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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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16/16

第16話 来るなと言った人

「……来るな」


 暗闇から届いた声が、通路の壁に弱く反響した。

 サラの足が前へ出かける。


「止まりなさい」


 クラリスが片手を上げた。サラは、その場で止まった。


「でも、人が」

「聞こえていますわ」


 クラリスが携行灯を掲げる。


「そっちの灯りを消せ」


 暗闇の声が、先ほどより強く言った。

 クラリスはすぐに携行灯の火を絞った。白い光が細くなり、消える。あたりが、何も見えない暗闇へ戻った。


「これでよろしくて?」

「ああ」

「こちらは魔道士協会の救出班です。あなたは昨日、遺跡へ入った調査員ですの?」


 返事はすぐには来なかった。

 荒い息。

 布か何かが擦れる音。


「……そうだ」


 男の声だった。


「三人で入った調査班の一人だ」

「残りの二人は?」

「ここにいる」


 クラリスの肩から、わずかに力が抜けた。それでも声は変わらない。


「二人とも生きていますの?」

「一人は意識がある。脚をやられた。もう一人は息をしているが、目を覚まさない」

「あなたの怪我は?」

「動ける」

「質問に答えてください」


 短い沈黙。


「肩と頭を少し。二人よりはましだ」

「分かりました」


 暗闇の中で、何かが床を叩いた。

 一度。

 少し間を置いて、もう一度。

 救出班が足を止める前から聞こえていたものと同じ、一定の間隔だった。


「その音は、あなたが?」

「救助が近くにいるなら、場所を知らせられると思った。あいつらは音には反応しない」

「あいつら?」

「床にいる、小さい箱だ」


 サラは、先ほどまで戦っていた小型の立方体を思い出した。細い脚を生やし、人の逃げ道へ先回りしたもの。


「いくつですの?」

「三つ残っている。俺たちと、そっちの間だ」

「大きな立方体は見ましたか?」


 エパールが尋ねた。


「床から浮いていたものです」

「見た」

「本体は、先ほど停止させました」


 男の息が止まった。


「倒したのか?」

「はい。でも、切り離された小型体には魔素が残っています。自力で動く可能性があります」

「なら、やっぱり灯りはつけるな」


 男が言った。


「やっぱり?」


 サラが聞く。


「最初の一つが爆発したあと、残った三つが俺たちを追ってきた。灯りの遮光蓋は閉じていた。それでも寄ってきた」

「光が見えなくても?」

「ああ。火を消したら止まった。俺たちが声を出しても、床を叩いても動かない」


 男が息を継ぐ。


「大きいのの近くにいたときは、こっちの動きを塞いでいた。ここまで離れてからは、光を隠した灯りへ向かった。大きいのからの指示が届かなくなると、近くの高温のものへ向かうんじゃないか。少なくとも、体温や音には反応していない」

