

 便利だから。


 そういうことにしている。


 サラはそれ以上考えるのをやめた。


 昨日は、言われた通り横になった。眠れたかと聞かれれば、今度は少し迷う。

 古い森の夢は見なかった。レクシオの夢も見なかった。ただ、何度か目を覚ました。そのたびに傘次郎がそこにあることを確かめ、また目を閉じた。


 だから、たぶん眠った。


「今日は寝たから」


 先に言うと、傘次郎が低く鼻を鳴らすような声を出した。


「聞いてねえ」

「昨日うるさかったから」

「寝てねえ奴に寝てねえって言っただけだ」

「今日は寝た」

「ならよかったな」


 返事があまりにも普通だったので、サラは少しだけ傘次郎を見た。


「何だ」

「別に」

「気持ち悪い奴だな」

「傘に言われたくない」

「俺は気持ち悪くねえ」

「エパールさんに聞いてみる?」

「やめろ」


 即答だった。サラは少し笑った。


 外套を羽織る。今日の外套は、灰色の外壁外確認用ではなく、いつも学院内で使っているものだ。

 古い森へ行く予定もない。訓練は午後から。午前中は、カルラから渡された課題を片づけるつもりだった。


 そのはずだった。


 部屋を出る。学院寮の廊下には、朝の足音がいくつも響いていた。

 扉が開く音。

 誰かの欠伸。

 階下から漂ってくる朝食の匂い。


 サラは食堂で簡単に朝食を済ませ、寮棟を出た。

 朝の光が学院の石壁を白く照らしている。

 いつもの鐘。

 いつもの人の声。

 訓練場へ向かう生徒たち。


 昨日は古い森へ行った。なのに、学院は今日も昨日と同じように動いている。世界は、誰かが怖い思いをしたくらいでは止まらない。


 昔は、それが嫌だった。

 父が死んでも鐘は止まったあとにまた鳴った。

 母が帰らなくても朝は来た。

 クラリスがいなくなっても学院は続いた。

 自分だけが置いていかれたような気がした。


 でも今は。


「何ぼさっとしてんだ」

「歩いてる」

「遅くなったろ」

「分かってる」

「ならいい」


 昨日も似たことを言われた。サラは一歩、歩幅を広げた。

 止まってはいない。

 それだけで、少しだけ違った。


 寮棟の入口を出たところで、クラリスがいた。偶然ではない。明らかに待っていた。

 石造りの庇の下に立ち、片手に数枚の書類を抱えている。服装は学院内で動くためのものだが、腰には見慣れない小さな革袋が下がっていた。


「おはようございます、サラ」

「おはよう」

「今日は顔色が昨日よりましですわね」

「またそれ?」

「昨日よりましだと言っているのです。褒めていますわ」

「褒め方が師匠に似てきた」

「不本意です」

「聞こえてるかもしれないよ」

「この距離では聞こえませんわ」

「言い切ったな」


 傘次郎が言った。クラリスは一瞬だけ周囲を見た。


「あなたは声量を調整できますの?」

「知らん」

「便利なようで不便ですわね」

「喋る傘に便利さ求めんな」

「喋るなら、せめて便利であってください」

「お前、俺に厳しくねえか?」

「気のせいですわ」


 クラリスは澄ました顔で答えた。少しだけ昔に似ている。でも、今のクラリスは、昔よりずっと静かに立っていた。


「待ってたの?」


 サラが聞く。


「ええ」

「私を?」

「残念ながら」

「残念なんだ」

「少しだけ」

「じゃあ行くね」

「冗談ですわ」


 クラリスは書類を持ち直した。その表情から、笑いが消える。


「カルラ様から呼び出しです」


 サラも顔を上げた。


「師匠から?」

「ええ。私と、あなたと、エパールに」

「何かあったの?」

「遺跡で、行方不明者が出ました」


 サラの表情がこわばった。


「行方不明?」

「三人ですわ。昨日の朝に遺跡へ入り、夕刻までに戻る予定でした。ですが、まだ戻っていません」

「連絡は?」

「ないそうです」


 昨日、古い森で渡された連絡札を思い出す。折れば、封鎖線まで信号が届く。迷った時点で、それだけで使う理由には十分だった。


「どこの遺跡?」

「フォルシュタットから半日ほどの場所です。大きな縦穴があって、その側壁に沿うように古い遺跡が築かれているそうですわ」

「縦穴?」

「詳しいことは、カルラ様から聞いた方が早いです」

「エパールさんも呼ばれたのは?」

「遺跡内には古代魔道具に関する記述が残っている可能性があるそうです。古い魔道具や防衛機構に関係するなら、エパールの目が必要なのでしょう」


