第7話 葬送の鐘
街の音が、戻ってきた。石壁の向こうへ置き去りにしたはずの喧騒が、遠くから少しずつ近づいてくる。荷車の軋む音。誰かの呼び声。朝の鐘の余韻。いつもなら何でもない音が、今はひどく現実離れして聞こえた。
クラリスは走っていた。息が喉に引っかかる。足がもつれる。涙で視界が滲む。けれど、止まれなかった。
止まれば、また間に合わなくなる。
その一つだけが、頭の中で何度も響いていた。森を抜け、外壁沿いの草地へ出る。朝露に濡れた草が靴を叩いた。背後からは、もうサラの声は聞こえない。お父さん、と泣く声も、森の奥へ置いてきた。
置いてきたのだ。
サラを。
レクシオ先生を。
カルラ様を。
その事実に足が鈍りかけて、クラリスは歯を食いしばった。
違う。
置いてきたのではない。
連れて戻るために走っている。
そう思わなければ、膝から崩れてしまいそうだった。外壁の影が近づく。石の継ぎ目。補修跡。大人なら見落としてしまう、小さな鉄扉。その前まで来たところで、クラリスは一度だけ壁に手をついた。冷たい石の感触が、手のひらに刺さる。胸が痛い。肺が焼ける。それでも、頭の中でカルラ様の声がよみがえった。
伝える内容は分かるか。
「魔物は、消滅」
クラリスは自分に言い聞かせるように呟いた。
「魔石は、崩壊。蒼い炎の発生を確認。レクシオ先生が、重傷。ヴィクトール先生を、至急こちらへ」
言えた。
言えたはずなのに、声は震えていた。
レクシオ先生が、重傷。
その言葉だけが、胸の奥で形を変えようとする。
重傷。
本当に、それだけなのだろうか。
カルラ様は、レクシオ先生の首筋に指を当てた。ほんの一瞬、手が止まった。あの顔を、クラリスは見てしまった。見なかったことには、できなかった。でも、言ってはいけない。あの人は重傷と言った。救護班を呼べと言った。ヴィクトール先生を連れてこいと言った。だから、まだ終わっていない。
終わっていないことにしなければならない。
クラリスは小さな鉄扉を押した。錆びた金具が嫌な音を立てる。身体をねじ込み、街の内側へ戻る。途端に、音が増えた。人の声。靴音。店先の匂い。朝のフォルシュタット。何も知らない街。さっきまで、森の奥で蒼い炎が燃えていたことも、サラが叫んでいたことも、レクシオ先生が土の上に倒れていたことも、この街はまだ知らない。知らないまま、動いている。そのことが、たまらなく怖かった。
「どなたか!」
クラリスは叫んだ。声が裏返る。通りを歩いていた大人が振り向いた。荷車を押していた男が足を止める。近くの巡回魔道士が、彼女の姿を見て目を見開いた。
「クラリス様?」
呼ばれて、クラリスは一瞬だけ息を詰まらせた。いつもなら、背筋を伸ばして返事をする。乱れた髪を直して、落ち着いた声で状況を説明する。父に恥じないように。フォルシュタットの子として、きちんと。でも、今は無理だった。そんな余裕は、森に置いてきた。
「救護班を!」
クラリスは叫ぶ。
「外壁の外、古い森の奥です! カルラ様からの信号を追ってください! 途中から、私が案内します!」
巡回魔道士の表情が変わった。
「負傷者は」
クラリスは息を吸った。喉が痛い。言いたくない。言わなければならない。
「レクシオ先生が、重傷です」
通りが、凍りついたように静まった。誰かが息を呑む音がした。レクシオ先生。その名前は、この街ではただの名前ではなかった。門番が息を呑んだように。道行く人々が振り返ったように。自分だけが何も知らない顔をしたあの人を、この街の誰もが知っていた。その人が、森の奥で倒れている。クラリスは、震える手を握りしめた。
「魔物は消滅。魔石は崩壊。蒼い炎の発生を確認。魔物残滓あり。封鎖班も必要です。ヴィクトール先生を、至急現場へ」
今度は、最後まで言えた。巡回魔道士は一瞬だけクラリスを見た。子どもを見る目ではなかった。報告を受け取る目だった。
「了解しました。救護班、封鎖班へ伝達! ヴィクトール先生にも至急連絡!」
