静寂の詩
九月も半ばに差しかかっていた。くじら島では、まだ夏が続いている。
昼休みの中庭には強い陽射しが降り注ぎ、木陰に置かれたベンチだけが生徒たちの避難場所になっていた。遠くでは蝉が鳴き、抜けるような青空には大きな入道雲が浮かんでいた。
「……できた!」
木陰のベンチで、きららがノートを掲げた。
隣でパンを食べていた優斗が、その手を止める。
「何が」
「歌詞!」
「……歌詞?」
「うん!」
きららは得意げにノートを差し出した。
「昨日、藍ちゃんの歌詞見せてもらったでしょ?」
「俺に聞くな。俺はいなかった」
「あ、そっか」
「大丈夫か、お前」
「それでね!」
「無視かよ」
きららは気にせず続ける。
「私も書いてみたの!」
「なんで?」
「藍ちゃんがすっごく綺麗な歌詞書くから、私もできるかなって!」
優斗は嫌な予感しかしなかった。
「……見せてみろ」
「今回はちゃんと考えたよ! お魚も出てこない!」
差し出されたノートを受け取る。数秒後、優斗の眉間に深い皺が寄った。
「どう?」
「……」
「ねえ、どう?」
青い空を見上げたら
とっても青くて綺麗だな
白い雲も浮かんでる
今日も一日頑張ろう!
「これは日記か?」
「歌詞だよ!」
「小学生の夏休みの日記だろ」
「ちゃんと歌詞のつもりで書いたの!」
「最後の『今日も一日頑張ろう!』はなんだよ」
「前向きでいいかなって」
「朝礼か?」
「もう!」
木々の隙間から落ちた光が、きららのノートを照らす。きららはもう一度、自分の四行を眺めた。やっぱり藍の言葉とは全然違う。
「でも……」
「ん?」
「藍ちゃんの歌詞って、もっとすごいんだよね」
きららはノートを膝の上へ置いた。
「同じ空とか海を書いてても、読んでると本当にその景色の中にいるみたいなの。風が吹いてる感じまで分かるっていうか……」
言葉を探しながら、両手を動かす。
「私も空を書いたのに、なんか違う」
優斗は少し考えた。
「そりゃ違うだろ」
「やっぱり?」
「その藍って子、ずっと歌詞書いてるんだろ?」
「うん」
「だったら、昨日今日始めたお前が同じように書けなくても普通じゃないか?」
きららが瞬きをした。木々の向こうで、風に押された白い雲がゆっくり流れている。
「歌だってそうだろ」
優斗が続ける。
「お前だって、ずっと歌ってきたから今みたいに歌えるんじゃないの?」
「……うん」
「なら同じだろ」
きららはしばらく考え込んだ。やがて、納得したように頷く。
「そっか」
そして、ぱっと笑った。
「じゃあ、私が下手なんじゃなくて、藍ちゃんがすごいってこと?」
「まあ……」
優斗は一瞬言葉に詰まる。
「お前が上手いかどうかは、これからだな」
「えー!」
「まだ一作目だろ?」
「そうだけど……」
「なら、いきなり諦めなくてもいいだろ」
優斗はそう言って、残っていたパンを一口かじった。
きららは少し意外そうに隣を見る。
「優斗、私に作詞続けてほしいの?」
「別に。やりたいならやればってだけ」
「じゃあ明日も書こうかな!」
「急にやる気出すな」
「だって、上手くなるかもしれないんでしょ?」
「歌の練習も忘れるなよ」
「あ」
「忘れてたな?」
「忘れてない!」
慌てて否定するきららを見て、優斗は楽しそうに笑った。きららもつられて笑う。それから、もう一度ノートへ視線を落とした。
「でも、やっぱり藍ちゃんってすごいなぁ」
ぽつりと零れた声には、先ほどまでの悔しさはなかった。純粋な感心だけが残っている。
歌えなくなったあとも。誰に聴かせるでもなく。何度も書いて、消して、それでも言葉を紡ぎ続けてきた。その時間を思うと、ノートに並んだ一つ一つの言葉が、前より少し違って見える気がした。
「お前はお前の得意なことやればいいんじゃないか?」
隣から聞こえた声に、きららは顔を上げる。
「私の得意なこと?」
「歌」
優斗は当たり前のように言った。
「歌うの、好きなんだろ?」
「うん!」
「だったら、それでいいじゃん」
