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Souls of the Sorceress  作者: フッ化窒素
第一部 フォルシュタット編 帰ってこないなら、私が迎えに行く
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17/18

第17話 失うこととは違う

 エパールが泣き終わるまで、傘次郎はサラの手の中にあった。


 遺跡からフォルシュタットへ戻ったのは、夜も遅くなってからだった。三人の調査員を魔道士協会の救護班に引き渡し、現地で第一報を済ませて、馬車に乗った。


 帰り道では、誰もほとんど話さなかった。クラリスは目を閉じて座っていた。眠っているように見えたが、馬車が大きく揺れるたび、わずかに眉が動いた。

 エパールは工具鞄を膝の上に置き、その留め具を両手で握っていた。

 サラは傘次郎を抱えたまま、窓の外を見ていた。暗い道。ときどき通り過ぎる石標。馬車の灯りが届くより先は、何も見えない。

 それでも、進んだ分だけ遺跡は遠ざかっていった。


 学院へ着き、馬車を降りたところで、エパールは泣いた。大きな声ではなかった。

 工具鞄を地面に置き、その横にしゃがみ込み、両手で顔を覆った。指の隙間から、何度も息がこぼれた。


「……帰ってから泣くって、言ってましたものね」


 クラリスが言った。


「はい」


 エパールは顔を覆ったまま答えた。


「なので、泣いてます」

「器用だな」


 傘次郎が言った。


「我慢してた分です」

「量まで決めてたのかよ」

「決めてません」


 声は震えていた。サラは何か言おうとしたが、うまく見つからなかった。

 大丈夫だった、と言うには、エパールの膝はまだ震えていた。怖くなかった、と言うには、サラも馬車の中で何度も傘次郎の重さを確かめていた。


 だから、隣にしゃがんだ。クラリスも反対側に座った。三人で、エパールが泣き終わるのを待った。傘次郎だけが、最後までサラの腕の中にいた。


     ◇


 翌朝。学院の魔道具整備室に入っても、傘次郎はまだサラの手の中にあった。


 整備室は、普段使われていない教室をエパールの作業用に空けたものだった。

 窓際には、背の高い作業台が置かれている。壁には大きさの違う工具が並び、棚には布で包まれた金属材と、小瓶に分けられた細かな部品が収められていた。

 部屋には、油と金属と、少し焦げた木の匂いがする。窓は開いていた。朝の冷たい空気が、匂いを少しずつ外へ運んでいる。


「寝ましたか?」


 エパールが尋ねた。目元が少し赤い。


「寝た」

「何時間?」

「分かんない」

「夜中に何度、目を覚ましました?」

「数えてない」

「傘次郎さんがあるか確認しました?」

「……した」

「私も工具鞄があるか、三回確認しました」

「同じなの?」

「たぶん、少し違います」


 エパールは正直に言った。


 作業台の上には、白い布が何重にも敷かれていた。その中央に、細長い木製の台が置かれている。

 両脇には柔らかな革を巻いた支えがあり、閉じた傘を横に置いても転がらない形になっていた。金属の固定具は見えない。


「縛らないの?」


 サラが聞いた。


「最初は置くだけです。固定が必要になっても、金属で直接挟みません」

「最初は、って言ったぞ」


 傘次郎が低く言う。


「必要になったら、先に説明します」

「必要でも嫌だ」

「その場合は、別の方法を考えます」


 エパールは革表紙の手帳を開いた。表紙には、見慣れた文字で「暴走防止」と書かれている。ページをめくる。


「今日すること。外装、骨、露先、柄、接合部の損耗確認。作業台へ置いた状態での歪み測定。外から見える範囲の魔素流確認」


 指を一段下へ動かす。


「今日しないこと。内部確認、回路への干渉、魔素の注入、分解、布を外すこと、接合部を抜くこと、補強材をその場で取りつけること」

「最後のは、しないんですの?」


 作業台から少し離れた椅子に座ったクラリスが尋ねた。

 右手は膝の上に置かれている。昨日より震えは小さい。それでも、完全には止まっていなかった。


「はい。状態を見て、合う材料を決めて、それからです。見た勢いで始めません」

「よろしい」

「クラリスが言いそうなこと、もう書いてあるんだ」


 サラが言う。