「推測ですわね」

「そうだ。確かめるために火をつける気はない」

「十分です」


 クラリスは一度、サラとエパールを見る。


「灯りは消したままにします」


 エパールは工具鞄を床へ下ろした。留め具を押さえ、できるだけ音を立てずに開く。

 中から細い棒を取り出した。先端には、小さな鏡がついている。もう片方の手で測定札を持った。札に浮かぶ淡い光は、周囲の温度をほとんど上げない。


「それなら反応しない?」


 サラが小声で尋ねる。


「高温への反応という推測が正しければ。ただし、いつでも消せるようにします」

「断定はしない」

「はい」


 エパールは床へ膝をついた。長い観察鏡を通路の先へ伸ばし、測定札の淡い光だけを鏡へ当てる。


「一つ、見えます」


 小さな声。


「通路の中央です。赤い点は消えています。でも、内部の魔素反応は残っています」


 鏡を少し動かす。


「右に一つ。左にも一つ」

「並んでいますの?」

「ほぼ横並びです。ただ、左右の二体は、中央のものより少しだけ奥にいます」


 エパールは鏡を戻した。手帳を開き、通路と三体の位置を描く。

 三体は、奥にいる調査員たちを囲もうとしていた途中で止まったらしい。厳密な横一列ではない。中央がこちらへ少し張り出した、緩い弓なりだった。


「避けて通れますの?」

「無理です。どこを通っても、いずれかへ近づきます」

「石を転がしたら?」


 サラが聞く。

 クラリスが足元の小石を拾った。


「試すなら、これだけです」


 低い軌道で、通路の中央へ転がす。石は一体目の手前を通り、側壁へ当たって止まった。


「反応はありません」


 エパールが測定札を確認する。


「音にも、石そのものにも反応していないようです」

「なら、真ん中の一体を吸う」


 サラが傘次郎を構えた。


「一つなら行ける?」

「たぶんな」

「無理なら言って」

「今の俺に、絶対を聞くな」

「分かった」


 クラリスがエパールの図を見る。


「中央を停止させれば、通路の真ん中に作業場所ができます。残りの二体は、一体ずつ厚い岩壁で囲いましょう」

「爆発させるの?」

「人と、もう一体から隔離したあと、最小限の熱源で起動させます。爆風と破片は、分厚い岩で受け止めます」

「薄い仕切りじゃなくて?」

「ええ。爆発の力が、岩を割り、押し広げることに使われるようにします」


 サラは傘次郎を見る。


「吸った分を赤い炎にしたら、もう一体くらい吸える?」

「やめとけ」


 傘次郎が即座に言った。


「何で?」

「今の話を聞いてなかったのか。ここで火を出したら、残りがまとめて寄ってくるかもしれねえ」

「赤い炎は高温です」


 エパールも頷く。


「それに、使った魔素がすぐ吸える状態へ戻るとは限りません。今は試せません」

「……分かった。使わない」

「傘次郎だけで全部を解決しようとしない」


 クラリスが言った。


「クラリスも、一人で全部動かそうとしない」

「一か所動かしたら、必ず休みますわ」

「本当に?」

「ええ。エパールにも確認してもらいます」


 エパールが少し驚いた顔をした。


「私が止めても、止まってくださいね」

「分かっていますわ」

「では、まず中央です」


 サラは一歩ずつ進んだ。携行灯は消えたまま。エパールが持つ測定札の淡い光だけを頼りに、床の小石を避ける。


「あと七歩です」


 一歩。


「六歩」


 小型体は動かない。赤い点も灯らない。


「五歩」


 サラの体温には反応していない。男の推測が、一段だけ確かさを増した。


「そこで届きます」


 サラは止まった。傘次郎の先を、暗闇にいる小型体へ向ける。


「喰って」

「来い」


 小型体の内部に溜まっていた魔素が、細い流れになって傘次郎へ引かれる。赤い点が一度だけ灯った。だが、白い光は膨らまない。


「反応、減っています」


 エパールが言う。

 傘の骨が震えた。サラの両腕に重さがかかる。


「傘次郎?」

「まだだ」


 細い流れが続く。赤い点が弱くなる。傘次郎が、いつもより低い声で唸った。

 やがて、光が消えた。小型体の脚が力を失い、床へ落ちる。


「停止しました」


 エパールが測定札を見る。


「内部反応もありません」


 サラは急がず、同じ道を戻った。傘次郎が重い。先ほどまでよりも、はっきりと。


「もう吸わせないで」

「俺に言うな」

「言っておく」

「今度こそ腹いっぱいだ」

「うん。休んで」

「お前もな」


 クラリスが中央の通路へ進み出た。


「次は右側を囲います。新しく岩は作りません。床と側壁にあるものだけを動かします」


 右手のガントレットを石床に触れさせる。茶色い光が、既存の亀裂に沿って伸びた。

 床が、低い音を立てて持ち上がる。薄い板ではない。小型体と中央の通路の間へ、サラの肩幅よりも厚い岩壁が立ち上がった。

 続けて、調査員たちのいる奥側と、救出班のいる手前側にも岩がせり上がる。側壁と三枚の厚い岩によって、小型体の周囲に狭い石の囲いができていく。手前側の岩壁にだけ、床に沿った細い隙間が残された。

