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 白い天井に渡る梁が、鈍い影を作っている。

 北向きの窓から差し込む明かりが、アルトの手元をやわらかく照らしていた。

 遠くで、呼吸をするような波の音。


 木炭に汚れたままの指先で、スケッチブックの頁を静かにめくる。


 髪に触れる風。

 紙をめくる音が、部屋に落ちていた。


 薔薇の絵。

 次の頁も、また薔薇の絵。


「……こんなに、描いたっけ」


 どの頁をめくっても、薔薇だった。


「きれいな薔薇だった。

 ……夢中で描いたのかも」


 スケッチブックを閉じた。

 

 甘い香りを含んだ風が、頬を撫でる。


 視線を向ける。

 庭への扉も、並ぶ高窓も、閉まっていた。

 

 シャツの襟が、かすかに揺れる。

 汚れた指先で触れ、リネンの白襟は黒く染まった。 


 格子扉の向こう。

 庭と街の奥に佇む海は光を返し、ただ、白く霞んで見えた。

 

 スケッチブックから白い花弁が、一枚、落ちた。




 月の晩。

 アルトは、その日も薔薇の咲く古い庭に向かった。

 

 芝を踏むたび、足が沈み込む。

 ブーツの先が黒く濡れ、足先は感覚を失うほどに冷えていた。


 白薔薇の木。

 そこに、佇む女性がいた。


 透けるほどに白い肌。

 長い白銀の髪。

 星を纏う白いドレス。


 視線が、吸い込まれる。


 アルトは息を止めて立ち尽くした。


 彼女が、ゆっくりと振り返る。


 深い、翡翠の瞳。


 それはまっすぐにアルトを射抜く。


 彼女は、その華奢な白い手でアルトを招いた。


 細い糸で引かれるように、アルトは一歩、彼女に近づく。

 

 翡翠と水色の瞳が、交わる。


 全ての色を落とし、それしかここにはないかのように。


 ただ、静かに、見つめあった。


 アルトは胸に手を当てると、詰めていた息を吐き出した。


「お嬢さん、……こんな時間に一人歩きは危ないですよ」


「……私は香りだから、大丈夫」


 痺れるような、甘い声。


「……え?」


 彼女が、一歩、アルトに近づく。


「私は風。私は花」


 彼女が手を伸ばす。


「ねぇ、あなたは誰?」


 アルトは動けなかった。

 瞳をそらすことさえ、彼にはできなかった。


「そう……あなたなのね」


 彼女がアルトの頬に触れようとして――

 アルトはよろけるように一歩下がった。


「私を選んで」


 息を呑み、目を強く閉じた。

 アルトは、彼女に背を向けて駆け出した。




 昼頃、アルトはぼんやりと天井の梁を見つめた。

 白い光が部屋に満ちている。


 ベッドと、小ぶりなクローゼットしかない寝室。

 起き上がり、自分の頬に触れた。

 あの女性が触れようとした頬。


 だが、冷気だけは、確かに触れた。


 アルトは髪を乱暴にかき上げると、昨日から着ていたリネンのシャツを脱いだ。床に放る。それはブーツに当たって、小さな音を立てて倒れた。


 彼は、またベッドに横になる。


 部屋に戻ってきてから、一睡もできていなかった。


 この部屋の窓からも、海が見える。


 窓は開けっ放しだった。

 薄いカーテンが揺れている。


 頬に、温い風が当たる。

 それは髪を湿らせ、肌を撫でた。


 だけど、いつも感じていた潮の香りはしない。

 甘い、薔薇の香りだけが、ここにあった。


 瞳を伏せる。

 

 眠り方など、とうの昔に置いてきてしまったかのように。

 

 この日から、彼は――

 眠れなくなった。




 いつものようにアトリエを訪れたルーカスは、アルトを見つけるなり顔色を変えて駆け寄った。

 彼は床に座り込み、いつも座っている木の椅子に顔を伏せるようにしていた。

 ルーカスは彼の前に膝をつくと、その顔を覗き込む。


「……アルト?」


 虚ろな水色の瞳が、ゆっくりと動き、ルーカスを捉える。

 彼の顔は蒼白だった。


「……顔色が悪い。どうした?」

「……なんでもないよ」


 椅子に触れていたアルトの手をルーカスが取る。

 それは、ひどく冷たかった。


「おい。立て。寝室に行こう。少し休め」


 ルーカスはアルトの脇に手を入れ、抱きかかえるようにして立たせると、寝室のベッドまで連れて行く。

 