「昨日の帰りに増やしましたわ」

「いつ?」

「エパールが泣き終わったあとです」

「泣いた直後に書かされました……!」


 エパールが訴えた。


「忘れないうちがよいでしょう?」

「そうですけど」

「怖いな、こいつ」

「あなたにも言われたくありませんわ」


 傘次郎とクラリスが睨み合ったように見えた。傘次郎に目があるかは分からない。それでも、サラにはそう見えた。


 整備室の扉が開いた。カルラが紙束を片手に入ってくる。


「始めていないな」

「はい」


 エパールが背筋を伸ばした。


「全員が揃うまで、置く準備だけにしています」

「ならいい」


 カルラは室内を見回した。作業台。エパールの手帳。椅子に座ったクラリス。サラの手の中の傘次郎。


「昨日の件だが、三人とも生きている」


 サラは顔を上げた。


「今朝の報告?」

「ああ。治療は続いているが、三人とも生きている。昨夜から急な悪化もない」

「そっか」


 言葉にすると、それだけだった。肩の奥に残っていた力が、少し抜けた。


 昨日、暗闇の中にいた三人。来るなと言った男。脚を負傷した調査員。目を閉じたまま運ばれた一人。


 今も生きている。


「遺跡は?」


 クラリスが尋ねる。


「新発見区画への進入を止めた。隔壁の外に監視を置き、閉鎖側の反応を記録している。お前たちが見た黒い回路も、防衛機構も、今は誰にも触らせていない」

「調査は続けますの?」

「救出と安全確認の記録を整理してからだ。次に入る者へ、同じことを繰り返させる気はない」


 カルラは紙束を作業台の端へ置いた。


「昨日の任務については、また正式に聞く。今は傘次郎だ」

「俺は後でいい」


 傘次郎が言った。


「お前の都合は聞いていない」

「横暴だぞ」

「狂った連中に今すぐ分解されるのと、私の管理下で範囲を決めて調べられるのと、好きな方を選べ」

「こっちでいい」

「素直ですわね」

「うるせえ」


 カルラはサラへ視線を移した。


「重さは?」


 サラは傘次郎を両手で持ち直した。


「昨日よりは、少しまし」

「普段と比べてどうだ?」

「まだ重い気がする」

「気がする?」

「ずっと持ってたから、腕が疲れてるだけかもしれない」

「分からないなら、それでいい」


 カルラはエパールを見る。


「外から分かる範囲だけ確認しろ。吸った魔素を吐かせようとするな。新しく流し込むのもなしだ」

「はい」

「内部に手を出すな」

「はい」

「面白くてもだ」

「……はい」

「間がありましたわ」

「我慢します」

「我慢で済ませず、しないでくださいまし」


 エパールは手帳へ一行書き足した。カルラが作業台の反対側へ立つ。


「始めろ」


 誰も動かなかった。エパールはサラを見ている。サラは作業台を見ている。傘次郎は、サラの手の中で黙っている。


「どうしました?」


 エパールが尋ねた。


「どう置けばいい?」

「サラさんの手で、台の中央に横向きに置いてください。私には渡さなくていいです」

「持ったままじゃ駄目?」

「大まかな状態なら見られます。でも、正確な歪みは分かりません」

「何で?」

「サラさんの手で支えると、骨と柄の位置が少し変わるからです。立てた状態だと重さのかかり方も違います」


 エパールは木製の台を指で示した。


「ここへ置けば、サラさんの力も、私の力もかかっていない状態を見られます」

「台の方が、私よりちゃんと持てるってこと?」

「測るあいだは、はい」


 エパールは少し考えた。


「大事にできるかは、別です。そこは、私にも台にも決められません」

「妙なところで正直だな」


 傘次郎が言った。


「嘘をつかないのも、手帳に書いてあります」

「手帳がないと駄目なのか、お前」

「忘れないためにあるんです」


 サラは作業台へ半歩近づいた。傘次郎の石突が、白い布の上まで来る。そこで止まった。


 昨日は、エパールへ渡せた。意識のない調査員を運ぶには、両手が必要だった。

 あのときは、選べることが少なかった。人を置いていくか。傘次郎を預けるか。考える前から、答えは決まっていた。


 今は違う。傘次郎を握ったまま、部屋を出ることもできる。今日でなくてもいい。

 誰も怪我をしない。誰も暗闇に残されない。手を離さなくても、困る人はいない。だから、離す理由を、自分で決めなければならなかった。


