↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
9/27

約束の歌

前半おじいさん視点から始まります。

 まだ、自分が若かった頃、洒落た喫茶店の窓際に、彼女はいつも座っていた。

 自分とはまるで違う世界で育った人だった。上品な服、綺麗に手入れされた髪。けれど、彼女は誰かの身なりや家柄で態度を変えることは決してなかった。


「また勉強ですか?」

「試験が近いからな」

「働いて、学校にも行って。そのうえ勉強までして。倒れないで下さいね」

「そんなにやわじゃない」

「自分ではわからないだけかもしれませんよ」


 彼女が笑う。店内には、あの歌が流れていた。二人で珈琲を飲んだ。金がない日は、自分は一番安いものを頼んだ。彼女はそれに気づいていたはずなのに、何も言わなかった。ただ、いつも同じ席に座った。いつしか、彼女を好きになっていた。彼女もまた、自分を好きだと言ってくれた。けれど、


「すまない」


 ある日、海の見える丘で青年は言った。

「何がですか?」

「君との結婚だ」

 彼女は黙って青年を見る。

「俺は何も持ってない」

 金もない。立派な家もない。彼女に与えられるものなど何一つなかった。

「君の家だって反対する」

「するでしょうね」

「だったら——」

「それが?」


 男は言葉を失った。

 彼女は笑っていた。

「私は、あなたがいいんです」

「……どうして」

「あなただから、一緒にいたいんですよ」

彼女はそう言った。青年は俯いた。嬉しかった。それと同時に、同じくらい怖かった。自分に、この人を幸せにできるのだろうか。長い沈黙のあと、真っ直ぐに彼女を見つめた。

「いつか、ちゃんと君を幸せにする」


彼女が目を瞬く。

「指輪だって買う。今よりもっと立派になって……その時、もう一度ここで君に結婚を申し込む」

彼女はしばらく青年を見つめていた。やがて、小さく笑う。

「じゃあ、約束ですよ」

 細い小指が差し出された。青年は照れながら、自分の小指を絡めた。


 そして、二人は結婚した。家族から祝福された結婚ではなかった。二人だけの、小さな式だった。指輪すら用意できなかった。それでも、彼女は幸せそうに笑っていた。暮らしは楽ではなかった。男は朝から晩まで働いた。二人で食卓を囲み、安い食材で作った料理を「美味しい」と笑い合った。

 時には喧嘩もした。言葉を交わさない夜もあった。けれど翌朝には、どちらからともなく謝った。子どもには恵まれなかった。それを悲しんだ時期もあった。それでも、二人で生きていった。