 石が動いても、小型体は反応しない。


「そこまでです」


 エパールが言った。

 クラリスはすぐにガントレットを離した。茶色い光が消える。立ち上がろうとして、壁へ片手をついた。


「クラリス」

「約束は覚えていますわ」


 その場で壁へ背を預け、ゆっくりと座る。呼吸が浅い。右手を開こうとして、指が途中で止まった。

 エパールが測定札を近づける。


「魔素流が荒れています。次は、呼吸が戻ってからです」

「ええ」

「返事だけではなく、休んでください」

「休んでいますわ」


 クラリスは回復用の飲み物を一口だけ飲んだ。誰も急かさなかった。

 暗闇の奥から、男の呼吸が聞こえる。脚を負傷した仲間へ、何か小さく声をかけている。サラは傘次郎を両手で支えたまま待った。

 やがて、クラリスの呼吸がゆっくりになる。


「右手を見せてください」


 エパールに言われ、クラリスが手を開く。震えは残っている。それでも、先ほどより弱い。


「もう一か所だけです」

「終わったら、また休む」


 サラが言う。


「分かっていますわ」


 クラリスは立ち上がった。今度は左側。中央の通路と、奥にいる三人を守る位置へ、分厚い岩を動かす。

 一枚。

 角度を変えて、二枚目。

 さらに三枚目。

 左の小型体も、側壁と三枚の岩に囲われた。床際には、同じように細い隙間を残す。


「終わりましたわ」


 クラリスが手を離す。声は平静だった。しかし、振り返ったとき、足が一度だけもつれた。

 サラが腕を掴む。


「座って」

「そのつもりですわ」


 今度は言い返さなかった。壁へ背を預け、目を閉じる。額に、薄く汗が浮かんでいる。右手の震えは、先ほどより強い。


「これ以上、岩は動かさないでください」


 エパールが言った。


「ええ」

「石板を起動する分は別ですけど、それも休んでからです」

「分かりましたわ」


 エパールは二つの石囲いを、観察鏡で一つずつ確かめた。

 中央の通路側。

 調査員たちのいる奥側。

 どちらにも、厚い岩がある。天井と側壁に大きな亀裂はない。


「熱源を入れます」


 工具鞄から、長い金属棒と予備の灯芯を取り出す。灯芯へ、ごく少量の油を染み込ませた。


「それを燃やすの?」

「はい。小型体が反応を始めたら、すぐに引き戻します」

「エパールさんが近づくことにならない?」

「私は中央の岩壁より手前にいます。火だけを、床の隙間から入れます」


 エパールは小さな火打ち具で、灯芯へ火をつけた。赤い炎が、指先ほどの大きさで揺れる。

 右側の囲い。

 長い金属棒を使い、床際の隙間から火だけを滑り込ませる。観察鏡の中で、小型体の赤い点が灯った。


「反応しました」


 細い脚が開く。小型体は高温の灯芯へ向きを変えた。外殻の継ぎ目から、白い光が漏れ始める。


「戻します」


 エパールが金属棒を引いた。火は岩壁の手前へ戻り、すぐに消される。全員が身を低くした。

 岩の向こうで、白い光が膨らんだ。


 爆発。


 鈍い音が、足元から身体へ伝わった。分厚い岩壁に亀裂が走る。石が砕け、囲いの内側へ崩れた。

 爆発の力の多くが、岩を割り、押し退けることに使われた。中央の通路へ届いたのは、床の揺れと細かな砂だけだった。


「奥は?」


 クラリスが呼びかける。


「無事だ」


 男の声が返った。


「こっちには石も飛んでいない」

「天井を確認します」


 エパールが測定札と観察鏡を向ける。新しい亀裂が広がっていないことを確かめる。右側の小型体からは、魔素反応が消えていた。

 左側の一体は、石の囲いの中で止まったまま。


「現時点では、構造上の危険が増した様子はありません。ただし、同じ手順で一度だけです」


