第15話 規定内の消耗
最初の一歩は、まだ光の中だった。
クラリスが石段を下りる。サラはその後ろに続き、エパールが少し遅れて歩いた。さらに後ろから、前日の捜索に参加していた二人の魔道士がついてくる。
頭上には、まだ空が見えている。午後の光が縦穴へ斜めに差し込み、岩壁に張りつく階段と回廊を白く照らしていた。けれど、石段を一段下りるたび、空は少しずつ遠くなる。
「下は見ない方がいいですわよ」
クラリスが前を向いたまま言った。
「見てない」
「見ようとしていましたわ」
「見てないってば」
「では、今からも見ないでください」
「何で?」
「足元がおろそかになりますから」
「クラリスは見たの?」
「見ました」
「ずるい」
「先に危険を確認したのです」
「底、見えた?」
「見えませんでしたわ」
サラは少しだけ横を向いた。石段の外側には、腰ほどの高さの欄干がある。その向こうは暗い。縦穴の反対側までは見えるのに、下を覗けば途中から光が消えている。
風だけが、底の見えない場所から吹き上げていた。
「だから見ない方がいいと言いましたのに」
「見てない。横を見ただけ」
「同じですわ」
「落ちるなよ」
傘次郎が言った。
「分かってる」
「落ちても俺は飛べねえぞ」
「傘なんだから、少しくらいゆっくり落ちたりしないの?」
「試してみるか?」
「しない」
即答すると、後ろから小さな音がした。エパールが笑いをこらえたらしい。
「笑った?」
「笑ってません」
「今、笑った」
「足元を見ていました」
「エパールさんまでクラリスみたいになってる」
「いい傾向ですわね」
「よくない」
話している間にも、石段は続いている。やがて、上から見えていた最初の回廊へ着いた。
岩壁の外側へ張り出すように作られた、幅の広い石の道。左には岩壁。右には縦穴。頭上に天井はない。
午後の光も風も、ここまでは届いていた。石床には長い年月で削れた跡がある。その上に、比較的新しい靴跡がいくつも重なっていた。
「ここが第一外縁回廊です」
同行する魔道士の一人が言った。前日の捜索で先導を担当した人物らしい。腰に携行灯と地下用の信号札を下げている。
「この先の門から第一確認区画へ入ります。第三確認区画までは、昨日も異常はありませんでした」
クラリスが頷く。
「先導をお願いします」
「承知しました」
魔道士が先頭へ出る。クラリスは半歩下がり、その背中と周囲を同時に見られる位置へ移った。サラも前へ出ようとした。
「サラ」
「何?」
「あなたは私の後ろです」
「隣じゃないの?」
「外では隣でした。中では隊列を組みます」
「私が前でも」
「駄目です」
「まだ何も言ってない」
「言おうとしたでしょう」
「顔?」
「顔ですわ」
「便利だね、それ」
「あなたが分かりやすいだけです」
クラリスは大きな門へ向き直った。門は開いたままだった。側壁を深く穿つ、四角い入口。
外から差し込む光は、石床の途中で細長く途切れている。その先は、携行灯がなければ何も見えない。先導役の魔道士が灯りを掲げた。白い光が、入口の奥へ伸びる。
「入ります」
クラリスが言った。サラは傘次郎を握り直した。
「うん」
一歩進む。
光の境目を越えた。
外の風が、急に遠くなった。音の響き方も変わる。靴音が壁と天井へぶつかり、少し遅れて返ってくる。
石の匂い。乾いた埃。古い油。外では明るかった携行灯が、急に小さく見えた。
「暗いな」
傘次郎が言う。
「見えるの?」
「知らん」
「じゃあ、何で暗いって」
「声が響いてるからだ」
「暗さと関係ある?」
「細けえな」
「傘次郎が適当なんでしょ」
「静かにしてくださいな」
クラリスが振り返らずに言った。
「声で周囲の音を消さないでください」
「はーい……」
「俺もか?」
「当然です」
「俺は小声にできるか知らねえぞ」
「では、必要なときだけ喋ってください」
「横暴だな」
それでも、傘次郎は黙った。
第一確認区画は、広い通路といくつかの小部屋からできていた。壁には、ところどころ浅い溝が刻まれている。装飾なのか、何かを流すためのものなのか、サラには分からない。
エパールは歩きながら壁を見ていた。
近づきすぎない。
触らない。
でも視線だけは忙しい。
「見たい?」
サラが小声で聞く。
「見たいです」
「触りたい?」
「触りたいです」
「分解したい?」
「しません」
「したいかどうか」
エパールは少し黙った。
「……少し」
「正直」
「手帳に、嘘をつかないと書きました」
「そんなのもあるんだ」
「クラリス様が追加しました」
「正しい判断ですわ」
前を歩くクラリスが答えた。
「聞こえてたの?」
「ここではよく響きますもの」
通路を進むにつれ、外から差し込んでいた光が弱くなった。
一度角を曲がる。
もう空は見えない。
入口の明るさだけが、遠い四角形になって後ろへ残っていた。
さらにもう一度曲がる。
それも見えなくなった。
携行灯だけになる。
サラは一度、後ろを振り返った。