 サラは少し黙った。

 三人が戻っていない。

 遺跡。


「行こう」


 サラが言う。クラリスは頷いた。


「ええ」


 二人は並んで歩き出した。

 学院の廊下は、朝の光で明るかった。窓の外では、訓練場へ向かう生徒たちが歩いている。遠くで金属のぶつかる音がした。


 昨日、古い森から戻ったときと同じ廊下。あのときは、エパールの足音を後ろに聞いていた。


「クラリス」

「何ですの?」

「三人って、誰?」

「調査員だとは聞いています。ただ、名前までは」

「そっか」

「サラ」

「何?」

「今から、勝手に考えすぎないでくださいな」

「考えてない」

「嘘ですわ」

「何で分かるの」

「顔です」

「みんな顔で分かりすぎじゃない?」

「分かりやすいので」


 傘次郎まで加勢してきた。


「ああ、分かりやすいな」

「うるさい」


 クラリスが少し笑った。


「二対一ですわね」

「傘を一人に数えないで」

「では、一本?」


 傘次郎が即座に返した。


「一本って言うな」


 少しだけ、息ができた。


 カルラの執務室の前に着く。

 昨日と同じ、重い木の扉。その前に立つと、サラは一瞬だけ昨日を思い出した。

 森から戻った。

 報告した。

 よく戻った、と言われた。


「サラ」


 クラリスが呼ぶ。


「何?」

「今度は私もいますわ」


 サラはクラリスを見た。


 昨日は、森へ行かなかった。戻る場所を守る側だった。


 今日は、いる。


「うん」


 サラは扉を叩いた。


「入れ」


 いつもの声が返ってきた。扉を開ける。


 執務室には、すでにエパールがいた。大きな工具鞄を足元に置き、椅子には座らず、机の横で立っている。手には暴走防止手帳。いつもより表情が硬い。


「おはようございます、サラさん」

「おはよう」


 サラはエパールを見る。


「三人とも、まだ?」

「……はい」


 エパールは小さく答えた。


「朝、カルラ様から聞きました」


 エパールは硬い表情のまま続ける。


「早く見つかるといいんですが」


 カルラが口を開いた。


「座れ」


 サラとクラリスは椅子に座る。エパールも座ろうとして、工具鞄の位置を変え、手帳を落としかけ、最後にようやく腰を下ろした。傘次郎はサラの膝の上にある。


 机の中央には、見慣れない図面が何枚も広げられていた。

 一枚ではない。


 縦穴の断面図。

 側壁ごとの平面図。

 途中までしか描かれていない通路図。


 穴の縁から下へ伸びる階段。

 側壁に食い込む部屋。

 外気に面した回廊。

 その奥へ続く、細い通路。


 さらに下には、線すら引かれていない区画があった。


「これが遺跡?」


 サラが聞く。


「ああ」


 カルラは断面図を指で叩いた。


「フォルシュタットから馬車で半日ほどの場所に、巨大な縦穴がある」

「どのくらい深いの?」

「底まで正確に測られていない」

「見えないの?」

「晴れた昼でも、上からはな」


 サラは図面を見る。カルラの指が、断面図の片側をなぞる。


「縦穴の側壁に沿って、階段、回廊、部屋、通路が築かれている。上層の一部は外気に面している。昼なら光も届く」


 指が下へ動く。


「だが、深くなるほど光は弱くなる。側壁内部へ食い込む区画には、最初から外光がない。さらに下は未調査だ」


 エパールが図面を見つめる。


「建設年代は同じなんですか?」

「不明だ」

「増築された形跡が?」

「ある」


 エパールの目が少しだけ鋭くなった。カルラは別の平面図を示す。


「遺跡は、入口から第三確認区画までが通常の管理範囲だ。その先は調査が限定されている」

「全部は調べてないの?」

「調べられていない」


 カルラは短く答えた。


「広い。古い。崩落で通れない区画もある。封鎖された区画もある。構造そのものが不明な場所もある」


 エパールが地図の一角を指した。


「ここ、昨日追加された線ですか?」

「ああ」

「新しい通路?」

「新しく見つかった部屋だ」


 カルラは指を移す。


「一週間前、第三確認区画より先で、壁の一部が崩れた。その奥に空間があることが確認された」


 エパールが身を乗り出しかける。

 だが、すぐに止まった。


「その部屋に、行方不明の三人が?」