 クラリスは立ち上がらない。


「お願いしますわ」


 エパールが新しい灯芯を金属棒に取りつけた。もう一度、指先ほどの火をつける。

 左側の囲いへ、床際から滑り込ませる。

 赤い点。

 細い脚。

 白い光。


「引きます」


 火が戻る。その直後、二度目の爆発が起きた。

 厚い岩の内側で、圧力が弾ける。壁が大きく割れた。それでも、こちら側へは崩れてこない。

 短い振動のあと、通路は静かになった。


「確認します」


 エパールはすぐには近づかなかった。砂が落ち着くのを待つ。

 天井。

 側壁。

 二つの石囲い。

 停止した中央の一体。

 順番に見ていく。


「三体とも、内部反応はありません」

「終わった?」

「見えていた三体は、すべて停止しました」


 エパールは暗闇の奥へ呼びかける。


「ほかに動くものは見えますか?」

「ない」

「灯りをつけます。異常があれば、すぐに言ってください」


 携行灯へ、もう一度火を入れる。最初は細く、床だけを照らす。何も動かない。少しずつ光を強める。

 中央の通路が、暗闇から浮かび上がった。

 停止した小型体。

 左右に残る、ひび割れた岩の囲い。

 その奥に、人の靴が見えた。


 一人は、壁へ背を預けて座っている。額から乾いた血が流れ、片手で肩を押さえていた。

 その横に、脚を伸ばして横たわる人物。

 さらに奥に、身体を丸めるように倒れている一人。

 三人ともいる。


「行きます」


 クラリスが立ち上がろうとした。


「クラリスは、もう少し座ってて」


 サラが言う。


「先に行きますの?」

「道は開いた。危ないものがないか、私とエパールさんで見る」


 クラリスは一瞬だけ黙った。


「分かりましたわ。目の届くところから離れないで」

「うん」


 サラとエパールは、中央の一体を避けて進んだ。左右の岩囲いには近づかない。測定札に、新しい反応はない。

 男が目を細める。


「本当に来たのか」

「うん」

「そうか」


 それだけ言って、男は目を閉じた。

 エパールは三人の前へ膝をつく。


「怪我を確認します。触る前に言います」

「頼む」


 脚を負傷した調査員には意識があった。顔色は悪いが、呼びかけには反応する。

 もう一人は目を閉じている。エパールが首筋へ指を当てた。


「呼吸があります。脈もあります」

「よかった」


 サラが息を吐く。


「まだ安心はできません」


 追いついたクラリスが言った。声には、少しだけ安堵が混じっていた。


 三人とも生きている。

 少なくとも、今は。


「救援信号は?」


 クラリスが男に尋ねる。


「使えなかった」

「理由は?」

「最初の爆発で、札を入れていた鞄が飛ばされた」

「場所は分かりますの?」

「この通路へ逃げ込む前だ。大きな立方体のいた部屋に残っているはずだ」

「確認していません」


 サラが言う。


「あの部屋、広かったし」

「構いません」


 クラリスは即座に答えた。


「今から探しに戻る必要はありません。こちらの信号は残っています」

「予備油の袋は?」


 エパールが聞いた。


「第四区画の手前に落ちていました」

「あれは俺だ」


 男が答えた。


「新しい区画へ入る前に灯りへ油を移した。空になった袋を鞄へ戻すつもりだったが、隔壁が閉まり始めて、落とした」

「拾う余裕はなかった」

「ああ」


 分からなかったことが、一つだけ分かった。それでも、隔壁が閉じた理由は分からない。

 サラは空の袋を思い出す。何かが起きた痕跡だと思っていた。実際には、誰かが逃げた途中で落としたものだった。