「昨日は渡せましたわ」


 クラリスが言った。


「うん」

「なら、今日もできる、とは言いません」


 サラはクラリスを見る。


「言わないの?」

「昨日は人を運ぶためでした。今日は、サラがこれからどうするかを決めるためですもの」


 クラリスは、膝の上の右手を左手で包んだ。


「同じではありませんわ」

「じゃあ、できなくてもいい?」

「ええ」


 クラリスはすぐに答えた。


「ただ、手から離すことと、失うことは違いますわ」


 サラの指に力が入った。


「クラリスが、それ言うの」

「私が言うからです」


 クラリスは目を逸らさなかった。


「私は、何も言わずに離れました。どこへ行くのかも、いつ帰るのかも言わなかった。だから、サラに失ったと思わせた」


 整備室の外から、朝の鐘が聞こえた。一度。少し遅れて、もう一度。


「今は、同じ部屋にいます」


 クラリスが続ける。


「どこへ置くのかも分かっています。誰が触るのかも、何をするのかも決めました。やめたければ、やめられます」

「帰ってくる?」

「傘次郎が?」

「うん」

「この部屋から出しません。終われば、サラが自分で持ち上げればいい」


 エパールが言った。


「私から渡す形にもしません」

「何で?」

「サラさんが置いて、サラさんが持って帰る方がいいと思います」


 サラは傘次郎を見る。黒い布。古い柄。

 レクシオが最後に押し返したもの。イーリスが置いていったもの。昨日、エパールへ預けても戻ってきたもの。


「傘次郎は?」

「嫌だ」

「やっぱり?」

「作業台なんぞ、好きな奴がいるか」

「でも、痛いところがあるかもしれない」

「今は痛くねえ」

「昨日、いっぱい吸った」

「腹いっぱいになっただけだ」

「それが平気か、分からないでしょ」

「お前らに分かるのかよ」

「分からないから、見るんだよ」


 傘次郎は黙った。エパールも、クラリスも、カルラも待っている。誰もサラの手から傘を取ろうとはしない。


「触る前に、言ってもらう」


 サラが言った。


「はい」

「開くなら、私が留め具を外す」

「はい」

「少しでも変だったら、止める」

「はい」

「傘次郎が嫌だって言ったら?」

「何が嫌なのか確認して、その作業は止めます」

「全部嫌だ」

「全部では分かりません」


 エパールが困った顔をした。


「触る、開く、測る、見る。どれが嫌か言ってください」

「お前に見られるのが嫌だ」

「それだと、私は何もできません」

「じゃあ帰れ」

「ここ、私の作業室です」

「借りてるだけだろ」

「そうですけど」


 サラは少し笑った。笑った分だけ、指の力が抜けた。


「置くよ」

「勝手にしろ」

「嫌なら、ちゃんと言って」

「お前が決めたなら、さっさとしろ」


 サラは傘次郎を持ち上げた。石突を作業台の奥へ向ける。柄を支えたまま、白い布の上へゆっくり下ろす。

 木製の台が、傘次郎の重さを受け止めた。まだ手は離していない。


 親指。人差し指。中指。一本ずつ開く。最後まで柄に触れていた小指を離した。手のひらから、重さが消えた。


 傘次郎は作業台の上にある。誰の手の中にもない。白い布の上で、少しも動かない。


「傘次郎」

「何だ」

「いる?」

「目の前にいるだろ」

「うん」

「置いた途端に消える傘があるか」

「喋る傘はいた」

「他人みたいに言うな」


 サラは手を引いた。胸の前まで戻す。指を閉じる。中には何もない。それでも、傘次郎の声は聞こえた。


「始めていいですか?」


 エパールが尋ねる。手にはまだ何も持っていない。


「いいよ」

「傘次郎さんは?」

「さんをつけんでいい」

「始めていいですか、傘次郎」

「触る前に言え」

「分かりました」


 エパールは最初に、柔らかな革手袋をつけた。


「台の上で位置を整えます。布と柄に、両手で触れます」

「うん」

「勝手にしろ」


 エパールは傘次郎を指二、三本分だけ動かし、木製の支えの中央へ合わせた。そこで、一度手を離す。


「次に、閉じた状態の長さと、柄の傾きを測ります。金属の定規は触れさせません」


 細い糸の先に、小さな重りがついた道具を取り出した。糸を垂らし、柄と石突の位置を見る。

 別の木製の物差しを台の脇に当てる。傘次郎には触れない。


