第18話 解けぬ雪山
傘次郎の補強を試す価値があるか。誰が入り、どの道を使い、どれだけ採り、どんな異常が起きたら戻るのか。カルラは、その日のうちに一つずつ決め、管理坑道の採掘許可を取った。
遺跡から戻って、二度目の朝。最後に残ったのは、サラの防寒具だった。
「動きにくい」
サラは両腕を少し広げた。厚い外套。その下にも、毛織りの上着が二枚。首には長い襟巻きが巻かれ、手袋は手首の上まで覆っている。足元も、いつもの革靴ではなかった。底の厚い長靴に、雪の上で滑らないための金具がついている。
寒くはない。まだ学院の車寄せにいるのだから、寒いはずがない。むしろ暑かった。
「傘次郎を持てているなら問題ない」
カルラが言った。
「持てるけど」
「歩けるか」
「歩ける」
「呼吸は」
「できる」
「なら行ける」
「基準が低い」
「封印区域へ着けば、感謝することになる」
カルラは自分の外套の留め具を確かめた。サラほど厚着には見えない。白い髪も、いつもどおり後ろでまとめている。
「師匠は薄い」
「必要な分だけ着ている」
「私も必要な分だけでいい」
「私が決めた量が必要な量だ」
「横暴」
「その言葉、最近よく聞くな」
「俺からだ」
サラの腕に抱えられた傘次郎が言った。
「お前は黙っていろ」
「何で俺まで連れていかれるんだ」
「お前の補強材を採りに行くからだ」
「頼んでねえ」
「壊れてからでは遅い」
「壊れねえ」
「根拠は」
「気合いだ」
「却下する」
カルラは迷わなかった。傘次郎が、サラの腕の中で小さく軋んだような気がした。布が鳴っただけかもしれない。
「似合っていますよ」
エパールが言った。サラより少し離れたところで、大きな工具鞄の留め具を確認している。
エパールも厚い外套を着ていた。ただし、袖や胸元には細い革帯がいくつもあり、測定札や小さな工具が動かないよう留められている。背中には工具鞄。腰には採掘用の小さな槌と、布で包んだ金属の楔。どう見ても、サラより動きにくそうだった。
「エパールさんの方が重くない?」
「重いです」
「減らさないの?」
「全部、持ち込み許可が出たものです」
「必要かどうかを聞かれていますのよ」
車寄せの柱の横から、クラリスが言った。旅装ではない。学院の外套を羽織り、片腕に紙束を抱えている。
「今朝、もう一度減らしました」
エパールが答える。
「何を置いてきましたの?」
「予備の観察鏡を二つ」
「同じものを三つ持っていくつもりでしたの?」
「角度が違います」
「一つで我慢なさい」
「もう一つ減らすんですか?」
「顔を見れば、まだ余分なものがありますわ」
エパールは工具鞄を背中から下ろし、抱えるようにした。
「全部、使うかもしれません」
「使うかもしれないものを全部持ったら、学院ごと運ぶことになりますわよ」
「学院には大型器具があるので、さすがに無理です」
「そういう意味ではありません……」
クラリスが息を吐いた。右手の震えは、もうほとんど見えなかった。遺跡から戻ってから、クラリスは大きな魔法を使っていない。昨日、サラが何度目かの確認をしたときには、細い筆を右手だけで持ち、遺跡の見取り図に線を引いていた。
「クラリスは、本当に来ないの?」
サラが尋ねた。
「ええ」
クラリスは抱えていた紙束を少し持ち上げた。
「今日は、救出任務の正式な報告がありますもの。隔壁の内側を見た者として、わたくしが残る必要があります」
「明日でもいいんじゃない?」
「明日は、今日の報告をもとに次の調査方針を決めます」
「それも明後日に」
「際限がありませんわね」
クラリスは少し笑った。
「それに、全員で街を空ける必要もありません。雪山はカルラ様とエパールがいれば足ります」
「私もいるけど」
「もちろん」
「俺もだ」
「あなたは採掘の理由です」
「荷物みたいに言うな」
「大事な目的物ですわ」
「もっと悪い」
サラは傘次郎を抱え直した。遺跡の出口で、エパールの手から返してもらったときほどは重くない。昨日の夜には、いつもの重さに戻ったように感じた。
何が減ったのか。吸った魔素がどこへ行ったのか。傘次郎に聞いても、知らないとしか答えなかった。
「夕方までには戻るから」
サラが言った。
「時間を約束してはいけません」
クラリスはすぐに返した。
「戻る条件を守ると約束なさい」
「師匠と同じこと言ってる」
「教わりましたから」
「誰に?」
「遺跡で、サラに」
サラは少し考えた。
「何か言った?」
「言葉ではなく」
「分かりにくい」
「帰ってから説明しますわ」
クラリスが言った。サラは、その言葉を聞いた。胸の奥が、ほんの少しだけ動く。それでも、前のように続きを急かさなかった。
「分かった」
「何がですの?」
「帰ってから聞く」
クラリスは、一度だけ目を見開いた。
「ええ」
それから、いつものように少し顎を上げた。
「きちんと帰ってきてください」
「うん」
「傘次郎も」
「俺はサラに持たれてる」
「では、落とされないようになさい」
「こいつに言え」
「落とさない」
「雪の上で武器にするなよ」
「必要になったら」
「する気じゃねえか」
馬車の御者が、出発の合図を待っている。カルラが馬車の扉を開けた。
「最後に確認する」
声が変わる。師匠ではなく、今日の任務を預かる大魔道士の声だった。
「許可が出たのは、解けぬ雪山の西管理坑道、第二採掘支道まで。目的は補強材候補の採取と、傘次郎との適合確認。採掘量は許可証に記載された範囲を越えない」
エパールが工具鞄の外側から、折り畳んだ紙を取り出した。
「持っています」
「管理標から外れない。永久機関の主流路に近づかない。許可されていない魔法は使わない。監視札が一つでも警告を出したら、原因を調べる前に作業を止める」
「はい」
サラとエパールが答えた。
「傘次郎」
「何だ」
「勝手に吸うな」
「俺が何でも喰うみたいに言うな」
「喰ったと言ったのはお前だ」
「流れてきたらだ」
「流れてきても、まず言え」
「分かったよ」
「返事が軽い」
「はいはい」
「師匠」
サラが言った。
「それ以上は良くならない」
「お前が責任を持って止めろ」
「うん」
カルラは三人の顔を順番に見た。
「では、出る」
サラは馬車に乗る前に振り返った。クラリスは車寄せに立っている。紙束を片腕に抱え、空いた手を上げた。
「いってらっしゃい、サラ」