 アルトを横たわらせ、ルーカスは彼の額に触れた。


 熱はない。

 それどころか、妙に冷たい。

 

 ルーカスは視線であたりを見回してから、一度部屋を出て、持ってきた冬用の布団でアルトを包む。


 アルトはそれを、ずっと、目で追っていた。


「なぁ、何があった。アルト」


 アルトは小さく首を振る。


「……なんにもないんだ」


 ルーカスは眉を寄せる。

 アルトから、かすかに花の香りがした。


「ルーカス……。

 僕………。なんにも……ないはずなんだよ」


 アルトは、腕で顔を覆った。

 

 彼の髪が、風もないのに揺れる。

 花びらが一枚、知らぬ間に床に落ちていた。




 足がふらつく。

 

 アルトは、夜の石畳を歩いていた。

 蔦の這う石壁に手をつきながら進み、あの古い庭へと足が向かう。

 

 どうしても、行かなければならないと、心が求めてやまなかった。


 ガス灯の明かりが、心もとなく灰色の石を濡らしている。


 音のない夜。

 ブーツの底が石の地面を打つ音さえ、しない。


 甘い香りが、ふわりと漂った。


 アルトが顔を上げると、古い庭の石のアーチ。

 

 それをくぐり、芝を踏みしめると、急に身体が軽くなったような気がした。

 風が頬を撫でる。

 薔薇の道を進み、大輪の白薔薇の木へ。


 むせ返るほどの、強い花の香り。


 あの女性が、いた。


 月を見上げる彼女。

 芝まで届く長い髪は、それ自体が月光のように、淡く滲んでいた。


「ねぇ、僕に何かしたの?」


 彼女は静かに振り向くと、アルトに歩み寄った。

 一歩、一歩、ゆっくりと。

 

 人とは思えないほど、整った彼女の顔貌。

 深い翡翠に飲み込まれ、アルトは黙ってそれを見つめ返すだけだった。


「愛しい人。私の世界樹。

 私はあなたの枝に咲くの。

 ――ただそれだけ」


 彼の呼吸が止まる。


 彼女は腕を伸ばして、アルトの頬に触れた。

 

 甘い香りに囚われる。

 

 視線を、外せない。


 全ての音も、色も、消えてしまった。


 それはまるで、吸い込まれるように。


 彼女の翡翠の瞳が、すぐそこにあった。


 甘い香り。

 呼吸が触れる。


 アルトは、なぜだか分からないまま、

 彼女に顔を寄せた。


 そして、その唇に、キスを落とした。




 庭への扉は締め切られ、少しだけ影がこもっている。

 

 アルトは、キャンバスに向かって絵を描いていた。

 ただ、無心に、絵を描いていた。

 

 薔薇の絵。

 彼女の手。

 彼女の瞳。

 

 一心不乱に、描き続けていた。


 アトリエに様子を見に来たルーカスは、その背に眉を寄せる。


 床に散乱した乾ききらない薔薇の絵のキャンバス。

 白い絵の具ばかりが、床に散っている。


 静かに歩み寄り、アルトの脇に立った。

 

「なぁ……ちゃんと寝てるか?」

「僕、体調悪くないよ?」


 アルトの顔をのぞき込む。

 途端、ルーカスは肩を震わせた。


「……なんだこれ」


 ルーカスは筆を持つアルトの手をつかみ、筆を取り上げた。


「何するの!」


 ルーカスはアルトを突然羽交い締めにする。

 アルトは暴れ、キャンバスごとイーゼルが音を立てて倒れた。

 

 ルーカスは歯を食いしばり、彼を引きずりながら、無理やり寝室へ連れて行く。


「やめてってば!」


 アルトは無理やりベッドに投げられる。


「いつからまともに寝てないんだ!」


 ルーカスの怒声にアルトは肩を縮こませた。


「目を瞑れ!」


 起き上がろうとするアルトをルーカスが力尽くで抑え込む。


「寝てくれ! 頼む!」

「描かなくちゃいけないのに!」

 

 ルーカスは布でアルトの目を覆い、さらに強く押さえつけた。

 アルトはなおも暴れ続ける。


「アルト! 行くな!」


 彼の声は、ひどく震えていた。


 アルトは、動きを止める。


「……行くって、どこへ?」

「何が起きてるんだ……。

 どこにも行かないでくれ……アルト……頼む。

 頼むから」


 嗚咽が、聞こえる。


「……ルーカス、泣いてるの?」


 大人しくなったアルトの腹に頭を押し付けるようにして、ルーカスは、泣いていた。


 布で隠されたアルトの水色の瞳は――

 緑に染まっていた。


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