その言葉は声に乗せて
十月になった。くじら学園の朝は、九月までとは少しだけ色を変えていた。窓から射し込む陽はまだ強いのに、教室の床へ落ちる影は長い。登校してきた生徒たちが椅子を引くたび、乾いた音があちこちで重なった。黒板の隅には、日直が書いた日付。その数字を見ても、きららにはあまり実感がなかった。
「……うーん」
自分の席で頬杖をつき、一枚の紙を睨む。
「ううーん……」
紙を少し遠ざける。
「うううーん……」
「朝から何と戦ってんだ」
頭上から声が降ってきた。きららが顔を上げる。
「優斗」
「さっきから唸り声しか聞こえねえぞ」
「考えてるの」
「そうか、明日は槍が降るんだな」
「失礼!」
きららは反射的に紙を伏せた。優斗の視線が、その動きを追う。
「何隠したんだ?」
「なんでもない」
「今の動きでなんでもないは無理あるだろ」
「乙女には秘密があるの!」
「お前が言うと急に信憑性なくなるな」
「どういう意味!?」
きららが抗議すると、優斗は笑いながら前の席の椅子を引いた。背もたれを前にして腰を下ろす。
「で?」
「だから秘密だってば」
「じゃあ聞かねえよ」
「え」
「なんだよ」
「もうちょっと聞いてよ」
「どっちなんだよ!?」
結局、きららは自分から紙を表へ返した。
「これ」
そこには短い言葉がいくつも並んでいた。藍から許可をもらって、覚えている範囲だけ書き留めた歌詞だ。その周囲には、きらら自身の字で、
『ここはどんな空?』
『誰に言ってる?』
『明るい? 暗い?』
『ここ好き!』
などと好き勝手な書き込みが増殖している。
「……落書き?」
「違うよ!」
「じゃあなんだよ、この『ここ好き!』って」
「感想!」
「歌詞より目立ってるぞ」
きららは紙を奪い返した。
「いいの! これは私が見るやつだから!」
「藍に見せたら怒られそうだな」
「……見せない」
「怒られる自覚あるんじゃねえか」
優斗が笑う。きららもつられて笑ったあと、もう一度紙へ目を落とした。
「でもね」
「ん?」
「ちょっと変わってきたんだ」
「何が?」
「藍ちゃんの歌」
九月の終わりから、藍が歌詞を見せてくれる回数は増えていた。最初は、藍が書いたものをきららが読むだけだった。けれど最近は違う。
『これ、どう思う?』
『どっちの言葉がいい?』
藍の方から尋ねることが増えた。もちろん、きららに美しい言葉が思いつくわけではない。
それでも、
『ここって誰に言ってるの?』
『この人、寂しいの?』
『この星は遠いの?それとも近くに見えてるの?』
思ったことをそのまま聞くと、藍はしばらく考えて、歌詞を書き換えることがあった。
「前はね、ずっと遠くを見てる感じだったの」
「遠く?」
「うん。でも最近は、誰かに話してる感じがする」
「へえ」
「すごいんだよ、藍ちゃん」
きららは紙を両手で持ち上げた。
「同じことを書いてるはずなのに、言葉をちょっと変えただけで全然違って見えるの」
「お前、すっかりファンだな」
「うん!」
あまりにも迷いのない返事に、優斗が一瞬黙る。
「……そこは否定しねえんだ」
「だって好きだもん。藍ちゃんの歌詞」
きららは当然のように言った。その時、始業を知らせる予鈴が校内に鳴った。
「あ、やば」
「ほら、しまえ」
「はーい」
紙を教科書の間へ挟む。優斗が席へ戻ろうとしたところで、きららはふと思い出したように呼び止めた。
「優斗」
「ん?」
「待つのって、意外と悪くないかも」
「……急にどうした」
「なんとなく!」
きららは笑った。
「前より藍ちゃんのこと、いっぱい知れたから」
優斗は少しだけ目を細めた。
「そりゃよかったな」
「うん!」
教師が教室へ入ってくる。きららは前を向いた。教科書を開きながら、机の中へしまった紙をもう一度思い出す。次に藍に会ったら、何を聞こう。そう考えるだけで、放課後が少し待ち遠しくなった。
「できない」
数日後。藍は鉛筆を置いた。
「何が?」
「ここ」
防波堤ではなく、今日は港から少し離れた小さな広場に二人はいた。
木陰に置かれた古いベンチ。背後では、石造りの噴水から細い水が落ち続けている。広場の端では、小さな子どもが地面へチョークで大きな花を描いていた。藍が膝の上で開いているノートには、何度も書き直した一節がある。
「最後が決まらない」
きららが横から覗く。遠くにいる、名前も知らない誰かへ呼びかける部分。最後の一行だけが空いていた。
「何入れるの?」
「それがわからないから困ってるの」
「そっか」
きららは空欄を見つめた。
「ここ、何言いたいの?」
「……それがわかれば苦労しない」
「じゃあ、その人に何してほしい?」
藍の鉛筆が止まった。
「その人?」
「この歌を聴く人」
「知らない誰か?」
「うん。その人に、どうしてほしいの?」
藍は答えなかった。代わりに、もう一度空白を見る。鉛筆を持ち直し、何文字か書く。
「……違う」
横線で消した。別の言葉を書く。
「これも違う」
今度は消しゴムを使う。同じ場所を何度も消したせいで、紙が少し毛羽立っていた。
「難しいね、歌詞って」
「今さらわかった?」
「うん」
「遅い」
「私だったらもう適当に何か入れてる」
「知ってる」
「即答!?」
藍は顔を上げずに言った。
「お魚さんもこんにちは」
「それはもう忘れて!」
