第5話 父になった男と蒼い炎
街の外は、静かだった。静かすぎた。外壁の向こうへ出た瞬間、フォルシュタットの音は背後に置き去りになった。人の声。荷車の軋む音。鍋を叩く音。遠くの鐘。家々の間を抜ける生活の気配。そのすべてが、分厚い壁の向こうへ沈んでいく。代わりに聞こえてきたのは、草を踏む音と、自分の荒い息だけだった。
レクシオは走った。足元の土は石畳とは違い、柔らかく、ところどころ湿っている。靴底が沈み、体勢が崩れそうになる。胸は痛い。喉は焼ける。だが、前方に見える白い髪だけは見失えなかった。サラは止まらない。古びた傘を握ったまま、外壁沿いの草地を駆けていく。小さな背中は、今にも風にさらわれてしまいそうだった。
「サラ!」
レクシオは叫んだ。声は届いたはずだった。サラの肩がわずかに揺れたからだ。けれど、振り返らない。
「サラ、待て!」
待て。口にした瞬間、レクシオはその言葉の軽さを思い知った。
待てと言われて、あの子はずっと待っていたのだ。
母が帰るのを。
父が帰るのを。
古びた傘を抱えて、いい子にして、街の外にもあまり行かず、帰ってくるはずの人を待っていた。
その結果が、あの白い封筒だった。
ならば、待てという言葉が今のサラに届くはずがない。サラは外壁に沿って伸びる草地を抜け、その先の古い森へ向かっていた。街道ではない。外壁の上には、巡回のための通路らしきものが見えた。遠くには、見張りの影もある。だが、サラが向かっているのはその視線から外れた場所だった。外壁の影に隠れるように、古い木々が並んでいる。その根元に、大人なら見落としてしまいそうな細い獣道があった。サラは迷わなかった。まるで、何度もそこへ行こうとしたことがあるみたいに。白い髪が、枝葉の影に呑まれる。レクシオは息を呑み、それでも後を追った。森の中は、外よりもさらに暗かった。
朝だというのに、木々の枝が光を遮り、地面にはまだ夜の湿り気が残っている。踏みしめるたび、腐葉土が靴底に沈んだ。細い枝が頬をかすめる。名前の分からない草が足に絡む。サラの背中が、木々の間をちらちらと揺れていた。白い髪。古びた傘。小さな肩。それだけを頼りに、レクシオは走る。
「サラ!」
三度目に呼んだとき、ようやくサラの足が鈍った。完全に止まったわけではない。けれど、振り返らないまま、少しだけ速度が落ちる。レクシオは追いついた。手を伸ばせば届く距離まで近づいて、それでもすぐには掴めなかった。掴めば、壊してしまう気がした。
「……戻ろう」
息を切らしながら、レクシオは言った。サラの背中が、小さく震えた。
「戻らない」
声はかすれていた。
「お母さんを迎えに行く」
「どこへ行くつもりなんだ」
「分かんない」
即答だった。レクシオは言葉を失う。サラは傘の柄を強く握りしめたまま、木々の向こうを睨んでいた。
「でも、ここで待ってたって帰ってこないもん」
「サラ」
「お父さんだって帰ってきた」
その言葉に、レクシオの胸が詰まった。サラはようやく振り返った。涙は落ちていなかった。それが、かえって痛々しかった。
「お父さんは帰ってきた。だったら、お母さんだって帰ってくる。帰ってこないなら、私が迎えに行けばいい」
小さな声だった。けれど、その目だけは頑なだった。
「そうでしょ?」
レクシオは答えられなかった。
違う、と言うべきなのか。
そうだ、と言うべきなのか。
何も分からない。
分からないのに、サラは答えを求めている。
一週間前と同じだった。
父親なら何か言ってくれるはずだと、まだ信じている目だった。
そのとき、風が止んだ。枝葉のざわめきが消える。遠くで鳴いていた鳥の声も、ふつりと途切れた。レクシオは顔を上げた。サラもまた、何かに気づいたように息を呑む。静けさが、さらに深くなった。街の外は静かだった。静かすぎた。その意味を、レクシオはようやく理解した。
何かが、近くにいる。
そう思った瞬間、レクシオは反射的にサラの前へ出ていた。自分でも、なぜそうしたのか分からなかった。考えたわけではない。魔物に対する知識が戻ったわけでもない。ただ、サラの小さな身体が自分の後ろにあると分かった瞬間、足が勝手に動いていた。
「……お父さん?」
