第17話 失うこととは違う
エパールが泣き終わるまで、傘次郎はサラの手の中にあった。
遺跡からフォルシュタットへ戻ったのは、夜も遅くなってからだった。三人の調査員を魔道士協会の救護班に引き渡し、現地で第一報を済ませて、馬車に乗った。
帰り道では、誰もほとんど話さなかった。クラリスは目を閉じて座っていた。眠っているように見えたが、馬車が大きく揺れるたび、わずかに眉が動いた。
エパールは工具鞄を膝の上に置き、その留め具を両手で握っていた。
サラは傘次郎を抱えたまま、窓の外を見ていた。暗い道。ときどき通り過ぎる石標。馬車の灯りが届くより先は、何も見えない。
それでも、進んだ分だけ遺跡は遠ざかっていった。
学院へ着き、馬車を降りたところで、エパールは泣いた。大きな声ではなかった。
工具鞄を地面に置き、その横にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。指の隙間から、何度も息がこぼれた。
「……帰ってから泣くって、言ってましたものね」
クラリスが言った。
「はい」
エパールは顔を覆ったまま答えた。
「なので、泣いてます」
「器用だな」
傘次郎が言った。
「我慢してた分です」
「量まで決めてたのかよ」
「決めてません」
声は震えていた。サラは何か言おうとしたが、うまく見つからなかった。
大丈夫だった、と言うには、エパールの膝はまだ震えていた。怖くなかった、と言うには、サラも馬車の中で何度も傘次郎の重さを確かめていた。
だから、隣にしゃがんだ。クラリスも反対側に座った。三人で、エパールが泣き終わるのを待った。傘次郎だけが、最後までサラの腕の中にいた。
◇
翌朝。学院の魔道具整備室に入っても、傘次郎はまだサラの手の中にあった。
整備室は、普段使われていない教室をエパールの作業用に空けたものだった。
窓際には、背の高い作業台が置かれている。壁には大きさの違う工具が並び、棚には布で包まれた金属材と、小瓶に分けられた細かな部品が収められていた。
部屋には、油と金属と、少し焦げた木の匂いがする。窓は開いていた。朝の冷たい空気が、匂いを少しずつ外へ運んでいる。
「寝ましたか?」
エパールが尋ねた。目元が少し赤い。
「寝た」
「何時間?」
「分かんない」
「夜中に何度、目を覚ましました?」
「数えてない」
「傘次郎さんがあるか確認しました?」
「……した」
「私も工具鞄があるか、三回確認しました」
「同じなの?」
「たぶん、少し違います」
エパールは正直に言った。
作業台の上には、白い布が何重にも敷かれていた。その中央に、細長い木製の台が置かれている。
両脇には柔らかな革を巻いた支えがあり、閉じた傘を横に置いても転がらない形になっていた。金属の固定具は見えない。
「縛らないの?」
サラが聞いた。
「最初は置くだけです。固定が必要になっても、金属で直接挟みません」
「最初は、って言ったぞ」
傘次郎が低く言う。
「必要になったら、先に説明します」
「必要でも嫌だ」
「その場合は、別の方法を考えます」
エパールは革表紙の手帳を開いた。表紙には、見慣れた文字で「暴走防止」と書かれている。ページをめくる。
「今日すること。外装、骨、露先、柄、接合部の損耗確認。作業台へ置いた状態での歪み測定。外から見える範囲の魔素流確認」
指を一段下へ動かす。
「今日しないこと。内部確認、回路への干渉、魔素の注入、分解、布を外すこと、接合部を抜くこと、補強材をその場で取りつけること」
「最後のは、しないんですの?」
作業台から少し離れた椅子に座ったクラリスが尋ねた。
右手は膝の上に置かれている。昨日より震えは小さい。それでも、完全には止まっていなかった。
「はい。状態を見て、合う材料を決めて、それからです。見た勢いで始めません」
「よろしい」
「クラリスが言いそうなこと、もう書いてあるんだ」
サラが言う。
「昨日の帰りに増やしましたわ」
「いつ?」
「エパールが泣き終わったあとです」
「泣いた直後に書かされました……!」
エパールが訴えた。
「忘れないうちがよいでしょう?」
「そうですけど」
