あなたの言葉に音を
翌日の放課後。
「——というわけなんです!」
音楽室で、きららは翠簾野の前に立ち、勢いよく説明を終えた。隣には藍がいる。普段とは違う場所だからだろうか。白いワンピース姿の藍は、壁に並んだ楽器や譜面台を珍しそうに見ていた。翠簾野は二人を交互に見る。
「なるほど」
「お願いします、先生!」
きららが頭を下げる。
「曲を作りたいんです!」
「正確には、作るのを手伝ってほしい、です」
藍が訂正した。
「そう、それ!」
「そこは大事ですよ、青波さん」
「わかってます!」
翠簾野が穏やかに笑う。
「事情はわかりました。ただ、私は作曲家ではありませんよ」
「でもピアノ弾けますよね!」
「それだけで作曲を任されるのは、なかなかの大役ですね」
「あ……」
きららが困った顔をする。すると藍が一歩前へ出た。
「全部作ってほしいわけじゃないんです」
きららと話している時とは違い、教師である翠簾野には丁寧な口調になる。
「私の中に、なんとなく音の感じはあるんです。でも……ちゃんと形にする方法がわからなくて」
「なるほど」
翠簾野の表情が少し変わる。
「それなら、お手伝いできるかもしれません」
「ほんとですか!?」
「青波さん、声が大きいです」
「すみません!」
「返事も大きいですね」
藍が横で笑いを堪えている。
「藍ちゃん!」
「何も言ってない」
「顔が笑ってる!」
「気のせい」
「絶対違う!」
「二人とも」
翠簾野がピアノの椅子へ腰を下ろした。
「始めてもいいですか?」
「はい!」
「お願いします」
翠簾野は歌詞を受け取って、しばらく黙って読んだ。きららはその横で落ち着かない。先生がどんな顔をするのか気になって仕方がなかった。
「……青波さん」
「はい!」
「そんなに覗き込まなくても逃げませんよ」
「あ、ごめんなさい」
一歩下がる。藍が小さく笑う。
「いい歌詞ですね」
翠簾野の言葉に、藍の目がわずかに動いた。
「……ありがとうございます」
「特に、後半へ行くにつれて視線が変わっています」
「視線?」
きららが首を傾げる。
「最初は遠くを見ています。でも、少しずつ『自分がどこにいるのか』へ戻ってくる」
「あ!」
きららが藍を見る。
「私もそれ思った!」
「知ってる。何回も聞いた」
「先生も同じだよ!」
「はいはい」
翠簾野は譜面台へ歌詞を置いた。
「では、どんな曲にしたいですか?」
「はい!」
きららが手を挙げる。
「遠くまで届く曲!」
「抽象的ですね」
「ええっ」
「水瀬さんは?」
藍は少し考えた。
「……静かな曲がいいです」
「静かな」
「でも、寂しいだけじゃなくて……最初は一人なんです。でも最後まで一人ではない感じ」
翠簾野は頷く。
「なるほど」
鍵盤へ指を置いた。ぽん、と一つ音が鳴る。続けていくつかの音が、低いところから、ゆっくり上へ昇っていく。音楽室の中へ、まだ名前のない旋律が広がった。
「こんな感じでしょうか」
藍ときららは顔を見合わせた。
「違う」
「違います!」
「二人とも即答ですね」
翠簾野が苦笑する。
「もっと……」
藍が言葉を探す。
「暗くない方がいいです」
「でも明るすぎるのも違う!」
きららが続ける。
「朝?」
「違う」
「じゃあ昼?」
「時間の話じゃないと思う」
「えーっと……」
きららは腕を組んだ。
「暗いところにいるけど、向こうに何か見えてる感じ!」
翠簾野が鍵盤へ向き直る。
「では、これは?」
先ほどより高い音から始まる。今度は音の間隔が広い。一音のあとに、わずかな余白。次の音、その余白そのものが、何かを待っているように聞こえた。藍が顔を上げる。
「……今の」
「はい?」
「もう一回お願いします」
翠簾野が同じ音を弾く。藍は目を閉じた。きららも黙って聴く。
「……これ、好き」
藍が言った。
「私も!」
「では、ここから考えてみましょうか」
翠簾野が五線紙を取り出した。音を書き留める。その日、言葉しかなかった歌に最初の音が生まれた。
曲作りは、思っていたよりずっと難しかった。
「ここ歌えない!」
「なんで?」
「息が足りない!」
「きららの肺活量の問題じゃない?」
「違うよ! 言葉が多いの!」
「減らしたくない」
「じゃあ途中で息吸わせて!」
「どこで?」
「ここ!」
「そこ切ったら意味変わる」
「先生ー!」
「私に振りますか」
翠簾野は苦笑しながら、二人のやり取りを聞いていた。けれど、すぐに答えは出さない。
「一度、青波さんが歌いやすい場所で区切ってみてください」
「はい」
「水瀬さんは、それを聞いてから言葉を変えるかどうか考えてみましょう」
きららが歌う。まだ歌詞をそのまま旋律に乗せただけの、ぎこちない歌。途中で息を吸う。
「ここ!」
「……やっぱり変」
「えー!」
「でも」
藍が歌詞を見る。
