Ⅲ
アルトは、目を布で覆われたまま、大人しくうつらうつらとしていた。
部屋に、夜が訪れる。
ルーカスは寝室の壁際に持ち込んだ椅子に座り、船を漕いでいた。
満月。
月光が、カーテンの隙間から滑り込む。
アルトはかすかに身じろぎをした。
そして、起き上がる。
衣擦れの音に目を覚ましたルーカスは、眉を寄せた。
「お、おい。アルト?」
彼は、布を巻かれたまま、ベッドを降りていた。
「行かなきゃ……泣いてる」
寝室の扉が開く。
ルーカスが慌ててアルトに駆け寄り、その腕を掴んだ。
だがそれは力強く振り払われる。
アルトは、迷いなく、アトリエを出ていった。
高い石塀に囲われた古い庭。
月光が、芝を青銀に染めている。
アルトが薔薇の道を駆けると、強い風が吹いた。
目を覆っていた布が解け、飛んでいく。
白薔薇の彼女。
薔薇の木の前で、やわらかく微笑んでいた。
華奢な両腕を広げ、彼を待っている。
アルトは駆けた。
甘い香りに心が痺れる。
翡翠の瞳だけを、見つめた。
彼は腕を伸ばし、
彼女を強く胸に抱きしめた。
冷たい肌。
風に揺らされた彼女の髪からは、花びらが舞う。
狂おしいほどの愛しさが込み上げてくる。
彼女の頬に手を添え、顔を寄せた。
視線が重なる。
呼吸が触れる。
吸い寄せられるように、
それしか、答えはないかのように、
キスをしようとして――
「アルト!」
顔を上げ、振り返る。
その瞳がかすかに水色に戻った。
「……ルーカス」
「アルト! だめだ! 行くな!」
アルトは彼女を離し、
ルーカスの方へ、一歩だけ歩いた。
だが、彼女は、アルトの首に腕を回すと、彼を引き寄せた。
彼の唇に口づけをする。
甘い、微睡むような気配。
深く、堕ちていくような感覚。
唇がゆっくりと離れる。
呼吸が、静かに落ちた。
彼女の瞳からは透明な涙が、
はらり、はらりと、溢れる。
アルトの瞳は、緑に沈んでいく。
「……私を美しいって言ってくれたのに」
「……君はきれいだよ」
「私を選んでは、くれないのね」
アルトは、少しだけ目を伏せた。
そして、彼女を見た。
「……僕は君を愛してるよ」
二人の境界が重なり、曖昧になる。
「アルト!」
ルーカスが手を伸ばし、アルトの腕を引いた。
不意に、波の音。
アルトは、自分の震える指先を見た。
いつも木炭で汚れた指先。
爪の間に取れない絵の具がついていたはずの、それ。
――だが、今は、透けそうなほどに淡く、白い。
アルトの頬に涙が伝う。
「……君は、誰なの?」
彼女は泣いていた。
「私を選んで」
「僕は君を愛してるよ」
「行きましょう」
「……どこへ?」
「世界へ」
アルトは、瞳をわずかに伏せる。
彼女は、静かにそれを見つめていた。
「僕は……ここにいる」
「そう……」
彼女の腕が、アルトから離れる。
彼はその華奢な手を取った。
「愛してるよ」
「……愛してしまった」
「愛してるんだ」
彼女は首を振った。
「人でありたいあなたを、私は愛してしまった」
「……どういう意味?」
「私は香り。私は風。
あなたの枝に咲く一輪の花。
あなたを愛してしまった」
彼女は、アルトの手から自分の手を引き抜き、離れる。
アルトが手を伸ばすが、それは空を切った。
「待って」
「さようなら。美しい夜の人」
「待ってよ!」
再び手を伸ばす。
触れそうになって――
彼女は滲んで、消えた。
花びらが舞い、
視界が、奪われる。
だが、それも、やがて全て消えた。
アルトは駆け、そして、膝をついた。
「あ……」
濡れた芝。
花のない木。
月光だけが落ちた、古い庭。
声にならない声が、喉からこぼれた。
――慟哭。
彼はその場に蹲り、胸を掻きむしって、
泣いた。
足をもつれさせながら、ルーカスがアルトに駆け寄ると、彼を抱きしめた。
顎に手をかけ、無理やり顔を上げさせる。
アルトの瞳の色は――
水色に戻っていた。
「よか……良かった……アルト」
ルーカスの瞳からも涙が落ちた。
アルトの水色の瞳からは、いくつもいくつも涙が溢れてきた。
「僕……僕……。
愛してたのに……失ってしまった」
ルーカスは奥歯を噛みしめると、アルトを強く抱きしめる。
「……ごめん」
「失くしちゃったんだ」
「ごめんな、アルト」
アルトは両手で顔を覆って泣き続けた。
「ごめん。
……でも、お前を失わずにすんで……良かった……」
月光は溶け、
空が、ゆっくりと白み始める。
アルトは、自分の指先を見た。
木炭の汚れのついた手。
いつもの、自分の手。
「……ルーカス……、ありがとう……僕」
「もう……何も言うな」
「……うん」
波の音が遠くから聞こえる。
かすかな汽笛の音。
潮の香りを含んだ風。
白い花びらが一枚だけ、葉の上に落ちた。
朝陽に照らされ、
それは、溶けるように――
消えてしまった。




