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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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第3話 待っている人

 その夜、レクシオはほとんど眠れなかった。

 与えられた寝室は、自分の部屋なのだという。机の上には、レクシオという名が記された論文と、乱雑に置かれた計算メモがあった。走り書きだったが文字や数式は読める。自分自身への伝言とでも言わんばかりの注釈も差し込まれており、意味も分かる。けれど、それらを自分がかつて書いたという実感だけが、どこにもなかった。壁際の棚には、古びた専門書が何冊も並んでいる。引き出しの中には、使い込まれた万年筆。窓辺には、枯れかけた小さな鉢植え。


 誰かがここで暮らしていた。

 誰かがここで本を読み、思考を巡らせ、文字を書き、窓辺の花に水をやり忘れた。

 それはきっと、レクシオという男だったのだろう。

 だが、その男はここにいない。


 寝台に腰掛けたまま、レクシオは自分の両手を見下ろした。サラが握っていた手だ。食卓で匙を握った手だ。抱きしめることのできなかった手だ。あの子は、待っていると言った。母を。そして、自分を。だが、自分は帰ってきたのだろうか。

 扉の向こうで、小さな物音がした。レクシオは顔を上げる。廊下の床板が、かすかに軋んだ。誰かが歩いている。足音はひどく軽く、途中で何度も止まった。やがて、寝室の扉の前で止まる。


「……お父さん」


 小さな声だった。レクシオは返事をしようとして、喉が詰まった。父親なら、どう答えるべきなのだろう。優しく呼び返すべきか。寝なさいと叱るべきか。それとも、扉を開けて抱きしめてやるべきなのか。何一つ分からないまま、ようやく声を出した。


「……どうしたんだ」


 扉が、ほんの少しだけ開いた。隙間から、白い髪が覗く。サラは寝間着姿で、古びた傘を胸に抱えていた。昼間よりもずっと小さく見えた。


「……眠れないの。お父さんも、眠れない?」

「……少しな」


 サラは困ったように笑った。


「お父さん、前もそうだったよ。難しい本読んだあと、眠れなくなるの」


 レクシオは答えられなかった。前も。その言葉が、また胸の奥を突いた。サラは気づいているのか、気づかないふりをしているのか、扉の隙間からじっとこちらを見ていた。


「入ってもいい?」


 断る理由はなかった。だが、入れていい理由も分からなかった。迷った末に、レクシオは小さく頷いた。それを許しと受け取ったのか、サラは少しだけほっとした顔をして、部屋に入ってきた。

 傘を抱えたまま、寝台の端にちょこんと座る。距離は近い。けれど、触れてはこない。昼間、何度も抱きついてきた少女が、今は不自然なほど慎重だった。レクシオはそれに気づいてしまった。この子は、もう知っているのだ。


 自分が抱き返さなかったことを。

 自分が父親の顔をしていなかったことを。


「私が眠れないときね」


 サラは傘の柄を撫でながら言った。


「お母さんが、窓を少し開けてくれるの。外の音を聞いてると、街が寝てないって分かるから、怖くなくなるって」

「……そうか」

「お父さんは、いつも言うんだよ」


 サラは少しだけ笑った。


「街が起きてるなら、悪い夢も入りにくいって」


 レクシオは窓を見た。閉じた窓の向こうから、遠い鐘の音が聞こえた。夜番の声。風に揺れる布の音。どこかの家で、扉の閉まる音。知らない街の音だった。それでもサラは、その音を信じている。レクシオは立ち上がり、窓辺へ向かった。掛け金を外し、窓を少しだけ開ける。冷たい夜気が部屋に流れ込んだ。サラが、ほっとしたように息を吐いた。


「……やっぱり、お父さんだ」


 その言葉に、レクシオは振り返れなかった。


 違う。


 そう言うべきだった。だが、窓の外から流れ込む夜風の中で、サラが小さく笑っている気配がした。その笑みを壊す言葉を、レクシオはまだ持てなかった。だから、ただ窓辺に立ったまま、夜の街を見下ろした。誰かの帰る場所を。自分だけが帰ってきた覚えのない場所を。