 何もない日々だった。だが、何もないからこそ、小さな出来事を二人で喜んだ。

 季節の花が咲いたこと。仕事が少しうまくいったこと。喫茶店で久しぶりにあの曲を聞いたこと。

 そして、月日は流れた。二人が三十代になった頃。あの日青年だった男は、妻を港へ連れ出した。


「こんなところで何するの?」

「いいから」

「ふふ、今日は何か変ですね」

 海はあの日と同じように青かった。男は妻の前に立つ。そして、小さな箱を取り出した。

 妻は驚いたように、その箱を見た。中には、一つの指輪。


「……遅くなったけど」

 男の声が震えた。

「約束、守れたかな」

 妻は何も言わなかった。ただ、ぽろぽろと涙をこぼした。

「遅いわよ」

「……悪かった」

「本当に、遅い」

 そう言いながら、妻は笑った。その日、二人はもう一度、小さな結婚式を挙げた。今度は指輪と一緒に。あの歌を歌いながら、二人で幸せな涙を流した。

 それからも、二人の人生は続いた。華やかなものではなかったけれど、確かに幸せだった。



 歌が終わり、波音が戻ってくる。

 きららと咲音は、老人を見つめていた。老人はいつの間にか、一緒に歌を口ずさんでいた。目元がわずかに潤んでいる。


「……懐かしいなぁ」

 掠れた声だった。咲音が息を呑む。

「おじいさん……?」

「あの人じゃ」

 老人はゆっくり笑った。


「わしの……妻だった」

 咲音の目が大きくなる。きららも何も言わない。

「喫茶店も、丘も、この港も。……全部、あの人と来た場所じゃ」

 老人は、自分の両手を見つめた。

「わしは何も持っとらんでのぅ。でも、あの人は……わしがええと言ってくれた」

 それから老人は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。喫茶店で出会ったこと、恋をしたこと、結婚を反対されたこと、約束をしたこと。子どもには恵まれなくても、それでも幸せに二人で生きたこと。

 そして、二度目の結婚式。


「指輪を渡したらな……あの人、泣いたんじゃ」

 老人は懐かしそうに笑った。

「わしも泣いてしもうてなぁ」

 咲音の頬を、一筋の涙が伝った。

「素敵ですね……」

「そうかのう」

「はい」

 老人は再び海を見る。夏の光が、群青の水面に無数の煌めきを散らしていた。


「何もない人生だと思っとった」

 ゆっくりと、首を横に振る。

「違ったんじゃな」

 老人の目元が、ほんの少しだけ赤くなる。


「わしは……幸せだったんじゃなぁ」


 きららは唇をきゅっと結んだ。泣きそうになる。それでも笑った。

「うん」

 優斗も少し離れた場所で、黙って海を見ていた。

 海風が四人の間を吹き抜けていった。それは、何十年もの時間を越えて届いた、優しい風のようだった。



 数日後。咲音は一人で港を訪れた。空は今日も青い。老人はいつもの場所に座っていた。


「こんにちは」

 老人が振り返る。

「ああ……咲音ちゃん」

 名前を呼んでもらえたことに、咲音は微笑んだ。

「隣、いいですか?」

「もちろんじゃ」

 咲音は隣へ座った。二人で海を見る。少し迷ってから、咲音は尋ねた。

「ここは……大切な人との約束の場所だったんですよね」

 老人は海を見つめた。

「……約束?」

「はい」


 しばらく考える。

 けれど、

「……わからん。何の約束だったかの」

 咲音は目を伏せた。あの日、あれほど鮮明に語ってくれたのに。もう、ほとんど残っていない。

 分かっていた。思い出したからといって、失われた記憶が元通りになるわけではない。それでも胸の奥が、少しだけ痛んだ。

「でもな」

 老人の声がした。咲音が顔を上げる。

「ここにいると、不思議と優しい気持ちになるんじゃ」

 老人は穏やかな海を眺めていた。

「なんでかのう」


 咲音の瞳に、涙が滲んだ。心のどこかには、今も、きっと、ずっと残っている。


「……きっと、大切な場所だからですよ」

「そうかもしれんなぁ」

 老人は笑う。記憶は消えてしまうのかもしれない。名前も、顔も、いつか分からなくなるのかもしれない。けれどあの日、老人が語ってくれた人生を、咲音は覚えている。


『わしは……幸せだったんじゃなぁ』


 あの言葉を、咲音はきっと忘れない。忘れてしまう人がいるならば、覚えている人がいてもいい。咲音はそう思った。

 海から吹いてきた風が、肩までの薄桃色の髪を揺らす。老人が、またあの鼻歌を口ずさみ始めた。旋律は少し外れていた。二人分の音が、また一つに混ざっている。それでも咲音は知っている。その歌がどんな歌なのか。そしてその歌を、誰と聴いていたのか。咲音は何も言わず、老人の隣で海を見つめた。

 

 八月も半ばに入った。

 くじら島には、どこまでも夏の青が広がっていた。そして、その遥か向こうへ続いていく、名もない誰かの人生。たとえ記憶から消えても。確かにそこにあった幸せまで、なかったことにはならない。潮風の中、懐かしい歌だけが、いつまでも静かに流れていた。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。