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 アルトは、目を布で覆われたまま、大人しくうつらうつらとしていた。


 部屋に、夜が訪れる。


 ルーカスは寝室の壁際に持ち込んだ椅子に座り、船を漕いでいた。


 満月。


 月光が、カーテンの隙間から滑り込む。


 アルトはかすかに身じろぎをした。

 そして、起き上がる。


 衣擦れの音に目を覚ましたルーカスは、眉を寄せた。


「お、おい。アルト?」


 彼は、布を巻かれたまま、ベッドを降りていた。


「行かなきゃ……泣いてる」


 寝室の扉が開く。

 ルーカスが慌ててアルトに駆け寄り、その腕を掴んだ。

 だがそれは力強く振り払われる。


 アルトは、迷いなく、アトリエを出ていった。




 高い石塀に囲われた古い庭。

 月光が、芝を青銀に染めている。


 アルトが薔薇の道を駆けると、強い風が吹いた。


 目を覆っていた布が解け、飛んでいく。


 白薔薇の彼女。

 薔薇の木の前で、やわらかく微笑んでいた。


 華奢な両腕を広げ、彼を待っている。


 アルトは駆けた。

 

 甘い香りに心が痺れる。

 翡翠の瞳だけを、見つめた。


 彼は腕を伸ばし、

 彼女を強く胸に抱きしめた。


 冷たい肌。

 風に揺らされた彼女の髪からは、花びらが舞う。


 狂おしいほどの愛しさが込み上げてくる。


 彼女の頬に手を添え、顔を寄せた。

 視線が重なる。

 呼吸が触れる。

 

 吸い寄せられるように、

 それしか、答えはないかのように、

 キスをしようとして――


「アルト!」


 顔を上げ、振り返る。

 その瞳がかすかに水色に戻った。


「……ルーカス」

「アルト! だめだ! 行くな!」


 アルトは彼女を離し、

 ルーカスの方へ、一歩だけ歩いた。


 だが、彼女は、アルトの首に腕を回すと、彼を引き寄せた。

 彼の唇に口づけをする。


 甘い、微睡むような気配。

 

 深く、堕ちていくような感覚。


 唇がゆっくりと離れる。


 呼吸が、静かに落ちた。


 彼女の瞳からは透明な涙が、

 はらり、はらりと、溢れる。


 アルトの瞳は、緑に沈んでいく。


「……私を美しいって言ってくれたのに」


「……君はきれいだよ」


「私を選んでは、くれないのね」


 アルトは、少しだけ目を伏せた。

 そして、彼女を見た。


「……僕は君を愛してるよ」


 二人の境界が重なり、曖昧になる。


「アルト!」


 ルーカスが手を伸ばし、アルトの腕を引いた。


 不意に、波の音。

 

 アルトは、自分の震える指先を見た。

 いつも木炭で汚れた指先。

 爪の間に取れない絵の具がついていたはずの、それ。


 ――だが、今は、透けそうなほどに淡く、白い。


 アルトの頬に涙が伝う。


「……君は、誰なの?」

 

 彼女は泣いていた。


「私を選んで」


「僕は君を愛してるよ」


「行きましょう」


「……どこへ?」


「世界へ」


 アルトは、瞳をわずかに伏せる。

 彼女は、静かにそれを見つめていた。

 

「僕は……ここにいる」


「そう……」


 彼女の腕が、アルトから離れる。

 彼はその華奢な手を取った。

 

「愛してるよ」

「……愛してしまった」

「愛してるんだ」

 

 彼女は首を振った。


「人でありたいあなたを、私は愛してしまった」

「……どういう意味?」


「私は香り。私は風。

 あなたの枝に咲く一輪の花。

 あなたを愛してしまった」


 彼女は、アルトの手から自分の手を引き抜き、離れる。


 アルトが手を伸ばすが、それは空を切った。


「待って」


「さようなら。美しい夜の人」


「待ってよ!」


 再び手を伸ばす。


 触れそうになって――


 彼女は滲んで、消えた。


 花びらが舞い、

 視界が、奪われる。


 だが、それも、やがて全て消えた。


 アルトは駆け、そして、膝をついた。


「あ……」


 濡れた芝。

 花のない木。

 月光だけが落ちた、古い庭。


 声にならない声が、喉からこぼれた。

 

 ――慟哭。


 彼はその場に蹲り、胸を掻きむしって、

 泣いた。




 足をもつれさせながら、ルーカスがアルトに駆け寄ると、彼を抱きしめた。


 顎に手をかけ、無理やり顔を上げさせる。


 アルトの瞳の色は――


 水色に戻っていた。


「よか……良かった……アルト」


 ルーカスの瞳からも涙が落ちた。

 

 アルトの水色の瞳からは、いくつもいくつも涙が溢れてきた。


「僕……僕……。

 愛してたのに……失ってしまった」


 ルーカスは奥歯を噛みしめると、アルトを強く抱きしめる。


「……ごめん」


「失くしちゃったんだ」


「ごめんな、アルト」


 アルトは両手で顔を覆って泣き続けた。


「ごめん。

 ……でも、お前を失わずにすんで……良かった……」


 


 月光は溶け、

 空が、ゆっくりと白み始める。


 アルトは、自分の指先を見た。


 木炭の汚れのついた手。

 いつもの、自分の手。


「……ルーカス……、ありがとう……僕」

「もう……何も言うな」

「……うん」


 波の音が遠くから聞こえる。

 かすかな汽笛の音。

 潮の香りを含んだ風。


 白い花びらが一枚だけ、葉の上に落ちた。


 朝陽に照らされ、

 それは、溶けるように――

 消えてしまった。


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