第6話 間に合わなかった少女
蒼い光が、森の奥で膨れ上がった。クラリスは、鉄扉の前から動けなかった。伸ばしたままの手が、まだ震えている。指先には、サラの肩に触れた感触だけが残っていた。届いた。確かに、届いたはずだった。けれど、止められなかった。
サラは、あの小さな隙間から外へ抜けてしまった。
白い髪も、古びた傘も、クラリスの手の中には残らなかった。
待ってたって、誰も帰ってこない。
さっきの声が、まだ路地の壁に残っている気がした。
「サラ……」
呼んでも、返事はない。鉄扉の向こうから、風が吹き込んでくる。草の匂い。湿った土の匂い。街の中とは違う、知らない空気。その奥で、もう一度、蒼い光が揺れた。
クラリスは息を呑んだ。何かが起きている。サラがいる。そう思った瞬間、止まっていた足がようやく動いた。
鉄扉を押し開ける。錆びた金具が、きい、と嫌な音を立てた。さっきサラが抜けた隙間は、クラリスにも狭かった。けれど、構っていられなかった。服の裾が引っかかる。肩が扉の縁にぶつかる。それでも身をねじ込むようにして外へ出た。
外壁の向こう側は、静かだった。静かすぎた。街の喧騒は、分厚い石壁の向こうに置き去りにされている。聞こえるのは、自分の息と、草を踏む音だけだった。
サラはどこへ行ったのか。レクシオは追いついたのか。
森の奥で、低い咆哮が響いた。クラリスの身体が跳ねる。次の瞬間、蒼い光が木々の間を走った。
朝の森には似合わない色だった。赤でも橙でもない。けれど、冷たくはなかった。むしろ、その光は不思議なほど優しかった。見ているだけで、胸の奥に手を当てられたような温かさがある。大丈夫だと、誰かに言われているような気がする。なのに、森の奥では、何かだけが焼けていた。
「サラ!」
クラリスは走った。外壁沿いの草地を抜ける。足元の土が柔らかく沈み、何度も転びそうになる。けれど止まらない。白い髪を探す。古びた傘を探す。いつもなら、サラはどこかで振り返って笑っていた。もう少しだったのに、と頬を膨らませていた。
今日は、振り返らなかった。
森の中へ入ると、空気が変わった。木々が朝の光を遮り、湿った匂いが喉に絡む。枝が頬を打った。草が足首に絡みつく。クラリスはそれを振り払うようにして進んだ。
「サラ!」
もう一度叫ぶ。返事はなかった。代わりに、何かが砕ける音がした。硬いものが割れる音。続いて、光が弾けた。視界の先が開ける。そこだけ、森が蒼く染まっていた。クラリスは足を止めた。
最初に見えたのは、炎だった。
蒼い炎。
炎なのに、森を焼いていない。
枯葉は燃え広がらず、木の幹も焦げていない。
湿った土は、ただ蒼い光を受けてかすかに輝いているだけだった。
熱いはずなのに、サラは火傷ひとつ負っていない。
それどころか、その蒼は、見ているだけで身も心も静かに温めるようだった。
なのに、魔物だけが崩れていく。黒ずんだ剛毛が蒼く燃え、左右に突き出した牙は砕けて土の上に散っていた。額にあった硬い光は、蒼白い粒になって消えていく。魔物はもう咆哮しなかった。形だけが、音もなく崩れていく。
その中心に、サラがいた。
地面に座り込んで、古びた傘を抱きしめている。傘の骨には、まだ蒼い光が残っていた。燃えているのに、布は焦げていない。サラの手も焼けていない。ただ、炎だけが、まるで何かを吸い終えた後の息のように、静かに揺れている。
クラリスは、息をするのも忘れた。
綺麗だと思ってしまった。
そう思った自分が、怖かった。
次の瞬間、サラの声が聞こえた。
「お父さん」
小さな声だった。クラリスは、ようやく見た。サラのすぐそばに、レクシオが倒れていた。身体は土に沈むように横たわり、血に濡れた手だけがサラの方へ伸びている。指先は泥に食い込んだまま止まっていた。まるで、最後まで何かを押し返そうとしていたみたいに。
「……レクシオ、先生」
声は、ほとんど音にならなかった。サラは振り向かない。ただ、傘を抱きしめたまま、レクシオのそばで震えていた。
「お父さん」
もう一度、サラが呼ぶ。
「ねえ、起きて」
レクシオは答えない。
「帰るんでしょ」
