心の奥に残るもの
九月になった。けれど、くじら島の夏はまだまだ終わらない。朝から照りつける陽射しは先月とほとんど変わらず、くじら学園の白い校舎や石畳を眩しく照らしていた。校庭を囲む木々からは蝉の声が絶え間なく降り注ぎ、遠くから聞こえる波音さえ、その大合唱に飲み込まれている。
開け放たれた二年C組の窓からは、潮の匂いを含んだ風が吹き込んでいた。休み時間、きららは窓際に立ち、両腕を広げて真正面から風を受けていた。
「あ〜……生き返る〜」
高い位置で結んだ青いポニーテールが、白いカーテンと一緒にふわりと舞い上がる。毛先へ向かうほど淡い水色へ変わる髪が、窓から差し込む陽射しを透かしてきらきらと輝いた。
「お前、さっきからそこ動かないな」
自分の席に座っていた優斗が、呆れたように声を掛ける。
「だってここ、風が一番気持ちいいんだもん!」
「後ろの奴らまで風が届かないだろ」
「えっ?」
きららが振り返った。
窓から入ってくる風を、長い髪と身体で見事に受け止めている。
「……私、風止めてた?」
「見事にな」
「そんなつもりなかったのに!」
「謝っとけ」
「ごめんね、風!」
「そっちじゃねえよ」
間髪入れずに返され、近くにいたクラスメイトから笑い声が上がった。
「青波、ちょっと横にずれてくれよ!」
「ご、ごめーん!」
きららが慌てて窓の横へ移動すると、遮るものを失った風が一気に教室の奥まで駆け抜けた。
「おお、涼しい!」
「今まで全部青波が止めてたのかよ!」
「わざとじゃないってば!」
頬を膨らませながらも、きららは懲りずに窓から顔だけを出す。
青い空に白い雲。校舎の向こうには、陽光を反射して輝く海が見える。
「でもやっぱり、ここ最高!」
「落ちるなよ」
「二階から?」
「階数の問題じゃねえ」
「大丈夫だって!」
「お前の『大丈夫』が一番信用できねえんだよ」
「ひどっ!」
ちょうどその時、授業の始まりを知らせる鐘が鳴った。教室の扉が開く。
「皆さん、席へ戻ってくださいね」
穏やかな声とともに入ってきたのは、翠簾野だった。白から淡い緑へ移ろう肩までの髪を後ろで一つに結び、薄紫の瞳で教室を見渡す。
そして、窓から顔を出しているきららを見つけた。
「きららさんも、そろそろ教室へ戻ってきてください」
「先生、私ちゃんと教室にいます!」
「半分ほど外に出ていますよ」
「あ」
きららは自分の身体を確認する。
「落ちたら僕でも困りますからね」
「はーい」
ようやく窓から離れたきららに、また小さな笑いが起こった。
いつもと変わらない学園生活。いつもと変わらない友人たち。それでも、きららの中には、この夏に出会ったものが少しずつ積み重なっていた。
港で出会った老人。その隣で、何度忘れられても諦めなかった咲音。珈琲の香り。懐かしい歌。そして、何十年もの時間を越えて残っていた一つの約束。
——歌は誰かへ届いて初めて意味を持ちます。
以前、翠簾野から言われた言葉を、きららは以前よりほんの少しだけ分かるようになった気がしていた。
放課後、合唱部の練習を終えたきららは、校舎から出るなり大きく伸びをした。
「んーっ! 今日も歌ったぁ!」
「毎日よくそんな元気残ってんな」
後ろから鞄を肩に掛けた優斗がやってくる。
「歌うと元気になるんだよ!」
「朝は暑いって騒いでたくせに」
「あれは暑かったから!」
「今も暑いだろ」
「歌ったから平気!」
「便利な身体だな」
「いいでしょー」
二人で校門を出る。西へ傾き始めた陽射しが石畳を照らし、道沿いの木々からはまだ蝉の声が聞こえていた。港へ向かう道と、住宅街へ続く道との分かれ目に差しかかったところで、きららがふいに足を止めた。
「あ」
「今度はなんだ?」
優斗も立ち止まる。きららは港へ続く坂道の向こうを見ていた。
「藍ちゃん」
「ああ、この前言ってた子か?」
「うん!」
それだけ答えると、きららは駆け出した。
