第4話 帰らない母
誰も、すぐには封筒を受け取らなかった。使者は頭を下げたまま、両手で白い封筒を差し出している。黒い封蝋には、魔道士協会の紋章が刻まれていた。カルラはそれを見つめていた。表情はない。怒りも、驚きも、悲しみも、何も浮かんでいない。だからこそ、レクシオには分かった。彼女は今、何かを必死に押し殺している。
「カルラおばさん?」
庭から、サラの声が近づいてくる。カルラはようやく動いた。
「来るな、サラ」
低い声だった。それだけで、庭の空気が変わった。サラの足音が止まる。クラリスもまた、何かを察したように黙った。
「……どうして?」
サラの声が、少し小さくなる。カルラは答えなかった。代わりに、使者の手にある封筒を見下ろす。白い紙が、彼女の視線の先でわずかに揺れた。レクシオは椅子から立ち上がった。何が書かれているのかは分からない。けれど、その名だけは聞こえていた。イーリス。妻だと聞かされた名。写真の中で、自分の隣にいた女性の名。サラが、ずっと待っている人の名。
「カルラ」
レクシオが呼ぶと、カルラは一瞬だけこちらを見た。その目を見て、レクシオは息を呑んだ。彼女は、知っている顔をしていた。この封筒が何を意味するのか。それがサラに何をするのか。すでに知っている顔だった。
「……中に入れ」
カルラは使者に言った。
「ここで読む話ではない」
「規定により、ご家族への即時通達が必要です」
「分かっている」
カルラの声が、少しだけ硬くなった。
「だから、中に入れと言っている」
使者はもう一度頭を下げ、玄関の中へ足を踏み入れた。そのとき、サラが庭から駆けてきた。古びた傘を抱えたまま、玄関先で立ち止まる。クラリスがその後ろに追いつき、サラの袖を掴みかけて、けれど触れる前に手を止めた。サラは封筒を見ていた。黒い封蝋を。魔道士協会の紋章を。そして、カルラの顔を。
「……お母さんのこと?」
誰も答えなかった。その沈黙だけで、答えには十分だった。サラの顔から、さっきまでの笑みが消えていく。クラリスが隣で息を呑んだ。つい先ほどまでサラの袖を掴んでいた手が、行き場をなくしたように宙で止まっている。
「……お母さんのことなの?」
もう一度、サラは尋ねた。答えはない。カルラは使者の手にある封筒を、睨むように見た。
「中で話す。サラ、お前は庭にいろ」
「いや」
サラは即座に言った。
その声は小さかった。けれど、はっきりしていた。
「お母さんのことなら、私も聞く」
「サラ」
「聞く」
カルラの眉がわずかに動いた。普段なら、その一言でサラは少しだけ身を竦めるのだろう。けれど今のサラは動かなかった。古びた傘を胸に抱えたまま、黒い封蝋だけを見つめている。レクシオは立ち上がった。父親なら、止めるべきなのかもしれない。まだ聞かせるべきではない、と言うべきなのかもしれない。だが、何も分からなかった。イーリスがどんな人だったのかも。サラがどれだけ待っていたのかも。カルラが何を恐れているのかも。何も知らないまま、ただその場に立っていることしかできなかった。カルラは短く息を吐いた。
「……分かった。来い」
サラが玄関に足を踏み入れる。クラリスも一歩だけ続こうとして、迷ったように立ち止まった。
「クラリス。お前は外にいるんだ」
「で、ですが」
「外にいてくれ」
低い声だった。クラリスは唇を噛み、それでも頷いた。
「……はい」
扉が閉まる。庭の光が遮られ、玄関は急に薄暗くなった。使者はもう一度深く頭を下げると、封筒をカルラに差し出した。
「魔道士協会フォルシュタット支部より、イーリス・アーベント大魔道士に関する通達です」
イーリス・アーベント。
その名が、家の中に落ちた。
サラの肩が、ほんの少しだけ震えた。カルラは封筒を受け取ると、黒い封蝋を見下ろした。指先に力が入る。硬い蝋が、小さく軋んだ。
「読み上げは不要だ」
「規定により、ご家族への通達内容確認が必要です」
「私が確認する」
「カルラ・ヴァルトハイム大魔道士」
使者の声は、どこまでも事務的だった。
「お気持ちはお察しします。ですが、これは協会規定です」
カルラの目が細くなる。その視線だけで、使者は一歩退きそうになった。けれど、彼は退かなかった。退けないのだろう。そういう役目を背負って、ここへ来ている。
カルラはしばらく黙っていた。やがて、封筒を開いた。中から取り出された紙は一枚だけだった。
白い紙。
黒い文字。
それだけで、人ひとりの帰りを断ち切るには十分なのだと、レクシオは思った。カルラは紙面に目を落とす。読み進めるにつれて、彼女の表情はさらに消えていった。