「最後に向かった可能性が高い」


 部屋が静かになった。カルラは続ける。


「昨日の朝、三名の調査員が遺跡へ入った。目的は、新たに見つかった区画の安全確認と記録だ」


 サラが、今朝聞いた話を引き取る。


「夕刻までに戻る予定だったんだよね、連絡は?」

「ない」

「救援信号は」

「上がっていない」

「持ってなかったの?」

「持っていた」


 サラの指が傘次郎の柄を握った。


「じゃあ、札を折れなかった?」

「分からん」


 カルラは即答した。


「壊れたのか。使えない状況だったのか。使う前に何かが起きたのか。意図的に使わなかったのか。現時点では不明だ」

「昨日のうちに捜索は?」


 クラリスが聞いた。


「入った」

「どこまで?」

「第三確認区画までだ。そこまでは異常なし」


 クラリスは図面を見る。


「では、なぜそれ以上進まなかったのです?」

「隔壁が閉じていた」


 エパールが顔を上げた。


「隔壁?」

「前日まで開いていたと記録されている古い隔壁だ。昨日の捜索班が到着したときには閉じていた」

「開かなかったんですか」

「通常の解除方法ではな」

「魔術反応は」

「微弱にある。だが、古い反応なのか、新たに起動したものなのか判断できていない」


 エパールは黙って図面を見たあと、カルラへ尋ねた。


「古代魔道具に関する記述があるというのは?」


 カルラが別の紙を出した。


「新発見区画の壁面に、古い記号列が確認されている」


 紙には、細かな線と記号が写し取られていた。サラには何も分からない。エパールは目を細める。


「魔道具の操作記録かもしれません」

「読めるのか?」

「全部は無理です。ただ」


 エパールは紙に近づく。


「この反復記号は、機能区分を示す形式に似ています。制御、開閉、停止……そのどれかかもしれません」

「断定は」

「しません」

「よし」


 エパールは小さく頷いた。


「もし隔壁や防衛機構に関係するなら、行方不明者を探す手掛かりになるかもしれません」


 今度は、その目に少しだけ光があった。でもそれは、古代魔道具を見たいという光だけではなかった。使えるものを見つけようとする目だった。


 カルラは三人を見る。


「目的は、行方不明者三名の捜索と救出だ」


 エパールの背筋が伸びる。


「遺跡の調査ではない」

「はい」

「新しい区画の記録も、古代魔道具の確認も、救出に必要な範囲に限る」

「はい」

「勝手に必要を増やすな」

「はい……」


 エパールは手帳を開き、何かを書いた。たぶん、必要を増やさない。


「そこで」


 カルラは言った。


「サラ。クラリス。エパール。お前たち三人には、現地の捜索班に合流してもらう」


 サラは図面から顔を上げた。


「私たちだけで?」

「違う。昨日入った捜索班から二名が同行する。第三確認区画までの案内と、隔壁付近での退路確保を任せる」

「師匠は?」

「行かん」

「また?」

「不満か」

「そうじゃないけど」

「私はここから指揮を執る。お前たちとの連絡が途切れたとき、次の人員を動かす者まで遺跡へ入るわけにはいかん。それに、入口には協会の支援班を置く」


 カルラの視線がクラリスへ移る。


「今回は、現場責任者もいる」


 サラもクラリスを見る。クラリスは表情を変えなかった。


「クラリス?」

「ええ」

「現場責任者?」

「そうですわ」

「何で?」


 クラリスの眉が少し動いた。


「何で、と言われましても」

「だって」


 サラはカルラを見る。


「師匠の弟子は私で」

「それは関係ない」

「じゃあ、協会の人とか」

「必要ない」

「何で?」


 カルラは少し黙った。それから、クラリスを見る。


「お前から言え」

「カルラ様」

「いつまで黙っている気だ」

「黙っていたわけでは」

「サラは知らない」


 クラリスが黙った。サラは二人を交互に見る。


「何?」

「サラ」


 クラリスが呼んだ。


「何?」

「先に言っておきますけれど」

「うん」

「黙っていたわけではありませんわ」

「今、師匠が黙ってたって」

「カルラ様の言い方が悪いのです」

「私は事実を言った」

「言い方の話ですわ」

「何なの?」


 サラは少し声を強くした。クラリスは観念したように息を吐いた。


 そして、言った。


「私、大魔道士(ソーサラー)になりましたの」