暗い通路。
その先に外があることは分かっている。
でも、もう見えない。
「戻る道なら覚えていますわ」
クラリスが言った。
「別に不安じゃない」
「そうですの?」
「……ちょっとだけ」
「なら、ちょっとだけ覚えておいてください」
「何を?」
「私も戻る道を見ています」
サラはクラリスの背中を見る。
「うん」
第二確認区画へ入る。そこでは壁の材質が変わっていた。古い灰色の石の間に、色の薄い石材が継ぎ足されている。補修された部分らしい。
エパールが足を止めかけた。すぐにクラリスを見る。
「見てもいいですか」
「その場からなら」
「はい」
エパールは携行灯を少し高く上げた。
「外から見えた補修材と同じです。元の壁より新しいです」
「いつ頃のものか分かりますの?」
「正確には分かりません。ただ、遺跡が造られたときと同じではありません」
「最近?」
サラが聞く。
「最近が何年を指すかにもよります」
「何でそんな言い方するの」
「古いものを扱う人の最近は、長いので」
「どのくらい?」
「百年くらいなら、比較的最近です」
「長い」
「でも」
エパールは壁の継ぎ目を見た。
「これは、そこまで古くないかもしれません」
「断定は」
クラリスが言う。
「しません」
「よろしい」
エパールは手帳を取り出し、短く記録した。
第二確認区画の途中には、中継札が設置されていた。壁へ固定された薄い金属板。中央で、小さな青い光が一定の間隔で明滅している。
同行するもう一人の魔道士が、自分の信号札を近づけた。青い光が二度、強くなる。
「入口まで届いています」
「異常は?」
クラリスが聞く。
「ありません」
「次も確認してください」
「はい」
第三確認区画へ入るころには、通路が少し狭くなった。二人が横に並べる程度。天井も低い。エパールの工具鞄が壁へ当たりそうになり、本人が身体を斜めにする。
「大丈夫?」
サラが聞く。
「大丈夫です」
「重そう」
「重いです」
「置いてくればよかったんじゃねえか」
傘次郎が言った。
「必要なものだけです」
「その鞄全部が?」
「はい」
「絶対いらねえもの入ってるだろ」
「入っていません」
「本当か?」
「装飾用の研磨布は置いてきました」
「今ので疑いが増えたぞ」
「どうしてですか……」
クラリスが片手を上げた。全員が止まる。
前方に何か落ちていた。布の袋。口が開き、中は空になっている。
「予備油の袋です」
先導役の魔道士が言った。
「昨日確認された位置から、変わっていません」
クラリスが周囲を見る。
床。
壁。
天井。
「触れた形跡は?」
「ありません」
「ここから先は?」
「第四区画手前です。隔壁まで、あと少し」
「信号を確認してください」
連絡役の魔道士が中継札へ信号を送る。
壁の青い光が、少し遅れて明滅した。
「届いています。ただ、先ほどより反応が遅い」
「記録を」
「はい」
クラリスはサラとエパールを見る。
「ここから先は間隔を詰めます。勝手に止まらない。何か見つけたら声をかける。触らない」
「分かった」
「はい」
「傘次郎も」
「俺が何に触るんだよ」
「サラを勝手に急かさないでください」
「そっちか」
通路を進む。やがて、携行灯の光の中に大きな影が浮かんだ。
隔壁。
通路を丸ごと塞ぐ、分厚い石と金属の壁だった。中央に継ぎ目がある。本来は左右へ開くのだろう。片側の壁には、操作用と思われる石板が埋め込まれていた。その前には、昨日の捜索班が残した小さな印がある。
「ここです」
先導役の魔道士が言った。
「昨日は通常の解除手順を三度試しました。反応はありますが、開きません」
「三度以上は?」
「機構への負荷を避けるため、試していません」
「正しい判断です」
クラリスは隔壁の前へ進む。ただし、触れられる距離までは近づかない。
「エパール」
「はい」
「外から見える範囲で確認を」
「はい」
エパールが工具鞄を床へ置く。留め具を外し、薄い手袋と小さな観察鏡を取り出した。隔壁へ近づく前に、クラリスを見る。
「ここまで?」
「そこまでです」
「はい」
エパールはしゃがみ込み、操作板と壁の継ぎ目を観察する。直接触れない。観察鏡の角度を変え、携行灯の光を細い隙間へ送る。
「……変です」
「何が?」
サラが聞く。
「古い部分は、たぶん動こうとしています」
「動こうとしてる?」
「解除操作をすると、内側の機構には反応が出るはずです。昨日、反応自体はあったんですよね」
「はい」
先導役の魔道士が答える。
「石板の線が光り、内部で駆動音もしました」
「なら、開かないのは壊れているからとは限りません」
エパールは鏡を少し傾けた。
「閉じたままにする力が、別にあります」
クラリスの目が細くなる。
「別の機構?」
「たぶん」
「古いものですの?」
「分かりません。ただ」
エパールは工具鞄から、先の細い測定具を取り出した。
「この継ぎ目の奥だけ、魔素流の向きが逆です」
「逆?」
サラが首を傾げる。
