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誰がために歌う歌

 九月も半ばを過ぎたというのに、くじら島の夏はまだ去る気はないらしい。午後の陽射しは校舎の白い壁を眩しく照らし、窓ガラスに反射した光が廊下の床に揺れていた。開け放たれた窓から入り込む風には、遠くの海から運ばれてきた潮の匂いが混じり、どこか湿り気を帯びている。


 授業が終わると同時に、教室のざわめきが一気に広がり、その中を縫うようにして、きららは鞄を肩に掛け、教室を飛び出した。

「じゃ、優斗! また明日!」

「廊下走んなよ」

「先生か! 走ってないよ!」

「その速度で歩いてるって言い張るなら、お前の歩行速度がおかしい」

 背後から聞こえてきた声に、きららは振り返った。夕方の光が差し込む廊下の中で、優斗の影が長く伸びている。

「今日はちゃんと急いでるだけー!」

「それを普通は走ってるって言うんだよ!」

 優斗は呆れた顔をしながら、自分の鞄を持ち上げる。きららは一瞬だけ口を尖らせ、それから廊下の先へ向き直った。

 二歩ほど進んだところで、ぴたりと足を止めた。床に落ちた光の帯の中で、影が揺れる。


「……あ」

「今度はなんだ」

「急いじゃだめだった」

「は?」

「待つって決めたから」

 優斗が眉を寄せる。

「防波堤に行くんだろ?」

「うん」

「行くことと待つことは別じゃねえの?」

「…………」

 きららはしばらく考えた。廊下の向こうから、別のクラスの笑い声が響いてくる。


「ほんとだ!」

「お前、ちゃんと意味わかってたのか?」

「わかってるよ! 藍ちゃんを急かさないってことでしょ?」

「なら普通に行け」

「はーい!」

 今度こそ駆け出そうとして、優斗の視線に気づき、きららは慌てて早歩きに切り替えた。

「だから廊下は走るな」

「走ってないってばー!」

 遠ざかっていく青い髪を見送りながら、優斗は小さく息を吐いた。夕陽に照らされたその横顔には、ほんの少しだけ柔らかな笑みが浮かんでいた。


 学校から防波堤までは、歩けばそれなりに時間がかかる。坂を下りると、アスファルトの熱がまだ足元からじんわりと伝わってくる。住宅の間を抜けるて海沿いの道へ出ると、潮風が一気に頬を撫でる。

 太陽はまだ高い。けれど真夏の頃と比べれば、夕方の光はわずかに柔らかくなっていた。海面はきらきらと光を反射し、遠くには白い船がゆっくりと進んでいる。

 きららは海を眺めながら歩いた。防波堤へ向かうようになってから、この道を通る回数もずいぶん増えた。最初の頃は、藍がいるかどうかばかり気にしていた。遠くから白いワンピースを見つければ駆け出したし、いなければ辺りを見回した。今も会いたい気持ちは変わらない。

 むしろ以前より強くなっている気さえする。けれど、


『お前が先に行きすぎたら、追いつけない時もあるだろ』


 優斗に言われた言葉を思い出す。

「歩く速さかぁ……」

 ぽつりと呟いた。波の音がそれをさらっていく。自分はたぶん、すぐ走る。嬉しいと思ったら走る。やりたいと思ったら走る。誰かが困っていたら、その人が何を望んでいるのかを全部聞く前に、手を引いて走り出してしまうことだってある。それが悪いことだとは思わない。実際、その勢いが誰かの助けになったことだってあった。でも、全員が自分と同じように走れるわけではないのだ。藍は特に、そうなのだと思う。

 

 歌いたい。歌えない。でも、自分の声で届けたい。

 

 そんな矛盾した気持ちを、きっとずっと一人で抱えてきた。そこへ突然現れた自分が、『私がいる』なんて言った。あの時は、本当にいい考えだと思ったのだ。自分が歌える、藍は歌詞を書ける。なら、一緒にやればいい。単純なことに思えた。けれど、藍にとっては単純ではなかった。


「……難しいなあ」

 きららは頭の後ろで手を組んだ。空を見上げると、薄く伸びた雲がゆっくりと流れている。人の気持ちは、歌詞より難しい。そんなことを考えながら角を曲がると、防波堤が見えてきた。コンクリートの灰色が夕陽に照らされて、ほんのりと温かい色を帯びている。