「カルラおばさん」
サラが呼んだ。カルラは答えない。
「何て、書いてあるの」
沈黙。サラは傘を抱く腕に力を込めた。
「ねえ。お母さん、帰ってくるんでしょ」
カルラの喉が、小さく動いた。だが、言葉は出なかった。代わりに、使者が口を開いた。
「イーリス・アーベント大魔道士は、永久機関封印区域における任務中、所定の生存確認に応答せず——」
「やめろ」
カルラが低く言った。使者は一度言葉を止めた。だが、手元の控えに目を落とし、続ける。
「協会規定に基づき、七日間の再確認期間を経ても魔素反応の再捕捉が不可能であったため、本日付で死亡認定とする」
死亡認定。その言葉が、ひどく静かに響いた。泣き声も、叫び声もなかった。ただ、サラの表情から、少しずつ意味が抜け落ちていくのが見えた。
「……死亡、認定?」
サラが繰り返す。聞き慣れない言葉を、ただ音としてなぞるように。
「死んだってこと?」
誰も答えなかった。サラはカルラを見た。
「違うよね」
カルラは紙を握りしめたまま、動かなかった。
「ねえ、違うよね。だって、お母さん言ったもん」
サラの声が少しだけ高くなる。
「すぐ帰るって言ったもん。この子と待っててって。だから私、待ってたんだよ」
古びた傘を抱く腕が震える。
「ちゃんと待ってた。街の外にも、あんまり行かなかった。クラリスに怒られても、ちゃんと帰ってきた。いい子にしてた。だから——」
そこで声が途切れた。それでも、涙はまだ落ちなかった。
「だから、お母さんも帰ってくるでしょ」
その言葉は、誰かに尋ねているようで、誰にも尋ねていなかった。レクシオは何か言わなければと思った。だが、何を言えばいいのか分からない。
大丈夫だ、と言うのか。
待っていよう、と言うのか。
君の母はもう帰らない、と言うのか。
父親なら、どうするのだろう。
父親なら、この子を抱きしめてやるのだろうか。
レクシオは一歩、サラへ近づいた。
「サラ」
呼んだ瞬間、サラがこちらを見た。その目を見て、レクシオは言葉を失った。サラは助けを求めていた。父なら何か言ってくれるはずだと、まだ信じている目だった。
「……お父さん」
サラが言った。
「お母さん、帰ってくるよね?」
答えられなかった。答えられるはずがなかった。
イーリスの顔も、声も、笑い方も、何ひとつ知らない。
彼女がどんな約束をしたのかも、どんなふうにサラを抱きしめたのかも知らない。
知らないくせに、父親の位置に立っている。
レクシオの沈黙に、サラの目がわずかに揺れた。一週間前、自分が抱き返せなかったときと同じだった。何かに気づいたように。何かを、気づかなかったことにするように。サラはゆっくりと首を横に振った。
「……嘘だ」
小さな声だった。
「嘘だよ」
誰も否定できなかった。だからサラは、もう一度言った。
「嘘だ」
今度は、はっきりと。カルラが一歩踏み出す。
「サラ」
「嘘!」
サラは叫んだ。その声に、玄関の外でクラリスが身を竦める気配がした。サラは傘を抱えたまま後ずさった。背中が扉にぶつかる。がたん、と木が鳴った。
「お母さんは帰ってくるもん」
「サラ、聞いてくれ」
「聞かない!」
「サラ!」
「聞かない!」
サラは扉を開けた。外の光が差し込む。クラリスが驚いた顔で立っていた。
「サラ……?」
サラはその横をすり抜けた。クラリスが慌てて手を伸ばす。
「待って、どこへ——」
「来ないで!」
サラの声が庭に響いた。クラリスの手が止まる。その一瞬の隙に、サラは駆け出した。古びた傘を抱えたまま、庭を抜け、門の方へ向かっていく。クラリスが弾かれたように走り出した。
「サラ!」
カルラも動こうとした。だが、玄関先で一瞬だけ足を止める。使者がいる。封書がある。協会の通達がある。大魔道士として、処理しなければならないものが目の前にある。その一瞬を、レクシオは見た。そして、考えるより先に走り出していた。
「レクシオ!」
カルラの声が背中に飛ぶ。だが、振り返らなかった。サラがどこへ向かっているのかは分からない。この街の道も、門の位置も、何ひとつ思い出せない。それでも、分かったことがひとつだけあった。あの子は今、待つことをやめようとしている。
◇
クラリスは、すぐに追いつけると思っていた。いつものことだった。サラは逃げる。クラリスは追う。庭を抜け、家の裏手を回り、細い路地を駆けて、最後には必ず袖を掴む。サラはそこで「もう少しだったのに!」と頬を膨らませる。クラリスは「もう少し、じゃありませんわよ!」と叱る。そうして二人で家へ戻る。そういうものだった。だからクラリスは、いつものように声を張った。