「古い機構は隔壁を左右へ引こうとしています。でも、細い別の流れが、中央へ押し戻しています」
「それを止めれば開く?」
「可能性はあります」
「止め方は?」
クラリスが聞いた。エパールは少し黙った。
「通常の解除操作をしたときだけ、その細い流れが強くなるなら」
視線が傘次郎へ向く。傘次郎がすぐに言った。
「見るな」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてあるぞ」
エパールはサラを見る。
「傘次郎さんが、解除を邪魔している方の魔素流だけを吸えるなら」
「開くかもしれない?」
「かもしれません」
「危険は?」
クラリスが割り込む。
「吸ったことで、古い機構まで止まる可能性があります。逆に、閉鎖側だけ止められても、古い機構が急に動くかもしれません」
「隔壁が壊れる可能性は」
「あります」
「内部へ影響が出る可能性」
「あります」
「成功率は?」
「分かりません」
クラリスは隔壁を見た。
それから同行する二人の魔道士へ向き直る。
「解除操作は途中で止められますの?」
「はい。操作板から手を離せば、古い機構への供給は止まります」
「隔壁が動き始めた場合、固定は?」
「完全には。ただ、開いた位置で留める器具はあります」
「準備を」
二人がすぐに動く。短い金属棒を取り出し、隔壁の左右へ配置した。
「試すの?」
サラが聞く。
「試します」
「危ないって」
「危険があることと、試してはいけないことは同じではありませんわ」
クラリスはサラを見る。
「ただし、一度だけです。異常が出たら中止。その時点で撤退します」
「分かった」
「傘次郎」
「何だ」
「できますの?」
「知らん」
「またそれ?」
サラが言う。
「流れを寄こされりゃ喰う。どれだけ繋がってるかは知らねえ」
「古い方まで吸いそうになったら、止められる?」
「腹に入ってからのことを聞くな」
「その前に」
「できるかもしれんし、できねえかもしれん」
クラリスは少し考えた。
「サラ。無理だと思ったら、すぐ離れなさい」
「うん」
「傘次郎が嫌がってもです」
「俺を何だと思ってんだ」
「無理を隠しそうな傘です」
「傘にそういう気遣い求めんな」
「でも否定しないんだ」
サラは傘次郎を隔壁へ向けた。閉じたまま、先端を操作板の近くへ寄せる。触れない距離。エパールが指で位置を示した。
「そこです。もう少し右」
「こっち?」
「はい。そこで止めてください」
クラリスが全員を見渡す。
「始めます」
先導役の魔道士が操作板へ手を置いた。魔素を流す。石板に刻まれた古い線が、淡く光った。隔壁の奥で、重いものが軋む。同時に、傘次郎が震えた。
「来るぞ」
低い声。サラの手へ、何かが引かれる感覚が伝わった。
隔壁の継ぎ目。その奥から、細い魔素の流れが傘次郎へ吸い込まれてくる。
古い森で感じた揺らぎとは違う。
もっと細い。
固い。
何かの命令だけを繰り返し流しているような感覚。
「傘次郎?」
「黙って持ってろ」
傘の骨が小さく鳴った。
操作板の光が強くなる。
隔壁がわずかに開きかけ、すぐに中央へ押し戻された。
「離れて!」
エパールが叫ぶ。
サラは足を引きかけた。
その直前。
「待て」
傘次郎が言った。
魔素の流れが切れた。隔壁の奥で、何かが外れる音がした。左右の壁がゆっくりと動き始める。
「固定!」
クラリスの声。同行する二人が金属棒を差し込む。隔壁は人一人が通れる幅まで開き、そこで止まった。古い石が擦れる音が、通路全体へ響く。誰もすぐには動かなかった。
「状態は?」
クラリスが聞く。
「開放位置で止まっています」
「閉鎖側の反応は?」
エパールが測定具を見る。
「消えています。でも、完全に止まったかは分かりません」
「古い機構は」
「弱いですが動いています」
「傘次郎」
「何だ」
「平気?」
「少し食っただけだ」
「本当に?」
「知らん」
「それ、平気じゃないときにも言うやつ」
「うるせえ」
声はいつも通りだった。少なくとも、サラの手に感じる重さも変わっていない。
クラリスは開いた隙間の向こうへ携行灯を向けた。
暗い。
開口の先で、空間が大きく広がっている。
床も壁も黒っぽく、こちら側の石より滑らかに見えた。
「まず、私が確認します」
クラリスが言う。
「責任者だから?」
「ええ」
「私も」
「待ちなさい」
クラリスは隔壁を越え、向こう側へ立った。
左右。
天井。
床。
一つずつ灯りを向ける。
「目視できる範囲に異常なし」
次にサラが通る。エパールも続く。同行する二人の魔道士は隔壁の手前に残り、開いた隙間から内側を確認した。クラリスは二人へ言う。
「予定通り、ここに残ってください。隔壁と連絡路の確保を」
「承知しました」
「異常が出た場合、追わずに入口へ連絡を。隔壁を無理に開閉しないでください」
「はい」
連絡役の魔道士が口を開いた。
「先輩、信号が完全に切れた場合は?」
「一度、第三確認区画へ戻る」
先導役の魔道士が答えた。
