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綴る想いは消しゴムとの葛藤

 笑いが収まった頃、きららは藍の膝の上へ目を向けた。

「それ、あれから進んだ?」

 藍の指がノートの表紙をなぞる。

「……少し」

「見たい!」

「だめ」

「また即答!」

「まだ途中だから」

「前もそれ言ってたじゃん」

「途中なんだから仕方ないでしょ」

「じゃあ、いつ見せてくれるの?」

「完成したら」

「いつ完成するの?」

「分からない」


「えぇー……」

 きららが露骨に肩を落とした。藍は横目でその姿を見る。

「……少しだけなら」

「ほんと!?」

 勢いよく身を乗り出す。

「近い」

「あ、ごめん」

 藍の手のひらが、きららの額を押し戻した。

「ここから見て」

「はーい」


 開かれたページには、何度も書いては消した跡が残っていた。一行。また一行。

 整った文字の隣には別の言葉が書き込まれ、その横には線が引かれている。余白にも小さな文字が並び、たった一つの表現を選ぶために何度も迷ったことが伝わってきた。


「すご……」

「何が?」

「こんなに直すんだ」

「納得できないから」

「私だったら最初に思いついたやつでいっちゃうなぁ」

「知ってる」

「なんで?」

「お魚さん」

「もう忘れてってば!」

 藍がくすくす笑う。きららも笑いながら、再びページへ目を落とした。けれど、次第にその表情が変わっていく。


「……綺麗」

 今度の声は、静かだった。藍の指が止まる。

「何が?」

「言葉」

 きららはノートから目を離さない。

「なんていうか……景色が見える」

「景色?」

「うん。読んでると、頭の中に空とか海とか……風とか、そういうのが浮かんでくる」

 藍は黙っている。

「私だったら絶対こんなふうに書けない」

「それは知ってる」

「そこは否定してよ!」

「事実だから」

「うぅ……」

 きららは一度唇を尖らせたものの、すぐにまたノートを見る。


「でも、本当に好きだよ。

 藍の表情が止まった。

「……そう」

 短い返事だった。けれど、藍はページを閉じなかった。

 潮風が吹く。紙の端がぱらぱらと揺れた。


「これって、曲はあるの?」

「ない」

「歌詞だけ?」

「うん」

「じゃあ、いつか曲をつけるの?」

 藍は答えなかった。

「藍ちゃん?」


「……つけたかった」

 弱い声だった。


「前は」

 藍はゆっくりとノートを閉じる。

「自分で歌うつもりだったから」

 きららの笑顔が消えた。

「歌詞を書いて」

「旋律を考えて」

「自分で歌う」

 白い指が、ノートの表紙をぎゅっと掴む。

「そうするつもりだった」

「……藍ちゃん」

「でも、もう無理だから」

 その言葉だけが、妙に冷たく響いた。

「別に」

 藍は海を見つめる。

「今さらどうにもならないし」

 けれど、その声は少しも「別に」とは聞こえなかった。きららは何も言えなかった。いつもの自分なら、きっとすぐに何かを言っていたかもしれない。


 大丈夫。なんとかなるよ。一緒に頑張ろう。


 けれど、そのどれも今は違う気がした。歌える自分が、歌えない藍に何を言えるのだろう。だからきららは、ただ隣に座っていた。

 しばらく二人の間を、波音だけが満たした。


「……ごめん」

 先に口を開いたのは藍だった。

「変な話した」

「変じゃないよ」

「でも——」

「聞けてよかった」

 藍が顔を上げる。きららは海を見つめたままだった。

「私、藍ちゃんのこと、まだ全然知らないから」

「……知ってどうするの?」

「分かんない」

「何それ」

「だって、まだ分かんないもん」

 きららはそこで藍を見る。

「でも、知りたいとは思ってる」

 あまりにも真っ直ぐな言葉だった。藍は視線を逸らした。


「……変な子」

「よく言われる!」

「褒めてない」

「それもよく言われる!」