「この奥に、隔壁を開く装置はありますの?」


 クラリスが尋ねる。


「ある」


 男は視線を横へ向けた。暗い壁面。そこに、古い記号が並ぶ石板が埋め込まれていた。


「調べている途中だった。外の操作板と似ている。たぶん、内側から開けるためのものだ」

「試しましたか?」

「一度だけ」

「反応は?」

「光ったが、開かなかった。その直後に大きいのが動いた」

「それ以上は?」

「できる状態じゃなかった」


 仲間二人の負傷。

 通路を塞いだ三体の小型体。

 灯りをつければ、動き出すかもしれない。

 試せるはずがなかった。


「エパール」

「はい」

「救出に必要な範囲です」

「分かっています」


 エパールは石板へ近づいた。触れる前に観察鏡を使う。

 古い記号列。

 反復する形。

 出発前に見せられた写しと似ている。


「開閉に関係する可能性があります」

「外のものと同じ?」


 サラが聞く。


「全部ではありません。でも、この並びは似ています」


 エパールは測定札を近づけた。石板の奥に、弱い魔素流がある。古い流れ。その横を、黒い線が走っていた。


「黒い回路もあります」

「動いてる?」

「……いいえ」


 エパールは何度か角度を変えた。


「本体を止める前なら、動いていたのかもしれません。でも、今は反応がありません」

「本体と繋がっていた可能性がある?」

「あります。ただし、それだけでは断定できません」


 エパールは工具鞄を開く。細い金属の針と、二枚の薄い板を取り出した。


「何するの?」

「古い回路へ、正しい位置から魔素を流せるようにします」

「魔法を使うの?」

「私は流れを整えるだけです。起動に必要な魔素は、クラリス様に流してもらいます」


 サラは、壁際に座ったクラリスを見る。


「大丈夫?」

「岩を動かすほどは使いませんわ」

「でも、消耗はする」

「ええ」


 クラリスは隠さなかった。


「だから、もう少し休んでから一度だけ試します」

「エパールさん」

「今すぐ試すのはやめます。呼吸と魔素流が戻ってから、少量だけです」

「絶対に平気?」

「絶対とは言いません。でも、異常が出た時点で止めます」

「分かった」


 先に、三人の応急処置を始めた。脚を負傷した調査員の傷へ布を当てる。エパールが工具鞄から細い補強材を出し、添え木に使った。


「それ、魔道具用じゃないの?」


 サラが聞く。


「魔道具の補強にも使います。でも、布の外から固定する添え木として使える材質です」

「人に使って大丈夫?」

「はい。肌には直接当てません。鍛冶師(スミス)だからといって、人に危険なものを使ったりしません」


 エパールは固定する位置を示した。


「締めすぎないよう、指先の色と脈も確認します」

「それなら分かった」

「確認は大事です。気になることは聞いてください」


 エパールは手順を一つずつ声に出しながら固定した。男の頭と肩の傷にも布を当てる。意識のない調査員の体勢を、呼吸を妨げないように整えた。

 三人の応急処置が終わるころには、クラリスの呼吸も落ち着いていた。


「右手を」


 エパールが言う。クラリスが開いて見せる。震えは、まだ残っている。


「少量だけです。長く流さないでください」

「ええ」


 エパールが石板へ起動針を当てる。


「一度だけ試します」


 クラリスが言った。


「異常が出たら、すぐ止めます。開き始めても、外側の二人から信号がなければ通りません」


 ガントレットを石板へ近づける。茶色い光が、ごく弱く灯った。


「流します」


 細い魔素が、起動針を通って石板へ入る。古い記号が一つずつ光った。先ほど隔壁を開いたときと同じ、重い駆動音。