「その手はずで、お願いしますわ」
クラリスが奥へ向き直る。三人で進み始める。
隔壁の向こうは、通路ではなかった。天井も高く、横幅もそれまでの区画よりずっと広い。古い石造の大部屋へ、後から別の部屋を押し込んだように、床も壁も天井も黒い金属板で覆われていた。
ただし、隙間なく覆われているわけではない。板の継ぎ目や、ところどころ剥がれた箇所から、元の石床と岩壁が覗いている。金属板の表面には、それよりわずかに艶のある黒い線が這っていた。元からあった石の溝へ潜り込んでいる部分もあれば、岩を無理に削って通したような部分もある。
エパールの歩みが遅くなった。
「これ」
「止まらない」
クラリスが言う。
「歩きながら見ます」
「はい」
エパールは黒い線から目を離せないまま進んだ。
「外の補修材より新しいかもしれません」
「何に使うもの?」
サラが聞く。
「分かりません。でも、古い回路へ繋がっています」
「勝手に継ぎ足した?」
「そう見えます」
クラリスが振り返る。
「断定は」
「しません。ただ、同じ時代の施工には見えません」
大部屋の中を、さらに進む。
隔壁から十数歩。
後ろで、金属が弾ける音がした。
三人が同時に振り返る。
隔壁が動いている。
「戻ります!」
クラリスが走り出した。サラも続く。隔壁の向こうで、二人の魔道士が何か叫んでいる。だが、石の擦れる音に消され、言葉までは聞こえない。固定していた金属棒が、一本ずつ押し潰されていく。
「傘次郎!」
「遠い!」
サラが傘を突き出す。隔壁の継ぎ目から魔素が流れている。でも、先ほどより太い。複数の流れが絡み合い、どれが閉鎖命令なのか分からない。
「喰える!?」
「まとめてならな!」
「古い方も!?」
「知らん!」
クラリスがサラの肩を掴んだ。
「止めなさい!」
「でも!」
「今吸えば、隔壁そのものが壊れるかもしれません!」
向こう側から、強い光が一度だけ見えた。
信号。
隔壁の隙間が狭くなる。
最後に連絡役の魔道士が腕を伸ばした。
こちらへ入ろうとしたのではない。
手の中の信号札を見せる。
まだ繋がっている。
そう伝えるように。
隔壁が閉じた。重い音が大部屋を揺らした。
クラリスは閉じた壁へ手を当てない。一歩離れたまま見る。
「信号を」
エパールが地下用の札を取り出した。
細い光が一度灯る。少し遅れて、二度返ってきた。
「向こうに届きます」
「入口までは?」
「反応があります。弱いですが、繋がっています」
クラリスは短く息を吐いた。
「予定変更です。ここでは隔壁を無理に開け直さない」
「でも、戻れないよ」
「今は」
クラリスは言った。
「無理に戻ろうとすれば、隔壁を壊す可能性があります。外の二人も危険に巻き込む」
「じゃあ」
「本来なら撤退です。ですが、閉じ込められた以上、ここで隔壁を壊すわけにはいきません」
クラリスは地下用の信号札を見る。
「入口との連絡は生きています。行方不明者の捜索経路と、内側の開閉機構を探す方向も同じです。把握されていない別経路には入らず、分かっている通路へ繋がる範囲だけを進みます」
「それ、戻る道がないまま進むってこと?」
「違います」
クラリスは閉じた隔壁を見る。
「入口との連絡は、向こう側の二人が守っています。私たちは行方不明者を探しながら、内側から開ける方法を探す。ただし、救出に必要な範囲で」
「……分かった」
「不安ですの?」
「ちょっと」
「私もです」
クラリスはあっさり言った。
サラは少し驚いた。
「クラリスも?」
「当然でしょう」
「大魔道士なのに?」
「大魔道士は、不安を感じなくなる称号ではありませんわ」
「そうなんだ」
「今、覚えてくださいな」
クラリスが前を向く。その瞬間、大部屋の奥から低い駆動音が響いた。
石を引きずる音ではない。金属同士が内側で噛み合い、重く回転するような音。
「エパール、下がりなさい」
クラリスの声が変わった。エパールが工具鞄を抱え、閉じた隔壁の前へ下がる。サラは傘次郎を構えた。
携行灯の光の向こう。暗闇の中に、黒い輪郭が浮かぶ。最初は、壁から切り出された岩塊に見えた。だが、床には触れていない。
人の背丈を優に超える、鈍い黒色の立方体。石と金属を組み合わせた外殻は傷だらけで、表面には幾何学的な継ぎ目が走っている。継ぎ目の奥で、淡い光が脈打っていた。
立方体は、床からわずかに浮いている。支える脚も、吊り下げる鎖もない。空中に固定されたまま、ゆっくりと回転していた。
「防衛機構です」
エパールが囁いた。
「でも、一般的な形とは——」
言い終わる前に、大きな立方体の一面が開いた。内部から、拳ほどの小さな立方体が一つ落ちる。床へ落下した瞬間、その底面から細い脚が四本伸びた。脚は虫のように広がり、小さな立方体を支える。
もう一つ。
さらにもう一つ。
本体から切り離された小さな立方体が、硬い音を立てて床へ落ちていく。着地した小型体は、細い脚を忙しく動かし、大部屋の左右へ散った。
