Ⅱ
白い天井に渡る梁が、鈍い影を作っている。
北向きの窓から差し込む明かりが、アルトの手元をやわらかく照らしていた。
遠くで、呼吸をするような波の音。
木炭に汚れたままの指先で、スケッチブックの頁を静かにめくる。
髪に触れる風。
紙をめくる音が、部屋に落ちていた。
薔薇の絵。
次の頁も、また薔薇の絵。
「……こんなに、描いたっけ」
どの頁をめくっても、薔薇だった。
「きれいな薔薇だった。
……夢中で描いたのかも」
スケッチブックを閉じた。
甘い香りを含んだ風が、頬を撫でる。
視線を向ける。
庭への扉も、並ぶ高窓も、閉まっていた。
シャツの襟が、かすかに揺れる。
汚れた指先で触れ、リネンの白襟は黒く染まった。
格子扉の向こう。
庭と街の奥に佇む海は光を返し、ただ、白く霞んで見えた。
スケッチブックから白い花弁が、一枚、落ちた。
月の晩。
アルトは、その日も薔薇の咲く古い庭に向かった。
芝を踏むたび、足が沈み込む。
ブーツの先が黒く濡れ、足先は感覚を失うほどに冷えていた。
白薔薇の木。
そこに、佇む女性がいた。
透けるほどに白い肌。
長い白銀の髪。
星を纏う白いドレス。
視線が、吸い込まれる。
アルトは息を止めて立ち尽くした。
彼女が、ゆっくりと振り返る。
深い、翡翠の瞳。
それはまっすぐにアルトを射抜く。
彼女は、その華奢な白い手でアルトを招いた。
細い糸で引かれるように、アルトは一歩、彼女に近づく。
翡翠と水色の瞳が、交わる。
全ての色を落とし、それしかここにはないかのように。
ただ、静かに、見つめあった。
アルトは胸に手を当てると、詰めていた息を吐き出した。
「お嬢さん、……こんな時間に一人歩きは危ないですよ」
「……私は香りだから、大丈夫」
痺れるような、甘い声。
「……え?」
彼女が、一歩、アルトに近づく。
「私は風。私は花」
彼女が手を伸ばす。
「ねぇ、あなたは誰?」
アルトは動けなかった。
瞳をそらすことさえ、彼にはできなかった。
「そう……あなたなのね」
彼女がアルトの頬に触れようとして――
アルトはよろけるように一歩下がった。
「私を選んで」
息を呑み、目を強く閉じた。
アルトは、彼女に背を向けて駆け出した。
昼頃、アルトはぼんやりと天井の梁を見つめた。
白い光が部屋に満ちている。
ベッドと、小ぶりなクローゼットしかない寝室。
起き上がり、自分の頬に触れた。
あの女性が触れようとした頬。
だが、冷気だけは、確かに触れた。
アルトは髪を乱暴にかき上げると、昨日から着ていたリネンのシャツを脱いだ。床に放る。それはブーツに当たって、小さな音を立てて倒れた。
彼は、またベッドに横になる。
部屋に戻ってきてから、一睡もできていなかった。
この部屋の窓からも、海が見える。
窓は開けっ放しだった。
薄いカーテンが揺れている。
頬に、温い風が当たる。
それは髪を湿らせ、肌を撫でた。
だけど、いつも感じていた潮の香りはしない。
甘い、薔薇の香りだけが、ここにあった。
瞳を伏せる。
眠り方など、とうの昔に置いてきてしまったかのように。
この日から、彼は――
眠れなくなった。
いつものようにアトリエを訪れたルーカスは、アルトを見つけるなり顔色を変えて駆け寄った。
彼は床に座り込み、いつも座っている木の椅子に顔を伏せるようにしていた。
ルーカスは彼の前に膝をつくと、その顔を覗き込む。
「……アルト?」
虚ろな水色の瞳が、ゆっくりと動き、ルーカスを捉える。
彼の顔は蒼白だった。
「……顔色が悪い。どうした?」
「……なんでもないよ」
椅子に触れていたアルトの手をルーカスが取る。
それは、ひどく冷たかった。
「おい。立て。寝室に行こう。少し休め」
ルーカスはアルトの脇に手を入れ、抱きかかえるようにして立たせると、寝室のベッドまで連れて行く。
アルトを横たわらせ、ルーカスは彼の額に触れた。
