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 ゆるやかに下る坂道。

 古いうねった石畳の道は、建物の隙間から差し込む青白い月光に照らされていた。


 アルトはスケッチブックを脇に抱えて、狭い道をゆったりと歩いていた。


 船の汽笛がかすかに聞こえてくる。

 坂道の向こうには、昼間なら海が見えるが、今は闇に沈んでいた。


 足音と、どこからか葉擦れの音。


 アルトは少しだけ目を閉じて、細い風を感じてみる。

 頬を撫でる夜風には、かすかに潮の香りが混ざっていた。

 彼の淡い金髪が、さわさわと揺れる。


 ふと、甘い香り。


 アルトはその水色の瞳を向けた。

 香りにつられるように、そちらに足を向ける。


 ブーツが石畳を打つ軽い音。


 細い道を抜けると、視界の先には、高い石塀に囲われた古い庭園。


 アルトは少しだけ迷った。

 だが、甘い香りに誘われるように、灰色の石で組まれたアーチをくぐった。


 長めの芝は湿り、踏みしめるとわずかに足が沈んだ。

 草と土の香り。

 アルトの肩ほどの高さに揃えられた薔薇の木が幾本も並び、道を作っている。


 庭園には、ガス灯は一本も立っていなかった。


 月光だけを頼りに、薔薇の道を進む。


 白色の薔薇。

 小さな蕾。


 アルトはそれをひとつずつ、眺めて歩いた。


 その先。

 他のものより背の高い一本の薔薇の木。


 花弁の多い大きな白い薔薇が一輪だけ、咲いていた。


 アルトは歩み寄ると、そっと手を伸ばした。


 真っ白な花弁は、しっとりと冷たい。

 月光を浴び、まるで光を放っているかのようだった。

 

 アルトは顔を寄せる。

 

 花弁に、触れたかどうかわからないほどの、淡いキスを落とした。


「……君は、とてもきれいだね」


 ふわりと漂う、甘い香り。

 

 静かな夜。

 風が吹き、白い花弁が舞う。

 

 アルトはスケッチブックを開くと、白薔薇を描いた。


 やがて、描き終わると彼はそれを脇に抱え、もと来た道を戻る。


 ◇


 庭へ続く両開きの扉は開け放たれ、陽射しと潮の香りが滑り込んでくる。


 アルトは大きなキャンバスに向かい、絵を描いていた。

 彼のアトリエからは、白い街並みの向こうに海が見える。


 テレピン油の匂い。

 壁際には乾いていないキャンバスがいくつも並んでいた。


 絵の具がこびりついている木床を踏みながらルーカスがアルトに近づいても、アルトは手を止めない。


 いつものことだ。


 アトリエの中ほどに置かれた絵の具と傷だらけのテーブルには、チーズが挟まれたパンとスープ、それからカンノーリが乗った盆。ルーカスはテーブルに寄ると、そのパンを手に取り、眉を寄せた。


「アルト……おい、これランチか?

 まさか食べてないのか?」


 アルトは手を止めずに、軽く笑う。


「なんか……気分が乗っちゃって」

「……分かるが、体を壊しては絵もかけなくなるだろう」


 パンを持ってアルトの脇に立つと、ルーカスはそれを彼の口に突っ込んだ。


「ほら、食え」

 

 アルトはパンを噛みちぎり、大人しく咀嚼する。


「……美味しい」

「だろう?

 ちゃんと食え」


 アルトがルーカスに向かって手を出すが、その手は木炭で真っ黒だった。


「……そんな手に渡せるわけがないだろう」


 アルトがルーカスを見上げると、焦げ茶の瞳が細められる。

 真っ白なシャツに刺繍の施された青のベスト。きっちりと撫でつけられた焦げ茶の髪。いかにも貴族然としたルーカス。


 一方でアルトは、柔らかい淡い金髪は手ぐしで整えただけ。ゆったりとした生成りのリネンシャツに、絵の具と油塗れの白いエプロンを掛けている。


「父さんがお前を拾ったのは正解だった。

 一人で生きていけないだろう……本当に世話が焼ける」


 アルトは口を開けた。

 ルーカスがパンを千切ってその口に放り込む。


「ルーカスがいるじゃないか」


 もぐもぐと口を動かしながらアルトが言うと、ルーカスはますます眉を寄せた。


「俺に一生世話させるつもりか!?」

「うん?」


 アルトは無邪気に笑う。

 それを見て、ルーカスはため息を吐きながらも、結局つられて笑った。


「……まぁ、俺が面倒みてやる。お前は存分に絵を描け」

「そこのカンノーリも取ってくれる?」

「本当にこいつは!」


 ルーカスがアルトの髪をぐしゃぐしゃにすると、アルトは声を立てて笑う。


 アトリエには、暖かいやわらかい風が吹き込んでいた。




 夜、アルトはまた街を散歩していた。

 