「増えた」
サラが言った。
「本体から、小型のものが分離しています」
エパールの声が速くなる。
「内部に収めていたのか、外殻の一部が分かれたのか——」
「あとにしてくださいな」
クラリスが前へ出る。
「小型体の反応は?」
「弱いです。でも、それぞれに魔素が溜まっています」
「何をするもの?」
「分かりません」
小型体の一体が、サラの方を向いた。正面の小さな点が赤く光る。サラが一歩動く。赤い点が強くなった。
「サラさん、止まって!」
エパールが叫んだ。サラは止まる。小型体も動きを止めた。赤い光は消えない。
「動きに反応した?」
「それだけとは限りません。距離か、生体反応かもしれません」
「どうやって確かめるの?」
「近づかないでください!」
「確かめられないじゃん」
「安全が先です!」
本体が回転を止めた。立方体の一つの角が、三人の方へ向く。外殻の継ぎ目から漏れる光が強くなった。
「本体が動きます!」
予備動作はなかった。大型の立方体が一気に加速する。浮遊したまま、角を先頭にして大部屋を滑った。
「サラ、右へ!」
クラリスの声。サラは右へ跳ぼうとした。その先に小型体がいる。赤い点が一気に明るくなる。
「そっちは駄目です!」
「どっち!」
「上ですわ!」
金属板の継ぎ目から岩が隆起した。サラの足元にあった板だけが、斜めに持ち上がる。とっさに板を蹴り、身体を宙へ押し上げる。
本体がその下を通過する。黒い巨体が空気を押し潰す。
壁へ激突する直前、本体は軸をずらした。角が黒い金属板を削りながら、大部屋の中で強引に向きを変える。壁板の一部が剥がれ、その下から古い岩壁が露出した。
サラは傘次郎を開き、空中で体勢を整えた。着地する。
その直後、近くの小型体が震え始めた。外殻の隙間から白い光が漏れる。
「爆ぜるぞ!」
傘次郎が叫ぶ。
サラは傘次郎を小型体へ向けた。
「喰って!」
「寄こせ!」
小型体の内部で膨らみかけていた魔素が、傘次郎へ引かれる。白い光が消えた。爆音も、炎も、衝撃も起きない。小型体は脚を折り、その場へ崩れた。
「消えた」
サラが言う。
「爆発に使われる魔素を吸い切りました!」
エパールが叫ぶ。
「光が膨らみ切る前なら、吸魔で止められます!」
「全部こっちへ寄こせ!」
「まだ増えます!」
本体の側面が再び開いた。
小型体が床へ落ちる。
一つ。
二つ。
三つ。
本体は大部屋の奥で静止し、ゆっくりと回転していた。
小型体は細い脚を動かし、三人を直接追わない。
大部屋の左右。
後方。
壁際。
人が避けようとする場所へ散っていく。
「追ってこない」
サラが言った。
「逃げ道を塞いでいますわね」
クラリスが答えた。
「そんなことまで分かるの?」
「本体が正面から突進して、左右に小型体を置いている。偶然に見えますの?」
「見えない」
「なら、配置される前に減らします」
クラリスが床を殴った。ガントレットに刻まれた線が、茶色い光を放つ。金属板の継ぎ目から覗いていた岩盤が、波のように隆起した。二体の小型体が、足場ごと空中へ跳ね上げられる。
クラリスは踏み込み、隆起した岩塊へ拳を叩きつけた。岩と小型体が一緒に飛ぶ。本体の側面へ直撃した。衝突で小型体の外殻が割れた。内部に蓄えられていた魔素が制御を失い、赤い光となって膨れ上がる。
「暴発します!」
クラリスが腕を引く。本体の横で、先ほど露出した岩壁がせり出し、三人との間を塞いだ。
爆音。
石壁の向こうで炎と圧力が膨らむ。壁に亀裂が走り、破片が大部屋へ飛び散った。だが、三人のところまで爆風は届かない。
「吸わなくても防げる?」
「爆風を遮っただけです」
クラリスが答える。
「石壁は一枚割れました。何度も受けられるとは思わないでくださいな」
煙の中から、本体が滑り出した。外殻の一面が割れている。角も欠けていた。それでも浮遊は止まっていない。本体は傾きながら回転し、再び角を三人へ向ける。
「効いてる?」
「外側には」
エパールが答える。
「でも、魔素反応はほとんど落ちていません」
「割れたのに?」
「来ます!」
本体の側面がまた開く。
小型体が切り離される。
「これ以上、出させないで!」
エパールが叫んだ。
サラは傘次郎を閉じた。
傘次郎が吸った魔素が、サラへ流れ込む。
熱に変わる。
白い髪の根元に、紅が灯った。
熱が通り抜けるのに合わせて、その色は束ねた髪を駆け抜け、毛先まで鮮やかに染めていく。
傘の骨に赤い炎が走る。
クラリスの目が見開かれた。
「サラ、その髪——」
「あとで!」
エパールも息を呑む。
サラは本体へ駆ける。逃げ道の左には小型体。右にも小型体。正面からは本体が角を向けている。
「止まったら増える! 上に足場、作れる!?」
クラリスが床と本体の位置を見た。
「作りますわ! 行きなさい!」
クラリスが床へ拳を向ける。金属板の継ぎ目を押し広げ、下の岩盤から石柱が連続して隆起した。
一段。
二段。
三段。
サラは走ったまま、その上へ跳び乗る。小型体の間を、床に触れずに越える。