「怖いな、こいつ」
「あなたにも言われたくありませんわ」
傘次郎とクラリスが睨み合ったように見えた。傘次郎に目があるかは分からない。それでも、サラにはそう見えた。
整備室の扉が開いた。カルラが紙束を片手に入ってくる。
「始めていないな」
「はい」
エパールが背筋を伸ばした。
「全員が揃うまで、置く準備だけにしています」
「ならいい」
カルラは室内を見回した。作業台。エパールの手帳。椅子に座ったクラリス。サラの手の中の傘次郎。
「昨日の件だが、三人とも生きている」
サラは顔を上げた。
「今朝の報告?」
「ああ。治療は続いているが、三人とも生きている。昨夜から急な悪化もない」
「そっか」
言葉にすると、それだけだった。肩の奥に残っていた力が、少し抜けた。
昨日、暗闇の中にいた三人。来るなと言った男。脚を負傷した調査員。目を閉じたまま運ばれた一人。
今も生きている。
「遺跡は?」
クラリスが尋ねる。
「新発見区画への進入を止めた。隔壁の外に監視を置き、閉鎖側の反応を記録している。お前たちが見た黒い回路も、防衛機構も、今は誰にも触らせていない」
「調査は続けますの?」
「救出と安全確認の記録を整理してからだ。次に入る者へ、同じことを繰り返させる気はない」
カルラは紙束を作業台の端へ置いた。
「昨日の任務については、また正式に聞く。今は傘次郎だ」
「俺は後でいい」
傘次郎が言った。
「お前の都合は聞いていない」
「横暴だぞ」
「狂った連中に今すぐ分解されるのと、私の管理下で範囲を決めて調べられるのと、好きな方を選べ」
「こっちでいい」
「素直ですわね」
「うるせえ」
カルラはサラへ視線を移した。
「重さは?」
サラは傘次郎を両手で持ち直した。
「昨日よりは、少しまし」
「普段と比べてどうだ?」
「まだ重い気がする」
「気がする?」
「ずっと持ってたから、腕が疲れてるだけかもしれない」
「分からないなら、それでいい」
カルラはエパールを見る。
「外から分かる範囲だけ確認しろ。吸った魔素を吐かせようとするな。新しく流し込むのもなしだ」
「はい」
「内部に手を出すな」
「はい」
「面白くてもだ」
「……はい」
「間がありましたわ」
「我慢します」
「我慢で済ませず、しないでくださいまし」
エパールは手帳へ一行書き足した。カルラが作業台の反対側へ立つ。
「始めろ」
誰も動かなかった。エパールはサラを見ている。サラは作業台を見ている。傘次郎は、サラの手の中で黙っている。
「どうしました?」
エパールが尋ねた。
「どう置けばいい?」
「サラさんの手で、台の中央に横向きに置いてください。私には渡さなくていいです」
「持ったままじゃ駄目?」
「大まかな状態なら見られます。でも、正確な歪みは分かりません」
「何で?」
「サラさんの手で支えると、骨と柄の位置が少し変わるからです。立てた状態だと重さのかかり方も違います」
エパールは木製の台を指で示した。
「ここへ置けば、サラさんの力も、私の力もかかっていない状態を見られます」
「台の方が、私よりちゃんと持てるってこと?」
「測るあいだは、はい」
エパールは少し考えた。
「大事にできるかは、別です。そこは、私にも台にも決められません」
「妙なところで正直だな」
傘次郎が言った。
「嘘をつかないのも、手帳に書いてあります」
「手帳がないと駄目なのか、お前」
「忘れないためにあるんです」
サラは作業台へ半歩近づいた。傘次郎の石突が、白い布の上まで来る。そこで止まった。
昨日は、エパールへ渡せた。意識のない調査員を運ぶには、両手が必要だった。
あのときは、選べることが少なかった。人を置いていくか。傘次郎を預けるか。考える前から、答えは決まっていた。
今は違う。傘次郎を握ったまま、部屋を出ることもできる。今日でなくてもいい。
誰も怪我をしない。誰も暗闇に残されない。手を離さなくても、困る人はいない。だから、離す理由を、自分で決めなければならなかった。
「昨日は渡せましたわ」
クラリスが言った。
「うん」
「なら、今日もできる、とは言いません」
サラはクラリスを見る。
「言わないの?」