 サラは瞬きをした。

 一度。

 二度。


「……何に?」

大魔道士(ソーサラー)ですわ」

「誰が?」

「私が」

「いつの間に?」

「フォルスシタデルで」

「時期は?」

「少し前です」

「少し前って?」

「戻ってくる前ですわ」


 サラは黙った。

 クラリスも黙った。

 エパールは二人を見て、手帳を少しずつ閉じた。

 傘次郎が言った。


「お前、聞いてなかったのか」

「聞いてない」

「そうか」

「知ってたの?」

「知らん」

「じゃあ黙ってて」

「理不尽だな」


 サラはクラリスを見る。


「本当に?」

「嘘をついてどうしますの」

大魔道士(ソーサラー)?」

「ええ」

「クラリスが?」

「何度聞きますの」

「だって」


 言葉が出てこなかった。


 クラリスは追いつきに行った。

 次は、追いつけるようになるために。


 そう言った。

 そして、本当に追いついた。


 いや。

 今はもう、自分より先にいる。


「……何で言わなかったの」


 ようやく出た言葉は、それだった。クラリスの顔が少しだけ曇った。


「言う機会がなかったのです」

「いっぱいあったよ」

「ありませんでしたわ」

「中庭」

「あなたは試験に落ちた直後でした」

「そのあと」

「傘次郎が喋りました」

「次の日」

「古い森へ行く前でした」

「帰ってきたあと」

「あなたは森帰りでした」

「今朝」

「カルラ様から呼ばれました」

「今」

「今、言いましたわ」


 サラは口を開いた。

 閉じた。


「……ずるい」

「何がですの」

「全部理由ある」

「事実ですもの」

「そういうところ」

「あなたに言われたくありませんわ」


 クラリスは少しだけ口元を緩めた。でも、サラはまだ笑えなかった。


「私、落ちたのに」


 口に出してから、しまったと思った。クラリスの表情が止まる。部屋も静かになった。サラは傘次郎を握った。


「別に、クラリスが悪いって言ってるんじゃない」

「分かっていますわ」

「でも」

「ええ」

「何か、悔しい」


 正直に言った。クラリスは少しだけ目を見開いた。


「おめでとうって言わなきゃいけないのも分かってる。でも、今すぐはちょっと悔しい」

「……そう」

「ごめん」

「謝らないでください」

「でも」

「悔しいのでしょう?」

「うん」

「なら、それで構いませんわ」


 クラリスはまっすぐサラを見る。


「私も、あなたが先に進めば悔しいですもの」

「クラリスも?」

「当然ですわ」

「本当に?」

「本当です」

大魔道士(ソーサラー)なのに?」

大魔道士(ソーサラー)になると悔しがってはいけませんの?」

「知らない」

「では、今覚えておいてくださいな。悔しがります」


 サラは少しだけ笑った。

 ほんの少しだけ。


「でも」


 クラリスが続ける。


「私は、あなたを置いていくために大魔道士(ソーサラー)になったのではありませんわ」


 サラは笑うのをやめた。


「追いつくために行ったんです」

「……うん」

「そして、追いついたかどうかは、私が決めることではありません」

「じゃあ誰が決めるの」

「あなたですわ」

「私?」

「ええ」

「今は?」

「どうですの?」


 サラはクラリスを見る。

 昔より背筋が伸びた。声も、目も、立ち方も変わった。それでも、澄ました顔で変な理屈を言うところは変わらない。


「……分かんない」


 サラは答えた。


「なら、それで」

「いいの?」

「分からないものは、分からないまま置くのでしょう?」


 昨日、カルラが言った言葉だった。サラはカルラを見る。カルラは何も言わない。


「流行ってるね」


 サラが言う。


「流行らせた覚えはない」


 カルラが答えた。少しだけ、空気が緩んだ。


「話を戻すぞ」


 カルラが断面図を指した。


「今回、クラリスを現場責任者とする。異論は」


 サラは少し迷った。

 悔しい。

 でも、異論はない。


「ない」

「エパール」

「ありません」

「クラリス」

「承知しましたわ」

「よし」


 カルラは図面の隔壁を指した。


「だが、急ぐことと無謀は別だ。隔壁を安全に開けられなければ戻れ。内部の構造が変わっている。退路を維持できない。同行者を守れない。そのどれかをクラリスが認めた時点で撤退だ」