本体が突進した。最後の石柱が砕かれる。サラは宙へ跳ぶ。
「傘次郎!」
「やれ!」
サラは炎をまとった傘次郎を、本体の割れた側面へ叩き込んだ。赤い炎が亀裂から内部へ流れ込む。黒い金属板が焼け、小型体の放出口がひしゃげた。本体が大きく揺れる。
「これで増えない!」
「まだ動いています!」
エパールの声。
サラが食い込んだ傘次郎を引き抜こうとした、その瞬間、本体が横向きに回転した。サラの身体が外殻から弾かれ、床へ落ちる。
すぐ近くで、小型体の赤い点が灯った。サラは起き上がりざまに傘次郎を向け、膨らみかけた魔素を吸う。赤い光が消えた。その間に本体が向きを変えた。
割れた外殻。
焼けた側面。
欠けた角。
それでも浮遊を続けている。
「何で止まらないの!」
「外殻を壊しても、動力が残っています!」
エパールは本体の内部を見つめる。
割れた一面の奥。
黒い金属の骨組み。
そのさらに内側で、硬い光が脈打っている。
「中に何かあります」
「何?」
「魔素が全部、中央へ集まっています」
本体が動く。クラリスが、剥がれた床板の下の岩を隆起させ、横から押す。本体の進路がずれる。大型の立方体は壁へ激突し、角を露出した岩壁へ食い込ませた。
それでも回転は止まらない。壁を削りながら、少しずつ抜け出そうとしている。
「中央に、魔物の魔石みたいな核があります!」
本体が壁から抜け出した。割れた外殻の奥に、淡い光が見えた。
石でも、普通の金属でもない。黒い殻に覆われた、拳ほどのコア。そこから細い魔素流が枝分かれし、外殻、浮遊機構、小型体の放出口へ伸びている。
「核から出てる流れ、吸える?」
サラが聞く。
「近づけりゃな!」
「物理的に砕いても止まるはずです!」
エパールが叫ぶ。
「どちらでもいいです! あの核を!」
本体が動く。
同時に、残っていた小型体が一斉に赤く光った。
サラの左。
右。
エパールの前。
クラリスの後ろ。
「一斉に来ます!」
「サラ、小型体を!」
「本体は!?」
「私が止めます!」
クラリスが本体の正面へ立った。サラは傘次郎を開く。一体目から、膨らみかけた魔素を吸う。続けて傘次郎を振り、離れた二体目の流れも引き寄せた。二つの光が消える。
三体目はエパールのすぐ前。
「間に合わねえ!」
傘次郎が叫ぶ。クラリスが左手を伸ばした。エパールの周囲の床には、黒い金属板が隙間なく敷かれている。近くに、動かせる岩は露出していない。
床は動かなかった。
代わりに、空中に茶色い光が集まった。
粒が生まれる。
砂になる。
砂が固まり、分厚い岩壁になる。
何もなかった場所へ、岩そのものが生成された。
小型体が爆発する。岩壁が砕けた。衝撃がエパールを押し倒す。だが、炎も破片も、その身体までは届かない。
「エパール!」
「だ、大丈夫です!」
クラリスの右手が震えた。それでも本体から目を離さない。大型の立方体が回転する。角を先頭に、クラリスへ突進した。
クラリスは床を殴った。先ほどの衝突で剥がれた床板の下から、岩の柱が二本伸びる。一本が本体の進路をずらす。もう一本が下から外殻を持ち上げる。本体は回転しながら柱を砕く。クラリスは退かない。ガントレットを引く。
「クラリス!」
「核を見ていなさい!」
拳を振り抜く。本体の割れた一面へ直撃した。外殻がさらに崩れる。黒い骨組みが折れる。コアを覆っていた殻に亀裂が入った。
だが、クラリスの拳も止まった。指がうまく握れていない。本体が軸を回す。外殻の角がクラリスの腕へぶつかった。クラリスの身体が弾かれる。今度は膝をつく。
「クラリス!」
「今ですわ! 核から外へ出る流れだけを狙いなさい!」
サラは走った。残る小型体の間を抜ける。一体が赤く光る。傘次郎を横へ向ける。
「そっちは任せた!」
「雑に投げんな!」
傘次郎が、小型体の内部で膨らみかけた魔素を喰う。赤い光が消え、爆発は起きない。
サラは浮遊する本体へ飛びついた。割れた外殻へ、傘次郎の先端を差し込む。
コアには触れない。
触れる寸前。
「喰って!」
「言われなくても!」
コアから伸びていた魔素が、一斉に傘次郎へ流れ込んだ。
強い。
隔壁を閉じていた細い流れとは違う。
何本もの流れが絡み合い、本体の全身へ命令を送り続けている。
浮かべ。
回れ。
突進しろ。
切り離せ。
壊せ。
ただ、それだけを繰り返している。
本体が激しく回転した。サラの身体が揺さぶられる。
「止まらない! まだ、外から入ってる!」
「全部を吸おうとしないで!」
クラリスが叫ぶ。
「じゃあ、どこ!」
「エパール、供給元を!」
「全部喰おうとすんな!」
傘次郎の声も苦しそうだった。
それでもコアの光は消えない。
サラは柄を握り締める。
傘次郎だけを見ない。
足元を見る。
本体の回転。
クラリスの位置。
エパールの声。
「核の下です!」
エパールが叫んだ。
「床の黒い線から、魔素が伸びています!」