「いってきます」
今度は、すぐに言えた。
◇
解けぬ雪山は、フォルシュタットのどこからでも見えた。街を囲む石壁の向こう。晴れた日には、屋根と鐘楼のさらに先に、白い峰が浮かんでいる。
学院を出てから、まだそれほど時間は経っていない。馬車が外壁を抜け、畑の間を進むうちに、白い斜面は窓いっぱいまで迫っていた。
「近い」
サラが言った。
「フォルシュタットは、あの山から水を引ける場所に造られた」
向かいに座ったカルラが答える。畑の間を通る見通しのよい道が終わり、馬車は石を敷いた山道へ入った。
道の左側には、幅の広い水路が並んでいた。山から流れてくる水は澄んでいる。ところどころに金属の格子があり、その脇には太い管が通っていた。管の表面は白く曇り、朝の光を受けて濡れている。
「あれ、何?」
「雪解け水を街へ送る水路だ」
カルラが答えた。
「雪山から?」
「そうだ」
「解けないんじゃないの?」
「山のすべてが凍りついているわけではない。外縁の雪と氷を管理区画で少しずつ溶かしている」
カルラは太い管を指した。
「あちらは冷気を運ぶ管だ。食料庫や薬品庫、一部の工房で使う」
「封印区域のものを、街で使ってるの?」
「外へ出してよい範囲だけだ」
エパールが窓へ顔を寄せた。
「フォルスシタデルにも、永久機関と切り離せない暮らしがあります。ただ、あちらでは永久機関の力そのものを設備へ引いているわけではありません」
「じゃあ、何を使ってるの?」
「沖に、魔物が湧き続ける海域があります。そこを狩り場として管理して、倒した魔物の魔石や肉を利用しています」
「危なくない?」
「危険です」
エパールは迷わず答えた。
「でも、狩らなくても魔物は湧き続けます。放っておくこともできません」
「永久機関を使ってるんじゃなくて、出てくる魔物を狩ってる?」
「はい。危険を抑えることが、そのまま資源を得ることにもなっています」
サラは、もう一度窓の外の太い管を見た。
「でも、この山も危ないなら、使わなければいいんじゃない?」
「使わなければ、水路の水が減る」
カルラが言った。
「保冷庫も止まる。薬が傷み、食料が腐り、一部の工房は熱を逃がせなくなる」
「だけど、永久機関は封じるものなんでしょ」
「封じることと、存在しないことにするのは違う」
カルラは窓の外へ目を向けた。
「フォルシュタットは、あの山を恐れている。同時に、あの山から水と冷気を受け取っている。どちらか一方だけではない」
「嫌な関係だな」
傘次郎が言った。
「人間同士でも、似たようなものはある」
「俺を見るな」
「見ていない」
「見ただろ」
「サラが見た」
サラは傘次郎から顔を上げた。
「見たけど」
「何でだ」
「似てるのかなって」
「どこがだ」
「怖いけど、いないと困る」
「誰が怖いってんだ」
「エパールさんが来たとき、ずっと騒いでた」
「あれは別だ」
「今も怖いですか?」
エパールが尋ねた。
「近づくな」
「聞いただけです」
「顔が近い」
エパールは窓から離れ、元の席へ戻った。
「まだ嫌われています」
「当然だ」
「でも、作業台には置いてもらえました」
「置いたのはサラだ」
「持たせてももらいました」
「忘れろ」
「記録してあります」
「消せ」
「任務記録なので消せません」
「何の任務だ」
馬車が石を踏み、車体が大きく揺れた。サラは傘次郎を抱えたまま、窓の外を見る。
雪は斜面を下り、山の麓まで途切れず積もっている。同じ高さにある周囲の丘には、雪の欠片も見えなかった。高いから残っている雪ではない。山の奥から溢れ続ける冷気が、麓まで冬に変えていた。風に巻き上げられた雪が、白い煙のように斜面を流れていた。
「師匠」
「何だ」
「永久機関って、何?」
「学院で習わなかったか」
「止まらない魔道具」
「雑だな」
「ずっと動く。ずっと何かを作る。壊すと危ない」
「間違いではない」
「でも、何で作ったの?」
カルラはすぐには答えなかった。馬車の車輪が、一定の間隔で石の継ぎ目を踏む。音が四度続いたあと、カルラが口を開いた。
「先に言っておく。これから話すのは伝承だ」
「伝承?」
「記録ではない。どこまでが事実で、どこからが後の者の解釈か分からない」
「それでも、話すの?」
「聞かせるために言った」
「じゃあ聞く」
カルラは少しだけ眉を寄せた。
「大昔、ある都市の支配者が、戦争に勝つための力を求めた」
サラは黙って聞いた。
「魔道具を作り、魔法を調べ、足りなければ人を使った。敵だけではない。自分の街の者もだ」
「人を、どう使ったの?」
「知らなくていい形まで想像するな」
カルラの声は平らだった。
「分かっているのは、犠牲が出ると知りながら実験を続けたこと。さらに多くの魔素を得るため、戦争そのものを広げたと伝えられていることだ」
エパールは工具鞄の留め具に手を置いている。いつものように話に割り込まない。
「支配者は、やがて永久機関を完成させた。それは、何も与えなくても力を生み、都市を永遠に動かせる機関だったという」
「本当に?」
「だから、伝承だと言った」
「うん」
「永久機関が完成したとき、それまで犠牲になった者たちの魔素が支配者に流れ込んだ。支配者は自分を保てなくなり、魔王になった」
馬車の中が静かになった。外の水路の音だけが、窓の隙間から入ってくる。
「魔王」
サラが繰り返す。
「魔物の王?」
「同じものかは分からない。伝承の中で、そう呼ばれているだけだ」
「この山にもいるの?」
「伝承では、永久機関と魔王は切り離せない」
「いるってこと?」
「今の答えから、欲しい方だけを拾うな」
カルラがサラを見る。
「解けぬ雪山の中に、何がどう封じられているか。私たちが管理記録で確認できることと、伝承が語ることは同じではない」
「分からない?」
「分かっている範囲がある。分からない範囲もある」
サラは、傘次郎の柄に指を添えた。
「その魔王を、大魔道士が封じたの?」
「のちに大魔道士と呼ばれる者たちが、戦争を終わらせ、魔王を封じ、永久機関の流れを制御した。そう伝えられている」
「一人で?」
「何人もいたという話も、一人だったという話もある」
「全然違う」
「伝承とはそういうものだ」
「不便」
「分かった気になるよりはいい」
カルラは続けた。