「昨日は人を運ぶためでした。今日は、サラがこれからどうするかを決めるためですもの」
クラリスは、膝の上の右手を左手で包んだ。
「同じではありませんわ」
「じゃあ、できなくてもいい?」
「ええ」
クラリスはすぐに答えた。
「ただ、手から離すことと、失うことは違いますわ」
サラの指に力が入った。
「クラリスが、それ言うの」
「私が言うからです」
クラリスは目を逸らさなかった。
「私は、何も言わずに離れました。どこへ行くのかも、いつ帰るのかも言わなかった。だから、サラに失ったと思わせた」
整備室の外から、朝の鐘が聞こえた。一度。少し遅れて、もう一度。
「今は、同じ部屋にいます」
クラリスが続ける。
「どこへ置くのかも分かっています。誰が触るのかも、何をするのかも決めました。やめたければ、やめられます」
「帰ってくる?」
「傘次郎が?」
「うん」
「この部屋から出しません。終われば、サラが自分で持ち上げればいい」
エパールが言った。
「私から渡す形にもしません」
「何で?」
「サラさんが置いて、サラさんが持って帰る方がいいと思います」
サラは傘次郎を見る。黒い布。古い柄。
レクシオが最後に押し返したもの。イーリスが置いていったもの。昨日、エパールへ預けても戻ってきたもの。
「傘次郎は?」
「嫌だ」
「やっぱり?」
「作業台なんぞ、好きな奴がいるか」
「でも、痛いところがあるかもしれない」
「今は痛くねえ」
「昨日、いっぱい吸った」
「腹いっぱいになっただけだ」
「それが平気か、分からないでしょ」
「お前らに分かるのかよ」
「分からないから、見るんだよ」
傘次郎は黙った。エパールも、クラリスも、カルラも待っている。誰もサラの手から傘を取ろうとはしない。
「触る前に、言ってもらう」
サラが言った。
「はい」
「開くなら、私が留め具を外す」
「はい」
「少しでも変だったら、止める」
「はい」
「傘次郎が嫌だって言ったら?」
「何が嫌なのか確認して、その作業は止めます」
「全部嫌だ」
「全部では分かりません」
エパールが困った顔をした。
「触る、開く、測る、見る。どれが嫌か言ってください」
「お前に見られるのが嫌だ」
「それだと、私は何もできません」
「じゃあ帰れ」
「ここ、私の作業室です」
「借りてるだけだろ」
「そうですけど」
サラは少し笑った。笑った分だけ、指の力が抜けた。
「置くよ」
「勝手にしろ」
「嫌なら、ちゃんと言って」
「お前が決めたなら、さっさとしろ」
サラは傘次郎を持ち上げた。石突を作業台の奥へ向ける。柄を支えたまま、白い布の上へゆっくり下ろす。
木製の台が、傘次郎の重さを受け止めた。まだ手は離していない。
親指。人差し指。中指。一本ずつ開く。最後まで柄に触れていた小指を離した。手のひらから、重さが消えた。
傘次郎は作業台の上にある。誰の手の中にもない。白い布の上で、少しも動かない。
「傘次郎」
「何だ」
「いる?」
「目の前にいるだろ」
「うん」
「置いた途端に消える傘があるか」
「喋る傘はいた」
「他人みたいに言うな」
サラは手を引いた。胸の前まで戻す。指を閉じる。中には何もない。それでも、傘次郎の声は聞こえた。
「始めていいですか?」
エパールが尋ねる。手にはまだ何も持っていない。
「いいよ」
「傘次郎さんは?」
「さんをつけんでいい」
「始めていいですか、傘次郎」
「触る前に言え」
「分かりました」
エパールは最初に、柔らかな革手袋をつけた。
「台の上で位置を整えます。布と柄に、両手で触れます」
「うん」
「勝手にしろ」
エパールは傘次郎を指二、三本分だけ動かし、木製の支えの中央へ合わせた。そこで、一度手を離す。
「次に、閉じた状態の長さと、柄の傾きを測ります。金属の定規は触れさせません」
細い糸の先に、小さな重りがついた道具を取り出した。糸を垂らし、柄と石突の位置を見る。
別の木製の物差しを台の脇に当てる。傘次郎には触れない。
エパールの目が、少しずつ作業の中へ沈んでいく。呼吸が静かになる。昨日、遺跡で黒い回路を見ていたときと同じ目だった。
ただし、今は手帳を忘れていない。一つ見るたびに、サラを見る。
