第2話 知らない家
家の中は、知らない匂いがした。木の床。洗ったばかりの布。煮込み料理の残り香。窓辺に置かれた花の、わずかに甘い匂い。そのどれもが、ここで暮らしてきた者にとっては当たり前の匂いなのだろう。
けれどレクシオには、何一つ分からなかった。自分の家だと言われた。妻と娘がいる場所だと言われた。帰る場所だと言われた。だが、玄関に足を踏み入れた瞬間、レクシオは奇妙な感覚に襲われた。
誰かの生活の中へ、土足で入り込んでしまったような感覚だった。
「お父さん、こっち」
サラがレクシオの手を引いた。小さな手だった。さっきまで服を握りしめていた指が、今度は当たり前のようにレクシオの指を握っている。その手を振りほどくことはできなかった。
「サラちゃん、お父さんはまだ目を覚ましたばかりです。あまり無理をさせては——」
「大丈夫だよ」
サラは振り返り、涙の跡が残った顔で笑った。
「だって、お父さん、帰ってきたんだもん」
その言葉に、レクシオの胸がまた痛んだ。帰ってきた。何度聞いても、その言葉は自分のものにならない。自分は戻ったのではない。連れてこられただけだ。この家の記憶も、この子の笑顔も、何一つ持たないまま。
居間に入ると、壁に古い写真が飾られていた。三人が写っている。一人は、少し不器用な笑顔でソファに腰掛けている男。その隣に、長い髪の女性。そして、女性と男の間で笑っている小さな少女。サラだ。写真の中の男は、少女の肩に手を置いて笑っていた。笑顔こそ下手だったが、その姿は自然に見えた。妻と娘がそこにいることを疑いもしない様子で。レクシオは思わず目を逸らした。だが、その先には姿見があった。そこに映ったのは写真と同じ顔。同じ身体。けれど、違う。写真の中の男は、サラの父だった。では、自分は何なのだろう。
「これね、去年の私の誕生日」
サラが写真を指さした。
「お母さんが、三人で撮ろうって言ったの。お父さん、最初は嫌がってたんだよ。笑うのは苦手だって」
「……そう、なのか」
「うん。でも最後は笑ってくれた」
サラは嬉しそうに言った。レクシオは、写真の中の自分を再び見た。笑っている。確かに、笑っている。だが、その笑い方を思い出せない。
「お父さん?」
サラが不安そうに顔を覗き込んでくる。レクシオは慌てて視線を下げた。
「ああ、すまない。少し……ぼんやりしていた」
「やっぱり疲れてるんだ」
サラはそう言うと、今度はぱっと表情を明るくした。
「じゃあ、ごはん食べよう。お父さんの好きなの、カルラおばさんが作ってくれてるから」
「俺の、好きなもの?」
「うん。魔兎のクリーム煮!」
サラは誇らしげに胸を張った。
「お父さん、これ食べるといつも言うんだよ。『魂に染みる』って。よく分かんないけど」
レクシオは何も言えなかった。好きな料理。いつもの言葉。家族だけが知っている、小さな癖。それらが一つずつ差し出されるたびに、自分の中の空白がかえってはっきりしていく。サラは食卓へ走っていった。古びた傘を、椅子の横に大切そうに立てかける。レクシオはその後ろ姿を見つめた。あの子は、思い出を渡してくれている。
受け取ればいいのか。
知らないまま、父親の顔をして。
それとも、正直に言うべきなのか。
君の父は、ここにはいないのだと。
けれど、その言葉を口にする前に、台所の方から声がした。
「サラ、走ると危ないぞ」
低く、落ち着いた女の声だった。レクシオが顔を向けると、台所の入口に一人の女性が立っていた。白い髪を後ろでまとめ、エプロンを身につけている。若く見えたが、その佇まいには年齢とは別の重みがあった。女性はレクシオを見た。ほんの一瞬だけ、その表情が崩れた。驚き。安堵。戸惑い。それから、飲み込んだ何か。彼女はすぐに微笑んだ。
「……ようやく戻ったか、レクシオ」
その言葉に、レクシオは返事を探した。ただいま、と言えばいいのだろうか。けれど、その一言は喉の奥で止まった。自分には帰ってきた実感がない。目の前の女性を知っている実感もない。ヴィクトールが控えめに口を開いた。
「カルラ女史。レクシオは、まだ混乱しています。記憶のことも——」
「そうか」
カルラと呼ばれた女性は、ヴィクトールの言葉を途中で遮った。責める声ではなかった。ただ、これ以上ここで言うな、という響きがあった。サラが食卓の椅子によじ登りながら、明るい声を上げる。
「カルラおばさん、早く! お父さん、お腹すいてるって!」