「封じた者たちは、次に管理する者を育てた。その者たちもまた後任を育てた。それが大魔道士の始まりであり、魔道士協会の始まりでもあるとされる」
「大魔道士って、魔王を見張る人だったの?」
「始まりが本当にそうだったかは分からない。今の大魔道士が全員、永久機関を管理しているわけでもない」
「師匠は?」
「管理に関わる資格と責任はある」
「クラリスも?」
「大魔道士になった以上、無関係ではいられない」
サラは窓の外の白い山を見た。クラリスは今日、学院に残っている。けれど、山と無関係ではない。いつか、自分も大魔道士になれば。
「サラ」
カルラが呼んだ。
「何?」
「先へ行きすぎるな」
「まだ何も言ってない」
「顔に出ている」
「何が?」
「自分が大魔道士になったあとのことだ」
「何で分かるの」
「何年見ていると思っている」
サラは襟巻きに口元を埋めた。少し暑かった。
「お母さんが行ったところも、こういう場所?」
今度は、カルラの返事が遅れた。馬車の外で、水路が二つに分かれる。一方はフォルシュタットへ。もう一方は、山の麓に並ぶ建物へ向かっていた。
「永久機関封印区域という点では同じだ」
カルラが言った。
「だが、解けぬ雪山ではない。地形も、管理しているものも違う」
「師匠は、そこへ行ったことある?」
「ある」
「お母さんと?」
「今日の任務で答える話ではない」
サラは、すぐには頷けなかった。聞きたい。今、ここで。馬車を止めてでも、続きを聞きたい。
でも、今日は解けぬ雪山へ向かっている。傘次郎の補強材を採り、調べて、戻るために。
「帰ってから?」
サラが聞いた。
「必要なときに話す」
「それ、帰ってからより遅い」
「そうかもしれない」
「忘れないで」
「忘れてはいない」
カルラは、それ以上何も言わなかった。サラも、今は聞かなかった。傘次郎だけが、腕の中で黙っていた。
◇
山の麓には、街がもう一つあるように見えた。石造りの建物が斜面に沿って並んでいる。ただし、家ではなかった。
冷気を運ぶ管の中継所。雪解け水を調整する水門。魔素流を測る監視塔。資材を保管する倉庫。
建物と建物の間には、何本もの管と水路が走っている。人の姿もあった。厚い外套を着た管理員が、管の表面に測定具を当てている。荷車が、氷塊を倉庫へ運んでいた。
「もっと、何もない場所だと思ってた」
サラが言った。
「何もなければ管理できない」
カルラは馬車を降りた。扉が開いた途端、冷たい空気が入ってくる。サラは襟巻きに顔を埋めた。
「寒い」
「感謝は」
「まだ」
「強情だな」
「師匠に言われたくない」
馬車を降りる。長靴の底が、凍った地面を踏んだ。金具が石に触れ、硬い音がする。
風は強くない。それでも、空気そのものが冷たかった。息を吐くと白くなる。吸い込むと、鼻の奥が痛い。
「外套、減らさなくてよかったです」
エパールが言った。
「減らすなと言った」
カルラが答える。
「サラさんの話です」
「エパールさんのは?」
「工具鞄が風を防いでくれます」
「そういう使い方なの?」
「違います」
西管理坑道の受付は、厚い石壁の建物の中にあった。入口には二重の扉がある。一枚目を閉めなければ、二枚目は開かない。中へ入ると、壁一面に細い針のついた計器が並んでいた。
赤。青。白。それぞれ違う位置で、針がわずかに震えている。
管理員がカルラの許可証を確認した。続いて携行品を照合する。
「カルラ・ヴァルトハイム。術式カード、二。消火用、遮断用」
「相違ない」
カルラは外套の内側から、薄い金属片のような術式カードを二枚だけ見せた。次に、エパールの工具目録を一つずつ照合する。
「観察鏡、一」
「はい」
「測定札、十二」
「はい」
「採掘用小槌、一。楔、三」
「はい」
「記録紙、二十」
「二十四です」
管理員が顔を上げた。
「目録は二十だ」
「自分用の手帳が四枚分くらい」
「手帳は冊子だろう」
「書く量で考えると」
「二十で記録しておく」
「はい」
管理員は最後にサラを見た。正確には、サラが抱えている傘次郎を見た。
「適合確認を行う魔道具は、これか」
「俺をこれって言うな」
管理員の手が止まった。エパールが小さく息を吸う。サラは傘次郎を抱え直した。カルラだけが動かなかった。
「事前通知にあったとおり、自発発話する」
管理員はカルラに尋ねた。
「そうだ」
「記録上の扱いは?」
「携行魔道具、一。名称、傘次郎」
「俺の意思は無視か」
「人員に加えたければ、自分で歩け」
「足がねえ」
「なら運ばれていろ」
管理員は一度だけ傘次郎を見たあと、書類に視線を戻した。
「発話あり」
「余計なこと書くな」
「必要な記録だ」
傘次郎が何か言い返そうとした。サラは柄を軽く叩いた。
「止まって」
「お前まで何だ」
「入れなくなる」
「俺の材料だろ」
「だから」
傘次郎は黙った。管理員から、細い革紐のついた札を三枚渡された。中央に透明な石が埋め込まれている。
「監視札だ。白なら正常。青くなれば作業停止。赤まで変わった場合は、その場の器具を放置して退避する」
「青でも戻る?」
サラが聞いた。
「青は、まず止まる。現地責任者の判断で退避だ」
管理員はカルラを見た。
「今回は青が出た時点で退避する、と許可証にある」
「そうだ」
カルラが答えた。
「原因確認は戻ってから行う」
「分かった」
サラは監視札を首に掛けた。透明な石は白く曇っている。エパールは自分の札を外套の一番外に出し、工具帯に固定した。
「中へ入ってから、札が服の下に入らないようにしてください」
「何で?」
「見えなくなるので」
「それだけ?」
「見えない警報は、ないのと同じです」
エパールはサラの札の位置も直した。触れる前に、一度「直します」と言った。遺跡へ入る前と同じだった。勝手には触らない。小さなことでも、先に言う。サラは、傘次郎を持つ手に力を入れずに待てた。
装備の確認が終わる。二重扉の奥に、暗い坑道が見えた。壁の岩肌は、白い氷に覆われている。その中央を、黒い管と石造りの通路がまっすぐ延びていた。
「入坑記録を開始する」
管理員が壁の札に触れた。三人の監視札が、一度だけ白く光る。
「西管理坑道。入坑者三名。術式カード二。適合確認対象、傘次郎一。測定器具は目録どおり。第二採掘支道まで」
「行くぞ」
カルラが先に入る。サラは、その背中を追った。
◇