 翌朝、レクシオが階下へ降りると、台所から煮立つ湯の音が聞こえていた。食卓には、すでに三人分の皿が並んでいる。カルラは鍋の前に立ち、背を向けたまま言った。


「起きたか」

「ああ」

「眠れたか」

「……少しだけ」

「そうか」


 短いやり取りだった。だが、その声音には責める響きも、哀れむ響きもなかった。ただ、事実だけを受け取る声だった。レクシオはそれに少し救われた。食卓の椅子に手をかける。すると、廊下から駆けてきたサラが「あっ」と声を上げた。


「お父さん、そっちじゃないよ」


 レクシオの手が止まる。サラは慌てて口元を押さえた。言ってはいけないことを言ってしまった、という顔だった。短い沈黙が落ちたのち、レクシオはゆっくりと椅子から手を離した。


「……いつもは、どこに座っていたんだ」


 サラは少しだけ目を伏せた。それから、食卓の奥の椅子を指さす。


「そこ。窓の近く」

「分かった」


 レクシオは示された席へ移った。窓の近くの椅子。そこに腰を下ろすと、朝の光がちょうど手元に落ちた。机の傷も、皿の縁も、湯気の揺れもよく見える場所だった。


「お父さん、朝はいつも本を読みながら食べるんだよ」

「食事中にか」

「うん。お母さんに怒られてた」


 サラは少し得意げに言った。


「でも、お母さんがいない日は、私が怒る係なの」

「それは……大変だったな」

「大変だよ。お父さん、ずっと難しい顔してるから」


 サラは笑った。その笑顔は昨日よりも少しだけ自然だった。けれど、自然にしようとしている笑顔でもあった。レクシオは食卓に置かれた皿を見下ろした。薄く焼いたパン。野菜のスープ。湯気の立つ茶。どれも知らないものだった。けれどサラは、その一つ一つを当然のものとして差し出してくる。


「このカップ、お父さんの」


 サラが白い陶器のカップを押し出した。


「ここ、少し欠けてるでしょ。お父さんが落としたの。なのに『まだ使える』って言って、ずっと使ってる」


 レクシオはカップを手に取った。縁の一部が、小さく欠けている。指でなぞると、そこだけ少しざらついた。知らない傷だった。だが、誰かがこの傷を覚えている。それが不思議だった。


「……よく、覚えているんだな」

「だって、家のことだもん」


 サラは当たり前のように言った。家のこと。その言葉は、昨日から何度も聞かされているはずなのに、まだレクシオの中に場所を持たなかった。カルラが皿を置く。


「サラ。食べながら喋るな」

「まだ食べてないもん」

「食べ始めたら喋るだろう」

「分かってるってば」

「あと、おばさんと呼ぶな」

「今は呼んでないよ」


 カルラは何か言いたげに目を細めたが、それ以上は言わなかった。代わりに、サラの皿にだけ、パンを一切れ多く置いた。サラはそれに気づいていないふりをした。だが、口元が少しだけ緩んでいた。レクシオはそのやり取りを見ていた。この家には、そういう小さな決まりごとがいくつもあるのだろう。


 誰がどこに座るか。

 どのカップを使うか。

 誰が誰をどう呼ぶか。

 皿にパンを一切れ多く置くことを、見なかったふりにするか。

 そのすべてを、自分だけが知らない。


 朝食のあと、ヴィクトールが診察に訪れた。一通り終わったところで、レクシオは口を開いた。


「フォルシュタット学院へ行きたい」


 家を見ても、家族と話しても、何も戻らない。ならば、自分が長くいたという職場に行けば、何か手がかりがあるかもしれない。だが、その提案はカルラに一蹴された。


「駄目だ」

「なぜだ。俺は教授なのだろう」

「だからだ。今のお前を人前に出すわけにはいかない」


 カルラは食器を片づける手を止め、低く言った。


「お前が何かを思い出す前に、周りがお前を見て騒ぐ。今のお前には負担が大きすぎる」

「だが、俺は——」

「サラだけでも限界だ」


 その一言で、レクシオは黙った。サラは椅子の上で、古びた傘を抱えたまま俯いている。昨日より明るく振る舞っている。昨日より笑おうとしている。けれど、その手はずっと傘の柄を握りしめていた。ヴィクトールもまた、穏やかに首を横に振った。