サラが背後で呟く。その声にも、レクシオは振り返れなかった。すぐ近くで、枝が折れる音がした。乾いた、小さな音。続いて、低い唸り。地面を掻くような音。草の匂いの中に、別の匂いが混じる。湿った土とも、腐葉土とも違う。獣臭く、重く、どこか焦げたような匂い。レクシオの背筋に冷たいものが走った。
木々の間から、それは現れた。低く、分厚い四足の魔物だった。黒ずんだ剛毛が全身を覆い、肩のあたりだけが不自然に盛り上がっている。短い首の奥で、青白い光が脈打っていた。左右に突き出した牙は、根元から煤けたように黒く、地面を掘り返す蹄は腐葉土を深くえぐっている。額の奥に、硬質な光が見えた。魔石。魔物の核。その言葉だけが、レクシオの頭に浮かんだ。かつて自分が書いた本を読んで得た、断片的な知識だけがそれをそう認識していた。だが、あれは人のそばにいていいものではない。
「サラ」
レクシオは低く言った。
「少しずつ、下がれ」
「……でも」
「いいから」
自分の声とは思えないほど、硬い声だった。サラが息を呑む気配がした。魔物は土を掻いた。蹄が腐葉土をえぐり、黒い土を跳ね上げる。こちらを見ている。いや、レクシオではない。その奥にいるサラを見ていた。白い髪。小さな身体。古びた傘。魔物の喉が、低く鳴った。レクシオは手を広げた。何かをすべきだと思った。
魔法。
その単語が頭に浮かぶ。だが、すぐに消えた。手元に魔道具はない。使える魔石すらない。魔素を流す媒体となるものがなければ、魔法は形にならない。自分は教授だと言われた。魔道士の街に住んでいた男だと言われた。だが今のレクシオの両手には、何もなかった。知識があっても、道具がない。記憶がなくても、その事実だけは分かった。できることは、ひとつしかなかった。
立つこと。
サラの前に。
魔物が頭を低くした。突っ込んでくる。そう思った瞬間、黒い巨体が地を蹴った。森の狭い獣道を、炎を纏って突進してくる。牙が木漏れ日を裂く。地面が揺れた。レクシオは考えるより先に、サラの身体を横へ突き飛ばした。
「きゃっ!」
サラの声。次の瞬間、腹の横に衝撃が走った。熱い、と思った。遅れて、痛みが来る。燃える牙が掠めたのだと理解したときには、レクシオの身体は地面に叩きつけられていた。湿った土が頬につく。息が詰まる。脇腹から熱いものが広がっていく。
「お父さん!」
サラが叫んだ。その呼び方が、痛みよりも深く胸に刺さった。レクシオは歯を食いしばり、立ち上がろうとした。身体が重い。足が震える。服の横腹が焼け焦げ、血が指先を濡らしていた。魔物は少し離れた場所で止まり、またこちらへ向き直った。頭を低く構え、蹄で土を掻く。もう一度来る。逃げなければならない。分かっている。だが、サラは動けない。地面に尻餅をついたまま、古びた傘を抱きしめて震えている。レクシオは立った。足は震えていた。息は荒れていた。何もできない。魔法は使えない。何も思い出せない。それでも、立った。
「サラ」
レクシオは言った。
「走れ」
サラは首を横に振った。
「いや……」
「走るんだ」
「いや!」
サラの声が震える。
「もうどこにも行かないで……」
レクシオは息を呑んだ。魔物が一歩、地面を踏みしめる。草が潰れる音がした。サラは泣いていなかった。けれど、その顔は一週間前と同じだった。玄関先で、抱き返されなかったときと同じ顔だった。何かに気づいてしまいそうで、それでも気づきたくなくて、必死に目を逸らしている顔。レクシオは、答えなければならなかった。今度こそ。
「行かない」
声が出た。不思議なほど、はっきりと。
「俺は、どこにも行かない」
嘘かもしれなかった。約束できることではなかった。それでも、今この瞬間だけは、そう言うしかなかった。サラの瞳が揺れる。
「……ほんと?」
「ああ」
魔物が地を蹴った。レクシオはサラを抱き寄せた。いや、抱きしめたというより、覆いかぶさっただけだった。衝撃が背中から全身へ突き抜ける。硬い頭部がぶつかり、炎を纏った牙が肉を裂いた。
息が止まる。
視界が白く弾ける。
それでも、レクシオは腕の中の小さな身体を離さなかった。サラの声が聞こえた。自分を呼ぶ声。何度も、何度も。お父さん、と。レクシオはその声を聞きながら、ようやく理解した。