坑道の中には、風がなかった。それでも寒い。壁の氷から冷たさが染み出し、外套の表面に積もってくるようだった。
サラは最初の百歩で、厚着に文句を言ったことを後悔した。口には出さなかった。
「感謝は」
前を歩くカルラが言った。
「何で分かったの」
「足音が素直になった」
「外套は、ちょうどいい」
「そうか」
「師匠には感謝してない」
「それでいい」
通路の片側には、太い黒い管が通っている。もう片側には、腰ほどの高さの水路があった。水は流れている。表面から白い湯気のようなものが上がっていた。温かいのではない。周囲が冷たすぎるため、わずかな温度差で霧になっていた。
一定の間隔で、壁に白い標が立っている。一。二。三。標を通るたび、監視札の石がごく弱く明滅した。
「何してるの?」
「坑道側の監視回路と、札の記録を合わせている」
エパールが続けた。
「誰がどこを通ったか。通ったときに流れが変わらなかったか。あとで確認できます」
「何もしてなくても?」
「人が入るだけで、空気の流れも温度も変わります。魔道具を持っていれば、魔素流も少し変わることがあります」
「傘次郎も?」
「はい」
「俺は何もしてねえぞ」
「何もしなくても、周囲に影響する魔道具はあります」
「決めつけるな」
「だから測ります」
エパールが胸元の測定札を見る。線は淡い黄色。異常は出ていない。
「今のところ、傘次郎の外側に大きな乱れはありません」
「今のところって言うな」
「これから変わらないとは言えないので」
「縁起でもねえ」
「嘘をつかないと決めています」
「手帳に書いてあるだけだろ」
「書いてあるから守れます」
「書かないと守れねえのか」
「忘れるよりいいです」
エパールは歩きながら、工具鞄の外側を一度押さえた。手帳があるか確かめたように見えた。
最初の分岐に差しかかる。正面の通路には、太い鎖が張られていた。鎖の向こうは、暗い。白い標ではなく、黒い標が立っている。カルラは鎖に近づかず、左の通路へ曲がった。
「向こうが永久機関?」
サラが聞いた。
「主流路に近づく管理路だ」
「見に行かないの?」
「今日の許可にない」
「少しだけ」
「許可にない」
「入口から」
「サラ」
「……分かった」
サラは鎖から目を離した。見えないものほど、見たくなる。遺跡でもそうだった。
暗い通路。閉じた隔壁。黒い回路。
けれど、あのときの目的は三人を迎えに行くことだった。今日の目的は、傘次郎の補強材を採ること。主流路を見ることではない。
「止まらなかったな」
傘次郎が言った。
「止まったけど」
「足は止めてねえ」
「師匠が怖いから」
「正しい」
カルラが前から答えた。
「聞こえてたの?」
「坑道で話せば聞こえる」
次の白い標を過ぎる。通路が少し下り始めた。足元の石の下から、低い振動が伝わってくる。音というほど大きくない。長靴の底を通り、足の骨にだけ触れるような震えだった。
「何か動いてる」
サラが言った。
「水門と外縁の調整機構だ」
カルラは歩調を変えない。
「永久機関そのものではない?」
「ここから判別できると思うな」
「師匠は分かる?」
「記録と計器があればな。足の裏だけでは分からない」
「大魔道士でも?」
「大魔道士を何だと思っている」
「分かる人」
「分からないものを分からないと判断できる人だ」
エパールが何度も頷いた。
「今の、手帳に書いていいですか?」
「歩きながら書くな」
「戻ってから書きます」
その先で、通路はもう一度分かれた。白い札に、二本の斜線が刻まれている。第二採掘支道。
カルラが許可証を壁の溝に差し込んだ。石の扉の奥で、何かが外れる。ゆっくりと横へ開いた。
「ここから先は、採掘用の支道だ」
カルラが言う。
「主流路とは遮断されているが、完全ではない。魔法は許可した場所だけで使う」
「はい」
「返事だけはいいな」
「ちゃんと守る」
「ならいい」
支道は、管理坑道より狭かった。三人が横に並ぶことはできない。先頭をカルラ。中央をサラ。最後をエパールが歩く。
壁には青白い氷が張り、その奥に灰色の岩が見えている。ところどころ、細い銀色の筋が走っていた。
エパールが立ち止まりかける。けれど、すぐに歩き直した。
「今、止まりたかった?」
サラが聞いた。
「はい」
「何があったの?」
「銀色の筋です。探している鉱石と似ています」
「じゃあ見ればいいのに」
「採掘地点は先です。ここは許可範囲でも、採ってよい場所ではありません」
「成長したな」
傘次郎が言った。
「前から止まれます」
「古い森で戻りかけてただろ」
「戻りかけて、戻りませんでした」
「サラに引っ張られたからだ」
「それも含めて止まりました」
エパールの声には、少しだけ誇らしさがあった。
支道の終わりには、小さな空間があった。壁の一部だけ、氷が四角く削られている。灰色の岩肌に、銀色と青色の混じった層が露出していた。
床には低い作業台。奥には、黒く焼かれた石板が一枚立ててある。左右の壁には、監視用の白い札が三枚ずつ埋め込まれていた。
「着きました」
エパールの声が変わった。怖さが消えたわけではない。それでも、目は壁の鉱脈に向いている。工具鞄を下ろす手が、少しだけ速い。
「先に監視札を」
カルラが言った。
「はい」
エパールは工具鞄を開く前に、胸元の札を確認した。白。サラの札も、カルラの札も変わっていない。次に、壁の六枚を見る。すべて白い。
「異常なしです」
「周囲の流れは」
エパールが小型の測定札を取り出す。鉱脈に近づける前に、空間の中央。入口。作業台。黒い石板。順番に測る。
「安定しています。主流路からの漏れも、許可値の中です」
「採掘を始めろ」
「はい」
エパールは工具鞄から、布に包まれた小槌と楔を出した。どちらも金属そのままではない。表面に、薄い革が巻かれている。
「何で柔らかくしてるの?」
サラが聞いた。
「強く叩きすぎないためです」
「採るなら、強い方が早くない?」
「早くは採れます。でも、必要な長さが残りません」
エパールは鉱脈の前に膝をついた。観察鏡で、銀色の筋がどちらへ続いているかを見る。
「この鉱石は、魔素が流れているあいだ、元の形へ戻ろうとします。でも、強い衝撃で鉱脈そのものを断ち切ると、切れた先への流れも止まります」
「じゃあ、戻らない?」
「はい。だから、周りの岩だけを剥がして、鉱脈を折らずに取り出します」