「あ」

 白いワンピースが風に揺れている。きららは思わず駆け出しそうになって——止まった。

 代わりに、大きく息を吸う。潮の匂いが胸いっぱいに広がる。それから、ゆっくり、一歩ずつ歩いた。藍がこちらに気づく。


「藍ちゃん」

「……きらら」


 以前なら、そのまま隣へ座っていただろう。けれど今日は、少し手前で止まった。


「隣、いい?」


 藍の瞳が、一度だけ瞬く。夕陽の光がその中で揺れる。それから、小さく笑った。

「毎回聞くことにしたの?」

「うん」

「別に、そこまでしなくてもいいけど」

「えっ」

「嫌だったら言うから」

「……じゃあ、今日は?」

「いいよ」

「よかった!」

 きららはぱっと笑って隣へ座った。その勢いで肩が触れそうになり、慌てて少しだけ距離を取る。藍がそれを見て、くすりと笑った。

「何?」

「なんでもない」

「絶対なんかある」

「待つの、頑張ってるんだなと思って」

「頑張ってるよ!」

「やっぱり待つことを頑張る人って変」

「ひどい!」


 海から吹いた風が、二人の髪を揺らした。塩気を含んだ風が頬を撫で、遠くで波が砕ける音が低く響く。きららの青と、藍のパープルブルー。異なる色が風の中で一瞬だけ近づいて、また離れていく。藍の膝にはノートがあったが、きららは気づいていても何も言わなかった。見せて、とも。何を書いてるの、とも。代わりに海へ目を向ける。


「今日、海きれいだね」

「いつも見てるでしょ」

「毎日違うよ」

「そう?」

「うん。今日はちょっと白っぽい」

 藍も海を見る。陽射しを反射した水面は、ところどころ白銀に光っていた。波の筋が細かく揺れ、光が砕けて散っている。

「昨日はもっと青かった」

「……よく覚えてるね」

「私、青好きだから」

「髪を見ればなんとなくわかる」

「これは生まれつき!」

「知ってる」

「じゃあ言わないでよ!」

 また藍が笑う。以前より、その笑顔を見ることが増えた気がした。それが嬉しくて、きららも笑った。しばらく二人で海を眺める。会話が途切れても、以前ほど気まずくなかった。

 波が防波堤の下で砕ける音。遠くで鳴く海鳥。港から聞こえてくる、人の声。それらが二人の間にある沈黙を埋めてくれる。


「……きらら」

「ん?」

 藍が自分からノートを開いた。

「これ、どう思う?」

「えっ」

 きららは反射的に身を乗り出しかけた。けれど、途中でぴたりと止まる。前へ傾いたまま固まったきららを、藍が不思議そうに見つめた。

「……何してるの?」

「今、勢いよく行きそうになったから止めた」

「別にこれはいいよ。私が見せてるんだから」

「そっか!」

 許可をもらった途端、きららは藍の隣へ寄った。

「近い」

「ごめん!」

「極端なんだよね、きららって」

「難しい……!」

 ぶつぶつ言いながら少しだけ距離を戻し、きららはノートへ視線を落とした。そこには、新しく書き足された言葉。迷うように何本も引かれた線。丸で囲まれた一節がたくさんあった。