 サラは傘次郎を構える。


「閉じる流れは?」


 エパールが測定札を見る。


「ありません」

「今のところは?」

「はい。今のところは」


 石板の奥で、何かが動いた。遠くから、石が擦れる音が響く。


「隔壁が開き始めたようです」

「信号を」


 クラリスが言った。

 エパールが地下用の信号札を取り出す。一度、光を送る。少し遅れて、二度の光が返ってきた。


「外側から返答です」

「続けます」


 クラリスが流す魔素を少しだけ強める。古い記号の光が揃った。遠くの駆動音が大きくなる。

 クラリスは手を離した。


「止めました」


 すぐに壁へ背をつける。エパールは石板と信号札を交互に確認した。


「閉鎖側の反応はありません。外側からも、開放を確認したとの信号です」

「向こうの二人には、内側へ入らないよう伝えて。それから、担架を一つ、こちらへ入れてもらって」

「はい」


 エパールが信号を返す。


「折り畳み担架を、隔壁の内側へ差し入れてもらいます」

「取りに戻る?」


 サラが尋ねた。


「私が行きます」

「私も行く」


 クラリスは、壁へ背を預けたまま三人の調査員を見た。


「私はここに残りますわ。サラ、エパールから離れないで」

「うん」


 サラとエパールは、来た道を隔壁まで戻った。中央の継ぎ目は、人一人が通れる幅まで開いている。

 外側の二人は境を越えず、折り畳まれた担架をこちらへ差し入れた。


「クラリス大魔道士(ソーサラー)は?」

「三人のところにいる」

「担架を。こちらで受け取ります」


 サラとエパールで担架を受け取る。外側の二人は、そのまま隔壁の外に残った。

 サラとエパールは、担架を持って三人のもとへ戻った。停止した防衛機構は、どれも動かなかった。


 出発の前に、受け取った担架を広げる。意識のない調査員を移し、搬送の担当を決めた。

 前をクラリス。後ろをサラ。

 男は、脚を負傷した仲間へ、負傷していない側の肩を貸す。

 エパールは工具鞄を背負い、携行灯を担架の前部に固定した。両手は空いている。

 手で運ぶものとして残ったのは、傘次郎だけだった。


 サラは傘次郎を握ったまま、担架の後ろへ立った。片手で持ち上げようとする。

 担架は動かなかった。


「無理ですわ」


 クラリスが言う。


「分かってる」

「傘次郎をどうしますの?」


 床。

 壁。

 工具鞄の上。

 置く場所はある。

 でも、手を離すという考えが浮かんだだけで、柄を握る指に力が入った。


「サラ」

「待って」


 サラは傘次郎を見る。

 黒い布。

 古い柄。

 さっきまで大量の魔素を吸っていた。

 今は、いつもより重い。


「エパールさん」

「はい」

「傘次郎を持ってて」


 エパールの目が大きくなった。


「私が、ですか?」

「うん」

「本当に?」

「落とさないで」

「落としません」

「開かないで」

「開きません」

「中を見ないで」

「見ません」

「重いから」

「両手で持ちます」

「嫌がったら返して」

「すぐ返します」

「おい」


 傘次郎が言った。


「勝手に決めんな」

「今だけ」

「こいつにか?」

「エパールさんに」

「聞こえてます」


 エパールが少し傷ついた顔をした。


「嫌?」


 サラが傘次郎へ尋ねる。少し間があった。


「落とすなよ」

「落としません」


 エパールが両手を差し出した。サラは柄を握ったまま、その手の上へ傘次郎を乗せる。まだ離さない。エパールが重さを受け止める。


「重いです」

「だから言ったよ」