「柄は、外から見た範囲では折れていません。接合部の傾きが、ごくわずかにあります」
「昨日ので?」
「分かりません。試験のあとにも負荷はありました。昨日増えたと断定できる印はありません」
「悪くなってない?」
「今の測定だけでは、それも断定できません。前は手に持った状態で見ました。条件が違います」
「分からないこと、多いね」
「はい。でも、今度から同じ条件で比べられます」
エパールは紙に数値を書いた。
「今日の形を残せば、次に変わったかどうかは分かります」
サラは作業台の上の傘次郎を見る。調べても、すぐに答えが出るわけではない。それでも、分からないまま置くだけとは少し違う。
「次に開きます」
エパールが言った。サラの手が動きかけた。
「私が留め具を外すよ」
「お願いします」
エパールは作業台から離れた。サラが一歩近づき、柄に触れる。握り込まず、留め具に指をかけた。
「開くよ」
「壊すなよ」
「私が何回開いたと思ってるの」
「昨日は硬い敵に叩きつけてただろ」
「あれは必要だった」
「必要なら何してもいいと思うな」
「思ってない」
留め具を外す。エパールが用意した支えに沿わせ、傘次郎をゆっくり開いた。古びた黒い布が、作業台の上に円を作る。
いつもはサラの頭上や正面にある傘が、横たわっている。自分の手で開いているときより、大きく見えた。骨の一本一本も、中央の接合部も、すべて見える。
「何じろじろ見てんだ」
「見えるから」
「昨日も聞いたぞ、それ」
「今のは私」
「同じこと言うな」
エパールが作業台へ戻る。
「骨には触れず、まず高さを見ます」
薄い木片を何枚か取り出し、作業台と骨の間に差し入れる。触れる直前で止める。
「ここまで近づけます」
「どうぞ」
骨と木片の間に残る隙間を、一か所ずつ比べていく。エパールは途中で、何度も反対側へ回った。サラも同じように動いた。
エパールが作業台の向かい側へ回ると、傘次郎が少し遠くなる。だから、自分も回る。
エパールは何も言わなかった。クラリスも、カルラも言わない。同じ部屋にいる。視界から消えていない。今は、それでよかった。
「前に見た骨です」
エパールが一本を指した。
「試験のとき、内側から風を受けて、ここへ負荷が集まりました。やはり、ほかより少しだけ上へ浮いています」
「折れそう?」
「今すぐではありません。ただ、このまま同じ方向から強い力を受けると、接合部の方が先に傷むかもしれません」
「骨じゃなくて?」
「はい。硬い部分だけを強くすると、次に弱いところへ力が移ります」
エパールは別の骨を指した。
「昨日、本体へ叩き込んだときは、こちら側が当たりましたか?」
サラは思い出す。回転する黒い外殻。割れた側面。赤い炎をまとった傘次郎。
「たぶん、こっち」
「たぶん?」
「必死だったから、全部は見てない」
「なら、たぶんと記録します」
エパールはその骨の先へ観察鏡を近づけた。
「細かな擦れはあります。でも、新しいものかは分かりません。骨の並びに、大きな崩れはありません」
「布は?」
「破れていません」
黒い布の表面を、光の角度を変えて見る。
「外側は古いままです。奥の強さが不自然に残っているのも、前と同じです」
「それは、いいこと?」
「今のところ、壊れていないという意味では、はい」
エパールは言葉を選んだ。
「なぜ残っているか分からないので、ずっと大丈夫だという意味にはできません」
「そっか」
エパールの袖が、作業台の端に置いていた糸に触れた。先についていた小さな重りが転がる。
サラは反射的に手を出した。床へ落ちる前に、手のひらで受け止める。
「すみません」
エパールが言った。
「ううん」
小さな金属の重り。サラの手の中に収まっている。
いつものように、傘次郎を握っていない方の手を伸ばしたわけではない。両方とも空いていた。その片方で、落ちるものを拾えた。
サラは重りをエパールへ返した。
「ありがとうございます」
「次から、端に置かないで」
「書きます」
「そこまで書くの?」
「また落とすよりいいです」
エパールが手帳へ書き足す。
「本当に何でも書きますのね」