 白い石造りの建物が並ぶ街並み。

 壁には蔦がところどころ這っている。


 ガス灯は、ぼんやりと石壁を橙に染めるが、その明かりは弱い。

 月明かりのほうが、少し明るいくらいだった。


 編み上げブーツの紐が、彼が歩く度にかすかに揺れた。


 いつもは、思うがままに歩を進める。

 毎日少しずつ違う道を。

 けれどその夜、彼は昨晩訪れた古い庭に向かった。


 ガス灯の明かりから遠ざかり、月光だけが彼を庭に誘う。


 石のアーチをくぐると、心が震えるほどの甘い香りが鼻をくすぐった。


 彼の淡い金髪が風に揺れる。

 スケッチブックを抱える白い腕は、月明かりにぼんやりと滲んでいた。


 あの、大輪の白薔薇。


 その前に立ち、腰を屈めた時――


「……あなた」


 甘やかな女性の声。


 アルトは振り返った。


 緑と白薔薇だけの庭。

 ぐるりと囲う石の高い塀。

 月光だけが、この場所を知る。


 アルトは辺りを見回すが、声の持ち主は、見当たらなかった。


 彼の足元。

 白い花びらが一枚。


 アルトはそれを拾い上げた。

 香りを確かめる。

 水色の瞳を伏せ、唇に当てた。


 そのまま手のひらにのせて、彼は薔薇の道を戻る。

 

 月だけが、足元を照していた。


 葉を踏む音。

 ブーツの先が湿り、黒く染まる。


 淡い霧が立ち、全てが遠い夢のようだった。




 白い絵の具を絞り出した手から、アルミチューブが滑り落ちた。

 

 アルトは椅子に座ったまま、手を伸ばして拾い上げる。

 

「あれ」


 足元に、また白い花びら。

 手に取って香りを確かめると、薔薇の香りがした。


 アルトは、サイドテーブルに置いていたスケッチブックにそれをのせる。

 淡い光を浴びて、それはにわかに光沢を帯びていた。


 彼は、ふと、振り返った。


 風の流れが変わる。


 白塗りの木の扉を開けて入ってきたのは、ルーカスだった。

 アルトは目元をやわらかく緩める。


「差し入れ持ってきたぞ」

「ルーカス」


 彼の腕の中には食べ物ののった籠。オレンジ、固い丸パンにチーズ、小瓶のオリーブと赤ワイン。

 ルーカスはアルトまで歩み寄ると、キャンバスのそばに置いてあった台にオレンジを転がした。


「……いい香り」


 アルトが手を伸ばすが、その手をルーカスがはたき落とす。


「手を拭け」

「ルーカスは細かいんだよなぁ」


 渋々布切れで手を拭くと、指を広げてルーカスに見せる。

 彼はアルトの指を摘むと、その爪の間に入った絵の具に顔をしかめた。


「……無理だよ、これは」


 アルトは自分の手を見つめる。


「まぁ……仕方ないな。

 パン食うか?」


 ルーカスはキャンバスとスケッチブックをちらと見るが、特に何も言わずに大きなテーブルに近寄って籠を置いた。


 アルトがルーカスを見つめながら、口を開ける。


「……用意しろってことか?」

「いつもやってくれるじゃないか」

「甘やかした俺が悪かった」


 ルーカスはカフスのボタンを外し、袖をまくった。ナイフでチーズを切り落とし、パンにチーズとオリーブを挟む。それを二つ作る。


「ほれ」


 アルトのもとに戻ると、それを彼の口に突っ込んだ。


「最近綺麗な庭を見つけたんだ」

「また夜散歩してるのか?」

「夜は静かで良い」


 ルーカスは壁に背を預けながらパンを噛みちぎる。

 

「……あんまり夜出歩くなよ」

「なんで? 月がきれいだよ」

「お前みたいな浮世離れした男は攫われかねん」

「あっははは」


 アルトが軽く笑うのを見て、ルーカスは片眉を上げた。

 

「なぁ……散歩したいんなら朝俺と外出よう。海がきれいだ。 

 お前は肌が白すぎる」

「朝は寝てる時間だよ」

「……全くこいつは」


 アルトがまた声を上げて笑うと、ルーカスもつられて笑う。

 

 庭からは、かすかに波の音。

 潮を含んだ湿った風が吹き、

 花びらが、いつの間にか、落ちていた。



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