 藍は小さく息を吐いた。少しの沈黙。やがて、その手が自分の喉元へ触れた。


「私は十二歳の時、喉を壊したの」

 きららが振り向く。藍は海を見たままだった。

「次の年に、アンドロメダオーディションがあったから」

 十三歳。初めて挑戦できる、五年に一度の機会。

「絶対に煌星の天使になりたかった」

 藍の指先が、喉元で僅かに動く。

「だから歌った」

「毎日、ずっと」

「喉が痛くても、声が掠れても」

 弱い声が、波音の間を縫って届く。

「休んだら、その分だけ誰かに追い越される気がしたから」

 きららは黙って聞いていた。

「ある朝、声がほとんど出なくなった」

 そこで藍は一度、言葉を切った。

「それから……歌えなくなった」


 遠くで蝉が鳴いている。明るい夏の空の下。

その話だけが、光の届かない深い海へ沈んでいくようだった。

「治療もした。十三歳の時は無理でも、十八歳までにはって思ってた。また、次があるって」

 今回のアンドロメダオーディション。十八歳になった藍にとって、それが最後の機会だった。

「ずっと……それだけ考えてた」


 金色の瞳が僅かに揺れる。

「でも、間に合わなっかった」


 唇が微かに震えた。

 きららの胸の奥が、ぎゅっと締めつけられる。自分も十七歳。今回を逃せば、もう次のオーディションには挑戦できない。最後の機会を失う怖さなら、少しは分かる。けれど、歌いたいのに、歌うことそのものができない。その苦しさだけは、想像することしかできなかった。


「……だから、今も歌詞を書いてるの?」

 きららが静かに尋ねた。

「歌えなくても、歌詞なら書けるから?」

「……そうかもしれない」

 藍はノートを見つめる。きららも、その表紙を見た。何度も書いて、消して、また書いて。歌えなくなった今も、藍は歌から離れようとしていない。


「歌……嫌いにならなかったんだね」

 藍の表情が止まった。

 長い沈黙のあと。

「……嫌いになれたら、もっと楽だったかもね」

小さくそう呟いた。


 きららは答えなかった。何も言えなかった。

ただ、その言葉だけは忘れないようにしようと思った。


 やがて西の空が淡い橙色へ染まり始める。鮮やかだった海の青も、少しずつ深みを増していた。藍が立ち上がる。

「そろそろ帰る」

「うん」

 きららも腰を上げた。藍はノートを大切そうに鞄へしまう。二人で少しだけ歩いたところで、藍が足を止めた。

「きらら」

「ん?」

「おじいさんの話」

 藍はほんの少しだけ笑った。

「聞かせてくれて、ありがとう」

「うん!」

 それだけ言うと、藍は歩き出した。白いワンピースが、夕暮れの道を少しずつ遠ざかっていく。きららはその背中を見送った。そしてふと、藍が抱えていたノートを思い出す。あの中には、まだ誰の声にもなっていない言葉がある。歌になるはずだった言葉。藍が、自分の声で届けるはずだった言葉。


「……歌いたかったよね」


 ぽつりと呟く。当たり前のことなのに。今まで、その意味を本当には分かっていなかった。  

 きららは空を見上げる。夕暮れの空色は少しずつ深まり、その向こうには紺藍の夜が待っていた。遠く、もっと遠く。あの夜空の向こうに、星の女神がいる。

 幼い頃から、そう思ってきた。だから歌姫になりたかった。世界へ歌を届けたかった。その夢は、今も少しも変わっていない。けれど今日、きららは初めて知った。同じ空の下に、届けたい言葉を持っているのに、それを自分の声では届けられない人がいることを。

 歌えなくても、それでも歌詞を書き続ける藍。あのノートに並んでいた、まだ声を持たない言葉。きららは、まだ知らない。藍が本当に叶えたい願いを。

 九月の海を渡る風が、きららの長いポニーテールを大きく揺らした。防波堤には、もう誰もいない。ただ波だけが、まだ言葉を持たない歌のように、何度も何度も岸へ届いていた。



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