「傘次郎に使ったら?」
「衝撃を受けた瞬間に少し曲がって、力を逃がしたあと、元へ戻る。そういう補強にしたいです」
「硬くするんじゃなくて?」
「はい」
エパールは小槌を軽く振った。革を巻いた先が、楔を一度だけ叩く。小さな音。灰色の岩の表面に、細い亀裂が入った。
「傘次郎の骨を全部硬くすると、次は接合部が折れます。接合部を固めると、柄か布の奥へ力が移ります」
もう一度。今度は、少し角度を変える。
「だから、受け止めるところと、逃がすところを分けます」
「前にも聞いた」
「大事なので、何度でも言います」
「私にも当てはまるってこと?」
エパールの小槌が止まった。
「サラさんに?」
「うん」
「人の補強は、私の専門ではありません」
「そっか」
「でも」
エパールは楔の位置を直した。
「全部を我慢すると、たぶん違うところが先に壊れます」
小槌が鳴る。灰色の岩が、薄い板のように剥がれた。その奥から、銀色の筋が束になって現れる。
「だから、帰ってから泣いたの?」
サラが尋ねた。
「はい」
エパールは、少しも迷わなかった。
「遺跡で泣くと、見えなくなるので。帰ってから、逃がしました」
「あれ、逃がしてたんだ」
「かなり」
「量が多かったな」
傘次郎が言った。
「我慢した分です」
「泣きすぎだ」
「壊れるよりいいです」
エパールは銀色の層に細い楔を当てた。今度は叩かない。手で少しずつ押し込み、周囲の岩から離していく。時間がかかった。
サラは携行灯を持ち、エパールの手元を照らした。途中で腕が疲れ、反対の手に持ち替える。傘次郎は壁に立てかけなかった。片腕で抱えたまま、灯りだけを持ち替えた。
「置けばいいだろ」
傘次郎が言った。
「どこに?」
「作業台」
低い作業台は、サラのすぐ横にある。表面には乾いた布が敷かれていた。
「自分で言うの?」
「腕が震えて、俺を落とす方が嫌だ」
「落とさない」
「灯りは揺れてるぞ」
光が、エパールの手元で少し動いていた。サラは作業台を見る。
昨日の整備室とは違う。知らない坑道。冷たい壁。山の奥。
同じ部屋にいる。手を伸ばせば、すぐに届く。
「白い布、追加します」
エパールが言った。
「採掘用の台なので、細かい石があります」
「作業、止めていいの?」
「止めないと敷けません」
「怒らない?」
「採るのを急いで傘次郎を傷つけたら、何のために来たか分かりません」
エパールは楔から手を離した。工具鞄から畳んだ布を出し、作業台に二枚重ねる。
「置いて大丈夫です」
サラは傘次郎を両手で持った。作業台に横向きに置く。指を離す。傘次郎は何も言わなかった。
「いる?」
「いる」
「寒い?」
「知らん」
「冷たくない?」
「傘に聞くな」
「喋る傘だから」
「関係ねえ」
サラは携行灯を両手で持った。光が安定する。エパールが採掘を再開した。楔を押し込む。
銀色の層が、ゆっくり岩から離れる。最後に小槌で二度、軽く叩いた。手のひらより少し大きな鉱石が外れ、エパールの手の中に落ちた。
色は銀だけではなかった。青い筋が、細い葉脈のように内部を走っている。角度を変えると、その筋だけが淡く光った。
「採れました」
エパールが言った。声を抑えている。それでも、嬉しいのが分かった。
「持っていい?」
「今は駄目です」
「何で?」
「採った直後は割れやすいです。周囲の魔素流から切れたので、落ち着くまで布の上に置きます」
「触ると割れる?」
「触るだけなら、たぶん」
「たぶん?」
「だから駄目です」
「正しい判断だ」
カルラが言った。エパールは鉱石を作業台の反対側に置いた。傘次郎との間には、手の幅二つ分ほどの距離がある。
「近くない?」
サラが聞いた。
「まだ触れさせません。外側の流れを見るだけです」
エパールは測定札を二枚置いた。一枚は鉱石の横。もう一枚は傘次郎の横。どちらも淡い黄色の線を浮かべる。
「反応は?」
「今は別々です。鉱石は周囲から切り離されたので、少しずつ流れが弱くなっています。傘次郎は、いつもと大きく変わりません」
「くっつけたら?」
「今日はくっつけません」
エパールは手帳を開いた。採掘した位置。大きさ。色。外した直後の反応。一つずつ書く。
「これで足りる?」
「補強に使う分としては、足ります」
「じゃあ帰る?」
「その前に、適合確認があります」
カルラが黒い石板を見た。
「手順を言え」
「採った鉱石と同じ筋から剥がれた、ごく小さな欠片を一つ使います。わずかに曲げた状態で黒い石板の上に固定し、傘次郎を通したサラさんの赤い炎を、弱く、短く当てます」
「何を見る」
「魔素を通すか。魔素が流れているあいだ、曲げた形から戻ろうとするか。傘次郎側の流れを邪魔しないか」
「ここで必要な理由は」
「鉱石がまだ、雪山の魔素流から完全には抜けていないからです。加工室へ持ち帰ったあととの違いも比べられます」
エパールは鉱石を見た。
「それに、同じ筋に見えても、流れを通しにくい部分があります。先に小さな欠片で確認すれば、使えない部分を持ち帰らずに済みます」
「魔法以外では?」
「単純な加熱でも、熱で傷まないかは見られます。でも、傘次郎を通る魔素との相性や、魔素が流れたときの戻り方は見られません」
「危険は」
「赤い炎が大きくなれば、鉱石が急に形を戻して、押さえ具から外れる可能性があります。傘次郎が周囲の魔素を吸えば、測定に影響します」
「永久機関側は」
「この支道は主流路から切られています。でも、完全ではありません」
「つまり」
「影響しないとは言えません」
エパールは正直に答えた。カルラは壁の監視札を確認する。六枚とも白い。
「許可された試験は一度だけだ」
「はい」
「炎は黒い石板の前から出す。鉱石以外へ向けない。監視札か測定札に変化が出たら、その時点で止める」
「はい」
「サラ」
「うん」
「出せるか」
「赤い方なら」
「蒼炎は」
「出そうとしても出ない」
「それを安心材料にはしない」
「分かってる」
サラは携行灯を作業台に置いた。傘次郎を持ち上げる。手に戻った重さは、いつもと変わらない。
「傘次郎」
「嫌だ」
「まだ何も言ってない」
「分かる」
「少しだけ炎を出す」
「俺の材料だろ。勝手にしろ」
「吸わないで」
「流れてきたら先に言う」
「絶対?」
「絶対とは言わねえ」
「エパールさんみたい」
「一緒にするな」
