第8話 止まった足
サラ・アーベントは、十五歳になっても古びた傘を手放せなかった。
雨は降っていない。フォルシュタット学院の試験場には、朝の光がまっすぐに差し込んでいた。高い壁に囲まれた円形の広場。石床には、過去の試験で刻まれた傷がいくつも残っている。
その中心に、サラは立っていた。白い髪を後ろで結び、黒い試験用外套を羽織っている。これは、受験者全員に支給される防具だ。有効打に相当する衝撃を受ければ、繊維に染み込んだ染料が赤く浮き上がる。右手には、古びた傘。サラが今では「傘次郎」と呼んでいる、母の形見のような傘だった。蒼炎は、あの日以来、一度も再現できていない。けれど、傘次郎がただの傘ではないことだけは、この数年で分かっていた。魔法になる前の魔素の流れに触れたときだけ、傘次郎はそれを吸い取る。カルラはそれを暫定的に、吸魔と名付けた。
魔道士にとって、魔道具はただの道具ではない。魔素を通し、魔法を形にするための媒体だ。一つの魔道具を扱えるようになるだけでも、普通は何年もかかる。だから、多くの魔道士は一つの魔道具に一生を預ける。一人に一つの魔道具。一つの魔道具に、一種類の魔法。それが基本だった。例外はいる。カルラ・ヴァルトハイム大魔道士は、その一人だ。薄い金属片に魔術回路を刻み込み、カード一枚を一つの魔道具として成立させる。刻まれた魔術回路に応じて、一枚につき一種類の魔法を発動する。複数のカードを同時に使うことも、不可能ではない。ただし、できるのは単純な組み合わせだけだ。複雑な回路同士を並べれば、干渉して破綻する。万能な道具ではない。扱える者が少ない、例外の魔道具だった。その例外を作った本人が、今、サラの正面に立っている。試験官として。師匠として。そして、サラの弱点を誰よりも知る相手として。
「受験者、サラ・アーベント」
立会人の魔道士が声を張る。
「大魔道士認定試験、最終審査を開始する。試験官、カルラ・ヴァルトハイム大魔道士」
試験場の空気が硬くなる。師が弟子を試験することは、珍しくない。大魔道士の候補者を最も正確に測れるのは、その候補者を鍛えてきた者だからだ。ただし、甘さは許されない。むしろ、師が試験官であるときほど、審査は厳しくなる。カルラは腕を組んでいた。白い髪を後ろで束ね、黒い外套を肩にかけている。その指先には、薄い金属片のカードが一枚だけ挟まれていた。
白い縁取りのカード。
氷雪系。
サラは喉の奥で息を整えた。知っている。カルラは、最初から傘次郎に喰わせるつもりの魔法など使わない。傘次郎の吸魔は、触れただけで発動する。発動前の魔素流や、魔道具から漏れた魔素なら、触れた瞬間に吸い取れる。けれど、魔法によって生まれたものは違う。氷。風。石。炎。一度、現象として形になったものは、もう魔素ではない。傘次郎の餌ではない。それでも、サラは傘の柄を握った。自分には、これがある。これで、ここまで来た。
「準備は」
カルラが言う。
「できてるよ」
サラは答えた。声は震えなかった。震えるほどの子どもでは、もうない。あの日から、何年も経っている。レクシオの葬送の鐘も、クラリスが何も言わずにフォルスシタデルへ発っていたと知った日も、古びた傘を抱いたまま眠れなかった夜も、全部越えてきた。待つだけは嫌だと決めた。迎えに行けるくらい強くなると決めた。だから、ここに立っている。
「始める」
カルラの声と同時に、指先のカードが白く光った。刻まれた魔術回路が、薄い金属片の上で一瞬だけ浮かび上がる。次の瞬間、試験場の空気が白く爆ぜた。氷の粒を含んだ風が、正面からサラへ押し寄せる。サラは傘を開いた。古びた布が白い風を受ける。吸えない。目の前にあるのは、魔法によって生まれた風と氷粒だ。魔素の流れではない。ただの物理現象。傘次郎が喰えるものではない。それでも、傘は盾になる。サラは柄を両手で握り、左足を後ろへ引いた。傘の布に氷粒が叩きつけられ、乾いた音を立てる。腕に重さがかかる。耐えられないほどではない。
このまま受ける。
風が弱まった隙に、前へ出る。
サラは傘の縁越しに、カルラの指先を見た。白いカードが、わずかに傾く。風向きが変わった。正面からの圧が、ふっと消える。代わりに、足元から白い風が巻き上がった。
「っ」
開いた傘の内側に、風が潜り込む。盾だったはずの布が、今度は内側から押し返された。
骨が軋む。
傘が裏返りかける。
サラは反射的に柄を引き寄せた。傘を守るために。その瞬間、白い風が傘の内側で渦を巻いた。腕が外へ持っていかれる。骨が、嫌な音を立てた。
折れる。
そう思った。サラの指から、力が抜けた。古びた傘が、手を離れる。風にさらわれ、石床を滑り、試験場の端へ転がっていく。サラは動けなかった。
傘がない。
手の中に、ない。
その事実だけが、頭の中を真っ白に塗りつぶした。拾いに走るべきだった。距離を取るべきだった。傘がなくても、足は動くはずだった。分かっている。分かっているはずなのに、身体が動かない。
傘次郎が、ない。
手の中に、ない。
カルラが踏み込んだ。肩にかけた黒い外套の裾が揺れる。サラは、それを見ていた。見ているだけだった。カルラの指先が、サラの胸元を鋭く打つ。浅く、けれど判定には十分な衝撃だった。戦闘中なら、その一瞬で終わっていた。黒い試験用外套の胸元に、赤い印が浮かび上がる。