 エパールの目が、少しずつ作業の中へ沈んでいく。呼吸が静かになる。昨日、遺跡で黒い回路を見ていたときと同じ目だった。

 ただし、今は手帳を忘れていない。一つ見るたびに、サラを見る。


「柄は、外から見た範囲では折れていません。接合部の傾きが、ごくわずかにあります」

「昨日ので?」

「分かりません。試験のあとにも負荷はありました。昨日増えたと断定できる印はありません」

「悪くなってない?」

「今の測定だけでは、それも断定できません。前は手に持った状態で見ました。条件が違います」

「分からないこと、多いね」

「はい。でも、今度から同じ条件で比べられます」


 エパールは紙に数値を書いた。


「今日の形を残せば、次に変わったかどうかは分かります」


 サラは作業台の上の傘次郎を見る。調べても、すぐに答えが出るわけではない。それでも、分からないまま置くだけとは少し違う。


「次に開きます」


 エパールが言った。サラの手が動きかけた。


「私が留め具を外すよ」

「お願いします」


 エパールは作業台から離れた。サラが一歩近づき、柄に触れる。握り込まず、留め具に指をかけた。


「開くよ」

「壊すなよ」

「私が何回開いたと思ってるの」

「昨日は硬い敵に叩きつけてただろ」

「あれは必要だった」

「必要なら何してもいいと思うな」

「思ってない」


 留め具を外す。エパールが用意した支えに沿わせ、傘次郎をゆっくり開いた。古びた黒い布が、作業台の上に円を作る。

 いつもはサラの頭上や正面にある傘が、横たわっている。自分の手で開いているときより、大きく見えた。骨の一本一本も、中央の接合部も、すべて見える。


「何じろじろ見てんだ」

「見えるから」

「昨日も聞いたぞ、それ」

「今のは私」

「同じこと言うな」


 エパールが作業台へ戻る。


「骨には触れず、まず高さを見ます」


 薄い木片を何枚か取り出し、作業台と骨の間に差し入れる。触れる直前で止める。


「ここまで近づけます」

「どうぞ」


 骨と木片の間に残る隙間を、一か所ずつ比べていく。エパールは途中で、何度も反対側へ回った。サラも同じように動いた。

 エパールが作業台の向かい側へ回ると、傘次郎が少し遠くなる。だから、自分も回る。


 エパールは何も言わなかった。クラリスも、カルラも言わない。同じ部屋にいる。視界から消えていない。今は、それでよかった。


「前に見た骨です」


 エパールが一本を指した。


「試験のとき、内側から風を受けて、ここへ負荷が集まりました。やはり、ほかより少しだけ上へ浮いています」

「折れそう?」

「今すぐではありません。ただ、このまま同じ方向から強い力を受けると、接合部の方が先に傷むかもしれません」

「骨じゃなくて?」

「はい。硬い部分だけを強くすると、次に弱いところへ力が移ります」


 エパールは別の骨を指した。


「昨日、本体へ叩き込んだときは、こちら側が当たりましたか?」


 サラは思い出す。回転する黒い外殻。割れた側面。赤い炎をまとった傘次郎。


「たぶん、こっち」

「たぶん?」

「必死だったから、全部は見てない」

「なら、たぶんと記録します」


 エパールはその骨の先へ観察鏡を近づけた。


「細かな擦れはあります。でも、新しいものかは分かりません。骨の並びに、大きな崩れはありません」

「布は?」

「破れていません」


 黒い布の表面を、光の角度を変えて見る。


「外側は古いままです。奥の強さが不自然に残っているのも、前と同じです」

「それは、いいこと?」

「今のところ、壊れていないという意味では、はい」


 エパールは言葉を選んだ。


「なぜ残っているか分からないので、ずっと大丈夫だという意味にはできません」

「そっか」


 エパールの袖が、作業台の端に置いていた糸に触れた。先についていた小さな重りが転がる。

 サラは反射的に手を出した。床へ落ちる前に、手のひらで受け止める。


「すみません」


 エパールが言った。


「ううん」


 小さな金属の重り。サラの手の中に収まっている。

 いつものように、傘次郎を握っていない方の手を伸ばしたわけではない。両方とも空いていた。その片方で、落ちるものを拾えた。

 サラは重りをエパールへ返した。


「ありがとうございます」

「次から、端に置かないで」

「書きます」

「そこまで書くの?」

「また落とすよりいいです」


 エパールが手帳へ書き足す。