サラは、傘を抱く腕に力を込めた。
「私、帰るよ。ちゃんと帰るから。だから、お父さんも帰ろう」
蒼い光が、少し弱くなった。森の中に、風が戻ってくる。枝葉が揺れる音。遠くで鳥が鳴く音。さっきまで消えていた世界の音が、少しずつ戻ってくる。それが、ひどく残酷だった。世界はもう、何もなかったみたいに動き出そうとしている。サラだけが、そこに取り残されていた。
「起きてよ」
サラはレクシオの服を掴んだ。
「ねえ、起きて。今度は私が帰る番だって言ったんでしょ。私、帰るから。ちゃんと帰るから」
返事はない。
「だから、お父さんも帰ろう」
レクシオは、答えなかった。
「置いていかないで」
その声で、クラリスの身体がようやく震えた。何か言わなければならないと思った。サラのそばへ行かなければならないと思った。大人を呼ばなければならない。救護班を呼ばなければならない。魔物の残滓を放置してはいけない。街へ知らせなければならない。
分かっている。
分かっているのに、足が動かなかった。
自分は、また間に合わなかった。
サラを止められなかった。
レクシオ先生も助けられなかった。
目の前にいるのに。見えているのに。
何もできない。
蒼い炎が、ふっと小さく揺れた。傘の骨に残っていた光が、少しずつ薄れていく。まるで役目を終えたみたいに。まるで、もう何も言うことはないみたいに。サラはそれに気づいていない。ただ、レクシオの服を握っている。
「お父さん」
声がかすれる。
「お父さん、起きて」
そのとき、森の奥から枝を折る音がした。クラリスはびくりと肩を跳ねさせる。次の瞬間、低い声が飛んだ。
「サラ!」
カルラだった。外套も羽織らないまま、息を乱して森の中へ駆け込んでくる。その手には、薄い金属片のようなカードが数枚握られていた。表面には細かな魔術回路が刻まれ、淡い光が脈打っている。その後ろには、巡回の魔道士が二人続いていた。カルラは開けた場所に出た瞬間、足を止めた。
倒れたレクシオ。
血の跡。
蒼い炎の残滓。
崩れた魔物。
傘を抱いて座り込むサラ。
そのすべてを見て、カルラの顔から色が消えた。
「……レクシオ」
声は、ほとんど息だった。けれど、止まったのは一瞬だけだった。カルラはすぐに動いた。サラとレクシオのそばへ駆け寄り、膝をつく。同時に、手の中のカードを一枚、地面へ放った。カードが土に触れた瞬間、刻まれた魔術回路がほどけるように光った。薄い輪が周囲へ広がり、砕けた牙と黒い灰、魔物だったものの残骸を囲むように、淡い結界が立ち上がる。
「残滓に触れるな。周囲を封鎖しろ」
カルラが命じる。巡回の魔道士たちは硬い顔で頷いた。一人が腰の革袋から、同じ形のカードを取り出す。表面には、カルラのものより簡略化された魔術回路が刻まれていた。巡回に出る魔道士へ、カルラがあらかじめ持たせている封鎖用のカードだ。魔道士はそれを結界の外周へ投げた。カードは空中で薄くほどけ、淡い光の杭となって地面へ突き刺さる。もう一人は、赤い縁取りのあるカードを取り出した。緊急信号用の魔術回路が組み込まれたものだった。指先で紋様をなぞると、カードから細い光の筋が空へ伸びる。
「救護要請。魔物残滓確認。負傷者あり」
魔道士が短く告げる。光は外壁の方へ向かって走り、朝の空に溶けた。
「ヴィクトールにも伝えろ。至急こちらへ来るようにと」
「はっ」
魔道士は続けて別の紋様をなぞる。カードの光が一瞬だけ色を変え、二本目の信号が空へ伸びた。その声はいつものカルラだった。硬く、短く、迷いがない。だが、レクシオの首筋に指を当てた瞬間、その手がわずかに止まった。ほんの一瞬だった。クラリスでなければ、見逃していたかもしれない。カルラは目を閉じた。それから、静かに息を吐く。
「……救護班は来る。だが、この道は分かりにくい」
カルラは低く言った。
「封鎖を維持しろ。誰も残滓に近づけるな」
「はっ」
巡回の魔道士たちは、カードの光杭の間隔を調整しながら散っていく。サラは、ようやくカルラを見上げた。
「カルラおばさん」
カルラは何も言わなかった。いつもなら返ってくるはずの短い訂正は、なかった。