周囲が動き出す。誰かが走る。別の魔道士が赤い縁取りのカードを取り出す。刻まれた魔術回路が光り、細い信号が空へ伸びた。その光を見上げた瞬間、クラリスの胸に、森の蒼がよみがえった。冷たくはなかった。綺麗だった。そう思ってしまった。クラリスは唇を震わせる。違う。今は、それを考えている場合ではない。
「案内します」
救護班の腕章をつけた魔道士たちが駆けてくる。担架を持つ者。治療用の鞄を抱える者。封鎖用のカードを腰に下げた者。その中に、白衣の青年の姿はまだなかった。ヴィクトール先生は、まだ来ていない。クラリスは奥歯を噛みしめ、外壁の方を指さした。
「あの鉄扉です。狭いので、一人ずつ。抜けたら草地を右へ。森に入ったら、私の後を追ってください。途中から道が細くなります。見失わないでください」
自分の声ではないみたいだった。けれど、言葉は出た。足も動いた。
「行きます」
クラリスはもう一度、鉄扉へ向かって走り出した。今度は一人ではなかった。背後に救護班の足音が続く。封鎖班の装備が鳴る。誰かが短く指示を飛ばす。それでも、クラリスにはまだ、自分だけが遅れている気がした。サラのところへ。レクシオ先生のところへ。あの蒼い炎が消えた場所へ。今度こそ。今度こそ、間に合わなければならない。クラリスは小さな鉄扉をくぐり抜ける。街の音が、再び背後へ遠ざかっていった。
救護班が森に入ったとき、サラはまだレクシオの服を掴んでいた。誰が声をかけても、離さなかった。救護班の魔道士が膝をつき、カルラが何かを低く命じ、封鎖班が魔物だったものの残滓を囲んでいく。淡い結界の光が、木々の根元をぼんやり照らしていた。けれど、サラは何も見ていなかった。ただ、レクシオだけを見ていた。
「お父さん」
何度目か分からない声だった。
「起きて」
レクシオは答えなかった。やがて、白衣の青年が息を切らして現場に駆け込んできた。ヴィクトールだった。彼はサラの横に膝をつき、レクシオの手を取った。脈を確かめる。瞳を見る。胸元に指を置き、魔素反応を探る。淡い光が、ヴィクトールの指先に一瞬だけ宿った。けれど、それはすぐに細くなり、消えた。ヴィクトールは、もう一度同じことをした。脈を確かめ、瞳を見て、魔素反応を探る。それでも、戻るものはなかった。
「……レクシオ」
その声を、クラリスは聞いた。それから先のことを、クラリスはよく覚えていない。誰がサラの指をほどいたのか。誰がレクシオを運んだのか。誰が魔物の残滓を封じ、誰が街へ報告したのか。覚えているのは、白衣の袖が血で汚れていたこと。カルラが一度だけ、誰にも見えないように顔を伏せたこと。そして、サラが古びた傘を抱えたまま、声も出さずに震えていたことだけだった。レクシオは、帰ってこなかった。その事実だけが、誰の言葉よりも重く残った。
◇
葬送の鐘が鳴ったのは、それから三日後のことだった。フォルシュタット学院の鐘楼から、低い音が街へ落ちていく。レクシオ・アーベント教授の名は、学院と魔道士協会の両方から告げられた。長く街に尽くした研究者として。家族のもとへ戻った矢先、娘を守って命を落とした者として。けれど、サラはその言葉を聞いていなかった。彼女は学院内にあるカルラの執務室で、古びた傘を抱えて座っていた。サラは泣かなかった。泣き疲れたのではない。まだ、泣く場所にたどり着いていなかったのだ。カルラは、向かいの椅子に座っていた。いつものように腕を組んではいなかった。叱る言葉も、慰める言葉も持っていなかった。ただ、サラが口を開くまで待っていた。待つことしか、できなかった。その沈黙が、ひどく長く続いたあと。サラが顔を上げた。
「カルラおばさん」
「……おばさんと呼ぶな」
その言葉を聞いて、サラは続けた。
「だったら、私を弟子にして」
小さな声だった。けれど、はっきりしていた。カルラの指が、膝の上でわずかに動いた。
「……どういうつもりだ」
「私を、強くして」
