あなたが見ている景色
それから数日、二人が防波堤で過ごす時間は少しずつ増えていった。毎日会えるわけではない。きららには学校があり、藍にも藍の生活がある。防波堤へ行っても、藍がいない日もあった。
以前のきららなら、辺りを探し回ったり、どうして来ないのだろうと気にしたりしたかもしれない。けれど今は、
「今日は来ない日かあ」
と呟いて、一人で海を眺めて帰ることもできるようになった。
そして次に会った時も、
『昨日なんで来なかったの?』
とは聞かなかった。
藍がここへ来ることは約束ではない。会えた日は、一緒に過ごす。会えなかった日は、それだけ。そんな距離が、今の二人にはちょうどよかった。ある日は、学校であったくだらない話をした。ある日は、藍が昔好きだった本の話をした。またある日は、ほとんど会話をせずそれぞれ海を眺めていた。
最初は沈黙が来るたびに何か話さなければと思っていたきららも、いつの間にか何も話さない時間を楽しめるようになっていた。そして時々、藍はノートを開いた。
「きらら」
「なに?」
「これ」
「読んでいいの?」
「いいから見せてるの」
「やった!」
そんなやり取りも、少しずつ当たり前になっていった。
藍の歌詞は、少しずつ形を変えていた。最初に見た時の歌は、どこか遠くを見ていた。手の届かない場所、届かない光、行けない場所。そんな言葉が多かった。
けれど最近は、少し違う。遠くにあるものだけではなく、ここにいる自分、ここから見ている空、ここから誰かへ伸ばす手。そんな言葉が増えていた。きららはその変化に気づいていた。けれど、その理由まではわからない。
「ねえ、藍ちゃん」
「何?」
「これって、どんな空?」
「……空?」
「うん。『星のない空』って」
「そのままだけど」
「真っ暗?」
「まあ……そうかな」
「雲があるの?」
「そこまで決めてない」
「月は?」
「ない」
「じゃあ海は?」
「海?」
藍が顔を上げた。
「空の話してるんだけど」
「でも藍ちゃん、海見ながら書いてるじゃん」
「……そうだけど」
「だったら下には海があるのかなって」
藍はしばらくきららを見た。
「きららって、歌詞読む時いつもそうなの?」
「そうって?」
「景色ばっかり聞く」
「だって見たいもん」
「歌詞なのに?」
「歌詞だからだよ」
きららは当然のように答えた。
「歌う時、見えたほうがいいじゃん」
その言葉に、藍の表情が一瞬だけ止まった。けれど、きららは気づかない。
「ここは夜でしょ? で、星がない。じゃあ風は? 寒い?」
「……きらら」
「ん?」
「歌わないんじゃなかったの?」
「あ」
きららの口が止まる。しまった、という顔になる。
「ち、違うよ!」
「何が?」
「勝手に歌うつもりじゃなくて!」
慌てて両手を振る。
「ただ、読んでると勝手に考えちゃうの! ここはどんな景色かなとか、どんな声で歌うのかなとか……あっ、歌うって言っちゃった!」
「……別に怒ってないよ」
「ほんと?」
「うん」
藍はノートへ目を落とした。
「ただ……」
指先が、紙の端をなぞる。
「きららは、本当に歌として読むんだなと思って」
「だって歌詞でしょ?」
「まだ歌じゃない」
「でも、歌になる言葉じゃん」
藍が黙った。きららはその横顔を見つめる。
何かまずいことを言っただろうか。けれど、藍の表情は怒っているようには見えなかった。少しだけ困っているような、少しだけ、遠いものを見ているような。
「……昔はね」
藍が呟いた。
「うん」
「私も、そうやって書いてた」
きららは何も言わなかった。
「どんな声で歌うか。どこで息を吸うか。どの言葉を伸ばすか。そういうこと考えながら書いてた」
海から吹く風が、藍の髪を頬へ運ぶ。藍はそれを耳へ掛けた。
「歌えなくなってから、考えなくなった」
声は静かだった。
「考えても仕方ないから」
きららの胸の奥が、きゅっと縮む。藍は歌を嫌いになったわけではない。だからこそ、苦しいのだ。歌うことを知っているし、歌う喜びも知っている。それを失ったあとも、言葉だけは手放せなかった。
「だから最近……変なんだよね」
「変?」
「きららに見せるようになってから」
藍が鉛筆を指先で転がす。
「また考えるようになった」
「何を?」
「……どんなふうに聞こえるんだろう、とか」
きららの琥珀色の瞳が大きくなる。
「それって——」
「歌っていいって意味じゃないから」
「まだ何も言ってない!」
「顔に書いてある」
「ええっ!?」
きららは慌てて両頬を押さえた。
「どこ!? どこに!?」
「そういうところ」
藍は笑った。きららは不満そうに唇を尖らせる。けれどその胸の奥では、小さな何かが跳ねていた。歌っていいわけではない。まだ藍は、その歌を託してくれたわけではない。それでもら藍がもう一度「歌になった時」を考え始めている。それが嬉しかった。だからこそきららは言わなかった。歌わせて、私なら歌えるよ。そんな言葉を、喉の奥へ戻す。
「じゃあさ」
「何?」
「星のない空の下には、海ある?」
「……まだそれ聞くの?」
「大事だよ!」
藍は少し考えた。それから、ノートの余白へ小さく何かを書き足す。
「海、あってもいいかも」
「ほんと?」
「うん」
「じゃあ波は?」
「そこまでは知らない」
「風は?」
「きらら、うるさい」