「お父さん、起きないの」
サラは言った。幼い声だった。母を迎えに行くと叫んでいた少女の声ではなかった。
「ねえ、カルラおばさん。お父さん、疲れてるだけだよね」
カルラの顔が歪んだ。けれど、それも一瞬だった。彼女はサラの肩に手を置く。
「サラ……」
「だって、帰るって」
「サラ」
「私が帰る番だって言ったの。だから、私、帰るよ。ちゃんと帰る。だからお父さんも——」
「サラ……!」
今度の声は、強くはなかった。低く、震えていた。サラの言葉が止まる。カルラは、サラを抱き寄せた。強く。痛いほどに。
「……すまない」
その一言だけだった。サラの顔から、最後に残っていた表情が抜け落ちた。
「……いや」
小さな声だった。
「いやだ」
カルラは答えない。
「いやだよ……」
サラの声が震える。
「お父さん、帰ってきたのに」
傘の蒼い光が、ふっと消えた。何事もなかったように。ただの古びた傘に戻る。その瞬間、サラの中で何かが切れた。サラの叫び声が森を裂いた。
クラリスは動けなかった。
サラが泣いている。
カルラが抱きしめている。
レクシオが倒れている。
魔物だったものは、黒い残滓になっている。
分かっている。
見えている。
なのに、身体が動かない。
そのとき、カルラが顔を上げた。まっすぐ、クラリスを見た。
「クラリス」
名を呼ばれて、クラリスは息を呑んだ。
「……はい」
「走れるか」
クラリスは答えられなかった。走れる。走れるはずだ。さっきまでサラを追っていた。何度も外壁までの道を走った。けれど、足は震えている。喉の奥が詰まって、うまく息が吸えない。カルラはサラを抱きしめたまま、周囲へ視線を走らせた。巡回の魔道士たちは、カルラの支給したカードで結界を維持し、魔物の残骸とその周囲の封鎖に回っている。信号はすでに送った。救護班も封鎖班も、じきに動くだろう。
だが、ここは街道ではない。外壁の影に隠れた古い森の奥。大人なら見落としてしまう細い獣道の先だ。救護班が来ても、この場所まで迷わずたどり着けるとは限らない。カルラ自身は、サラとレクシオのそばを離れられない。
「ここは私たちが見る。お前は街へ戻れ」
「私が……?」
「ああ。救護班をここまで案内しろ。後から来る封鎖班にも道を示せ」
カルラはクラリスを見た。その目は厳しかった。けれど、責めてはいなかった。
「道を知っているな」
クラリスは息を詰めて、小さく頷いた。
「知って、います」
「なら頼む。お前が一番早く、この場所まで連れてこられる」
お前が一番早く、この場所まで連れてこられる。それは責める言葉ではなかった。けれど、胸の奥に重く落ちた。今ここで動けなければ、本当に何もできなかったことになる。何もできないまま、ただ見ていただけになる。クラリスは返事をしようとして、うまく息を吸えなかった。それでも、どうにか頷いた。
「……はい」
「伝える内容は分かるか」
言葉の半分も、うまく頭に入ってこなかった。けれど、クラリスは必死に頷いた。
「魔物は、消滅。魔石は、崩壊。蒼い炎の発生を確認。レクシオ先生が、重傷。ヴィクトール先生を、至急こちらへ」
「そうだ。救護班には、信号を追えと伝えろ。途中からはお前が案内しろ」
「……はい」
声は震えていた。けれど、確かに出た。カルラは短く頷いた。
「すまない。頼む」
「……はい!」
ようやく声が出た。クラリスは走り出した。
足はまだ震えていた。涙で視界が滲んでいた。
けれど、走った。
枝が頬を打つ。木の根につまずきそうになる。それでも走る。
背後から、サラの泣き声が聞こえていた。
お父さん、と。
何度も。
何度も。
数歩走ったところで、クラリスは一度だけ振り返った。
まだ、見えた。
カルラに抱きしめられたサラの白い髪。地面に横たわるレクシオ。淡い結界の光。蒼炎の消えた古びた傘。けれど、木々の影がその光景をすぐに細く切り分けていく。あと少し進めば、もう見えなくなる。声だけが残る。クラリスは前を向いた。もう一度、走り出す。今度は、誰かに追いつくためではなかった。間に合わなかった自分を、置き去りにしないためだった。