サラは静かに、だが力を込めて言った。古びた傘を強く抱きしめながら。
「お母さんを迎えに行けるくらい。魔物が出ても、誰かが代わりに傷つかなくていいくらい。私が、ちゃんと帰ってこられるくらい」
カルラは目を閉じた。
「駄目だ」
答えは短かった。
「お前はまだ子どもだ」
「子どもだから、待ってた」
サラは言った。
「ずっと待ってた」
カルラは静かに目を開いた。
「お母さんも。お父さんも。帰ってくるって思って、待ってた」
気がつけば、サラの目は赤く腫れていた。それでも、涙は落ちなかった。
「でも、待ってたら、白い封筒が来た」
古びた傘の柄を、サラの指が強く握る。
「待ってたら、お父さんも帰ってこなかった」
「サラ」
「もう、待つだけは嫌なの」
その言葉は、泣き声ではなかった。願いでもなかった。決定だった。
「迎えに行けるくらい、強くして」
カルラは何も言わず立ち上がり、静かに窓の方へ向かった。長い沈黙が落ちる。窓の外では、葬送の鐘がまだ鳴っていた。低く。遠く。何かを終わらせるための音みたいに。けれど、カルラが振り返ったとき、その顔にはすでに答えがあった。それでも言わねばならなかった。
「……駄目だ」
カルラは低く言った。
「力を持てば、もっと多くのものを見る。もっと多くのものを失う。今のお前が想像しているより、ずっと重い」
「それでもいい」
「よくない」
カルラの声が、わずかに震えた。
「私には、よくない」
カルラはサラを見ていた。
白い髪。
赤く腫れた目。
古びた傘。
イーリスが残したもの。
レクシオが最後に押し返したもの。
再び訪れた静寂の中で、カルラは決意を固めたつもりだった。しかし。
「……だったら、これからもおばさんって呼ぶ」
思わぬ言葉に、カルラは一瞬だけ固まった。
「何を言い出すかと思えば……」
「弟子にしてくれたら、師匠って呼ぶ」
子どもじみた脅しだった。あまりにも幼くて、あまりにも必死な交渉だった。けれど、サラは泣いて縋っているのではなかった。自分に残された札を、選んでいる。カルラは、深く息を吐いた。
「……いいだろう」
「それって」
「弟子にする。私に二言はない」
カルラは言った。
「お前は止まる気もなければ止められるつもりもない……そうだな?」
「うん」
サラは、古びた傘を抱きしめた。その声は、まだ子どもの声だった。けれど、もう待っているだけの子どもの声ではなかった。カルラはサラの前に立ち、膝をついた。そして、そっと額に手を置いた。
「なら、今日から私を師匠と呼べ」
サラの顔が、ほんの少しだけ緩んだ。泣きそうになったのかもしれない。笑いそうになったのかもしれない。そのどちらにも届かないまま、サラは小さく頷いた。
部屋の外で、クラリスはその会話を聞いていた。盗み聞きするつもりはなかった。葬送のあと、サラに何か言わなければならないと思って、扉の前まで来た。けれど、何を言えばいいのか分からなかった。
ごめんなさい。
止められなくて。
間に合わなくて。
あなたのお父様を助けられなくて。
そのどれも、言葉にした瞬間、軽くなる気がした。だから、扉の前で立ち尽くしていた。そして、聞いてしまった。
強くして。
もう、待つだけは嫌なの。
クラリスは、胸の前で拳を握った。サラは、進もうとしている。自分はどうするのだろう。あの日、肩に触れた。けれど止められなかった。森に着いた。けれど間に合わなかった。蒼い炎を見た。綺麗だと思ってしまった。そして、走った。間に合わなかった自分を置き去りにしないために。それで終わりでいいのか。クラリスは扉から一歩離れた。その足は震えていなかった。
◇
翌朝。クラリスは、旅装でカルラの前に立った。サラはまだ眠っている。疲れたのか、安心したのか、クラリスには分からなかった。ただ、古びた傘を抱いたままだということだけは聞いた。カルラはデスクの前でクラリスを見下ろしていた。
「本気なのか」
「はい」