「サラ! 止まりなさい!」
けれど、サラは振り返らなかった。古びた傘を握ったまま、石畳の道を駆けていく。白い髪が、朝の光の中で揺れていた。
「サラ!」
クラリスはもう一度呼んだ。返事はない。それで、クラリスの胸に初めて焦りが生まれた。これは、いつもの鬼ごっこではない——。
◇
レクシオは少し遅れて通りへ飛び出した。街の道は分からない。どの角を曲がればどこへ出るのかも、どの門がどちらにあるのかも知らない。だが、サラの白い髪だけは人混みの中でも見えた。そして、その後を追うクラリスの声も。
「そっちは駄目ですわ!」
クラリスが叫んだ。サラは答えない。通りを横切り、荷車の間をすり抜け、軒先の布をかき分けるようにして走っていく。
「危ねぇ!」
誰かが声を上げた。レクシオは声の主にぶつかりそうになり、よろめいた。
「レクシオ先生……?」
知らない男だった。だが、その男は自分を知っている顔をしていた。レクシオは視線を正面に戻した。
「すまない」
それだけ言って、また走る。胸が焼けるように苦しかった。足は思うように動かない。身体は治っているはずなのに、まるで自分のものではないようだった。それでも、止まれなかった。前方で、サラが細い路地へ飛び込んだ。クラリスがその後を追う。
「待ちなさい、サラ! そっちは外壁の方です!」
外壁。
その言葉に、レクシオの背筋が冷えた。カルラの声が脳裏をよぎる。
サラはすぐ街の外へ行こうとする。クラリスは、それを捕まえる係だ。
捕まえる係。最後は必ず追いつく。そう聞いたばかりだった。路地は狭く、湿っていた。左右の壁が高く、朝の光はほとんど届かない。サラはその奥を迷いなく走っていく。まるで、何度も通った道のように。クラリスが手を伸ばした。
「つかまえ——」
その指先が、サラの袖をかすめた。いつもなら、そこで終わっていたのだろう。けれどサラは、止まらなかった。肩を捻り、身を低くして、クラリスの手をすり抜ける。握っていた傘の先が壁に当たり、乾いた音を立てた。
「サラ!」
クラリスの声が裏返った。サラは振り返らない。路地の先に、小さな鉄扉が見えた。外壁の補修用なのだろう。大人が通るには狭すぎる。だが、子どもなら身をかがめれば抜けられる。
「そこは駄目です!」
クラリスが叫ぶ。
「街の外に出てしまいますわ!」
サラは扉に手をかけた。錆びついた金具が悲鳴のような音を立てる。扉は少しだけ開いた。外から冷たい風が吹き込む。クラリスが飛びつく。今度こそ、その手はサラの肩に届いた。
「サラ、お願い、止まって!」
サラの身体が一瞬だけ止まった。クラリスは息を呑む。けれど、サラは振り返らなかった。
「……お母さんが待ってる」
小さな声だった。
「待ってるのは、あなたでしょう!」
クラリスは叫んだ。
「イーリス様を待ってるのは、あなたでしょう! だから戻って——」
「違う!」
サラが初めて振り返った。その顔を見て、クラリスの手から力が抜けた。泣いてはいなかった。けれど、泣いているよりもずっと痛い顔だった。
「お母さんは帰ってくるの。帰ってくるって言ったの。だから、私が迎えに行けばいいだけでしょ!」
「サラ……」
「待ってたって、誰も帰ってこない!」
その言葉が、路地の中で跳ね返った。クラリスが動けなくなる。その一瞬だけで、十分だった。サラはクラリスの手を振りほどき、鉄扉の隙間へ身を滑り込ませた。
「待って!」
クラリスが伸ばした手は、今度こそ届かなかった。白い髪が、扉の向こうへ消える。古びた傘の先だけが一瞬引っかかり、それもすぐに抜けていった。鉄扉が、きい、と嫌な音を立てて揺れる。クラリスはその場に立ち尽くした。
「……待っ……て……」
呟きは、誰に向けたものでもなかった。レクシオがようやく追いついたとき、クラリスは鉄扉の前に立っていた。顔色が白い。伸ばしたままの手が、小さく震えている。
「サラは」
レクシオが息を切らしながら尋ねる。
クラリスは上の空だった。
「外……へ……」
その言葉を聞くより早く、レクシオは鉄扉に手をかけていた。街の外がどれほど危険なのか、知らない。自分がどれほど無力なのかも、知らない。ただ、サラが行ってしまったことだけは分かる。あの子は、待つことをやめた。ならば、誰かが追わなければならない。
鉄扉を押し開けると、冷たい風が吹きつけた。外には、街の喧騒とは違う静けさが広がっていた。草の匂い。湿った土の匂い。遠くで鳴く、知らない魔物の声。その先に、サラの小さな背中が見えた。レクシオは走り出した。