エパールは黒い石板の前に、小さな鉱石片を置いた。元の鉱石から直接割ったのではない。剥がれた岩の中に残っていた、ごく小さな銀色の欠片を使っている。
エパールは細い押さえ具で欠片をわずかに曲げ、その一端を黒い石板に固定した。その左右に測定札を三枚。サラの立つ位置にも一枚。傘次郎の後ろにも一枚。
「多くない?」
「さっき減らさなくてよかったです」
「予備を使ってる?」
「全部、役割が違います」
「クラリスに言う」
「必要だったと記録してください」
エパールは少しも引かなかった。
カルラが黒い石板の横に立つ。薄い金属片を二枚、指の間に挟んでいた。一枚は消火。もう一枚は遮断。黒い石板の前を閉じるためのものだと説明された。どちらも、使わなければそれでいい。
「始めろ」
サラは傘次郎を開いた。黒い布が、冷たい空気を押し退ける。骨の一本一本が、携行灯の白い光を受けた。両手で柄を握る。
傘次郎の内側へ意識を向ける。遺跡で吸った魔素は、もう感じない。腹いっぱいだと言っていた重さもない。
「傘次郎」
「分かってる」
「少しだけ」
「お前が出しすぎるな」
サラは息を吸った。傘次郎の内側にあるものを、自分へ流す。何もないところから作るのではない。
傘次郎が吸ったもの。どこからか集めたもの。それを熱へ。赤い炎へ。
骨の一本に、細い赤が灯った。同時に、サラの前髪が根元から紅くなる。白かった髪を、色が走っていく。
「出力、そのまま」
カルラが言う。
「増やすな」
「うん」
赤い炎は、指先ほどの大きさだった。傘の骨を伝い、黒い石板の前へ伸びる。鉱石片に触れた。
銀色の表面に、赤い筋が入る。薄い葉のように反っていた欠片が、わずかに戻った。ほんの少しだけまっすぐになり、そのまま止まる。
「通っています」
エパールが言った。
「熱だけではありません。魔素も——」
言葉が途切れた。傘次郎の後ろに置いた測定札。淡い黄色だった線が、急に濃くなる。
「止めろ」
カルラの声と同時に、サラは炎を消した。赤い筋が途切れる。鉱石片から熱が引く。それでも、測定札の線は濃いままだった。
「傘次郎?」
「俺じゃねえ」
「吸ってる?」
「違う」
低い声が、いつもより近く聞こえた。
「向こうから来る」
「何が」
「流れだ」
サラの手の中で、傘次郎が重くなる。ほんの少し。遺跡で大量に吸ったあとにも感じた、内側に何かが溜まるような重さだった。
支道の床から、低い振動が伝わってきた。一度。次の振動までの間隔が、わずかに短い。
壁の監視札が明滅する。白。もう一度。今度は、青い色が中央へ滲んだ。
「退避する」
カルラが言った。
「エパール、記録はあとだ。鉱石だけ包め」
「はい」
エパールは手帳を閉じた。鉱石に駆け寄らない。先に、黒い石板の前に置いた測定札を一枚だけ見る。
「傘次郎の側へ流れが落ちています」
「観察は終わりだ」
「はい」
布を広げ、採掘した鉱石を包む。小槌と楔は工具鞄に戻さない。床に置いたままにする。
「傘次郎、流れを切り離せるか」
カルラが尋ねた。
「吸ってねえ」
「なら、何が起きている」
「知らん。こいつが火を出したら、奥の流れがこっち向いた」
「止められる?」
「俺に聞くな」
「傘次郎」
サラが柄を強く握った。
「何もしないで」
「してねえって言ってるだろ」
「でも、重い」
「来てるだけだ」
「来たら、どうなる?」
「喰える」
カルラの目が変わった。
「何だと」
「喰えるって言った」
「どこまでだ」
「知らん」
支道の奥。氷に覆われた壁。その向こうにあるものを、傘次郎が感じている。サラには、何も見えない。ただ、傘次郎の内側へ、ごく細い魔素が流れ込み始めているのは分かった。
遺跡の隔壁や防衛機構のときとは違う。硬い命令でもない。爆発の前触れでもない。
もっと大きい。遠い。川の向きだけが変わり、その先端が傘次郎に触れたような流れだった。
「吸わないで」
サラが言った。
「分かってるっての」
「閉じろ」
カルラが命じた。サラは傘次郎を閉じた。赤い髪が、毛先から白へ戻り始める。傘を閉じても、重さはすぐには消えなかった。
「入口へ戻る」
カルラが先に支道の扉へ向かう。
「エパール」
「鉱石、持ちました」
「工具は」
「置きます」
「サラ」
「いる」
「傘次郎は」
「いる」
「行くぞ」
三人は支道を戻った。走らない。凍った足場で転べば、退避が遅れる。それでも、来たときより歩幅は速い。
エパールは工具鞄を背負い、包んだ鉱石だけを胸に抱えている。採掘道具も、測定札の一部も置いてきた。暴走防止手帳も開かない。前だけを見る。
サラは傘次郎を両手で抱えた。重い。けれど、さらに重くなってはいない。首元の監視札を見る。透明な石の中央に、薄い青が残っている。
「師匠」
「歩け」
「流れ、止まった?」
「ここでは判断しない」
「傘次郎」
「さっきより遠い」
「消えた?」
「知らん。引っ込んだんじゃねえのか」
「吸ってない?」
「しつこい」
「答えて」
「少し入った」
「少しって」
「遺跡のあとよりは少ない」
「比べる相手が大きすぎる」
「今は喋るな」
カルラが言った。
「呼吸を乱すな。監視札を見て歩け」
第二採掘支道の扉まで戻る。カルラが許可証を溝に入れた。扉が開くまでの時間が長く感じた。背後から何かが追ってくるわけではない。氷が崩れる音もしない。魔物もいない。それでも、山全体が見えないところで息をしているように思えた。
扉が開く。三人が管理坑道へ出る。カルラが許可証を抜くと、石の扉は閉じた。監視札の青が、少し薄くなる。
「戻ります」
エパールが言った。
「分かっている」
「ごめんなさい、自分に言いました」
声が震えていた。それでも足は止まらない。
黒い標のある分岐を通る。鎖の向こう。主流路に近づく道。来たときと同じ暗闇がある。
サラは見なかった。見れば、止まりたくなる。何が傘次郎へ流れたのか。傘次郎は何を喰えると言ったのか。確かめたくなる。
でも、監視札は青くなった。戻る条件だった。原因を拾うのは、外へ出てから。
「止まらないのか」
傘次郎が小さく言った。
「止まってる」
サラは前を向いたまま答えた。
「頭の中で」
「足は」
「動いてる」
「ならいい」
白い標を一つ通る。監視札が、坑道の回路と合うように光った。青。次の標。青はさらに薄くなる。三つ目を通るころには、透明な石はほとんど白へ戻っていた。それでも、カルラは歩調を緩めなかった。