木陰を抜けた風が、きららのポニーテールを揺らした。その言葉が妙に嬉しくて、きららは大きく頷いた。
「うん!」
放課後、合唱部の練習を終えたきららは、港へ続く坂道を歩いていた。昼間の強い陽射しは少しずつ傾き、街並みには長い影が伸び始めている。軒先に干された洗濯物が潮風に揺れ、どこかの家から夕食の支度をする香りが漂ってくる。坂の向こうには光を散らす海が見えた。最近では、この道を歩くことが増えた。理由は一つ。
「今日、いるかなぁ」
呟きながら坂を下る。藍とは毎日会えるわけではない。別の学校へ通っているのだから、授業の終わる時間も違う。それでも、きららは時間があれば防波堤を覗くようになっていた。
いなければ帰る。いれば話す。そんな曖昧な約束が、いつの間にか二人の間にできていた。
港では、白い帆船がゆっくりと岸壁へ近づき、船乗りたちの掛け声が聞こえていた。水面を滑るカモメの影を目で追いながら、防波堤へ向かう。そして、
「あ!」
白いワンピースにパープルブルーの髪、膝の上には、いつものノート。見慣れ始めた後ろ姿を見つけ、きららの足取りが自然と速くなる。
「藍ちゃーん!」
声に気づいた藍が振り返った。
「きらら」
「今日もいた!」
「私の方が先に来てたけど」
「じゃあ藍ちゃんが私を見つけた?」
「そういう話じゃないでしょ」
藍の口元が僅かに緩む。きららは嬉しそうに隣へ腰を下ろした。目の前には海が広がっている。防波堤へぶつかった波が白い泡を残し、すぐに次の波へさらわれていった。
「今日ね、私も歌詞書いてみたんだ」
藍が横を見る。
「きららが?」
「その反応、優斗と同じ!」
「だって……」
「何?」
「なんでもない」
「絶対何か言おうとした!」
藍が小さく笑った。
「それで、どうだった?」
「難しかった!」
きららは即答した。
「空が青いとか、雲が白いとか、見たまましか書けなかった」
「最初はそんなものじゃない?」
「藍ちゃんも?」
「……私はどうだったかな」
藍は少し考える。
「昔のは恥ずかしくて見せられない」
「見たい!」
「絶対嫌」
「えー!」
藍がまた笑う。初めて会った頃には、ほとんど見られなかった表情。きららはそれが嬉しかった。だからなのかもしれない。最近、ここへ来るのが楽しみになっている。
「そうだ」
きららは藍の膝を見る。
「今日は進んだ?」
「……少し」
藍の指がノートの表紙をなぞる。少し迷ってから、ゆっくりページを開いた。
「前に見せたところ、変えた」
「えっ、変えちゃったの?」
「気に入らなかったから」
「私、好きだったのに」
「私が納得できなかったの」
「厳しい……」
「自分の歌だから」
その言葉に、きららは何となく納得した。藍の肩越しにページを覗く。何度も消した跡と書き加えられた文字。迷いながら選び直した言葉。そこには、以前とは少し違う景色が広がっていた。
きららはいつしか喋ることも忘れ、文字を追っていた。風がページをめくろうとする。藍が指先で紙を押さえた。
「……これ」
「何?」
「前より、寂しくなった?」
藍の指が止まる。
「そう?」
「うん」
きららはページを見つめたまま考える。
「前はもっと……遠くまで行きたいって感じだった。でも今は」
言葉が上手く出てこない。それでも、感じたことをそのまま伝えようとする。
「遠くに行きたいんじゃなくて、遠くにいる誰かに見つけてほしいみたい」
藍は黙っていた。金色の瞳が、紙の上の言葉を見つめている。
「違った?」
「……分からない」
「そっか」
きららはそれ以上聞かなかった。目の前で海鳥が一羽、水面近くを横切っていく。しばらく二人でその姿を眺めた。
「ねえ、きらら」
藍が静かに口を開く。
「ん?」
「歌って、誰のために歌うものだと思う?」
思いがけない質問だった。
「誰のため……」
きららは膝を抱え、海を見つめた。今までそんなことを改めて考えたことはなかった。歌いたいから歌う。楽しいから歌う。そして、自分の歌で誰かが笑ってくれたら嬉しい。