「クラリスが戻ると決めたら、全員が従うの?」


 サラが聞く。


「そうだ」


 サラはクラリスを見た。悔しさは、まだ残っている。でも、任せられないとは思わなかった。


「分かった」


 エパールも頷いた。


「私も従います」


 カルラはサラを見る。


「お前を選ぶ理由も説明しておく」

「うん」

「傘次郎の吸魔だ」


 傘次郎が少しだけ動いた。


「防衛機構が魔術式で動くなら、発動前の魔素流を吸える可能性がある」

「可能性?」

「可能性だ」


 カルラは即答した。


「遺跡の機構がどう動くか分からん。すでに岩や炎や衝撃として現象化したものは吸えない。何でも傘次郎でどうにかできると思うな」

「分かってる」

「昨日、確認したばかりだからな」

「言われなくても分かってるってば」

「ならいい」


 傘次郎が低く言った。


「俺も何でも喰えると思われちゃ困る」

「思っていない」


 カルラは即答した。


「お前が万能ではないことは、昨日も確認した」

「言い方が気に入らん」

「事実だ」

「どいつもこいつも、そればっかだな」

「必要だからです」


 エパールが小さく言った。傘次郎が黙る。


「お前はどっちの味方だ」

「事実の味方です」

「悪化してんな」


 カルラは続けた。


「サラ。昨日、戻れたことは評価する。だが、昨日と今日では任務が違う」

「うん」

「地下遺跡は古い森とは違う」

「うん」

「狭い。暗い。逃げ道が限られる。地図も完全ではない」


 断面図の上層を指す。


「最初は外光がある」


 指が下へ動く。


「だが、進めば光は減る。側壁内部へ入れば完全な暗所だ」

「分かった」

「三人を救うために、戻れない者を増やすな」

「うん」

「手段が一つ使えないなら、次を選べ」

「うん」

「ただし、今回は一人で選ぶな」


 サラが顔を上げる。


「クラリスがいる。エパールがいる。傘次郎がいる」

「俺も数えるのか」

「一本だがな」

「一本って言うな」

「元気そうで何よりだ」

「お前、分かってて言ってんな」


 カルラは答えなかった。


「クラリス」

「はい」

「お前は責任者だ。だが、全部一人で抱えるな」

「承知しています」

「本当にか」

「……承知していますわ」

「判断材料が足りなければ、サラ、エパール、それから同行する二人を頼れ」

「はい」


 少し間があった。サラはクラリスを見る。今の間が何だったのかは分からない。


「エパール」

「はい」

「戦うな」

「はい」

「前へ出るな」

「はい」

「珍しいものを見つけても、近づく前に二人へ言え」

「はい」

「分解するな」

「しません」

「分解ではないと言い張る分解も」

「しません」

「よし」


 エパールは少しだけ胸を張った。


「では、一時間後に出発しろ。学院の車寄せに集合だ。入口までは協会の案内役がつく。現地には支援班を待機させる」

「師匠」


 サラが呼ぶ。


「何だ」

「信号は?」

「持たせる」

「昨日と同じ?」

「違う型だ。地下では外まで直接届かない可能性がある。確認済み区画には中継札を一定間隔で置いてある」

「その先は?」

「現地で説明を受けろ」

「分かった」

「連絡が途切れたら、それも撤退を考える材料にしろ」

「うん」

「それから」


 カルラはクラリスを見る。


「例のものを使え」


 サラは眉を寄せる。


「例のもの?」

「承知しましたわ」


 クラリスは答えた。


「何?」

「あとで」

「また?」

「今は準備が先です」

「絶対何か隠してる」

「隠していませんわ」

「今日それ二回目」

「二回とも事実です」


 サラは不満だった。でも、カルラはもう書類へ目を落としている。


「行け」

「はい」


 三人と一本は執務室を出た。廊下へ出て扉が閉まる。サラはすぐにクラリスを見た。


「例のものって?」

「準備してからです」

「今言って」

「あとで」

「何で?」

「ここで出すと落とすかもしれませんもの」

「何を?」

「あとで」

「クラリス」

「準備が先ですわ」


 歩き出す。サラは隣についていく。


大魔道士(ソーサラー)になったことも、あとでって言うつもりだった?」

「それはもう言いました」

「そういうことじゃなくて」

「分かっていますわ」

「じゃあ」

「サラ」


 クラリスが足を止めた。


「何?」

「本当に、怒っていますの?」


 サラも止まる。少し考えた。


「……怒ってはない」

「では、悔しい?」

「悔しい」

「なら、よかったです」

「よくない」

「私は少し嬉しいですわ」

「何で?」

「あなたが私を見て悔しがっているから」

「性格悪い」

「知っています」

「知らなかった」

「今、覚えてくださいな」


 クラリスはまた歩き出した。サラはその横顔を見た。

 追いつきに行った。

 そして、大魔道士(ソーサラー)になった。

 自分が何年もカルラに鍛えられて、ようやく最終試験までたどり着いて、落ちるまでの間に。

 クラリスは別の街で、何かをしていた。

 何をしたのか。

 どんな訓練をしたのか。

 何に勝って、何に負けたのか。

 何も知らない。

 帰ってきたクラリスのことを、まだ何も知らない。