思わず大きな声が出る。近くで遊んでいた子どもがこちらを見た。きららは慌てて口を押さえる。藍は肩を震わせている。
「笑わないでよ!」
「だって……」
「藍ちゃんが言ったんじゃん!」
「思い出したら……っ」
「もう二度と歌詞書かないからね!」
「それがいいと思う」
「そこは否定してよ!」
とうとう藍が声を立てて笑った。きららも最初は頬を膨らませていたが、やがて我慢できなくなって笑う。噴水の水が一定の間隔で水盤を叩いている。笑いが収まるまで、藍はしばらく鉛筆を持てなかった。
「……もう」
目尻を指で拭い、藍がノートへ戻る。
「きららのせいで何考えてたか忘れた」
「私のせい!?」
「半分くらい」
「残り半分は藍ちゃんだよね!?」
「そうとも言う」
「絶対そうだよ!」
藍は笑いを残したまま、空欄を見つめた。
「……何してほしい、か」
今度は静かに呟く。そして、きららへ目を向けた。
「きららは?」
「私?」
「歌を聴いた人に、何してほしい?」
「うーん……」
きららは腕を組んだ。
「笑ってほしい?」
「疑問形?」
「もちろん笑ってくれたら嬉しいよ。でも……」
ふと、八月の港で歌った日のことが浮かんだ。ずっと昔の歌を覚えていた人。記憶の奥に、旋律が残っていた人。
「……覚えててほしい、かな」
「歌を?」
「うん」
きららはベンチの背へ身体を預けた。
「ずっとじゃなくてもいいの。次の日にちょっと口ずさんでくれるとか、何年かあとに『こんな歌あったな』って思い出すとか」
少し照れくさくなって笑う。
「その人のどっかに、ちょっとだけ残ったら嬉しい」
藍は何も言わなかった。視線だけが、きららからノートへ戻る。鉛筆が動いた。今度は途中で止まらなかった。一行を書き終える。藍はそれを読み返し、ほんの少し口元を緩めた。
「できた?」
「……多分」
「見せて!」
「まだ」
「えー!」
「もう少し考えてから」
「はーい」
きららは素直に引き下がった。少し前なら、見せて見せてと隣で騒いでいたかもしれない。けれど今は、藍が自分からノートをこちらへ向ける時を待てる。それからしばらくして、
「……きらら」
「ん?」
「読んでいいよ」
「やった!」
差し出されたページを読む。一度、もう一度。きららの表情が、少しずつ明るくなる。
「……やっぱり藍ちゃんの歌詞、すごいね」
「またそれ?」
「だって本当にすごいんだもん」
きららは最後の一行をもう一度目で追った。
「歌いたくなっちゃう」
言った直後。
「あ!」
両手で口を塞いだ。
「ご、ごめん! また言っちゃった!」
藍が瞬く。
「でも大丈夫だからね!? ちゃんと待ってるから!」
「……きらら」
「この前約束したもん。藍ちゃんが嫌なら歌わないし、私——」
「いいよ」
「——ちゃんと待って……え?」
声が止まった。藍はノートを見ていた。きららには横顔しか見えない。
「藍ちゃん、今……」
「歌ってもいいよ」
きららが固まる。
「…………」
「何その顔」
「……え?」
「二回目」
「だって」
ようやく藍を見る。
「歌っていいって……」
「言った」
「何を?」
「私の歌」
「…………」
藍が眉を寄せた。
「何回確認するの?」
「だって!」
きららが勢いよく立ち上がった。
「ほんとに!?」
「うるさい!」
「ほんとに歌っていいの!?」
「今そう言ったでしょ!」
「藍ちゃんの歌を!?」
「だからそう言ってる!」
「私が!?」
「もうやめようかな」
「待って待って待って!」
きららは慌てて座り直した。
「静かにする!今からすっごく静かにするから!」
「もう遅い」
「そんなあ!」
藍は呆れた顔をしていた。けれど、ノートを閉じようとはしなかった。きららは少しだけ落ち着く。
「……ほんとに、いいの?」
今度は小さな声で聞いた。藍もすぐには答えなかった。ノートに書かれた文字へ目を落とす。
「前は……嫌だった」
「うん」
「自分が歌えない歌を、誰かに歌ってもらうなんて」
鉛筆をノートの中央へ置く。
「私のものじゃなくなる気がしたから」
きららは黙って聞いた。
「でも最近、きららと話しながら書いてると……」
藍はそこで言葉を止めた。
「……なんていうんだろ」
「うん」
「前と違う言葉が出てくる」
きららの琥珀色の瞳が、じっと藍を見つめる。
「きららが変なこと聞くから」
「変なこと!?」
「そこは今どうでもいい」
「よくないよ!」
「黙って聞いて」
「はい」
きららは背筋を伸ばした。藍は一度だけ息を吐く。
「一人で書いてた時には、思いつかなかった言葉が出てくる」
ページの隅には、何度も書き直した跡が残っている。
「だから……」
藍は顔を上げた。金色の瞳が、まっすぐきららを見る。
「きららになら、いい」
きららは何も言えなかった。さっきまであれほど騒いでいたのに。胸の真ん中へ、何かが静かに落ちてきた。待っていてよかったと、そう思った。歌えるから選ばれたのではない。無理に頼んだからでもない。藍が、自分で選んでくれた。
「……うん」
きららは笑った。
「ありがとう、藍ちゃん。
藍は少しだけ視線を逸らした。
「まだ歌詞も完成してないけどね」
「じゃあ一緒に完成させよう!」
「きららは歌詞書かないで」
「そこまで言わなくてもよくない!?」
広場に、また二人の笑い声が広がった。




