第1話 帰ってきた父
男が最初に覚えた感情は、恐怖ではなかった。罪悪感だった。目の前の少女が、泣きながら自分を「お父さん」と呼んでいたからだ。少女は小さな腕で、男の身体にしがみついていた。二度と離すものかとでも言うように、指先が服を強く握りしめている。けれど、男はその背中に腕を回せなかった。少女の顔を知らない。名前も知らない。なぜ泣いているのかも、なぜ自分を父と呼ぶのかも、何一つ分からなかった。
——数時間前。
男は白いベッドの上で目を覚ました。いや、正確には、目を覚ましかけていた。意識はまだ水底に沈んでいるように重く、視界は暗く濁っている。かろうじて、誰かの声だけが耳に届いた。
「魔素反応は……安定している。身体との同期も問題ない。けれど……」
そこで声は途切れた。男はまた眠りに落ちた。次に目を開けたとき、眼前に白衣の青年の顔があった。男は反射的に身を引こうとして、自分が白い寝台の上にいることに気づいた。壁も天井も、掛けられたシーツも白い。枕元には見慣れない器具が並び、細い管の中を青白い光がゆっくり流れている。治療室のように見えた。だが、何を治療されていたのかは分からない。
「……ああ」
白衣の青年は息を呑んだ。
「よかった。目を覚ましたんですね」
青年は泣きそうな顔で笑い、男の手を両手で包み込んだ。手のひらは温かかった。少なくとも、男よりはずっと、生きているものの温度だった。
「本当に、よかった。戻ってきてくれたんですね」
「俺は……」
声が掠れた。喉が、自分のものではないみたいだった。男が言い淀んでいると、青年が続けた。
「事故に遭ったと聞いたときは気が気じゃありませんでしたから……」
男は声を絞り出す。
「あんたは、誰だ?」
青年の表情が止まった。
「え……」
ほんの一瞬。ほんの一瞬だけ、青年の顔から血の気が引いた。しかし彼はすぐに笑顔を作った。
「ヴィクトールです。ヴィクトール・——いえ、今は名前より、あなたの状態を確認しましょう」
「俺たちは、知り合いなのか?」
「……覚えていないんですか」
問いではなかった。確認だった。男は答えられなかった。事故。ヴィクトール。ここがどこなのか。自分が誰なのか。何一つ、頭の中に浮かんでこない。白衣の青年——ヴィクトールは、男の手を握ったまま、しばらく黙っていた。やがて、ゆっくりと息を吐く。
「分かりました。焦らなくても大丈夫です。今、分かることだけ教えてください」
「分かること……?」
「はい。名前でも、家族でも、仕事でも。何でも構いません」
男は口を開きかけて、閉じた。何もない。空っぽだった。自分の名前を探そうとしても、暗い井戸の底を覗き込んでいるようで、返ってくるものがない。
「……分からない」
ヴィクトールの指に、わずかに力が入った。
「あなたの名前は、レクシオです」
「レクシオ……」
男はその名を舌の上で転がした。知らない味がした。
「奥さんがいます。イーリスさん。娘さんも」
「娘……?」
「サラちゃんです」
サラ。その名前にも、何の記憶も湧かなかった。ヴィクトールは痛みに耐えるような顔で、それでも穏やかに続けた。
「ひとまず、家に帰りましょう。きっと、会えば何か思い出すかもしれません」
「家……」
「はい。あなたの帰る場所です」
その言葉の意味も分からないまま、男はベッドから足を下ろした。身体はふらついたが、歩けないほどではなかった。ヴィクトールは一歩ごとに速度を合わせ、何度も「無理はしないでください」と言った。そこからの記憶は、ところどころ曖昧だった。白い廊下。石畳の道。高い壁。閉ざされた巨大な門。やがてヴィクトールが足を止めた。
「着きましたよ。ここがフォルシュタット、正確にはその入り口ですが」
男が顔を上げる。目の前には、巨大な石壁があった。空を切り取るように高く、見上げるだけで首が痛くなる。壁の内側からは、人の声が聞こえていた。荷車の軋む音。遠くで鳴る鐘。誰かが笑う声。どれも初めて聞く音のはずなのに、なぜか胸の奥がざわついた。門番がヴィクトールに気づき、慌てたように姿勢を正す。
「ヴィクトール先生。もしや、その方は……」
「レクシオ教授です。詳しい話は後ほど。今は、家に帰してあげたいんです」
門番は息を呑んだ。それから、男の顔を確かめるように見つめ、すぐに視線を伏せた。
「……承知しました。どうぞ、お通りください」
その反応に、男は居心地の悪さを覚えた。誰もが自分を知っている。だが、自分だけが何も知らない。ヴィクトールが軽く会釈すると、門番は道を開けた。
「行きましょう。家はすぐそこです」