クラリスは背筋を伸ばした。髪はきちんと結い直している。服も整えている。泣き腫らした目だけは、どうにも隠せなかった。
「フォルスシタデルの魔道士養成院へ行きます。父には、もう許可を取りました。フォルシュタットの外で、基礎から学び直します」
「逃げるのか」
カルラの声は冷たくなかった。だからこそ、クラリスの胸に刺さった。
「いいえ」
クラリスは首を振る。
「逃げたくないから、行きます」
カルラは黙っていた。クラリスは拳を握る。
「私は、サラに追いつけませんでした」
声は震えなかった。
「レクシオ先生にも、間に合いませんでした」
そこで少しだけ、喉が詰まった。
けれど、飲み込んだ。
「だから、次は追いつけるようになります。止めるべきときに止められるように。守るべき場所に、間に合えるように」
「サラに言っていくのか」
クラリスは目を伏せた。
「今は、言えません」
その答えを、カルラは責めなかった。
「言えば、私は謝ってしまいます。謝れば、サラはきっと困ります。許すことも、怒ることもできないまま、私を見ることになります」
クラリスは顔を上げた。
「だから、戻ってきたときに言います」
「何を」
「今度は、追いつくって」
カルラはしばらくクラリスを見ていた。それから、懐から一枚のカードを取り出した。薄い金属片の表面に、細かな魔術回路が刻まれている。巡回魔道士たちが使っていたものより、ずっと緻密なカードだった。
「持っていけ」
クラリスは目を見開いた。
「これは」
「結界の生成と信号の発射を一度だけ同時に行える。危なくなったら使え。助けを呼ぶことを恥と思うな」
クラリスは両手でカードを受け取った。その薄い金属片は、思っていたより重かった。
「ありがとうございます」
「クラリス」
「はい」
「お前は間に合わなかった」
カルラは言った。逃がしてはくれない言葉だった。けれど、責める言葉ではなかった。
「だが、走った。あの場で動いた。それだけは忘れるな」
クラリスの目に、涙が滲んだ。今度はこぼさなかった。
「……はい」
クラリスは深く頭を下げた。そして、学院を出てから街の門へ歩き出した。一度も振り返らなかった。振り返れば、きっと足が止まる。サラの白い髪を思い出す。レクシオ先生の伸ばされた手を思い出す。蒼い炎を思い出す。だから、前だけを見た。門のすぐそばでは、馬車が発車の時刻を待っていた。その向こうには、知らない道が続いている。追いつけなかった自分を、置き去りにしないための道。クラリスは、その一歩目を踏み出した。
◇
その夜。フォルシュタットのはずれにある隔離病棟。その一室に、明かりが残っていた。机の上には、血の跡がかすかに残る白衣が畳まれている。洗えば落ちるはずだった。けれど、ヴィクトールはまだそれに手をつけていなかった。彼は机に向かい、記録用紙へ細い文字を走らせていた。
——被験者、レクシオ・アーベント。肉体定着、安定。身体との同期、処置後七日目まで大きな破綻なし。記憶再生、失敗。家族接触による記憶回復、確認されず。
ヴィクトールの筆が、一度止まった。窓の外では、葬送の鐘の余韻がまだ街に残っている。彼は目を閉じた。
森の中で倒れていたレクシオの顔が浮かぶ。
サラの声が浮かぶ。
お父さん、と。
何度も。
何度も。
ヴィクトールは、震える指で続きを書いた。
——ただし、被験者は記憶を回復しないまま、娘を庇護する行動を選択。
——死亡推定時刻前後、対象への保護意志と思われる行動を確認。
——同時刻、外部魔道具と思われる傘に未知の蒼炎反応。
——被験者由来の残留魔素、または生命活動の終端に伴う魔素放出が関与した可能性あり。
そこまで書いて、ヴィクトールは小さく息を吐いた。
泣きそうな顔だった。
けれど、筆は止まらなかった。
最後に、彼は余白へ一文だけ書き加える。
——記憶がなくても、関係性は魂に残るのか。
インクが乾くまで、ヴィクトールはその文字を見つめていた。