「おい!」
「先行っててー!」
「ったく……」
優斗は止めなかった。
代わりに、遠ざかる青いポニーテールへ声を飛ばす。
「転ぶなよー!」
「大丈夫ー!」
きららが振り返って手を振る。次の瞬間。
「わっ!」
石畳の段差に足を引っ掛けた。
「ほら見ろ!」
「転んでないからセーフ!」
「基準がおかしいんだよ!」
優斗の声を背中で聞きながら、きららは港へ向かって走っていった。
夕暮れには、まだ少し早い。頭上には夏の名残をそのまま閉じ込めたような空色が広がり、海面には午後の光が細かな銀色となって散っている。
防波堤の先、藍はいつもの場所にいた。白いワンピースの裾が潮風に揺れ、パープルブルーの髪が頬へかかっている。膝の上には、見慣れた一冊のノート。
「藍ちゃーん!」
呼ばれて、藍が顔を上げる。
「きらら」
「久しぶり!」
「……三日ぶり」
「三日も会ってないじゃん!」
「それを久しぶりって言うの?」
「私は言う!」
藍は呆れたようにきららを見る。けれど、初めて出会った頃のような刺々しさはなかった。
「隣、いい?」
「もう座ってるけど」
「ほんとだ」
きららはいつの間にか藍の隣へ腰を下ろしていた。
「じゃあ、いいってことね!」
「……好きにすれば」
そう言いながら、藍はほんの少しだけ身体を横へずらした。きららが座りやすいように。
「えへへー!あ、そうだ!」
きららは思い出したように藍へ向き直った。
「あの曲、見つけたよ!」
「曲?」
「おじいさんの鼻歌!」
「ああ……」
「藍ちゃんの言った通り、本当にデュエット曲だった!」
「やっぱり」
「それでね、咲音ちゃんと一緒に歌ったの!」
藍の金色の瞳がきららへ向く。
「おじいさんの前で?」
「うん!」
きららは、先日の出来事を一つずつ話し始めた。学校で古い楽譜を探したこと。咲音と二人で練習したこと。休日に優斗も一緒に港へ行ったこと。歌の中にあった『約束』という言葉を聞いた瞬間、老人の記憶がつながったこと。そして、亡くなった妻との人生を語ってくれたこと。
「若い頃のおじいさん、すっごく貧乏だったんだって」
「……そう」
「奥さんは良いところのお嬢さんだったみたい。でも、おじいさんがいいって言ってくれたんだって」
藍は口を挟まず、静かに聞いている。
「最初に結婚した時は、指輪も買えなかったんだって。でも、いつかちゃんと指輪を買って、もう一度プロポーズするって約束して」
きららの声が少しだけ柔らかくなる。
「何年も経ってから、本当に約束を守ったんだって」
「素敵だね」
「うん」
きららは膝を抱え、海を見た。
「おじいさんね、最後に『自分は幸せだった』って言ったんだ」
海から吹く風が二人の髪を揺らす。
「でも、数日したら……またほとんど忘れちゃったみたい」
藍の瞳が僅かに伏せられた。
「咲音ちゃんから聞いたんだけどね。それでも、あの港にいると優しい気持ちになるんだって」
「……そう」
「不思議だよね」
「不思議じゃないと思う」
「え?」
藍は膝のノートへ視線を落とした。
「覚えてなくても、残るものはあるんじゃない?」
「残るもの?」
「理由は忘れても……好きだったとか、嬉しかったとか」
言葉を探すように、少し間を置く。
「そういうものまで全部、記憶と一緒に消えるとは限らないから」
きららは藍の横顔を見つめた。そして、ぱっと笑う。
「藍ちゃんって、やっぱりすごいね!」
「何が?」
「言葉にするの上手!」
「……それ、褒めてる?」
「めちゃくちゃ褒めてる!」
「きららに言われると微妙」
「なんで!?」
藍が淡々と続ける。
「お魚さんもこんにちは」
「まだ言うの!?」
「忘れられないから」
「そんなところで記憶力発揮しないでよ!」
藍の口元が緩む。きららも頬を膨らませたまま、やがて吹き出した。二人の笑い声が、波音に重なるように響いていた。




