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あなたとandante

 翌日の昼休み。優斗は向かい側に座るきららを、しばらく黙って眺めていた。

 昨日と同じ中庭、同じ木陰。頭上では蝉が鳴き、葉の隙間から落ちた光が二人の足元で揺れている。けれど昨日とは違って、きららは妙に静かだった。パンを食べながら、時折ぼんやりと空を見ている。


「……なあ」

「ん?」

「今日は随分静かだな」

「私だって静かな時くらいあるよ」

「まあ、なくはないけど」

「あるでしょ!」

「でも珍しい」

 きららはパンを一口かじる。いつもの勢いがない。優斗は少しだけ表情を改めた。


「何かあった?」

「……そんな顔してる?」

「ちょっとな」

 きららは膝の上に置いた手元へ視線を落とした。風が吹き、ポニーテールが肩から滑り落ちる。しばらく迷ってから、昨日の出来事を話した。藍の歌詞、誰かに届けたいという気持ち。


「私が歌うって言ったら……だめって言われた」

「そっか」

 優斗はそれ以上すぐには何も言わなかった。きららも黙っている。

「怒らせちゃったのかな」

「怒ってるわけじゃないって言われたんだろ?」

「うん」

「なら、それは信じていいんじゃないか?」

「でも……」

 きららは木漏れ日を見つめる。

「私、余計なこと言ったかな」

 優斗は少し考えた。

「それは、その子にしか分からないけどさ」

「うん」

「お前がその歌を歌いたいって思ったことまで、悪いわけじゃないだろ」

 きららが顔を上げる。


「ただ」

 優斗は木の幹へ背中を預けた。

「お前って、思いついたらすぐ走るじゃん」

「……走る」

「実際よく走るし」

「そっち?」

「そっちも」

 きららの口元が少しだけ緩む。

「でも藍って子は、多分お前と同じ速さじゃないんだろ」

「同じ速さ……」

「お前が先に行きすぎたら、追いつけない時もあるんじゃないか?」


 頭上で葉が鳴る。きららは黙って、その言葉を考えた。藍は十二歳からずっと、自分の中で歌を抱えてきた。歌えなくなった痛みも。それでも捨てられなかった言葉も。昨日今日それを知った自分が、簡単に「私が歌う」と言ってしまった。


「だったらさ」

 優斗の声に、きららが顔を上げる。

「ちょっと待ってやれば?」

「待つ?」

「うん」

「私、待つの苦手」

「知ってる」

「すぐ動きたくなる」

「それも知ってる」

「じゃあ難しいじゃん」

 優斗が笑った。

「でも、お前ならできるだろ」

「なんで?」

「その子の歌、大事にしたいんだろ?」

 きららは一瞬、目を丸くした。それから、ゆっくり頷く。

「……うん」

「なら大丈夫だろ」

 優斗はそれだけ言って、残っていたパンを口へ運んだ。励ますでもなく。答えを決めるでもなく。ただ、きららならできると最初から疑っていないような言い方だった。きららはしばらく優斗を見ていた。そして、

「……うん!」

 ようやく、いつもの笑顔が戻った。


「私、待ってみる!」

「おう」

「頑張って待つ!」

「待つのに頑張るのか?」

「だって苦手だから!」

「じゃあ、頑張れ」

「うん!」

 木陰に二人の笑い声が響く。海から届いた風が、木々を大きく揺らした。



 それから数日、きららは防波堤へ来ていた。夕方の海は穏やかだった。西の空には薄い雲が広がり、傾いた陽射しを受けて淡い金色に染まっている。岸壁へ繋がれた小舟が波に合わせて上下し、ロープが軋む音が一定の間隔で聞こえていた。