「……家」
男はその言葉を繰り返した。口に出しても、何の実感も湧かなかった。自分の帰る場所。妻と娘がいる場所。そう説明されたはずなのに、頭の中には白い空白しかない。
門をくぐると、街の景色が広がった。石畳の道。並んだ家々。軒先に吊るされた色とりどりの布。店先で何かを焼く匂い。通りを駆けていく子どもたち。そのどれか一つでも覚えていればよかった。この角を曲がったことがある。この匂いを知っている。この道を誰かと歩いたことがある。そんな小さな手がかりを、必死に探した。けれど何も見つからなかった。街は賑やかだった。だが男の中だけが、ひどく静かだった。
「大丈夫ですか?」
ヴィクトールが歩調を緩める。
「ああ」
反射的に答えてから、男は自分の声が震えていることに気づいた。門番は、自分を見て驚いていた。ヴィクトールは、自分が目を覚ましたときに泣きそうな顔をした。ならば、この先にいるという妻と娘も、自分を待っているのだろうか。そこまで考えて、男は怖くなった。
「……本当に、俺はここに住んでいたのか?」
「はい」
「妻と、娘がいると」
「ええ」
「俺は、その二人を……大切にしていたのか?」
ヴィクトールは少しだけ目を伏せた。
「愛していたと、僕は思います。そして」
ヴィクトールは静かに続けた。
「愛されていたと思います。サラちゃんは、確かにあなたを待っています」
その名前を聞いても、やはり何も思い出せない。サラ。娘。自分の子。言葉だけが並んでいく。だが、そこに温度がない。やがて二人は、通りから少し外れた一軒の家の前で足を止めた。古いが、手入れの行き届いた家だった。窓辺には小さな鉢植えが並び、玄関の横には子ども用の小さな靴が置かれている。男はその靴を見た。小さい。あまりにも小さい。胸の奥が、かすかに痛んだ。記憶ではない。ただ、痛みだけがあった。
「ここが……」
「あなたの家です」
ヴィクトールが扉を叩く。返事はなかった。代わりに、家の奥から何かが倒れる音がした。続いて、ばたばたと軽い足音が近づいてくる。男は息を止めた。扉が開いた。そこに立っていたのは、小さな少女だった。透き通った白い髪が少し乱れている。目は赤く腫れていて、ずっと泣いていたのだと分かった。両手には、子どもの身体には少し大きすぎる古びた傘を抱えている。少女は扉の向こうで固まったまま、男を見上げていた。男もまた、少女を見下ろしていた。知らない顔だった。それなのに、少女の瞳が大きく揺れた瞬間、男は逃げ出したくなった。
「……お」
少女の唇が震える。
「お父、さん……?」
その言葉は、問いかけの形をしていた。けれど次の瞬間には、少女は傘を放り出し、男へ飛びついていた。
「お父さん!」
小さな身体が、男の腹にぶつかる。少女は両腕を精一杯伸ばし、男にしがみついた。二度と離すものかとでも言うように、服を握る指に力がこもっている。
「おかえり……おかえりなさい……!」
動けなかった。腕を上げることも、少女の背中に手を回すこともできなかった。泣きじゃくる少女の髪が胸元に触れている。小さな肩が震えている。自分を呼ぶ声が、何度も何度も耳に届く。
お父さん。お父さん。お父さん。
そのたびに、男の中で何かが軋んだ。呼ばれているのは、自分ではない。少女が抱きしめているのは、自分ではない。この子が待っていたのは、記憶も名前も家族も失った空っぽの男ではない。それでも少女は泣いていた。ようやく帰ってきたのだと、信じて泣いていた。男は少女の顔も名前も知らない。どう抱きしめてやればいいのかも分からない。だから、ただ立ち尽くすことしかできなかった。ヴィクトールが隣で、痛ましそうに目を伏せる。少女は男の服を握ったまま、涙で濡れた顔を上げた。
「もう、どこにも行かないよね?」
男は答えられなかった。その沈黙に、少女の表情が少しだけ揺れた。何かに気づいたように。何かを、気づかなかったことにするように。けれど少女は、すぐに笑おうとした。泣きながら、無理やり口元を上げた。
「大丈夫。お父さん、疲れてるんだよね」
その言葉が、男の胸に刺さった。違う。疲れているのではない。思い出せないのだ。君のことを。君が待っていた日々を。君が自分に向けている、その全部を。男はようやく、震える手を少しだけ持ち上げた。しかし、その手は少女の背中に触れる寸前で止まった。触れていいのか、分からなかった。父親のふりをして抱き返せば、この子は救われるのか。それとも、もっとひどく傷つけるのか。何も分からないまま、男は立ち尽くす。少女だけが、彼を父と信じて泣いていた。