サラはコアの下を見る。床に埋め込まれた黒い回路。そこから実体のない細い魔素流が持ち上がり、本体の動きを追うようにたわみながら、コアへ流れ込んでいる。
本体は床へ繋がれているのではない。離れたまま、遺跡の回路から魔素を引いている。クラリスの声が飛ぶ。
「サラ、下から入る供給だけを断ちなさい!」
「分かった! 傘次郎、下!」
「最初からそうしろ!」
傘の先端をずらす。黒い回路から流れ込む魔素を吸う。供給が切れた。コアの光が急に弱くなる。本体の浮遊が不安定になった。大型の立方体が床へ近づき、角が剥がれた金属板の下の岩盤を削る。
「今ですわ!」
クラリスが立ち上がった。呼吸は荒い。右手は震えている。それでも左拳を握る。
露出した岩盤が、本体の下から隆起した。立方体を斜めに押し上げ、むき出しになったコアを正面へ向ける。クラリスがガントレットを叩き込んだ。
硬い音。
亀裂。
もう一度。今度は拳を叩き込むと同時に、岩の柱を下から突き上げる。重なった衝撃に、コアが砕けた。
淡い光が弾ける。本体の回転が止まった。浮遊する力を失い、大型の立方体が床へ落下する。重い衝撃が大部屋を揺らした。開いていた外殻も、そのまま動かなくなった。
だが、残っていた小型体の赤い点は消えなかった。一体が脚を動かし、サラへ向き直る。
「まだです!」
エパールが叫んだ。赤い光が強くなる。サラは本体から傘次郎を引き抜き、小型体へ向けた。
「傘次郎、もう少し!」
「一個ずつ寄こせ!」
小型体の内部から、爆発に使われる魔素が抜ける。赤い光が消え、細い脚が折れた。残る小型体にも、一体ずつ傘次郎を向ける。赤い光が膨らむより早く、内側の魔素を吸い切る。最後の小型体が床へ崩れた。
今度こそ、静かになった。誰もすぐには動かなかった。
赤い炎はもう消えている。髪からも、紅が少しずつ抜けていく。根元から白へ戻り、やがて毛先に残っていた色も消えた。
「終わった?」
「動かないでください」
クラリスは息を整えながら周囲を見る。
黒い壁。
天井。
大部屋の奥へ続く、暗い通路。
脚を折った小型体。
新しい駆動音はない。
「サラ」
「何?」
「先ほどの髪の色は、何ですの?」
「魔法を使うと、ああなる」
「前から?」
「うん。師匠も知ってる」
「私は知りませんでしたわ」
「私もです」
エパールが、もう白く戻った髪を見つめている。
「言ってなかったから」
「あとで詳しく聞きます」
「今じゃないの?」
「まずは怪我の確認ですわ。エパール」
「はい」
「怪我は?」
「ありません。保護板にも亀裂はありません」
「サラ、護身石は」
サラは胸元へ手を当てた。
「割れてない」
「私もです」
クラリスも自分の石を確かめる。
「傘次郎は?」
「腹いっぱいだ」
「大丈夫?」
「聞くな」
「大丈夫じゃない?」
「うるせえ」
声は出ている。サラの手の中にもいる。それでも、いつもより少し重い気がした。
「あとでエパールさんに」
「見るな」
「まだ何も言ってません」
「顔に書いてある」
エパールが立ち上がった。膝が少し震えている。
「本当に大丈夫?」
サラが聞く。
「驚いただけです」
「泣いてない?」
「まだです」
「まだなんだ」
「帰ってからにします」
「それがいいと思う」
サラは少し笑いかけた。そこで、クラリスが動いていないことに気づいた。
床へ落ちた本体の前。右手を下ろしたまま立っている。
「クラリス?」
「何ですの?」
「大丈夫?」
「当然ですわ」
返事が少し遅かった。クラリスが拳を開く。指先がわずかに震えている。もう一度握ろうとして、途中で止まった。
「手」
「何でもありません」
「動いてない」
「動いていますわ」
「今、止まった」
「細かいですわね」
クラリスは無理に拳を握った。その呼吸は、戦う前より浅い。声もほんの少しかすれていた。
エパールが表情を変える。工具鞄から測定札を取り出し、クラリスへ近づけた。
「何を」
「動かないでください」
「私は」
「クラリス様」
エパールの声が強くなる。クラリスが黙った。測定札の線が、淡い黄色から濁った橙色へ変わる。
「魔素流が荒れています」
「戦闘後ですもの」
「次の大きな術式は控えた方がいいです」
「問題ありませんわ」
「あります」
「規定内の消耗です」
サラはクラリスを見る。
「規定内?」
「想定していた範囲ということです」
「手が痺れてるのも?」
「ええ」
「息が変なのも?」
「変ではありません」
「変だよ」
「少し浅いだけですわ」
「それを変だって言うんじゃないの?」
クラリスは答えなかった。代わりに、壁へ背を預ける。ほんの一瞬だけ。サラはその動きを見逃さなかった。
「大魔道士でも、そうなるの?」
クラリスがサラを見る。
「何を言っていますの」
「だって、師匠は」
カルラが魔法を使ったあと、こうして手を震わせているところを見たことがない。呼吸を乱しているところも。声をかすれさせているところも。
魔法には代償がある。知っている。魔素を使えば消耗する。無理をすれば身体にも負担が出る。