「記憶の刺激は、強ければいいというものではありません。今は、家で過ごすことを優先しましょう」

「家で……」

「はい。まずは、ここに慣れることからです」


 その言葉に、サラが小さく頷いた。


「うん。お父さん、まだ帰ってきたばっかりだもん」


 帰ってきた。また、その言葉だった。レクシオは反論できなかった。その代わりに、サラが家の中を案内すると言い出した。


「昨日はちゃんと説明できなかったから」


 そう言って、古びた傘を抱えたまま、部屋から部屋へとレクシオを連れていく。


「ここが書斎。お父さん、ここに入ると返事しなくなるの」

「そんなにか」

「うん。三回呼んでも返事しないときは、肩を叩くことにしてる」

「……すまない」

「今のお父さんは返事するから大丈夫」


 サラはそう言って笑った。大丈夫。その言葉を、この子は何度使うのだろう。書斎の扉を開けると、紙と古い革の匂いがした。壁一面の本棚。背表紙に並ぶ学術書。机の上には、封を切られたままの書簡がいくつか置かれている。差出人の名は、どれも知らなかった。だが、宛名だけは同じだった。


 レクシオ・アーベント教授。


 その名だけが、部屋のどこにでもあった。ふと、本棚の下段に目が留まった。そこだけ、学術書ではなく絵本が並んでいる。背表紙は低く、色も明るい。難解な学術書の森の中に、小さな空き地ができているようだった。


「ここ、私の棚」


 サラは少し得意げに言った。


「お父さんの本、難しいのばっかりだから。私もここに置いていいって」

「俺が?」

「うん。最初は『資料の分類が乱れる』って言ってたけど」

「……それで、許したのか」

「お母さんに怒られたから」


 サラはくすくす笑った。


「でも次の日には、ちゃんとここ空けてくれてた」


 レクシオは、その小さな棚を見た。研究者の部屋の中で、そこだけが妙に低かった。この部屋は、レクシオという教授の場所だった。だが、その中に、サラのための場所もあった。自分は、そのことを知らない。知らないまま、その場所だけを見つけてしまった。サラは書斎を出ると、廊下の柱へ向かった。


「これ、私の背を測った跡」


 柱に刻まれた細い線を指さす。


「こっちが去年。こっちが一昨年。お母さんが、毎年印をつけてくれるの」


 サラの指が、少し上の線で止まった。


「お父さんは、いつも『伸びたな』って言うだけなの。もっと何かないのって言ったら、『伸びたという事実以上に重要な観測結果はない』って」


 サラはくすくす笑った。レクシオも笑うべきなのだろうと思った。けれど、うまく笑えなかった。柱に刻まれた線は、サラがここで生きてきた証だった。イーリスという女が、それを毎年見ていた証だった。レクシオという男も、きっとその横に立っていたのだろう。だが、今そこにいる自分は、そのどの年のサラも知らない。サラは線から手を離し、傘を抱き直した。


「来年は、お父さんがつけてね」


 レクシオは返事に詰まった。来年。その言葉は、あまりにも遠かった。


「……ああ」


 それでも、そう答えてしまった。サラは嬉しそうに頷いた。


 その日から、数日間、レクシオは家の中で過ごした。サラは毎朝、ひとつずつ思い出を差し出した。どの皿が誰のものか。どの本を読みかけていたのか。雨の日に傘を立てる場所。イーリスが好きだった花。レクシオがよく間違える薬草の名前。レクシオはそれをひとつずつ受け取った。受け取るたびに、空白の輪郭だけが濃くなっていった。