 まだ一曲の歌詞と呼ぶには途切れ途切れで、ひとつの完成した形にはなっていない。けれど、きららは急がずに文字を追った。


 遠くに灯る光。


 届かない場所。


 名前を知らない誰か。


 夜の向こう。


 そして、その中にあった一節で、きららの視線が止まった。


『ここにいると 気づいてほしい』


「……あ」

 思わず、小さな声がこぼれる。

「何?」

「前に読んだのと、ちょっと違う」

 藍は答えなかった。きららはもう一度、最初から読み返した。

「前はもっと……なんていうんだろ。遠くに行きたい感じだった」

「前も似たようなこと言ってたね」

「うん。でも、今は……」

 言葉を探す。すぐに浮かんだものを口にするのではなく、もう一度ノートを見た。海を見て、また文字へ戻る。藍は何も言わずに待っていた。

「誰かに来てほしい感じがする」

 藍の指先が、ノートの端でわずかに動いた。

「来てほしい?」

「うん」

「どこに?」


「ここ」

 きららは自分の胸の前を指した。

「……ここ?」

「藍ちゃんのところ」

 風が吹いた。ノートの端がぱらぱらとめくれ、藍が片手で押さえる。

「遠くに行きたいんじゃなくて、誰かに自分を見つけてもらいたい感じ」

「……そう見える?」

「うん」

 きららは迷わず頷いた。そして、ふと首を傾げる。

「でもさ」

「何?」

「この『誰か』って、誰だろう?」

「え?」

「名前を知らない誰かって書いてあるから」

「だから、知らない人」

「知らない人に見つけてほしいの?」


 藍が黙る。きららに深い意図はなかった。ただ、歌詞を読んでいて純粋に気になったのだ。特定の誰かを思い浮かべているのか、それとも本当に顔も名前も知らない誰かなのか。


「……変?」

 しばらくして、藍が尋ねた。

「え?」

「知らない人に見つけてほしいって」

「全然」

 きららは即答した。

「だって、歌ってそういうものでしょ?」

 藍が顔を上げる。

「知らない人に聴いてもらうこと、いっぱいあるもん」

「……そうだけど」

「私も歌ってる時、誰が聴いてるか全部は知らないよ」


 きららは防波堤の先へ目を向けた。空と海との境界が、遠くで溶け合っている。

「でも、誰かが聴いてくれてたら嬉しい」

「どうして?」

「え?」

「知らない人なのに」

 今度はきららが黙る番だった。

「どうしてって……」

 眉間に皺を寄せる。歌うことは、きららにとってあまりにも当たり前だった。

 好きだから歌う。楽しいから歌う。聴いてもらえたら嬉しい。それ以上の理由を、わざわざ考えたことはなかった。

「……なんでだろ」

「わからないの?」

「うん!」

「そこは元気に言うところじゃないでしょ」

「だって考えたことなかったもん」


 きららは膝を抱えた。その時、八月の港がふっと脳裏をよぎった。あの日、自分たちが歌った昔の歌。長い年月の向こうから残っていた旋律が、ひとりの老人の中に眠っていた記憶へ触れた。

 歌は、歌い終わったら消えてしまうものではなかった。誰かの中へ入って、そこに残ることがある。


「……知らない人だから、いいのかも」

 きららがぽつりと呟いた。

「どういうこと?」

「知らない人って、私のこと知らないでしょ?」

「当たり前じゃない」

「でも歌なら、その人のところまで行ける」

 藍の瞳が、わずかに大きくなる。

「私の名前を知らなくても、顔を知らなくても、その人が歌を聴いて……楽しいなとか、悲しいなとか、なんか好きだなって思ってくれたら」

 うまく説明できなくて、きららは少し考えた。

 それから、ふっと笑う。


「ちょっとだけ、その人と会えたみたいじゃない?」


 藍は何も言わなかった。

 ただ、きららを見ていた。

「……変なこと言った?」

「ううん」

「よかった。優斗にはよく『お前の説明はわからん』って言われるから」

「それはなんとなく想像できる」

「藍ちゃんまで!」


 きららが頬を膨らませる。けれど藍は笑わなかった。代わりに、ゆっくりとノートへ視線を戻す。そして鉛筆を取った。

「……藍ちゃん?」

「ちょっと待って」

「うん」

 きららは黙った。鉛筆の先が紙を擦る、小さな音がする。一度止まり、何かを消して、また書く。きららの位置からでは、その文字まではよく見えなかった。

 少し身体を傾ければ見える。けれど、そうしなかった。代わりに海を見る。波が寄せては砕ける。海鳥が一羽、白い翼を広げて沖へ飛んでいった。


「できた?」

「まだ」

「そっか」

 待つ。

 しばらくすると、藍がふと顔を上げた。

「……見ないの?」

「見ていいの?」

 藍は少し驚いたような顔をした。

「前なら勝手に覗いてたのに」

「私だって成長するんだからね!」

「数日で?」

「する!」

「すごいね」

「その言い方、信じてないでしょ!」

 藍はとうとう吹き出した。その笑い声につられて、きららも笑う。そしてまた、藍はノートへ向かう。  藍と一緒の歩幅で歩けるように、きららは隣で静かに待っていた。



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