何度も教わった。試験にも出た。
でも。
クラリスの指は、今も小さく震えている。
「大魔道士だから消耗しないのではありませんわ」
クラリスは壁から背を離した。いつものように、まっすぐ立つ。
「消耗したあとに、どこまで動けるかを知っているだけです」
「今は、どこまで動けるの?」
「まだ戦えます」
「エパールさんは控えた方がいいって」
「大きな術式を、です」
「さっき作った岩壁?」
何もないところに現れた壁。床から隆起した岩とは違った。
「あれ、周囲の岩を動かしたんじゃないんですか?」
エパールが聞く。
「いいえ」
クラリスは右手を軽く開いた。
「必要な位置に使える石がありませんでしたから」
「作ったの?」
サラが聞く。
「生成しました」
「何もないところから?」
「ええ」
「そんなこともできたの?」
「できますわ。これまで見せたことはありませんでしたけれど。ただし、周囲にある岩を使うより消耗します」
「どのくらい?」
「状況によります」
「今は?」
「規定内です」
「そればっか」
「便利な言葉ですもの」
「便利に使わないで」
クラリスは少しだけ笑った。その笑い方にも、いつもの余裕が少なかった。
「心配してくださっていますの?」
「してる」
「そう」
「嬉しそうにしないで」
「していませんわ」
「してる」
「顔、ですの?」
「顔」
クラリスは否定しなかった。エパールが測定札を見ながら言う。
「回復用の携帯食を取って少し休めば、流れは落ち着くと思います。ただ、次に岩を生成するのは避けてください」
「分かりました」
「本当に?」
「必要がなければ」
「必要を増やさないでください」
クラリスがエパールを見る。
「それは、あなたの手帳に書かれている言葉では?」
「今、クラリス様にも必要です」
「言うようになりましたわね」
「怖かったので」
「それは、すみません」
クラリスは素直に謝った。エパールの方が驚いた顔をした。
「さて」
クラリスは携帯していた魔物の干し肉を噛みちぎった。
——魂に染みる。
不意に、サラの脳裏に父の口癖が浮かんだ。
クラリスは沈黙した本体を見る。
「回復しながら確認します。触れずに分かる範囲だけ」
「はい」
エパールは観察鏡を取り出した。サラも横から覗こうとする。
「近づきすぎないでください」
「分かってる」
「傘次郎を差し込まないでください」
「差し込まない」
クラリスはエパールへ視線を移した。
「喜ばないでください」
「それ私じゃない」
「私です」
エパールが言った。
「喜ばないようにします」
「もう喜んでるじゃねえか」
傘次郎が呆れた声を出した。
壊れた本体の中央には、砕けたコアが残っていた。そこから細い管と魔術回路が放射状に伸び、浮遊機構や小型体の放出口へ繋がっている。
「小型体は?」
エパールは脚の折れた小型体へ観察鏡を向ける。
「本体から切り離されたあとも、内部に残った魔素だけで短い距離を動くようです。近くの生体反応を検知すると、内部の魔素を一度に放出する仕組みに見えます。だから本体が止まっても、小型体は止まりませんでした」
「地雷みたいなもの?」
「そう見えます」
「本体が撒いて、逃げる場所をなくす……」
「結果としては、そうなっていました」
「何でそんなものを」
エパールは答えなかった。答えられない。クラリスが代わりに言う。
「今は、用途だけ記録します。理由は分からないままです」
「うん」
サラは大部屋の奥へ続く暗い通路を見る。行方不明の三人は、その先へ進んだはずだ。
「三人を探す」
「ええ」
クラリスは右手をもう一度開く。震えは少し弱くなっていた。
「私は前へ出ます。サラは少し下がって、小型体と魔素流を見てください」
「本体がいたら?」
「私が止めます」
「一人で?」
「止めるのは私です。倒すのは一緒に」
サラは少しだけクラリスを見る。
「分かった」
「エパールは中央。私たちから離れない」
「はい」
「大きな音や駆動音がしたら、すぐ止まる」
サラとエパールが頷く。クラリスが携行灯を持ち上げた。光が、さらに奥へ伸びる。
そのとき、暗闇の向こうから小さな音がした。
石が転がった音ではない。
機構の駆動音でもない。
何かを床へ打ちつける音。
一度。
少し間が空く。
もう一度。
「今の」
サラが言う。
「静かに」
クラリスが片手を上げる。全員が息を抑える。
暗い通路。
携行灯の光が届かない、その先。
また音がした。
三度目。
弱い。
でも、同じ間隔だった。
「人です」
エパールが囁いた。
「断定は」
クラリスが言う。その声も小さい。暗闇の奥から、かすれた声が返った。
「……誰か、いるのか」
サラは傘次郎を握った。クラリスが一歩、前へ出る。その指先は、まだ少し震えていた。それでも声は、まっすぐだった。
「魔道士協会の救出班です」
返事はすぐには来なかった。
やがて、光の届かない場所から、もう一度だけ声がした。
「……来るな」