 カルラもまた、ほとんど家を空けなかった。ただし、仕事をしていなかったわけではない。学院や魔道士協会の使いが日に何度も訪れ、彼女は玄関先で短く指示を返していた。エプロン姿のまま、魔物対応の指示や都市の防衛配置を通達する声が、廊下の奥まで聞こえてくる。そしてヴィクトールが診察に来る時間だけは、必ずレクシオの近くにいた。

 ヴィクトールは脈を取り、瞳を覗き込み、魔素反応を確かめる。彼はいつも穏やかで、丁寧で、申し訳なさそうだった。


「焦らなくて大丈夫です」


 ヴィクトールは何度もそう言った。


「記憶は、ゆっくり戻るかもしれません。戻らなかったとしても、あなたがここにいることには意味があります」


 その言葉に、サラは何度も頷いた。カルラは何も言わなかった。ただ、ヴィクトールが「戻らなかったとしても」と口にしたときだけ、彼女の目がわずかに鋭くなった。


 そして七日目の朝。カルラは台所にいて、レクシオは食卓で、昨日サラに教えられたばかりの欠けたカップを手にしていた。サラは庭にいた。古びた傘を広げたり閉じたりしながら、何かの遊びをしている。


「サラ! またそんな大事なものを振り回して……」


 門の向こうから、少女の声がした。レクシオが顔を上げると、同じくらいの年頃の少女が庭先に立っていた。きちんと整えられた服。まっすぐな背筋。幼い顔立ちの中に、妙に大人びた硬さがある。


「クラリス!」


 サラの顔がぱっと明るくなる。


「……今日は逃げないつもりですの?」

「逃げるに……決まってるでしょ!」


 サラは傘を抱え直すと、庭の奥へ駆け出した。


「あ、お待ちなさい!」


 クラリスがすぐに追う。二人は庭を抜け、家の裏手へ回り、低い生垣のそばを走っていく。サラは軽く、風のように逃げた。クラリスはその後を、息を乱しながらも決して見失わない。レクシオは窓辺からそれを見ていた。


「いつものことだ」


 台所からカルラの声がした。


「サラはすぐ街の外へ行こうとする。クラリスは、それを捕まえる係だ」

「捕まえる係……」

「ああ。あの子は真面目だからな。サラがどれだけ逃げても、最後は必ず追いつく」


 庭の向こうで、クラリスがサラの袖を掴んだ。


「つかまえましたわ!」

「もう少しだったのに!」

「もう少し、じゃありませんわよ! 門の方へ行こうとしていたでしょう!」

「行こうとしてないもん」

「顔に書いてありますわよ」


 二人は言い合いながら、けれどどちらも笑っていた。サラは捕まっても、本気で嫌がってはいなかった。クラリスも叱ってはいるが、その手は強すぎない。それは、きっと何度も繰り返されてきたやり取りなのだろう。レクシオだけが、それを知らない。

 そのとき、玄関の扉が叩かれた。扉を開けたのはカルラだった。外に立っていたのは、灰色の外套を着た使者だった。胸には、魔道士協会の紋章がある。カルラの顔から表情が消えた。


「……何があった」


 使者は深く頭を下げた。


「イーリス・アーベント様に関する通達です」


 カップの中で、茶が小さく揺れた。レクシオは顔を上げる。


 イーリス。

 妻だと聞かされた名。

 写真の中で、自分の隣に立っていた女性の名。

 サラが、ずっと待っている人の名。


 庭から、サラの明るい声が聞こえた。


「カルラおばさん? 誰か来たの?」


 カルラは答えなかった。普段の反論すらしなかった。使者の差し出した封書を、ただ見つめていた。白い封筒には、黒い封蝋が押されていた。

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