 そして、藍は今日もそこにいた。いつもの場所でいつものノートを持って。

 きららは少し離れたところで足を止める。いつもなら、名前を呼びながら走っていく。けれど今日は、

「……藍ちゃん」

 少しだけ控えめに呼んだ。藍が顔を上げる。

「きらら」

 きららは近くまで歩いていく。

「隣、いい?」

 藍は一瞬だけ目を瞬かせた。

「……うん」

 返事を聞いてから、きららは隣へ腰を下ろした。二人の間には、人一人分にも満たない小さな隙間がある。しばらく何も話さなかった。

 海を見て、波の音を聞く。防波堤の向こうを、一艘の帆船がゆっくり横切っていく。

以前なら、きららはこの沈黙をすぐに何かで埋めようとしたかもしれない。

 でも今日は、ただ隣にいた。不思議と気まずくはなかった。


「この前はごめん」

 やがて、きららが口を開く。

「何が?」

「また、勝手に歌うって言ったこと」

 藍の指が、ノートの上で止まった。

「私、藍ちゃんが歌を誰かに届けたいって言ったから」

 きららは海を見ながら続ける。

「だったら私が歌えばいいって、すぐ思っちゃった」

「……うん」

「でも」

 きららは自分の膝へ視線を落とした。

「藍ちゃんの歌だもんね」

 潮風が二人の髪を揺らす。

「藍ちゃんが嫌なら、歌わない」

 藍は何も言わない。

「ただ」

 きららは顔を上げた。

「いつか歌ってほしいって思ったら、言って」

「……」

「その時は、私が歌うから」


 藍が顔を上げる。夕陽を映した琥珀色の瞳が、真っ直ぐ自分を見ていた。そこには同情も、憐れみもない。歌えないから代わりに歌ってあげる。そんな優しさでもない。ただ、あなたの歌を、歌ってみたい。その気持ちだけがあった。


「……どうして」

「え?」

「どうして、そこまで言うの?」

 きららは少し考える。

「うーん……」

「分からないの?」

「上手く言えないけど」

 きららは海を見た。夕陽が水面に長い光の道を作っている。


「好きだから」


 藍が僅かに息を呑む。

「あ、藍ちゃんの歌詞が、だよ?」


「……分かってる」

「まだ全部読んでないけど、好き」

 きららは笑った。

「歌になったら、どんな感じなんだろうって思う」

 藍は何も答えなかった。ただ、胸の中に抱えていた何かが、ほんの少しだけ解けていくような気がした。

「でも、待つよ」

 きららが言う。

「私、待つの苦手だけど」

「……知ってる」

「だから頑張って待つ!」

 藍が思わず吹き出した。

「ふふっ」

「何?」

「待つのに頑張る人、初めて見た」

「優斗にも似たようなこと言われた!」

「でしょうね」


 二人の間に、ようやく笑い声が戻った。

 しばらくして、藍は膝の上のノートへ視線を落とす。何度も開いて。何度も閉じてきたノート。誰にも触れさせたくなかった、自分だけの歌。指先が、表紙をゆっくりなぞる。


「……きらら」

「ん?」

「少しだけ」

「何?」

 藍は小さく息を吸った。

「読んでみる?」

 きららの琥珀色の瞳が輝く。

「いいの!?」

「声、大きい」

「あ、ごめん!」


 藍はノートを開いた。

そこには、何度も書き直された言葉が並んでいた。まだ完成していない歌。まだ旋律を持たない歌。その中でも特に何度も書き直された跡が残っている場所を、藍が指で示す。


「ここ」

「サビ?」

「……多分」

「多分なんだ」

「まだ決めてないから」


 きららはページを覗き込んだ。そこに並ぶ言葉を、ゆっくりと目で追う。夕方の風が、二人の間に開かれたページを僅かに揺らした。

遠い空のように届かない場所。それでも、誰かへ向かって伸ばされた想い。

 まだ完成していない数行なのに、その言葉の向こうには広い景色があるような気がした。


「……やっぱり、好きだなぁ」

 きららが呟く。藍が少し呆れたように笑う。

「またそれ?」

「だって好きなんだもん」

「もう少し感想ないの?」

「じゃあ……」

 きららは真剣に考えた。目を閉じる。言葉を頭の中で何度か繰り返す。そして、

「歌いたくなる」

 藍の表情が止まった。

「あっ!」

 きららが慌てて両手を振る。

「歌わないよ! まだ歌わない!」

「……分かってる」


 藍は小さく笑った。今度はノートを閉じなかった。二人の間に置いたまま、海を見る。陽はもう水平線近くまで傾いていた。青かった空には橙色が混じり始め、そのさらに上には、これから訪れる夜の色が静かに広がっている。

 歌はまだ完成していない。旋律もない、誰が歌うのかも、まだ決まっていない。それでも藍の中だけにあった言葉を、今はもう一人、知っている。

 ほんの少し前まで、二人の間には大きな距離があった。きららが近づけば、藍は一歩離れた。藍が立ち止まれば、きららは待つことを知らず、その手を引こうとした。

 けれど今、二人は同じ場所に座り同じ海を眺めている。進む速さが違うのなら、時には隣に来るまで待てばいい。きららはまだ知らなかった。誰かの歌を歌うということは、その人の言葉を声にするだけではない。その人が抱えてきた時間も、願いも、痛みも。すべてを受け取るということなのだと。

 そして、その重さを本当の意味で知るまでには、もう少しだけ時間が必要だった。夕暮れの防波堤に、二人の影が並んで伸びている。

 その間に開かれた一冊のノートを、海から吹く風が優しく揺らしていた。



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