「聴いてくれる人……かな」
「やっぱり?」
「でも、自分のためでもあると思う」
藍が顔を上げる。
「私、歌うの好きだから」
きららは笑った。
「誰もいなくても歌うし」
「……そうだろうね」
「お風呂でも歌うよ!」
「それは聞いてない」
「すっごく響くんだよ!」
「ふふっ」
藍が笑った。きららもつられて笑う。夕方の海へ、二人の声が広がっていく。やがて笑い声が途切れたあと。藍はノートの上へ手を置いた。
「私は……」
その声が、少しだけ変わった。
「誰かに聴いてほしかったのかもしれない」
きららは黙って横顔を見る。
「歌姫になりたかったのも、もちろんあるけど」
藍は水平線へ目を向けた。
「自分の歌が、誰かのところまで届くのが好きだった」
潮風にパープルブルーの髪が揺れる。
「知らない誰かが聴いて、その人の中にほんの少しでも残ったら」
藍は遠くを見るように微笑んだ。
「それって、すごいことだと思わない?」
「思う!」
きららは迷わなかった。老人のことを思い出した。何十年も前に喫茶店で流れていた歌。曲名も、歌詞も忘れてしまった歌。けれど旋律だけは、ずっと心のどこかに残っていた。
「歌って、残るんだよ」
「え?」
「おじいさんの歌もそうだった」
きららは海へ視線を戻す。
「あんなに昔の歌なのに、ずっと残ってた。だから藍ちゃんの歌だって、誰かに届いたら、その人の中に残るかもしれない」
藍の金色の瞳が揺れた。
「……でも」
ゆっくりと、その手が喉元へ触れる。
「もう、私は歌えない」
きららは口を閉じた。波が一つ、防波堤へぶつかる。白い飛沫が上がった。
どれほど歌詞を書いても、どれほど歌が好きでも。最後には、いつもそこへ戻ってしまう。
——歌えない。
藍はノートを閉じた。
「だから……意味ないのかもしれないね」
「そんなことない!」
考えるより早く、きららの声が出ていた。藍が驚いて顔を上げる。
「だって、こんなに綺麗なのに!」
「きらら……」
「誰にも聴いてもらえないなんて、おかしいよ」
「でも、歌詞だけじゃ歌にはならない」
「だったら曲をつければいい!」
「誰が?」
「……」
きららが止まる。藍が少し寂しそうに笑った。
「それに」
閉じたノートへ視線を落とす。
「曲ができても、歌う人が、いないから」
歌う人。その言葉が、きららの胸へ落ちた。風が吹き、長い青髪が大きく揺れ、毛先の水色が夕陽を受けて淡く輝いた。
「……いるよ」
「え?」
「私がいる」
藍の瞳が見開かれる。きらら自身も、自分の口から出た言葉に少し驚いていた。けれど、次の言葉は迷わなかった。
「私、歌えるよ」
「……」
「だから、藍ちゃんがよかったら——」
「だめ」
強い声だった。きららの言葉が途切れる。藍自身も、自分の声に驚いたように目を伏せた。さっきまで穏やかだった空気が、突然行き場を失ったようだった。
「……ごめん」
「藍ちゃん?」
「そういう意味じゃない」
藍はノートを胸元へ抱いた。
「まだ完成してないし……今は、誰かに歌ってもらうために書いてるわけでもないから」
「……そっか」
「うん」
波音だけが聞こえる。夕陽が少しずつ傾き、海の青に橙色が混じり始めていた。きららは自分の膝を見つめる。何か悪いことを言ったのだろうか。藍を傷つけたのだろうか。分からない。
ただ、あの「だめ」という一言だけが、胸の奥へ小さな棘のように残った。
「……今日は帰るね」
藍が立ち上がる。
「え、もう?」
「うん」
「……そっか」
藍はノートを鞄へしまい、きららへ背を向けた。白いワンピースが風に揺れる。数歩進んだところで、藍が立ち止まった。
「きらら」
「ん?」
「ごめん」
「え?」
藍は振り返らない。
「怒ってるわけじゃないから」
それだけ言って、再び歩き始めた。
「……うん」
きららの返事は、波音に消えそうなほど小さかった。遠ざかっていく白い背中。その姿が港の街並みに消えても、きららはしばらく同じ場所に立っていた。いつの間にか、空は夕暮れの色へ変わっていた。