熱はない。
それどころか、妙に冷たい。
ルーカスは視線であたりを見回してから、一度部屋を出て、持ってきた冬用の布団でアルトを包む。
アルトはそれを、ずっと、目で追っていた。
「なぁ、何があった。アルト」
アルトは小さく首を振る。
「……なんにもないんだ」
ルーカスは眉を寄せる。
アルトから、かすかに花の香りがした。
「ルーカス……。
僕………。なんにも……ないはずなんだよ」
アルトは、腕で顔を覆った。
彼の髪が、風もないのに揺れる。
花びらが一枚、知らぬ間に床に落ちていた。
足がふらつく。
アルトは、夜の石畳を歩いていた。
蔦の這う石壁に手をつきながら進み、あの古い庭へと足が向かう。
どうしても、行かなければならないと、心が求めてやまなかった。
ガス灯の明かりが、心もとなく灰色の石を濡らしている。
音のない夜。
ブーツの底が石の地面を打つ音さえ、しない。
甘い香りが、ふわりと漂った。
アルトが顔を上げると、古い庭の石のアーチ。
それをくぐり、芝を踏みしめると、急に身体が軽くなったような気がした。
風が頬を撫でる。
薔薇の道を進み、大輪の白薔薇の木へ。
むせ返るほどの、強い花の香り。
あの女性が、いた。
月を見上げる彼女。
芝まで届く長い髪は、それ自体が月光のように、淡く滲んでいた。
「ねぇ、僕に何かしたの?」
彼女は静かに振り向くと、アルトに歩み寄った。
一歩、一歩、ゆっくりと。
人とは思えないほど、整った彼女の顔貌。
深い翡翠に飲み込まれ、アルトは黙ってそれを見つめ返すだけだった。
「愛しい人。私の世界樹。
私はあなたの枝に咲くの。
――ただそれだけ」
彼の呼吸が止まる。
彼女は腕を伸ばして、アルトの頬に触れた。
甘い香りに囚われる。
視線を、外せない。
全ての音も、色も、消えてしまった。
それはまるで、吸い込まれるように。
彼女の翡翠の瞳が、すぐそこにあった。
甘い香り。
呼吸が触れる。
アルトは、なぜだか分からないまま、
彼女に顔を寄せた。
そして、その唇に、キスを落とした。
庭への扉は締め切られ、少しだけ影がこもっている。
アルトは、キャンバスに向かって絵を描いていた。
ただ、無心に、絵を描いていた。
薔薇の絵。
彼女の手。
彼女の瞳。
一心不乱に、描き続けていた。
アトリエに様子を見に来たルーカスは、その背に眉を寄せる。
床に散乱した乾ききらない薔薇の絵のキャンバス。
白い絵の具ばかりが、床に散っている。
静かに歩み寄り、アルトの脇に立った。
「なぁ……ちゃんと寝てるか?」
「僕、体調悪くないよ?」
アルトの顔をのぞき込む。
途端、ルーカスは肩を震わせた。
「……なんだこれ」
ルーカスは筆を持つアルトの手をつかみ、筆を取り上げた。
「何するの!」
ルーカスはアルトを突然羽交い締めにする。
アルトは暴れ、キャンバスごとイーゼルが音を立てて倒れた。
ルーカスは歯を食いしばり、彼を引きずりながら、無理やり寝室へ連れて行く。
「やめてってば!」
アルトは無理やりベッドに投げられる。
「いつからまともに寝てないんだ!」
ルーカスの怒声にアルトは肩を縮こませた。
「目を瞑れ!」
起き上がろうとするアルトをルーカスが力尽くで抑え込む。
「寝てくれ! 頼む!」
「描かなくちゃいけないのに!」
ルーカスは布でアルトの目を覆い、さらに強く押さえつけた。
アルトはなおも暴れ続ける。
「アルト! 行くな!」
彼の声は、ひどく震えていた。
アルトは、動きを止める。
「……行くって、どこへ?」
「何が起きてるんだ……。
どこにも行かないでくれ……アルト……頼む。
頼むから」
嗚咽が、聞こえる。
「……ルーカス、泣いてるの?」
大人しくなったアルトの腹に頭を押し付けるようにして、ルーカスは、泣いていた。
布で隠されたアルトの水色の瞳は――
緑に染まっていた。