クラリスが椅子から身を乗り出した。膝から離れた右手が、わずかに震える。サラはそちらを見た。
「まだ、治ってない」
「昨日よりは戻っていますわ」
「でも、震えてる」
「ええ」
クラリスは隠さなかった。
「今日は術式を使いません。物を持つときも、軽いものだけにします」
「なら、座ってて」
「座っていますわ」
「身を乗り出さない」
「細かいですわね」
「クラリスに言われたくない」
「それもそうです」
クラリスは背を椅子に預け直し、右手をもう一度膝に置いた。
昨日、クラリスは岩を作った。何もない場所へ、エパールを守る壁を作った。そのあとで、手が震えた。呼吸が浅くなった。声もかすれた。
サラは傘次郎に吸い込まれた魔素を使った。赤い炎を出した。髪が紅くなった。本体へ傘次郎を叩き込んだ。
それでも、サラの手は震えていない。疲れてはいる。腕も重い。けれど、クラリスと同じではなかった。
作業台の上に、傘次郎がある。昨日より重くなった傘次郎。
自分の空いた手。クラリスの震える右手。三つを順番に見た。
「何ですの?」
クラリスが尋ねた。
「分かんない」
「何が?」
「それも、分かんない」
問いかけようとすると、形が崩れた。傘次郎が何を喰ったのか。自分が何を使ったのか。クラリスが何を減らしたのか。
同じ魔法という言葉の中にあるはずなのに、どこかが違う。まだ、うまく言えなかった。
「分からないなら、今は置いておけ」
カルラが言った。
「だが、忘れないようにはしておけ。答えだと思うものを、先に拾うな」
「うん」
古い森でも言われたことだった。欲しい答えを拾わない。分からないものを、分かったことにしない。
サラはもう一度、傘次郎を見る。作業台に置いただけで、何かが分かると思っていたわけではない。それでも、置いたから見えたものはあった。
「次に、魔素流の非接触式精密測定をします」
エパールが測定札を取り出した。
「傘次郎には触れません。外側から近づけるだけです。魔素は流しません」
「いいよ」
測定札を、開いた傘の縁へ少しずつ近づける。淡い黄色の線が浮かんだ。
エパールは一か所で止めず、布の外側、骨の先、柄の近くへ順番に動かした。線の色は、わずかに濃くなったり、薄くなったりする。
「どう?」
「外へ大きく漏れ出している反応はありません」
「中は?」
「分かりません」
エパールは即座に答えた。
「外から見ているだけです。吸った魔素がどこにあるのか、どうなっているのか、この札では見えません」
「腹の中だ」
傘次郎が言った。
「腹ってどこ?」
「知らん」
「自分で言ったのに」
「言いやすかっただけだ」
「記録しますか?」
エパールがカルラへ尋ねた。
「『腹』を部位として書くな。本人の表現として残せ」
「はい」
「俺を本人って言うな」
「では、傘次郎の表現として」
「それも気に食わん」
「注文の多い傘ですわね」
「一本扱いした奴は黙ってろ」
測定札の線が、ゆっくり淡い黄色へ戻っていく。エパールは何度か位置を変えたあと、傘から離した。
「今すぐ危険だと判断できる反応は、外からは見えません。ただ、普段の状態を作業台で測っていないので、いつもとの比較はできません」
「また見ないと分からない?」
「はい」
「また、置くの?」
言ってから、サラは作業台を見た。傘次郎は、まだそこにいる。誰も持ち去っていない。
開かれて、見られて、測られて、文句を言っている。
「次も、同じ部屋でできます」
エパールが言った。
「今日の記録と比べるためなら、同じ台を使います」
「そっか」
嫌ではあった。次も平気だとは、まだ言えない。けれど、絶対に無理だとも思わなかった。
「閉じます」
エパールが言う。
「サラさんが閉じますか?」
「うん」
サラは骨を傷めないよう、傘次郎をゆっくり閉じた。黒い布をまとめ、留め具を戻す。作業台の中央に、もう一度横たえる。
「終わり?」
「測定は終わりです」
エパールは書き込んだ紙を見直した。
「骨の一本に、前から見えていた歪みがあります。柄と接合部にも、ごく小さな傾きがあります。昨日の戦闘で急に壊れかけたと判断できる変化は、外からは見つかりませんでした」
サラは息を吐いた。
