約束の歌
前半おじいさん視点から始まります。
まだ、自分が若かった頃、洒落た喫茶店の窓際に、彼女はいつも座っていた。
自分とはまるで違う世界で育った人だった。上品な服、綺麗に手入れされた髪。けれど、彼女は誰かの身なりや家柄で態度を変えることは決してなかった。
「また勉強ですか?」
「試験が近いからな」
「働いて、学校にも行って。そのうえ勉強までして。倒れないで下さいね」
「そんなにやわじゃない」
「自分ではわからないだけかもしれませんよ」
彼女が笑う。店内には、あの歌が流れていた。二人で珈琲を飲んだ。金がない日は、自分は一番安いものを頼んだ。彼女はそれに気づいていたはずなのに、何も言わなかった。ただ、いつも同じ席に座った。いつしか、彼女を好きになっていた。彼女もまた、自分を好きだと言ってくれた。けれど、
「すまない」
ある日、海の見える丘で青年は言った。
「何がですか?」
「君との結婚だ」
彼女は黙って青年を見る。
「俺は何も持ってない」
金もない。立派な家もない。彼女に与えられるものなど何一つなかった。
「君の家だって反対する」
「するでしょうね」
「だったら——」
「それが?」
男は言葉を失った。
彼女は笑っていた。
「私は、あなたがいいんです」
「……どうして」
「あなただから、一緒にいたいんですよ」
彼女はそう言った。青年は俯いた。嬉しかった。それと同時に、同じくらい怖かった。自分に、この人を幸せにできるのだろうか。長い沈黙のあと、真っ直ぐに彼女を見つめた。
「いつか、ちゃんと君を幸せにする」
彼女が目を瞬く。
「指輪だって買う。今よりもっと立派になって……その時、もう一度ここで君に結婚を申し込む」
彼女はしばらく青年を見つめていた。やがて、小さく笑う。
「じゃあ、約束ですよ」
細い小指が差し出された。青年は照れながら、自分の小指を絡めた。
そして、二人は結婚した。家族から祝福された結婚ではなかった。二人だけの、小さな式だった。指輪すら用意できなかった。それでも、彼女は幸せそうに笑っていた。暮らしは楽ではなかった。男は朝から晩まで働いた。二人で食卓を囲み、安い食材で作った料理を「美味しい」と笑い合った。
時には喧嘩もした。言葉を交わさない夜もあった。けれど翌朝には、どちらからともなく謝った。子どもには恵まれなかった。それを悲しんだ時期もあった。それでも、二人で生きていった。
何もない日々だった。だが、何もないからこそ、小さな出来事を二人で喜んだ。
季節の花が咲いたこと。仕事が少しうまくいったこと。喫茶店で久しぶりにあの曲を聞いたこと。
そして、月日は流れた。二人が三十代になった頃。あの日青年だった男は、妻を港へ連れ出した。
「こんなところで何するの?」
「いいから」
「ふふ、今日は何か変ですね」
海はあの日と同じように青かった。男は妻の前に立つ。そして、小さな箱を取り出した。
妻は驚いたように、その箱を見た。中には、一つの指輪。
「……遅くなったけど」
男の声が震えた。
「約束、守れたかな」
妻は何も言わなかった。ただ、ぽろぽろと涙をこぼした。
「遅いわよ」
「……悪かった」
「本当に、遅い」
そう言いながら、妻は笑った。その日、二人はもう一度、小さな結婚式を挙げた。今度は指輪と一緒に。あの歌を歌いながら、二人で幸せな涙を流した。
それからも、二人の人生は続いた。華やかなものではなかったけれど、確かに幸せだった。
歌が終わり、波音が戻ってくる。
きららと咲音は、老人を見つめていた。老人はいつの間にか、一緒に歌を口ずさんでいた。目元がわずかに潤んでいる。
「……懐かしいなぁ」
掠れた声だった。咲音が息を呑む。
「おじいさん……?」
「あの人じゃ」
老人はゆっくり笑った。
「わしの……妻だった」
咲音の目が大きくなる。きららも何も言わない。
「喫茶店も、丘も、この港も。……全部、あの人と来た場所じゃ」
老人は、自分の両手を見つめた。
「わしは何も持っとらんでのぅ。でも、あの人は……わしがええと言ってくれた」
それから老人は、ぽつり、ぽつりと話し始めた。喫茶店で出会ったこと、恋をしたこと、結婚を反対されたこと、約束をしたこと。子どもには恵まれなくても、それでも幸せに二人で生きたこと。
そして、二度目の結婚式。
「指輪を渡したらな……あの人、泣いたんじゃ」
老人は懐かしそうに笑った。
「わしも泣いてしもうてなぁ」
咲音の頬を、一筋の涙が伝った。
「素敵ですね……」
「そうかのう」
「はい」
老人は再び海を見る。夏の光が、群青の水面に無数の煌めきを散らしていた。
「何もない人生だと思っとった」
ゆっくりと、首を横に振る。
「違ったんじゃな」
老人の目元が、ほんの少しだけ赤くなる。
「わしは……幸せだったんじゃなぁ」
きららは唇をきゅっと結んだ。泣きそうになる。それでも笑った。
「うん」
優斗も少し離れた場所で、黙って海を見ていた。
海風が四人の間を吹き抜けていった。それは、何十年もの時間を越えて届いた、優しい風のようだった。
数日後。咲音は一人で港を訪れた。空は今日も青い。老人はいつもの場所に座っていた。
「こんにちは」
老人が振り返る。
「ああ……咲音ちゃん」
名前を呼んでもらえたことに、咲音は微笑んだ。
「隣、いいですか?」
「もちろんじゃ」
咲音は隣へ座った。二人で海を見る。少し迷ってから、咲音は尋ねた。
「ここは……大切な人との約束の場所だったんですよね」
老人は海を見つめた。
「……約束?」
「はい」
しばらく考える。
けれど、
「……わからん。何の約束だったかの」
咲音は目を伏せた。あの日、あれほど鮮明に語ってくれたのに。もう、ほとんど残っていない。
分かっていた。思い出したからといって、失われた記憶が元通りになるわけではない。それでも胸の奥が、少しだけ痛んだ。
「でもな」
老人の声がした。咲音が顔を上げる。
「ここにいると、不思議と優しい気持ちになるんじゃ」
老人は穏やかな海を眺めていた。
「なんでかのう」
咲音の瞳に、涙が滲んだ。心のどこかには、今も、きっと、ずっと残っている。
「……きっと、大切な場所だからですよ」
「そうかもしれんなぁ」
老人は笑う。記憶は消えてしまうのかもしれない。名前も、顔も、いつか分からなくなるのかもしれない。けれどあの日、老人が語ってくれた人生を、咲音は覚えている。
『わしは……幸せだったんじゃなぁ』
あの言葉を、咲音はきっと忘れない。忘れてしまう人がいるならば、覚えている人がいてもいい。咲音はそう思った。
海から吹いてきた風が、肩までの薄桃色の髪を揺らす。老人が、またあの鼻歌を口ずさみ始めた。旋律は少し外れていた。二人分の音が、また一つに混ざっている。それでも咲音は知っている。その歌がどんな歌なのか。そしてその歌を、誰と聴いていたのか。咲音は何も言わず、老人の隣で海を見つめた。
八月も半ばに入った。
くじら島には、どこまでも夏の青が広がっていた。そして、その遥か向こうへ続いていく、名もない誰かの人生。たとえ記憶から消えても。確かにそこにあった幸せまで、なかったことにはならない。潮風の中、懐かしい歌だけが、いつまでも静かに流れていた。




