↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
18/27

小さな違和感

 十一月に入っても、くじら島の日差しはまだ夏の名残を抱えていた。けれど、朝の教室には十月までとは違う気配がある。開け放していた窓は半分ほど閉められるようになり、制服の袖を肘まで捲っている生徒も少なくなった。校庭を囲む木々の葉も、深い緑の中にわずかにくすんだ色を混ぜ始めている。そんな季節の変化を、きららはあまり気にしていなかった。


「あー……」

 朝のホームルーム前。自分の席で、きららは喉へ手を当てていた。痛い、というほどではない。ただ、起きた時から妙に声が出しにくい。いつものように「おはよう!」と声を出したら、最初の一音が少し掠れていた。それでも二、三度喋っているうちに戻ったので、たいして気にも留めなかったのだが。

「……んー」

 もう一度、小さく声を出す。

「何やってんだ?」

 机の横から声がした。顔を上げると、優斗が怪訝そうにこちらを見ていた。

「発声」

「教室で?」

「なんか今日、声出しにくくて」

 優斗の眉が寄った。

「いつから?」

「今日」

「ほんとか?」

「たぶん」

「たぶんってなんだよ」

「最近ちょっと掠れることはあったけど、朝だけだったし」

「それ今日からじゃねえだろ」

「あれ?」

「あれ? じゃねえよ」

 優斗は呆れたように額へ手を当てた。

「お前、最近ずっと歌ってただろ」

「ずっとってほどじゃないよ。放課後終わりまで先生と曲を整えたり——」

「それをずっとって言うんだよ」

「でも楽しいんだよ!」

「楽しいかどうか聞いてねえ」

 きららは唇を尖らせた。


「優斗、お母さんみたい」

「誰がお母さんだ」

「じゃあお父さん?」

「どっちでもねえよ!」

 近くにいた同級生が吹き出した。きららも笑う。けれど笑ったあと、小さく咳払いをした。

その音を、優斗は聞き逃さなかった。

「……今日、歌うなよ」

「えー」

「えー、じゃねえ」

「今日、音楽あるのに」

「授業は仕方ねえだろ。終わったあとまで歌うなって言ってんの」

「大丈夫だって」

「その台詞が一番信用できねえ」

 言い返そうとしたところで、始業を知らせる鐘が鳴った。優斗は自分の席へ戻っていく。きららも教科書を出した。その時にはもう、喉の違和感を半分忘れていた。


 四時間目は音楽だった。音楽室には、午前の陽が斜めから差し込んでいた。磨かれたピアノの側面に窓枠が映り、壁際に並ぶ譜面台の細い影が床へ落ちている。

 今日は一人ずつ短い課題曲を歌うことになっていた。きららはこういう時間が嫌いではない。むしろ好きだ。自分が歌うのも、誰かの歌を聴くのも。


「次、神崎さん」

「はい」

 少し離れた席から海夜璃が立ち上がった。金色のウェーブヘアが肩で弾む。教室の前まで歩くと、海夜璃は制服の裾を整え、すっと背筋を伸ばした。伴奏が始まる。最初の一音から、よく通る声だった。音程が揺れない。息の流れも一定で、音が高くなっても無理に押し上げるようなところがない。きららは頬杖をつきそうになって、慌てて姿勢を戻した。

 聴き入っていた。海夜璃の歌は、海夜璃自身によく似ていて堂々としている。曖昧なところがない。高い音へ上がる時にも迷いがなく、そのまま一番よく響く場所へ声を置いてくる。最後の音が、音楽室の天井へ抜けた。

 伴奏が止まり、拍手が起きた。きららも真っ先に手を叩く。

「すごーい!」

 思わず声まで出た。海夜璃がこちらを見る。そして、得意げに髪を払った。

「この程度、当然ですわ」

「出た!」

「何ですの?」

「海夜璃、絶対それ言うと思った!」

「事実を申し上げただけですわ」

 くすくすと笑いが起こる。海夜璃はまったく気にせず席へ戻った。すれ違いざま、

「きららさん」

「ん?」

「次、あなたですわよ」

「うん!」

「せいぜい頑張ることですわね」

「負けないからね!」

「望むところですわ」


 きららは笑って前へ出た。歌う。いつも通り、そのつもりだった。最初の数小節は問題なかった。声も出るし、音も取れている。だから、やっぱり朝の違和感なんてたいしたことなかったのだと思った。ところが、曲が高い音へ差しかかった瞬間だった。