「えー!」
二人の声が、防波堤に響く。その向こうで海は穏やかに光っていた。
九月の終わり、その日の夕暮れはひどく鮮やかだった。西の空が橙色に染まり、その色が海の上へ一本の長い道を作っている。雲の縁まで淡い金色に輝き、港へ戻る船の影がゆっくりとその光を横切っていく。
「わあ……」
きららは防波堤の上で立ち止まった。
「すごい」
隣にいた藍も、海を見ていた。夕陽の色が金色の瞳へ映り込んでいる。
「今日、来てよかった」
「毎回来てるじゃない」
「今日のこれは今日しか見られないもん」
きららは防波堤の端へ座る。藍も少し遅れて隣へ腰を下ろした。今日はノートを開いていない。二人とも、ただ夕陽を眺めていた。少しずつ、太陽が海へ近づいていく。
「ねえ、藍ちゃん」
「何?」
「藍ちゃんって、なんでここで歌詞書くの?」
「前にも聞かなかった?」
「聞いたっけ?」
「……多分」
「じゃあ忘れた!」
「堂々と言わないで」
藍は呆れたように笑った。けれど、やがて海を見る。
「ここだと、遠くまで見えるから」
「遠く?」
「うん」
「遠くが好きなの?」
藍は少し考えた。
「……好きだったのかも」
「だった?」
「昔は、遠くへ行けば何かあると思ってた」
その言葉を、きららは黙って聞いた。
「歌姫になったら、この島を出て、もっとたくさんの場所へ行って。いろんな人に歌を聴いてもらって」
藍の声は、波音に溶けるほど静かだった。
「ずっと、ここじゃない場所を見てた」
沈みかけた太陽が、海を赤く染める。
「でも、行けなくなった」
きららは膝の上で手を握った。何か言いたかった。けれど、大丈夫、そんな言葉は違う気がした。また行けるよ、それも違う。藍は歌えない。その事実を、励ますための言葉でなかったことにはできない。だから、きららはしばらく黙っていた。少し前までの自分なら、何か言わなければと思ったかもしれない。でも今は、藍が話した言葉が自分の中へ落ちてくるまで待った。
「……でもさ」
やがて、口を開く。
「何?」
「遠くに行かなくても、遠くに届けることってできるんじゃない?」
藍がこちらを見る。
「だって」
きららは海の向こうを指した。
「ここからだって、海はずーっと続いてるよ」
「……海?」
「うん」
「歌の話してたんだけど」
「わかってるよ」
きららは笑った。
「藍ちゃん、前に言ってたじゃん。知らない誰かが聴いて、その人の中に少しでも残ったらすごいって」
「……言ったね」
「だったら藍ちゃんが遠くに行かなくても、歌が行けばいいんじゃない?」
藍の目が見開かれる。きららはそれ以上、何も言わなかった。
やがて藍は鞄からノートを取り出した。膝の上で開き、何ページかめくり、鉛筆を持つ。そして書き始めた。きららは覗かなかった。夕陽を見て、静かに待つ。太陽は少しずつ海へ沈んでいく。橙色だった空に、薄い紫が混じり始める。風が、昼間より少しだけ涼しくなった。
「……きらら」
「ん?」
「読んで」
差し出されたノートに、きららは目を落とした。そこには、書いたばかりの一節があった。何度か消した跡の上に、新しい言葉が並んでいる。遠くへ行くためではなく。遠くにいる誰かへ。ここから手を伸ばすような言葉。きららはゆっくり読んだ。
「……好きだなぁ」
「そればっかり」
「だって好きなんだもん」
きららはもう一度読む。
「前より……近い」
「近い?」
「うん」
「遠くのことを書いたのに?」
「そうじゃなくて」
きららは胸元へ手を置いた。
「ここに」
藍はしばらく黙っていた。
「……意味わかんない」
「ええっ!?」
「でも」
藍は小さく笑った。
「なんとなく、わかるかも」
「どっち!?」
「どっちでもいいでしょ」
「よくないよ!」
きららの抗議を聞き流しながら、藍はノートへ視線を戻した。
「……もし」
「ん?」
「もし、これが歌になったら」
きららの声が止まる。藍はノートを見たままだった。
「どんなふうに聞こえるんだろうね」
ほんの小さな声だった。問いかけというより、独り言に近かった。それでもきららの胸は大きく跳ねた。
歌わせて。その言葉が、すぐそこまで出かかった。けれどきららは口を閉じて、拳を膝の上でぎゅっと握る。
「…………」
「きらら?」
「待ってる」
藍が顔を上げる。
「何を?」
「藍ちゃんが、それを知りたいって思うまで」
夕暮れの風が、青い髪を揺らした。
「私も知りたいよ。すっごく知りたい」
きららは笑う。
「藍ちゃんの言葉が歌になったら、どんな景色が見えるのか」
藍の金色の瞳が、静かにきららを映していた。
「でも、待つって決めたから」
「……そう」
「うん」
「苦手なのに?」
「ものすっごく苦手!」
「そこは威張らなくていいから」
「でも最近ちょっと上手くなったと思わない?」
「どうだろう」
「なってるよ!」
藍は答えず、ノートを閉じた。けれど、その口元には小さな笑みが残っていた。太陽が海の向こうへ沈んでいく。光の道が細くなり、やがて消えていった。それでも空にはまだ、夕陽の名残があった。二人は並んで、それを眺めていた。同じ景色を、同じ場所から。けれど、きっと少しずつ違うものを見ながら。
二人の間に生まれた歌は、ようやく遠くを見ることをやめて、ここから誰かへ向かって最初の一歩を踏み出そうとしていた。