「本当に何でも書きますのね」


 クラリスが椅子から身を乗り出した。膝から離れた右手が、わずかに震える。サラはそちらを見た。


「まだ、治ってない」

「昨日よりは戻っていますわ」

「でも、震えてる」

「ええ」


 クラリスは隠さなかった。


「今日は術式を使いません。物を持つときも、軽いものだけにします」

「なら、座ってて」

「座っていますわ」

「身を乗り出さない」

「細かいですわね」

「クラリスに言われたくない」

「それもそうです」


 クラリスは背を椅子に預け直し、右手をもう一度膝に置いた。


 昨日、クラリスは岩を作った。何もない場所へ、エパールを守る壁を作った。そのあとで、手が震えた。呼吸が浅くなった。声もかすれた。


 サラは傘次郎に吸い込まれた魔素を使った。赤い炎を出した。髪が紅くなった。本体へ傘次郎を叩き込んだ。

 それでも、サラの手は震えていない。疲れてはいる。腕も重い。けれど、クラリスと同じではなかった。


 作業台の上に、傘次郎がある。昨日より重くなった傘次郎。

 自分の空いた手。クラリスの震える右手。三つを順番に見た。


「何ですの?」


 クラリスが尋ねた。


「分かんない」

「何が?」

「それも、分かんない」


 問いかけようとすると、形が崩れた。傘次郎が何を喰ったのか。自分が何を使ったのか。クラリスが何を減らしたのか。

 同じ魔法という言葉の中にあるはずなのに、どこかが違う。まだ、うまく言えなかった。


「分からないなら、今は置いておけ」


 カルラが言った。


「だが、忘れないようにはしておけ。答えだと思うものを、先に拾うな」

「うん」


 古い森でも言われたことだった。欲しい答えを拾わない。分からないものを、分かったことにしない。


 サラはもう一度、傘次郎を見る。作業台に置いただけで、何かが分かると思っていたわけではない。それでも、置いたから見えたものはあった。


「次に、魔素流の非接触式精密測定をします」


 エパールが測定札を取り出した。


「傘次郎には触れません。外側から近づけるだけです。魔素は流しません」

「いいよ」


 測定札を、開いた傘の縁へ少しずつ近づける。淡い黄色の線が浮かんだ。

 エパールは一か所で止めず、布の外側、骨の先、柄の近くへ順番に動かした。線の色は、わずかに濃くなったり、薄くなったりする。


「どう?」

「外へ大きく漏れ出している反応はありません」

「中は?」

「分かりません」


 エパールは即座に答えた。


「外から見ているだけです。吸った魔素がどこにあるのか、どうなっているのか、この札では見えません」

「腹の中だ」


 傘次郎が言った。


「腹ってどこ?」

「知らん」

「自分で言ったのに」

「言いやすかっただけだ」

「記録しますか?」


 エパールがカルラへ尋ねた。


「『腹』を部位として書くな。本人の表現として残せ」

「はい」

「俺を本人って言うな」

「では、傘次郎の表現として」

「それも気に食わん」

「注文の多い傘ですわね」

「一本扱いした奴は黙ってろ」


 測定札の線が、ゆっくり淡い黄色へ戻っていく。エパールは何度か位置を変えたあと、傘から離した。


「今すぐ危険だと判断できる反応は、外からは見えません。ただ、普段の状態を作業台で測っていないので、いつもとの比較はできません」

「また見ないと分からない?」

「はい」

「また、置くの?」


 言ってから、サラは作業台を見た。傘次郎は、まだそこにいる。誰も持ち去っていない。

 開かれて、見られて、測られて、文句を言っている。


「次も、同じ部屋でできます」


 エパールが言った。


「今日の記録と比べるためなら、同じ台を使います」

「そっか」


 嫌ではあった。次も平気だとは、まだ言えない。けれど、絶対に無理だとも思わなかった。


「閉じます」


 エパールが言う。


「サラさんが閉じますか?」

「うん」


 サラは骨を傷めないよう、傘次郎をゆっくり閉じた。黒い布をまとめ、留め具を戻す。作業台の中央に、もう一度横たえる。


「終わり?」

「測定は終わりです」


 エパールは書き込んだ紙を見直した。


「骨の一本に、前から見えていた歪みがあります。柄と接合部にも、ごく小さな傾きがあります。昨日の戦闘で急に壊れかけたと判断できる変化は、外からは見つかりませんでした」