 それが少し悔しかった。

 大魔道士(ソーサラー)になったことよりも。

 知らないことの方が、少しだけ。


「クラリス」

「何ですの?」

「あとで話して」

「何を?」

「フォルスシタデルのこと」


 クラリスの足が、ほんの少しだけ遅くなった。


「ええ」

大魔道士(ソーサラー)になったときのことも」

「……ええ」

「嫌なの?」

「嫌ではありません」

「じゃあ何?」

「少し長くなりますわ」

「聞く」

「そう」


 クラリスは小さく笑った。


「では、帰ってから」


 帰ってから。

 その言葉を、サラは今度は怖いとは思わなかった。


「うん」


 答えた。


「でも、待ってて」


 サラが言うと、クラリスは足を止めた。


「追いつくから」


 クラリスは、少しだけ目を細めた。


「ええ。今度は、勝手にいなくなりませんわ」


     ◇


 一時間後。三人は学院の車寄せに集まった。

 サラは動きやすい服に着替え、傘次郎を持っている。エパールは、相変わらず大きな工具鞄を背負っていた。


「重くない?」


 サラが聞く。


「重いです」

「減らさなかったの?」

「何が必要になるか分かりませんので」

「全部持ってきたの?」

「全部ではありません」

「何を置いてきたの?」

「大型分解器具一式と、精密切削具と、回路剥離具と」

「あー……もう大丈夫」

「まだあります」

「大丈夫」

「そうですか……」


 エパールは少し寂しそうだった。


「何で寂しそうなんだ」


 傘次郎が言う。


「必要かもしれません」

「まあ、今回は分からんでもねえ」

「傘次郎がまともなこと言った」

「喧嘩売ってんのか」


 エパールが少しだけ胸を張った。


「必要なものは選びました」

「それでその大きさ?」

「選んだ結果です」

「そっか」


 サラはそれ以上聞かないことにした。


 クラリスは少し遅れて現れた。服装が変わっている。旅装より軽いが、学院内の服より明らかに実戦向けだった。

 両腕には革の覆いがあり、その下に何か硬いものがあるように見える。サラはクラリスの両腕を見た。


「それ、魔道具?」


 クラリスも自分の腕へ目を落とした。


「ええ」

「見たことない」

「フォルスシタデルで使っていたものですわ」

「何するの?」

「遺跡に入れば分かります」

「またあとで?」

「その方が早いですもの」

「説明してよ」

「岩を動かします」

「岩?」

「ええ」

「それだけ?」

「それだけですわ」


 傘次郎が低く言った。


「絶対それだけじゃねえな」

「傘にしては鋭いですわね」

「一言多いんだよ」


 学院前には、小型の馬車が待っていた。案内役らしい協会の魔道士が一人、御者と話している。カルラの姿はない。

 でも、馬車の座席には水と食料、応急処置道具、予備の灯り、連絡用の札がきちんと積まれていた。

 サラが馬車に積まれた物資を見ていると、傘次郎が言った。


「また、ずいぶん金がかかってそうだな」

「言わないで」

「何でだ」

「師匠が聞いたら怒るから」

「いねえだろ」

「何か聞かれてる気がする」

「病気だな」

「傘に言われたくない」


 クラリスが馬車へ乗り込む。エパールも工具鞄を抱えて続いた。サラも乗る。


 馬車が動き出した。フォルシュタットの街並みが、少しずつ後ろへ流れていく。

 正門を抜ける。外壁が遠ざかる。

 昨日とは違う方向。古い森も見えない。


 道はしばらく平坦だった。途中から石が増え、馬車の揺れが大きくなる。エパールはいつの間にかうたた寝をしていたが、ひときわ大きな揺れに起こされた。


「大丈夫?」


 サラが聞く。


「大丈夫です」

「寝不足じゃない?」

「今日は本当に大丈夫です」

「目は閉じてた?」

「寝ました」

「本当に?」

「本当です」

「怪しい」

「寝ました……!」


 エパールが少しだけ強く言った。クラリスが窓の外を見ながら笑う。サラも少し笑った。それから、クラリスの腕を見る。


「ねえ」

「何ですの?」

大魔道士(ソーサラー)って、本当?」

「まだ疑っていますの?」

「だって」

「証明書を見せましょうか」

「あるの?」

「当然ですわ」

「今持ってる?」

「持っていません」

「じゃあ、まだ疑える」

「面倒ですわね」


 クラリスは呆れたように言った。


「じゃあ、何ができたら大魔道士(ソーサラー)なの?」

「あなたも試験を受けたのでしょう」

「そうだけど、フォルスシタデルの試験は違うかもしれないし」

「多少は違いますわ」

「何したの?」

「言いません」

「何で?」

「帰ってから話す約束ですもの」

「そこだけ律儀」

「何か問題でも?」

「ないけど」


 サラは少しだけ窓の外を見た。


 帰ってから。


 また、その言葉が出た。今度も、普通に受け取れた。少しだけ不思議だった。


 昼を過ぎてしばらくした頃、馬車が止まった。


「着きました」


 案内役の魔道士が言った。サラは馬車を降りた。そして、足を止めた。


 道の先で、大地が途切れていた。最初、そう見えた。地面に、巨大な穴が開いている。

 円形ではない。長い年月をかけて大地そのものが裂け、削られたような、不規則な形をしていた。向こう岸は見える。だが、底は見えない。