二重扉が見える。管理員が内側の窓から三人を確認した。最初の扉が開く。三人が入る。後ろの扉が完全に閉じてから、外側が開いた。
暖かい空気に触れた。サラは、そこでようやく息を吐いた。
◇
「西管理坑道、第二採掘支道で監視札が青に変化」
カルラが報告する。管理員はすぐに壁の記録板を確認した。並んだ針のうち、一本だけが、普段とは違う位置で止まっている。
「発生時刻は一致。外縁の魔素流が一度、支道側へ傾いた」
「主流路は」
「警戒値には入っていない。駆動間隔が一度だけ短くなった。現在は通常に復帰」
「人員」
「三名とも異常なし」
カルラはサラを見る。
「傘次郎は」
「重い」
サラが答えた。
「話せるか」
「聞こえてる」
傘次郎が言う。
「吸収量は」
「知らん」
「遺跡のあとと比べて」
「あれより少ない」
「何を吸った」
「向こうから来た流れだ」
「永久機関の流れか」
「名前なんぞついてねえ」
「奥の流れがこちらを向いたと言ったな」
「言った」
「どこまで分かる」
「引っ張れば、もっと来る」
「引けるのか」
「たぶん」
「二度と勝手に試すな」
「試してねえ」
「試そうと思うな」
「お前、無茶言うな」
「思ったの?」
サラが聞いた。傘次郎は少し黙った。
「喰えるとは思った」
「永久機関を?」
「あの流れをだ」
「同じじゃない?」
「知らん」
管理員が記録板に書き込む手を止めている。カルラが視線を向けた。
「今の発言も記録しろ。解釈は加えるな」
「分かった」
「西管理坑道は」
「第二採掘支道を一時閉鎖する。置かれた器具は、流れが安定したまま半日経過してから回収班を入れる」
エパールが工具鞄を見た。
「小槌と楔を置いてきました」
「戻るな」
カルラが言う。
「分かっています」
エパールは工具鞄から手を離した。
「採掘物は」
「許可量の範囲内です」
包んだ鉱石を、別の石台に置く。管理員が長い柄のついた測定具を近づけた。
「鉱石側に急な変化はない。持ち出しは可能だ」
「適合確認は途中で中止しました」
「結果は」
エパールは、すぐに答えなかった。工具鞄から手帳を出す。開きかけて、止める。
「現地に置いた測定札があります」
「覚えている範囲でいい」
カルラが言った。
「事実だけ話せ」
「はい」
エパールは手帳を閉じたまま、両手で持った。
「鉱石片は、サラさんの赤い炎と魔素を通しました。魔素が流れているあいだ、曲げていた形から元へ戻ろうとしました」
「途中まで?」
「はい。完全に戻る前に退避したので、その後は確認していません」
「続けろ」
「赤い炎を出した直後、傘次郎の後ろに置いた測定札の反応が強くなりました。周囲の魔素流が、傘次郎の内側へ落ちる向きでした」
サラは自分の手を見る。震えていない。指先も動く。息も苦しくない。遺跡で魔法を使ったあとのクラリスとは違う。
「サラさんの側に置いた札は」
エパールが続ける。
「ほとんど変わりませんでした」
「安定していた?」
サラが聞いた。
「違います」
エパールは首を横に振った。
「安定した流れがあったのではありません。変化を測れるほど、サラさんの魔素流が見えませんでした」
「私が、少ししか出さなかったから?」
「普通は、少し使っても、使った分だけ前後が変わります」
「でも、変わらなかった」
「測れませんでした」
エパールは言い直した。
「変わらなかったのか、最初から測れないほど少なかったのか。今の札では区別できません」
「髪は赤くなった」
「はい。炎も出ました。鉱石にも魔素が通っています」
「なら、魔素は私を通ったんじゃないの?」
「そう見えました」
「でも、私の中にはない?」
「そこまでは言えません」
エパールは手帳を強く握った。興奮している。けれど、言葉を急いでいない。
「傘次郎に入る流れは見えました。傘次郎からサラさんを通って、炎になるところも見えました。でも、使ったあとの流れが、サラさんの中に残っているようには見えませんでした」
「どこへ行ったの?」
「分かりません」
「傘次郎に戻った?」
「それも分かりません」
「外へ出た?」
「支道の空間全体に、薄い反応が広がったようには見えました。でも、永久機関側から来た流れと、傘次郎から漏れた流れと、サラさんが使ったあとの流れを区別できません」
「つまり、何も分からない?」
「分かったことはあります」
エパールは一つずつ指を折った。
「傘次郎に、周囲から魔素が流れ込んだこと。サラさんが赤い炎を使っても、普通の魔道士と同じような消耗の変化を測れなかったこと。永久機関の外縁流が、一度だけ傘次郎の方へ傾いたこと」
三本目の指で止める。
「その三つが同時に起きました」
「傘次郎が、私の代わりに消耗した?」
「そうは言えません」
エパールはすぐに答えた。
「傘次郎の重さは変わりました。でも、それが代償なのか、吸った魔素が増えただけなのか、別の変化なのか分かりません」
「じゃあ、私は消耗してない?」
「それも言えません」
今度はカルラが答えた。
「見えないことと、ないことは違う」
サラは手を握った。力は入る。痛くもない。
「クラリスは、見えた」
「ああ」
「手が震えた。呼吸も変わった。魔素流も荒れてた」
「そうだ」
「私は、何もない」
「今、分かる範囲ではな」
「それって、得なの?」
カルラは答えなかった。代わりに、エパールが測定札を一枚取り出した。サラに近づける。淡い黄色の線。ほとんど変わらない。
「得かどうかを決めるには、何が起きているか分からなさすぎます」
エパールが言った。
「自分が減っていると分かれば、休めます。荒れていると分かれば、次を止められます」
「分からなかったら?」
「止まる場所を、自分では決めにくいです」
サラは傘次郎を見る。古い黒い布。重くなった柄。
遺跡でも、サラはまだ行けると思っていた。傘次郎は腹いっぱいだと言った。クラリスは手を震わせていた。
今日も、サラは平気だった。平気だから、続けられると思ったかもしれない。監視札が青くならなければ。
「だから、札をつけた?」
「そのためでもある」
カルラが言った。
「自分で分からないなら、外から測る。外からも分からないなら、分からないことを理由に止める」
「大魔道士みたい」
「誰が」