 サラは息を吐いた。


「でも、同じ使い方を続けて大丈夫とは言えません」

「うん」

「特に、硬いものへ叩きつける使い方は」

「必要だった」

「分かっています」

「次も必要になったら?」

「壊れにくくする方法を考えます。でも、何にでも叩きつけていい道具にはできません」

「俺は武器じゃねえぞ」

「盾でも、杖でも、魔道具でも、喋る何かでもあります」

「最後が雑だ」

「分類はまだしないよう言われていますから」


 エパールは作業台の脇に置いた材料を何本か取り上げた。薄い鉄。細く延ばした銅。黒い光沢のある合金。

 どれも傘次郎へは近づけない。


「普通の補強なら、この中から選べます。でも、傘次郎には使わない方がいいです」

「どうして?」

「硬くしすぎます」


 エパールは薄い鉄を少し曲げた。


「骨だけが強くなっても、力は消えません。接合部か、柄か、布の奥へ移ります」

「前に言ってた、逃がすところがいるって話?」

「はい。それに、傘次郎は魔素を吸います。魔素流を邪魔する材料を、今の情報だけで当てたくありません」

「何ならいいの?」

「候補はあります」


 エパールの声が少し小さくなった。カルラが眉を寄せる。


「どこにある」

「フォルスシタデルから持ってきた分は、細い試験片だけです。傘一本を補強できる量はありません」

「だから、どこだ」


 エパールは手帳ではなく、作業台の上の傘次郎を見た。


「熱と衝撃を受けても、硬さだけで耐えず、魔素を流しながら形を戻す鉱石があります。加工は難しいですけど、傘次郎の接合部に力の逃げ道を作るなら、たぶん一番近いです」

「たぶん?」


 サラが聞いた。


「まだ材料を当てていません。だから、たぶんです」

「どこで採れるの?」


 エパールはカルラを見た。カルラはすぐには答えなかった。窓から入った風が、作業台の白い布をわずかに揺らす。


「永久機関封印区域」


 やがて、カルラが言った。


「解けぬ雪山だ」


 永久機関封印区域。母が帰らなくなった任務地も、そう呼ばれていた。けれど、解けぬ雪山ではない。それだけは、以前カルラから聞かされていた。


 解けぬ雪山のことなら、サラも少しは知っていた。フォルシュタットの外壁越しに見える、夏にも白い山。

 ただ雪が解けないから、そう呼ばれているのではない。封じられたものが、今も山の奥で冷気を生み続けている。

 その程度の話だけは、学院で聞いたことがあった。


「そこへ行けば、採れる?」

「管理坑道の採掘許可が下りればな」


 カルラが答えた。


「行く」

「まだ行かせるとは言っていない」

「でも、傘次郎に必要なんでしょ」

「必要かどうかを決めるのが先だ。必要だとしても、封印区域へ入る人間、経路、採掘量、戻る条件を決める」

「また、戻る条件」

「当然だ」


 カルラは作業台を指先で叩いた。


「手から離しても失わないために、今これをしたんだろう」


 サラは傘次郎へ手を伸ばしかけた。途中で止める。

 エパールの紙には、まだ最後の一行が残っていた。書き終わるのを待つ。エパールが日付と名前を書き、測定具を置いた。


「終わりました」


 サラは作業台から傘次郎を持ち上げ、柄を握る。慣れた重さが、手のひらへ戻る。まだ普段より少し重い気がした。でも、声は同じだった。


「待てたじゃねえか」


 傘次郎が言った。


「置いただけ」

「置いて、待った」

「傘次郎も」

「俺は置かれてたんだよ」

「でも、待った」

「うるせえ」


 サラは傘次郎を抱え直した。

 次も同じようにできるかは分からない。解けぬ雪山がどんな場所なのかも、そこにある鉱石が本当に傘次郎に合うのかも分からない。

 分からないことは、まだいくつもある。


 それでも、作業台の上には、傘次郎が置かれていた跡が残っていた。白い布の中央に、古い布から落ちた小さな埃が一つある。サラはそれを見た。

 払わずに、傘次郎を持ったまま一歩下がった。今度は、作業台との間に一歩分の距離があった。その距離を越えて、傘次郎の声が届く。


「で、雪山ってのは何なんだ」

「お前も知らないのか」


 カルラが言った。


「知らん」

「なら、ちょうどいい」


 カルラは窓の外へ目を向けた。窓の向こう、屋根と鐘楼の先に白い峰が見えている。


「分からないものを見に行く準備から始めるぞ」

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