 午後の光が穴の内側へ落ちている。上層の岩壁は明るい。そこには、階段がある。回廊がある。石造りの扉がある。岩壁から突き出すように造られた足場もある。

 それらはすべて、巨大な縦穴の側壁に張りついていた。遺跡は地面の下に埋まっているのではない。穴の壁そのものに、築かれている。


「……すごい」


 サラは呟いた。図面で見るのとは大違いだった。


 風が下から吹き上がってきた。冷たい。湿ってはいない。古い石の匂いがする。

 上層には、まだ午後の光が届いている。だが、少し下へ視線を落とすだけで、岩壁の色は急に暗くなる。

 さらに下は黒い。回廊の形も分からない。ただ、何かが続いている。

 その先へ。底の見えない暗さの中へ。


「落ちたら終わりだな」


 傘次郎が言った。


「そういうこと言わないで」

「事実だ」

「師匠みたい」

「やめろ」


 今度は傘次郎が即答した。エパールは縦穴を見つめていた。

 目が輝いている。でも、足は動いていない。


「古い……」

「分かるの?」


 サラが聞く。


「入口だけでも」


 エパールは岩壁を指した。


「上の回廊と、その下の階段で石の切り方が違います。別の時代に増築された可能性があります。それに、あの奥」


 指が、光の届かない暗い開口部へ向く。


「外側の石と、内側の補修材が違うように見えます」

「ここから分かるの?」

「たぶん」

「たぶんなんだ」

「近くで見れば、もう少し」


 エパールが一歩踏み出しかける。

 止まった。


「まだ、行きません」

「偉いな」


 傘次郎が言った。


「評価ですか?」

「知らん」

「どっちですか……」


 縦穴の縁近くには、簡易テントが二つ張られていた。協会の紋章。数人の魔道士。積まれた資材。支援班だ。


 その先に、遺跡へ降りるための石段がある。縦穴の側壁に沿って、斜め下へ続いている。数十段ほど下ったところに、最初の回廊が見えた。

 午後の光が差し込む、明るい石の道。さらにその奥には、側壁を穿つように大きな門が開いている。

 門の先は暗い。そこから先が、遺跡内部だった。


 テントから一人の魔道士が出てきた。その後ろには、装備を整えた二人の魔道士がいる。昨日の捜索班から同行する者たちだろう。


「クラリス・フォルシュタット大魔道士(ソーサラー)ですね」


 サラの眉がわずかに動く。クラリスが横目で見る。


「何ですの?」

「本当に呼ばれてる」

「だから本当ですわ」

「まだちょっと変」

「慣れてください」


 協会の魔道士は少し不思議そうに二人を見たが、何も言わなかった。


「最新の状況を説明します」


 簡易台の上に地図が広げられる。カルラの執務室で見たものより簡略化されている。断面図と、上層部分の平面図。


「行方不明者の痕跡は?」


 クラリスが聞く。


「第四区画手前で、携行灯の予備油を入れていた袋が見つかっています。本人たちのものと確認済みです」

「血痕は」

「ありません」

「戦闘痕」

「確認されていません」

「足跡は?」

「石床のため不明瞭です。ただ、新発見区画へ向かった可能性が高い」


 クラリスは地図を見る。サラも横から覗く。


「隔壁は?」


 エパールが聞いた。


「今も閉じています」

「魔術反応に変化は」

「ありません」

「新しい記号列は」

「その向こう側です」


 エパールの顔が少し曇った。


「では、まず隔壁を開けないと」

「そうなります」

「開かなければ?」


 サラが聞く。


「戻ります」


 クラリスが即答した。


「別経路は?」

「その場では探しません。把握されていない経路へ移れば、退路を失う危険があります」

「無理に壊すことは?」

「しません」


 サラはクラリスを見る。


「即答」

「当然ですわ」

「師匠みたい」

「やめてくださいな」

「お前ら似てんぞ」


 傘次郎が言った。


「似てない」

「似ていません」


 サラとクラリスの声が重なった。エパールが少し笑った。協会の魔道士は咳払いをした。


「内部には中継札を設置しています。第三確認区画までは信号が届きます。その先は不安定です」

「行方不明者は、その先にいる可能性があると」


 クラリスが言う。


「はい」


「信号が完全に途切れた場合は、一度、第三確認区画まで戻ってください」

「分かりました」


 クラリスは、後ろに控える二人の魔道士を見る。


「同行する二人の担当は?」

「第三確認区画までの案内と、隔壁付近での退路確保です。隔壁を越えたあとは二人が付近に残り、こちらへの連絡を中継します」


 クラリスは二人へ向き直った。


「よろしくお願いします」


 二人を代表して、片方の魔道士が答えた。


「こちらこそ」


 現地担当者が地図を畳んだ。サラは、縦穴の側壁に続く石段を見た。

 上には空がある。午後の光がある。でも、階段を下りた先の門は暗い。


 その奥に、戻ってこない三人がいるかもしれない。


 クラリスがサラを呼んだ。


「サラ」

「何?」

「これを」


 小さなものが差し出された。石だった。親指の先ほどの、淡い灰色の石。

 表面に細い線が何本も刻まれている。中央には、小さな透明の部分があった。革紐が通されている。


「何これ?」

「護身石ですわ」