「監視札」
「札は判断しない。変化を知らせるだけだ」
「じゃあ師匠」
「今さら気づいたか」
カルラは管理員が書き終えた記録を確認した。
「本日の採掘と適合確認は終了。再試験は、測定札を回収し、記録を照合するまで行わない」
エパールの口が少し開いた。
「再試験は」
「照合するまで行わない」
「いつ照合できますか?」
「回収班が戻り、こちらの記録と学院の記録を合わせてからだ」
「持ち帰った鉱石だけなら」
「行わない」
「加熱用の魔道具で、鉱石だけ」
「それは別の試験として申請しろ。傘次郎とサラは使うな」
「はい」
エパールは手帳を開き、今度こそ書いた。
「何て書いたの?」
サラが聞く。
「『勝手に続きをしない』」
「今までなかったの?」
「似たものはあります」
「同じものを増やしてどうするんだよ」
傘次郎が言った。
「対象が違います。今までのは、分解と接触についてです」
「増えてる時点で駄目だろ」
「守れば大丈夫です」
「守れよ」
「はい」
管理員が、包んだ鉱石を木箱に入れた。箱の内側には厚い布と、細かな石粒が敷かれている。
「学院まで、この状態で運べる。開封は許可を受けた作業室で行うこと」
「分かりました」
エパールは木箱を両手で受け取った。工具鞄より、ずっと軽い。それでも、大事そうに胸に抱えた。
「傘次郎は?」
サラが尋ねる。
「持ち出し制限はない。ただし、今日中に状態確認を受けろ」
「エパールさんが?」
「外から見られる範囲だけです」
エパールが言った。
「今日は作業台に置かなくてもいいです」
「置かない」
「分かりました」
「触らせない」
「分かりました」
「見るだけ」
「はい」
「近づきすぎない」
「距離を決めてください」
「遠く」
「測れません」
「お前ら、帰ってからやれ」
傘次郎が言った。カルラが許可証を受け取る。入坑記録が閉じられた。三人は二重扉を出た。
外は、昼を少し過ぎていた。朝より風が強い。白い雪が、建物の間を細く流れている。サラは襟巻きを上げた。外套の中は暖かい。
「師匠」
「何だ」
「ありがとう」
「何がだ」
「服」
「遅い」
「言っただけいいでしょ」
「そうだな」
カルラは先に馬車へ向かった。少しだけ、歩く速度が緩んだように見えた。サラはその後ろを追う。傘次郎はまだ重い。
「傘次郎」
「何だ」
「本当に、永久機関を喰えるの?」
「喰ってねえ」
「喰えるか聞いた」
「知らん」
「さっき、喰えるって」
「流れが来た。引っ張ればもっと来る。だから喰えると思った。それだけだ」
「傘次郎って、永久機関なの?」
「俺が知るか」
「似てるのかもしれない」
「どこがだ」
「ずっと魔素を出せる」
「俺は出してねえ」
「でも、私が使ってる」
「俺は外から喰ってる」
サラの足が、少しだけ遅くなった。
「外から?」
「何度も見ただろ」
「うん」
遺跡の隔壁。小型体。床の黒い回路。傘次郎は、外にあった魔素を吸った。何もないところから、作ったわけではない。
「永久機関も、外から喰ってる?」
「それを調べるなと言った」
カルラが前から言った。
「聞いてるだけ」
「今、答えを作ろうとしている」
「だって、似てる」
「似ている部分を見つけた。それは事実だ」
カルラは振り返った。
「同じものだと決めるのは、まだ早い」
「違うところは?」
「傘次郎は、外から流れ込んだ魔素を吸っている。少なくとも、そこまでは見た」
「永久機関は?」
「何を入口にして、何を出口にしているか。管理記録だけで全容が分かっているわけではない」
「出口もあるの?」
「あるかもしれない。ないかもしれない。だから、永久に動いているように見える」
「分からないことばっかり」
「一つ増えたな」
「何が?」
「何が分からないかだ」
カルラは再び歩き始めた。エパールが木箱を抱えたまま、サラの横に並ぶ。
「傘次郎が永久機関かどうかは、今日の観測では分かりません」
「うん」
「でも、傘次郎の反応と、永久機関の流れが無関係とも言えなくなりました」
「どっち?」
「分からない方です」
「役に立たない」
「大事です」
エパールは真剣だった。
「無関係だと思って次に同じ試験をしたら、もっと大きな流れを引き寄せるかもしれません。関係があるかもしれないと分かれば、止める準備ができます」
「それで、補強できる?」
サラは木箱を見る。
「鉱石自体は、候補にできます。通すことまでは確認できました」
「途中で止めたのに?」
「途中まで分かったことは、途中まで使えます」
「全部分かるまで、何もできないわけじゃない?」
「はい。でも、分からないところまで分かったことにはしません」
「難しい」
「私も、よく間違えます」
「エパールさんが?」
「面白いものを見ると、答えを急ぐので」
「知ってる」
「俺もだ」
「傘次郎まで」
「全員知ってる」
エパールは少し肩を落とした。けれど、木箱はしっかり抱えている。
馬車のそばまで戻る。雪山の麓から、フォルシュタットは小さく見えた。石壁。鐘楼。屋根の集まり。そこへ向かって、水路と太い管が延びている。
解けぬ雪山は、白いままだった。サラたちが坑道へ入り、鉱石を採り、監視札を青くして戻ってきても、何も変わっていないように見える。けれど、山の中では一度だけ、大きな流れが向きを変えた。何に引かれたのかは、まだ分からない。
「帰るぞ」
カルラが馬車の扉を開けた。
「うん」
サラは乗り込む前に、もう一度だけ雪山を見た。
見ただけだった。近づかなかった。答えを探しに戻らなかった。腕の中で、傘次郎が重い。
「腹いっぱい?」
サラが聞いた。
「そこまでじゃねえ」
「じゃあ、何?」
「知らん」
「また?」
「悪いか」
「悪くない」
サラは傘次郎を抱え直した。
「帰ってから調べる」
「遠くからにしろ」
「エパールさんが」
「もっと遠くしろ」
「聞こえています」
「聞かせた」
エパールが木箱を抱えたまま馬車に乗る。カルラが最後に乗り、扉を閉めた。馬車が動き出す。解けぬ雪山が、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
山は追ってこない。白い峰も動かない。
それでも、エパールの工具鞄に残った記録と、傘次郎の重さだけが知っていた。一瞬だけ。山の奥を流れるものが、古びた傘へ向きを変えたことを。