「でも、同じ使い方を続けて大丈夫とは言えません」
「うん」
「特に、硬いものへ叩きつける使い方は」
「必要だった」
「分かっています」
「次も必要になったら?」
「壊れにくくする方法を考えます。でも、何にでも叩きつけていい道具にはできません」
「俺は武器じゃねえぞ」
「盾でも、杖でも、魔道具でも、喋る何かでもあります」
「最後が雑だ」
「分類はまだしないよう言われていますから」
エパールは作業台の脇に置いた材料を何本か取り上げた。薄い鉄。細く延ばした銅。黒い光沢のある合金。
どれも傘次郎へは近づけない。
「普通の補強なら、この中から選べます。でも、傘次郎には使わない方がいいです」
「どうして?」
「硬くしすぎます」
エパールは薄い鉄を少し曲げた。
「骨だけが強くなっても、力は消えません。接合部か、柄か、布の奥へ移ります」
「前に言ってた、逃がすところがいるって話?」
「はい。それに、傘次郎は魔素を吸います。魔素流を邪魔する材料を、今の情報だけで当てたくありません」
「何ならいいの?」
「候補はあります」
エパールの声が少し小さくなった。カルラが眉を寄せる。
「どこにある」
「フォルスシタデルから持ってきた分は、細い試験片だけです。傘一本を補強できる量はありません」
「だから、どこだ」
エパールは手帳ではなく、作業台の上の傘次郎を見た。
「熱と衝撃を受けても、硬さだけで耐えず、魔素を流しながら形を戻す鉱石があります。加工は難しいですけど、傘次郎の接合部に力の逃げ道を作るなら、たぶん一番近いです」
「たぶん?」
サラが聞いた。
「まだ材料を当てていません。だから、たぶんです」
「どこで採れるの?」
エパールはカルラを見た。カルラはすぐには答えなかった。窓から入った風が、作業台の白い布をわずかに揺らす。
「永久機関封印区域」
やがて、カルラが言った。
「解けぬ雪山だ」
永久機関封印区域。母が帰らなくなった任務地も、そう呼ばれていた。けれど、解けぬ雪山ではない。それだけは、以前カルラから聞かされていた。
解けぬ雪山のことなら、サラも少しは知っていた。フォルシュタットの外壁越しに見える、夏にも白い山。
ただ雪が解けないから、そう呼ばれているのではない。封じられたものが、今も山の奥で冷気を生み続けている。
その程度の話だけは、学院で聞いたことがあった。
「そこへ行けば、採れる?」
「管理坑道の採掘許可が下りればな」
カルラが答えた。
「行く」
「まだ行かせるとは言っていない」
「でも、傘次郎に必要なんでしょ」
「必要かどうかを決めるのが先だ。必要だとしても、封印区域へ入る人間、経路、採掘量、戻る条件を決める」
「また、戻る条件」
「当然だ」
カルラは作業台を指先で叩いた。
「手から離しても失わないために、今これをしたんだろう」
サラは傘次郎へ手を伸ばしかけた。途中で止める。
エパールの紙には、まだ最後の一行が残っていた。書き終わるのを待つ。エパールが日付と名前を書き、測定具を置いた。
「終わりました」
サラは作業台から傘次郎を持ち上げ、柄を握る。慣れた重さが、手のひらへ戻る。まだ普段より少し重い気がした。でも、声は同じだった。
「待てたじゃねえか」
傘次郎が言った。
「置いただけ」
「置いて、待った」
「傘次郎も」
「俺は置かれてたんだよ」
「でも、待った」
「うるせえ」
サラは傘次郎を抱え直した。
次も同じようにできるかは分からない。解けぬ雪山がどんな場所なのかも、そこにある鉱石が本当に傘次郎に合うのかも分からない。
分からないことは、まだいくつもある。
それでも、作業台の上には、傘次郎が置かれていた跡が残っていた。白い布の中央に、古い布から落ちた小さな埃が一つある。サラはそれを見た。
払わずに、傘次郎を持ったまま一歩下がった。今度は、作業台との間に一歩分の距離があった。その距離を越えて、傘次郎の声が届く。
「で、雪山ってのは何なんだ」
「お前も知らないのか」
カルラが言った。
「知らん」
「なら、ちょうどいい」
カルラは窓の外へ目を向けた。窓の向こう、屋根と鐘楼の先に白い峰が見えている。
「分からないものを見に行く準備から始めるぞ」