「言ってないよ、サラちゃん」
ヴィクトールが困ったように笑う。
「でも寝てたんでしょ? だったらお腹すくよ」
サラは当然のように言った。その当然さが、レクシオには少し眩しかった。カルラは小さく息を吐き、鍋を持って食卓へ向かった。白い湯気がふわりと上がる。煮込まれた肉と香草の匂いが部屋に広がった。サラは目を輝かせる。
「魔兎のクリーム煮!」
「お前の分もある。だが、まずはレクシオに。それと、おばさんと呼ぶのはやめてくれ」
「分かってるってば」
サラはそう言いながら、椅子の横に立てかけた古びた傘を少しだけ引き寄せた。まるで、それも一緒に食卓につかせるみたいに。レクシオは椅子に座った。目の前に皿が置かれる。白いソースに沈んだ肉。やわらかく煮込まれた野菜。湯気の向こうで、サラがこちらを見ている。期待している目だった。レクシオは匙を取った。手が、少し震えていた。
「熱いから、ふーってしてね」
サラが言う。
「……ああ」
「お父さん、いつも熱いの我慢して食べるから。お母さんに怒られてた」
レクシオは匙を止めた。お母さん。イーリス。妻だと聞かされた女性の名前。写真の中で、自分の隣にいた人。何も思い出せない。それでも、サラは嬉しそうに話し続ける。
「お母さんがね、『味わう前に舌を焼いたら意味ないでしょ』って言うの。そしたらお父さんが、『魂で味わうから問題ない』って」
「……俺は、そんなことを」
「言うよ。変なこといっぱい言う」
サラはくすくす笑った。レクシオは匙の中身を口に運んだ。熱い。けれど、耐えられないほどではなかった。クリームの甘みと、香草の苦み。肉は柔らかく、噛むとほろりと崩れた。おいしい、とは思った。しかしそれは、初めて食べる料理に対する感想でしかなかった。そこに懐かしさはなかった。胸が温かくなるような記憶も、家族と囲んだ食卓の気配も、何一つ戻ってこなかった。
「どう?」
サラが身を乗り出す。レクシオは匙を置きかけて、やめた。言うべきことは分かっていた。分からない、と。思い出せない、と。これは懐かしい味ではなく、ただの初めて食べるおいしい料理だと。だが、目の前の少女は、答えを待っていた。父の答えを。レクシオは口を開いた。
「……うまい」
サラの顔がぱっと明るくなった。
「でしょ!」
その笑顔を見た瞬間、レクシオの胸はさらに苦しくなった。嘘ではない。料理は確かにおいしかった。けれど、サラが欲しかったのはその言葉ではない。彼女が欲しかったのは、父がいつもと同じように笑って、いつもと同じように匙を進めることだった。自分の差し出した思い出が、ちゃんと父の中に戻っていくことだった。レクシオは、もう一口食べた。
「……魂に染みる、味だな」
言ってから、ひどく後悔した。サラが息を呑む。それから、泣きそうな顔で笑った。
「うん」
小さく、何度も頷く。
「うん。そう。お父さん、いつもそう言うの」
カルラが食卓の向こうで目を伏せた。ヴィクトールも何も言わなかった。部屋の中に、食器の音だけが残る。レクシオは匙を握りしめた。たった一言で、サラは救われたような顔をした。たった一言で、自分はもっと深く、この家の中へ入り込んでしまった。土足で。誰かの帰る場所に。
「お父さん」
サラが、少し小さな声で呼んだ。
「どうした?」
答えた声は、自分でも驚くほど優しかった。サラは椅子の横に立てかけた傘を撫でた。古びた布地。少し曲がった柄。子どもが持つには、やはり大きすぎる傘だった。
「この子のことも、覚えてない?」
レクシオは傘を見た。何の変哲もない古い傘に見えた。けれどサラは、それを人形か小さな弟のように大切そうに扱っている。
「……すまない」
正直に言うしかなかった。
「分からない」
サラは一瞬だけ目を伏せた。けれど、すぐに顔を上げる。
「そっか。じゃあ、教えてあげるね」
サラは傘を両手で抱きしめた。
「これはね、お母さんがくれたの」
その声は、さっきまでより少しだけ静かだった。
「すぐ帰るから、それまでこの子と待っててって」
レクシオは、息を止めた。カルラの手が、食卓の下で強く握られる。サラは気づかない。傘を抱えたまま、誇らしそうに、けれどどこか寂しそうに笑った。
「だから私、待ってるの」
その言葉を聞いた瞬間、レクシオはようやく理解した。この子は、自分だけを待っていたのではない。帰ってこない人を、ずっと待っている。