「護身石?」

「フォルスシタデルで作られたものです」


 エパールが横から覗く。


「貴重品ですね。フォルスシタデルで作られる品の中でも、特に高価で、簡単には数を揃えられません」


 サラは石を見る。


「どう使うの?」

「身につけるだけです」

「それだけ?」

「致命的な衝撃を一度だけ肩代わりします」


 サラは石からクラリスへ視線を移した。


「一度だけ?」

「ええ」

「そのあとは?」

「割れます」

「割れるんだ」

「割れます」

「どのくらい高いの?」


 クラリスが少しだけ黙った。エパールも黙った。傘次郎が言った。


「めちゃくちゃ高いな」

「何で分かるの」

「全員黙ったからだ」

「鋭い」


 サラが感心すると、クラリスが続けた。


「傘にしては」

「お前ら本当に俺に厳しくねえか?」


 サラは護身石を持ったまま、クラリスを見る。


「これ、私に?」

「そうですわ」

「クラリスは?」


 クラリスは自分の襟元を少し開いた。同じ灰色の石が、小さな紐で下がっている。


「持っています」

「エパールさんは?」

「ありません。こちらにある護身石は、私のものと、今あなたに渡しているものの二つだけですわ」

「二つだけ?」

「ええ。量産できる品ではありません。ですから、前に出る私たちが持ちます」


 エパールは自分の外套に手をかけた。


「私は、協会から探索支援用の防護具を借りましたよ」


 外套の内側には、胸と背中を覆う薄い保護板が入っていた。


「それに、私は戦いませんから」

「何かあったら?」

「隠れます」

「即答」

「大事です」

「手帳に?」

「最初の方に書いてあります」


 たぶん本当なのだろう。


 サラは護身石を見る。小さい。こんなもので命が助かるのか、少し信じにくい。


「本当にいいの?」

「何がですの?」

「貴重なんでしょ」

「ええ」

「めちゃくちゃ高いんでしょ」

「ええ」

「割れるんでしょ」

「ええ」

「じゃあ」


 クラリスはサラの言葉を遮った。


「割らずに帰ってきなさい」


 サラは黙った。クラリスは自分の襟元の石に触れる。


「私も、そうしますから」


 昨日、クラリスは言った。

 戻ることを、失敗だと思わないでください。

 戻ってきなさい。


 そして今日も。

 割らずに帰ってきなさい。


 クラリスは、そういうことばかり言うようになった。

 昔は追いかけてきた。

 止めようとした。

 捕まえようとした。

 今は、自分も一緒に行く。

 それでも、帰ることだけは譲らない。


「分かった」


 サラは護身石を受け取った。


「割らない」

「約束ですわ」

「クラリスも」

「当然です」

「絶対?」

「絶対とは言いません」


 サラの顔が曇る。


「言わないんだ」

「嘘になりますもの」


 クラリスは静かに言った。


「でも、割らないように帰ります」


 サラは少しだけ考えた。


「それならいい」

「いいんですの?」

「うん」

「成長しましたわね」

「評価?」

「褒めています」

「じゃあ、ありがとう」


 クラリスが少し驚いた顔をした。


「何?」

「いえ」

「変なの」

「あなたに言われたくありませんわ」


 サラは護身石の革紐を首にかけ、外套の内側へ収めた。


 胸元。

 昨日まで、赤い印があった場所とは少し違う。

 でも近い。


「傘次郎」

「何だ」

「行くよ」

「見りゃ分かる」

「怖い?」

「俺が?」

「うん」

「知らん」

「またそれ」

「分からねえものは分からねえまま置くんだろ」

「流行ってる」

「誰のせいだ」


 サラは少し笑った。クラリスが石段の前に立つ。エパールが工具鞄を背負い直す。同行する二人の魔道士が、中継札と携行灯を確認する。

 縦穴の上層には、まだ午後の光がある。石段も見える。回廊も見える。その先の門も。

 けれど、門から先だけは、何も見えない。光が届いていない。

 行方不明の三人。

 閉じた隔壁。

 見つかったばかりの部屋。

 古代魔道具の記述。

 まだ描かれていない地図の先。


 サラは傘次郎を握った。

 昨日は、戻ることを選んだ。

 今日は、入る。

 ただし、一人ではない。

 クラリスがいる。

 エパールがいる。

 傘次郎がいる。

 そして、帰る場所がある。


 クラリスが振り返った。


「準備は?」

「できてる」


 エパールも頷く。


「はい」


 傘次郎が低く言った。


「さっさとしろ」


 クラリスは、暗い門へ向き直った。

 その腕には、フォルスシタデルから持ち帰った魔道具。

 胸元には、割らずに帰るための護身石。


 サラは、その背中を見た。追いつきに行った少女は、もう自分より先に立っていた。

 それが悔しい。少し嬉しい。

 そして今度は、その背中を追うだけではない。隣に並ぶために、サラはクラリスの横へ立った。

 エパールも、その隣へ来る。同行する二人が、先に石段へ向き直る。


 サラとクラリスとエパールは、最後にもう一度だけ互いの顔を見た。

 縦穴の底から吹き上げる冷たい風が、午後の光を抜けていった。

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