「この言葉を一つ前に持っていけば……」
鉛筆で矢印を書く。
「きらら、もう一回」
「うん!」
歌う。今度は先ほどより自然に息が続く。
「あ、歌いやすい!」
「ほんと?」
「うん!」
「じゃあ、こっちにする」
藍が歌詞を書き換える。翠簾野はその様子を見ながら、新しい旋律を譜面へ記していく。そんなことを何度も繰り返した。きららが歌うことで、藍の言葉が変わる。藍の言葉が変わることで、きららの歌い方も変わる。そして、その二人の間にあるものを、翠簾野が音として形にしていく。
「不思議……」
休憩中、きららはピアノの横に置かれた譜面を見て呟いた。
「何が?」
「藍ちゃんのノートにあった時と、全然違う」
藍も譜面を見る。
「歌詞はそんなに変わってないけど」
「ううん。そうじゃなくて」
きららは五線の上に並んだ音符を指した。
「最初は文字だったのに」
声に出して読むだけだった言葉。そこに高さや長さがついた。休符が入り、息をする場所が生まれた。
「歌になってる」
きららは嬉しそうに言った。藍は答えなかった。けれど、その視線は長い間、譜面から離れなかった。
それから何度か、三人で音楽室に集まった。まだ一曲すべてが完成したわけではない。一番の途中には旋律が決まっていないところがある。藍の歌詞にも空白が残っている。それでも、サビだけは、形になった。
「じゃあ、今日はここまでにしましょうか」
翠簾野が譜面を整える。
「えー! もう終わりですか?」
「もう十分やりましたよ」
「あと一回だけ!」
「青波さん」
「……はーい」
きららは名残惜しそうに返事をした。藍が荷物をまとめる。翠簾野も五線紙をファイルへしまおうとして――ふと手を止めた。
「せっかくですから」
「?」
「最後に、サビだけ通してみますか?」
「いいんですか!?」
「一回だけですよ」
「やった!」
きららがすぐに譜面台の前へ戻る。翠簾野はピアノへ座った。そして藍は、少し離れた椅子へ腰を下ろした。きららが譜面を確認する。何度も練習した旋律、何度も読んだ言葉。けれど、最初から最後まで、藍の前で「歌」として通すのは初めてだった。
「……藍ちゃん」
「何?」
「緊張する」
「なんで私に言うの」
「だって藍ちゃんの歌だもん」
「さっきまで散々歌ってたでしょ」
「でも今はちゃんと歌うから!」
「今まではちゃんと歌ってなかったの?」
「あっ」
きららが困る。藍が笑った。
「いいから歌って」
「……うん」
きららは譜面へ向き直った。翠簾野と目が合い、小さく頷く。最初の音が鳴り、きららは息を吸った。そして歌った。まだ短い歌だった。完成していない歌。伴奏も簡単で、旋律もこれから変わるかもしれない。それでも、藍が何度も書いて、消して、また書いた言葉が、今きららの声になっている。静かに言葉を一つずつ拾う。
誰かを探すように。ここにいると伝えるように。知らない誰かへ。まだ見たことのない誰かへ声を伸ばす。最後の音を歌い終える。ピアノが、そのあとを追った。そして、音がなくなった。きららは譜面台から顔を上げた。
「……どう?」
さっきまでの勢いはどこへ行ったのか、声が少し小さい。藍は答えなかった。椅子に座ったまま、きららを見ている。
「……藍ちゃん?」
きららが不安になってくる。
「変だった?」
「……ううん」
「じゃあ、歌い方?」
「違う」
「音外した?」
「違うってば」
藍は一度だけ目を伏せた。自分が書いた言葉。ずっと紙の上にしかなかったもの。歌えなくなってからも、捨てられずに書き続けたもの。誰にも渡すつもりなんてなかった。自分が歌えないのなら、歌にならなくてもいいと思っていた。それが今、ちゃんと聞こえた。自分ではない声で。けれど、不思議と嫌ではなかった。ずっと閉じていたものが、初めて外へ出ていったような気がした。
「……きらら」
「うん」
藍は顔を上げた。
「もう一回、歌って」
一瞬、きららは目を丸くしたが、
「うん!」
満面の笑顔で頷いた。翠簾野が再び鍵盤へ指を置く。藍は椅子に座ったまま、その瞬間を待ち、きららが息を吸う。ピアノから、最初の音がこぼれた。そしてもう一度、藍の言葉が、きららの声になる。
窓の外では、校舎の影がグラウンドへ長く伸びていた。誰もいなくなった廊下の時計が、静かに針を進めていた。
音楽室の黒板には、授業で使われた五線が消されずに残っている。その下で、きららは歌い、藍は聴いていた。翠簾野は二人の間に生まれた音を、ピアノで支えていた。
まだ、完成には遠い。歌詞や旋律にも迷っている場所がある。名前さえ、まだない。それでも、それはもう、ノートの中だけにある言葉ではなかった。誰にも届かないまま眠っていた言葉がひとつずつ音をまとい、ひとつの声に出会って初めて歌になった。藍がずっと一人で抱えていた歌に、ようやく、きららの声が宿った。