「そこまで」
立会人の声が響いた。吹雪が止む。試験場に、朝の光が戻ってくる。サラは石床に立ったまま、胸元の赤い印を見下ろしていた。
不合格。
その意味だけが、服に貼りついている。少し離れた石床の上に、古びた傘が転がっていた。
「受験者、サラ・アーベント。最終審査、不合格」
立会人の声が響いた。サラは、ようやく足を動かした。傘のところまで歩き、拾い上げる。布に破れはない。骨も折れていない。
無事だった。
そのことに安堵してしまった自分が、余計に悔しかった。
「もう一回」
「試験は終了した」
「今のは、手が滑っただけ」
サラは傘を握りしめた。
「次なら離さない。絶対に。だから——」
「違う」
カルラが言った。短い声だった。
「問題は、傘を落としたことではない」
サラは言葉を止めた。カルラは白い息を吐きながら、ゆっくりと近づいてくる。試験場の冷気は、まだ石床の上に薄く残っていた。
「落とした後、止まったことだ」
サラは何も言えなかった。
「拾いに走る。距離を取る。傘がなくても間合いを外す。選択肢はいくらでもあった」
カルラの視線が、サラの手元へ落ちる。
「だが、お前は手の中に傘次郎がないと分かった瞬間、自分まで失った」
胸元の赤い印が、熱を持ったように感じた。
「私は……」
言いかけて、続かなかった。カルラの言っていることが間違っていないと、自分でも分かっていたからだ。
傘が手を離れた瞬間。
サラは、何も選べなくなった。
傘はすぐそこにあった。
走れば届いた。
拾えなくても、動くことはできた。
それなのに、止まった。
「サラ」
カルラの声は、少しだけ柔らかかった。
「大魔道士は、強い魔道具を持つ者の称号ではない。想定していた手段が折れたとき、それでも次を選べる者の称号だ」
サラは傘の柄を握りしめる。
「一つの魔道具しか扱えないことが悪いのではない。多くの魔道士はそうだ。私のような例外の方が、むしろ異質だ」
カルラは、使い終えた白いカードを指先で挟んだ。カードの縁は黒く焦げ、魔術回路の一部は焼き切れている。
「お前は、傘以外を持っていなかったから負けたのではない」
カルラの目が、サラをまっすぐに射抜く。
「傘が手の中にないときの自分を、考えていなかったから負けた」
サラは唇を噛んだ。
「考えてる」
「なら、次は考える前に動くんだ」
カルラは静かに言った。
「戦場は待ってはくれない」
その言葉は、吹雪より冷たく胸に刺さった。サラは深く頭を下げた。
「……ありがとう……ございました」
声だけは、どうにか崩れずに済んだ。試験場を出るまで、サラは振り返らなかった。
廊下は長かった。学院の石壁は、昔と変わらない。葬送の鐘が鳴った日も、この壁は同じように冷たかった。何年経っても、石は何も覚えていないみたいな顔をしている。
サラは人気のない中庭まで歩いた。そこには古い木が一本ある。訓練の合間に、何度も休んだ場所だった。誰もいないことを確かめて、サラは足を止めた。胸元の赤い印は、まだ消えていない。
不合格。
その二文字だけが、いつまでも胸元に残っているみたいだった。
「……何さ」
サラは傘を見下ろした。
「何なのさ」
返事はない。当たり前だった。それでも、言わずにはいられなかった。
「手、離しちゃった」
サラは傘を見下ろしたまま呟いた。
「私が、離した」
傘は黙っている。古びた布が、風に少しだけ揺れた。
「ずっと握ってたのに。あの日から、ずっと。お母さんが帰ってくるまでって。お父さんが帰ってこなくなってからも、ずっと」
声が震えた。
「なのに、離した瞬間、何もできなくなった」
サラの声が低くなる。
「私、ここまで来たんだよ」
胸の奥が熱くなる。蒼炎の熱ではない。ただの怒りだった。ただの悔しさだった。
「師匠に何度も叩き直されて、魔物との戦い方も、魔法の原理も、道具を使った武術も、全部覚えた。眠れなくても訓練した。泣けなくても、立った」
サラは傘を地面に突き立てる。
「なのに、手の中からあんたが消えただけで、何もできなくなるなんて」
言葉にした瞬間、悔しさが喉を焼いた。
「ふざけないでよ」
それが傘次郎に向けた言葉なのか、自分に向けた言葉なのか、サラにも分からなかった。
「お母さんは帰ってこない。お父さんも帰ってこなかった。クラリスだって、何も言わないでいなくなった」
言ってから、胸が痛んだ。それは試験の赤い印より、ずっと深く刺さる痛みだった。
「だから、私が行くって決めたのに」
サラは傘の柄を握ったまま、額を伏せる。
「迎えに行けるくらい強くなるって、決めたのに」
風が止んだ。中庭が、妙に静かになる。遠くで聞こえていた訓練場の音も、誰かの話し声も、少しだけ遠のいた気がした。サラは気づかなかった。傘の骨に、かすかな蒼い筋が走ったことに。古びた布の奥で、何かが深く息を吸うように震えたことに。
「また、待てって言うの?」
サラは呟いた。
「合格できるまで。強くなれるまで。誰かが認めてくれるまで。ずっと、ここで待てって?」
そのときだった。
「待てなんて言ってねーよ」
低い声がした。サラの動きが止まる。誰もいない。中庭には、サラ一人しかいない。なのに、声は確かに聞こえた。古びた傘の内側から。ずっと黙っていたはずのものから。
「止まってんのは、お前だ、サラ」
サラは、ゆっくりと傘を見た。