「でも、持てます」


 サラは指を一本ずつ開いた。最後の指が柄から離れる。

 傘次郎は、エパールの手の中にある。

 見えている。

 声も聞こえる。

 消えていない。


「何見てんだ」


 傘次郎が言った。


「いるなって」

「いるだろ」

「うん」


 サラは担架の後ろを、両手で持ち上げた。傘次郎は手の中にない。でも、自分の足で歩けている。


「行こう」


 サラが言った。


「ええ」


 帰り道を進む。来たときより遅い。

 クラリスとサラが、意識のない調査員を担架で運ぶ。男は、負傷していない側の肩で、脚を負傷した仲間を支える。エパールは工具鞄を背負い、両手で傘次郎を持っている。


「エパールさん」

「はい」

「大丈夫?」

「重いです」

「代わる?」

「今は人を持ってください」

「うん」

「俺は荷物か」


 傘次郎が言った。


「大事な荷物です」

「褒めてねえだろ」


 中央の通路を抜ける。

 岩壁の亀裂。

 停止した小型体。

 男がそれを見て、顔を引きつらせた。


「これ、お前らがやったのか?」

「救出に必要な範囲だけですわ」


 クラリスが答える。


「必要な範囲で、これか」


 来た道は、平らではなくなっていた。ひび割れた石板。崩れた岩壁。爆発で散った石片。

 何度か足を止め、担架を持ち上げる高さを揃えながら越えた。細かな手順を繰り返している余裕はなかった。ただ、誰も落とさず、全員で大部屋まで戻った。


 停止した本体が、床へ落ちたまま残っている。分離した小型体も動かない。

 男が、今度こそ言葉を失った。


「これも?」

「三人で止めました」


 エパールが答えた。


「その傘も含めてか?」

「かなり」


 サラが言う。


「何なんだ、その傘」

「俺が知るか」


 傘次郎が返した。男は黙った。


 隔壁まで進む。中央の継ぎ目は開いていた。外側から、二人の魔道士がこちらを見ている。


「クラリス大魔道士(ソーサラー)!」

「そこにいてください!」


 クラリスが先に命じた。


「こちら側へは入らず、外で受け取って。三名を発見。全員生存。二名が自力歩行困難。うち一名は意識なし、呼吸あり」

「分かりました!」


 二人は隔壁を越えず、外側で搬送の準備を始めた。


 まず、クラリスとサラが担架を運ぶ。狭い継ぎ目に、前側からゆっくり通す。外側の魔道士が、先端を受け取った。

 クラリスが隔壁を越える。続けて、意識のない調査員とサラも外側へ出る。

 脚を負傷した調査員と男が、そのあとに続いた。最後に、傘次郎を両手で抱えたエパールが通る。


「隔壁は?」


 クラリスが尋ねる。


「内側の操作後、通常の解除で開きました。閉鎖側の反応はありません」

「再閉鎖の兆候は?」

「今のところありません。固定器具も追加しています」

「出発前に、固定状態をもう一度確認して」

「はい」


 一人が操作板と固定器具を確認する。閉鎖側の魔素流に、変化はない。

 確認を終えてから、一人の魔道士がクラリスに代わって担架の前を持った。もう一人は、脚を負傷した調査員を男から引き受ける。


「先輩」


 若い方の魔道士が、男へ呼びかけた。


「お前ら、この遺跡には来るなと言っていただろ」

「……すみません」


 男は、若い魔道士の顔をしばらく見た。


「まあ、お前らも無事ならいい」


 それだけ言って、男は肩から力を抜いた。


 クラリスが、意識のある者たちを見渡した。


「もう一つ。救護に必要なことを除いて、この遺跡で見聞きしたことは、帰還後の聞き取りが終わるまで、この場の者以外には話さないでください。防衛機構も、黒い回路も——傘のこともです」