記憶は戻らない。
写真の中の男が何を考え、何を愛し、どんな顔でこの子を抱きしめていたのか、自分には分からない。
それでも。
腕の中で震えるこの子を守りたいと思った。
この子に、帰ってほしいと思った。
それが自分の記憶ではなくても。
かつてのレクシオの感情ではなくても。
今ここにいる自分のものなら、それでよかった。
「……サラ」
声を出すのが苦しかった。サラが顔を上げる。その頬に、ようやく涙が落ちていた。
「お父さん……血が……」
「聞いてくれ」
「やだ」
「サラ」
「聞かない。聞かないから」
小さな手が、レクシオの服を掴む。一週間前、玄関で自分にしがみついたときと同じように。今度は、レクシオもその背中に腕を回した。遅すぎた。けれど、ようやくできた。
「街へ戻るんだ」
「一緒に!」
「サラ」
「一緒に帰るの!」
レクシオは笑おうとした。うまく笑えたかは分からない。視界の端で、古びた傘が地面に落ちているのが見えた。先ほどの衝撃で、サラの手から離れたのだろう。泥と枯葉にまみれて、半ば開きかけたまま転がっている。レクシオは手を伸ばした。指先が震える。届かない。それでも、伸ばす。サラが気づき、傘を拾おうとした。
「この子……?」
「ああ」
レクシオは血のついた手で、傘の柄を握った。古びた木の感触が掌に触れる。その瞬間、かすかに熱を奪われた気がした。自分が手放したのか。傘が奪い取ったのか。分からなかった。ただ、胸の奥に残っていた最後の熱が、ゆっくりと指先から傘へ移っていくような感覚があった。レクシオは傘をサラへ押し返した。
「持っていなさい」
「でも」
「持っているんだ」
サラは泣きながら、傘を抱きしめた。魔物がまた唸った。すぐ近くにいる。蹄が土を掻く音が聞こえる。もう一度来る。レクシオには分かった。だから、サラの肩を押した。
「今度は」
息が詰まる。それでも、言葉を続ける。
「君が、帰る番だ」
サラの目が大きく見開かれた。
「お父さん……?」
その呼び方を聞いて、レクシオは目を閉じかけた。
違う、と何度も思った。
自分は父親ではない。
この子の父の記憶を持たない。
この子の家のことを知らない。
この子が生まれた日のことも、初めて歩いた日のことも、熱を出した夜のことも、何ひとつ覚えていない。
だが、今はもう、その言葉を否定したいとは思わなかった。
「そう呼んでくれて」
レクシオは言った。
「ありがとう」
魔物が突進した。
サラの悲鳴が聞こえた。
レクシオは残った力で、もう一度サラを突き飛ばした。小さな身体が草の上を転がる。古びた傘がサラの腕の中で開いた。直後、魔物の燃える牙がレクシオの身体を貫いた。痛みは、もう遠かった。世界がゆっくり傾いていく。サラの泣き声が聞こえる。遠くで、誰かが叫んでいる。クラリスの声だろうか。それとも、カルラの声だろうか。分からない。ただ、サラがこちらへ戻ろうとしているのだけは見えた。
駄目だ。
戻ってはいけない。
帰るんだ。
声にはならなかった。代わりに、レクシオの血に濡れた手が、地面を掻いた。指先が、サラの抱く傘の影に触れる。その瞬間。
傘が、唸った。
雷雲の底で何かが軋むような音だった。
いや、違う。もっと深い。
火が、息を吸う音。
古びた傘の骨に、蒼い光が走った。
サラが息を呑む。魔物もまた、動きを止めた。
傘に、蒼い炎が灯る。
燃えているのに、布は焦げない。熱いはずなのに、サラの手は焼けていない。炎は、まるで誰かの最後の息を吸い上げるように、傘の周りへ集まっていく。
レクシオは薄れていく意識の中で、それを見ていた。美しい、と思った。恐ろしい、とも思った。
けれど、それ以上に。
あの炎がサラを守るのなら、それでいいと思った。
魔物が咆哮した。
蒼い炎が広がる。
音はなかった。
ただ、視界いっぱいに蒼が満ちた。森の影が白く焼け、湿った土が一瞬だけ光り、魔物の黒い巨体が蒼い炎の中で歪む。
牙が砕ける。剛毛が蒼く燃え上がる。額に宿っていた魔石が、砕け散った。
サラが叫んでいる。
お父さん、と。何度も。何度も。
レクシオはもう、返事ができなかった。
それでも、最後にひとつだけ思った。
帰れ。
サラ。
君だけは。
帰れ。