 外側の二人が頷く。脚を負傷した調査員も、小さく顎を引いた。

 男は、エパールの腕に抱えられた傘を一度見た。


「……分かった」


 エパールが地下用の信号札を操作する。


「入口へ、生存者発見の信号を送ります」


 青い光。

 一度。

 二度。

 間を置いて、もう一度。

 遠くの中継札が応答する。少し遅れて、入口側から強い光が返った。


「届きました」


 クラリスが頷く。


「戻ります」


 第三確認区画。

 第二確認区画。

 第一確認区画。

 来たときより、ずっと時間がかかった。


 途中で何度も止まった。

 負傷者の呼吸を確認する。

 クラリスの手を確認する。

 傘次郎の重さを確認する。

 中継札の光を確認する。


 止まるたびに、誰かが待った。誰も一人で先へ行かなかった。


 角を二度曲がる。遠くに、四角い光が見えた。

 外だ。


「見えた」


 サラが言う。


「何がですの?」

「出口」

「見れば分かりますわ」

「言いたかっただけ」

「そう」


 クラリスは少し笑った。


 門を越える。外の風が戻ってきた。石と油の匂いが薄くなる。空気が動いている。

 第一外縁回廊には、傾いた午後の光が届いていた。遺跡へ入ったときより、色が赤い。縦穴の向こう側の岩壁も、薄い橙色に染まっている。


 支援班が石段を下りてくる。

 担架。

 救護具。

 水。

 毛布。


 三人の調査員は、すぐに引き渡された。意識のない一人は、救護用の担架へ移される。脚を負傷した一人も横になる。男は自分で歩けると言い張ったが、救護班に座らされた。


「三名とも脈あり」

「一名、意識なし。呼吸は安定」

「脚部損傷。固定を維持」

「頭部と肩に負傷。搬送可能」


 言葉が順番に聞こえる。

 三人とも生きている。

 まだ治療は必要だ。

 安心しきってはいけない。

 でも、三人とも戻ってきた。


 サラはそこで、ようやく息を吐いた。


 少し離れたところで、クラリスが石段の壁へ手をついた。サラはすぐに気づいた。


「クラリス」

「何ですの?」

「座って」

「まだ報告が」

「座って」


 エパールが測定札を取り出す。


「私からもお願いします」

「二対一ですわね」


 クラリスは諦めたように石段へ腰を下ろした。救護班から回復用の飲み物を受け取る。一口飲んで、顔をしかめた。


「まずい?」


 サラが聞く。


「聞かないでください」

大魔道士(ソーサラー)でも?」

大魔道士(ソーサラー)でもですわ」


 サラはクラリスの隣へ座った。自分の胸元へ手を入れ、護身石を取り出す。

 淡い灰色。

 割れていない。


「クラリス」

「ええ」


 クラリスも襟元の石を出した。

 同じ色。

 同じ形。

 こちらにも亀裂はない。


「割れなかった」

「約束しましたもの」

「石が?」

「私たちがです」

「そっか」

「何ですの?」

「何でもない」


 縦穴から、冷たい風が吹き上がる。昼より少し弱い光の中を通り、二人の髪を揺らした。

 サラの髪は、もう白へ戻っている。クラリスの右手は、まだわずかに震えている。傘次郎は重い。エパールの膝も、まだ少し震えている。

 誰も平気ではなかった。

 それでも、全員がここにいる。


 救護班に座らされた男が、こちらへ顔を向けた。


「おい」


 サラは立ち上がる。


「何?」

「来るなって言っただろ」

「聞いたよ」

「それで来たのか」

「うん」


 男はしばらくサラを見た。


「変な奴だな」

「よく言われる」

「止まらなかったのか?」


 サラは少しだけ考えた。


「止まったよ」

「そうか」

「止まって、聞いてから来た」


 男は目を閉じた。今度は、少しだけ笑ったように見えた。


「それならいい」


 救護班が男を立たせる。ほかの二人と一緒に、石段の上へ運んでいく。

 救護班の足音が、石段の上へ遠ざかっていった。第一外縁回廊に残ったのは、救出班の五人だけだった。


「サラさん」


 エパールが呼ぶ。両手で傘次郎を持っている。


「返します」

「うん」


 サラは手を伸ばした。柄を握る。重さが戻ってくる。さっきまでよりも、はっきり重く感じた。


「どうだった?」


 サラが聞く。


「何がだ」

「エパールさんに持たれて」

「最悪だ」

「何もしてません」


 エパールが言った。


「見てただろ」

「見えるので」

「見つめてた」

「大事に持とうとすると、見ます」

「やっぱり最悪だ」

「でも、落とさなかったでしょ」


 サラが言う。


「当たり前です」


 エパールは少し胸を張った。


「それに、返ってきた」


 サラは傘次郎の柄を握る。

 手から離した。

 でも、失わなかった。

 まだ少し胸がざわついている。もう一度できるかと言われれば、すぐには分からない。

 それでも。


「何笑ってんだ」


 傘次郎が言った。


「別に」

「気持ち悪い奴だな」

「傘に言われたくない」


 クラリスが立ち上がった。


「帰りますわよ、サラ」

「うん」

「エパールも」

「はい」

「傘次郎も」

「俺はサラに持たれてる」

「では、一本まとめて」

「一本って言うな」


 サラは石段を上り始めた。後ろには暗い門がある。その奥には、まだ分からないことがいくつも残っている。


 なぜ隔壁が閉じたのか。

 誰が、いつ、この防衛機構を設置したのか。

 黒い回路はどこへ続いているのか。

 何も分かっていない。


 でも、今はそれでいい。今日の任務は、答えを拾うことではない。三人を迎えに行くことだった。


 入ったときは五人だった。

 帰りは八人になった。


 少し先を行く三人を追い、夕方の光へ向かって石段を上った。

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