「——っ」


 声が引っかかった。ほんの一瞬。音程を外すほどではない。すぐに立て直し、そのまま歌い続けた。けれど、いつもなら楽に伸ばせるはずの音が伸びない。息を吐ききるより先に、声が細くなる。もう少し、あと少しだけ。そう思って息を押し出す。最後まで歌い切った。伴奏が止まり、拍手が起こる。きららは息を吐いた。

「……ふう」

 歌えた。だったら大丈夫。そう思って席へ戻ろうとした時。


「きららさん」

 海夜璃に呼び止められた。

「ん?」

「五十八点ですわね」

「低っ!?」

 思わず振り返った。

「何その点数!?」

「今のきららさんでしたら、その程度ですわ」

「そんなにダメだった!?」

「音程そのものは大きく外していませんわ」

「じゃあもっと点数ちょうだいよ!」

「ですが、高音の響きが浅い。最後も息が保っていませんでしたわね」

「うっ」

 思い当たる節がありきららが黙ると、海夜璃は腕を組んだ。

「それに」

 さっきまでの得意げな表情が、ほんの少し変わった。

「声が掠れていらっしゃいますわ」

「……やっぱり?」

「やっぱり、ですって?」

「あ、いや……最近ちょっとだけ」

「ちょっと?」

「朝とか。あと、いっぱい喋ったあととか」

 海夜璃の眉間に皺が寄った。

「あなた……」

「でも歌えるよ! 今だって最後まで——」


「呆れましたわ」

「え?」

「最後まで歌えたから何だというんですの?」

 ぴしゃりと言われた。

「いつものきららさんなら、今の高音であんな声の逃がし方はなさいませんわ」

 きららは目を瞬いた。

「……そんなに違った?」

「違いますわ」

 即答だった。

「わたくしを誰だと思っていますの?」

「海夜璃ちゃん」

「そういう意味ではありませんわ!」

 周囲から笑い声が上がる。

「だって!」

「まったく……」

 海夜璃はこめかみを押さえた。それから、きららを真っ直ぐ見た。

「そんな状態で女神様に選ばれると思いまして?」

「なっ……!」

「今のきららさんでしたら、わたくしの方がよっぽど相応しくてよ!」

「なにをーっ!」

 きららの琥珀色の瞳に、途端に火がついた。

「絶対治すもん!」

「当然ですわ」

 海夜璃はふふん、と顎を上げた。

「万全でないきららさんに勝ったところで、ちっとも嬉しくありませんもの」

「じゃあ治ったら勝負ね!」

「望むところですわ」

「よーし! じゃあ今日からもっと練習——」

「お待ちなさい!」

「え?」

「なぜそうなるんですの!?」

 海夜璃が珍しく声を裏返した。

「治すのでしょう!?」

「だから練習して——」

「休みなさい!」

「ええー!」

「『ええー』ではありませんわ!」

 音楽室が笑いに包まれる。きららは不満そうに頬を膨らませた。その少し後ろで優斗が深々とため息をついていた。



「ほら見ろ」

 昼休み。中庭へ続く渡り廊下で、優斗が言った。

「神崎にも言われただろ」

「わかってるよ」

「ほんとか?」

「ほんとほんと」

「信用できねえ」

「なんで!?」

「お前だから」

「理由になってない!」

「十分なってる」

 優斗は購買で買ったパンの袋を開けた。きららも隣で昼食を広げる。

「でもさ」

 箸を持ちながら、きららは呟いた。

「今日、海夜璃の方が上手かったなあ」

「珍しく素直だな」

「だって上手かったもん」

 悔しくないわけではない。けれど、それより先に「すごい」が来る。

「高いところ、すーって出るんだよ。全然苦しそうじゃないし」

「お前も普段は出てるだろ」

「今日は出なかった」


 口に出すと、少しだけ引っかかった。朝より、音楽の授業の前より、自分の声がおかしいという事実が、少しだけ重く感じられた。

「……ほんとに調子悪いのかな」

「今さら?」

「だって今までは普通に歌えてたし」

「だからって、ずっと平気とは限らねえだろ」

「うーん……」

 きららは自分の喉へ触れた。外から触っても、何もわからない。

「痛い?」

「そんなに」

「じゃあ?」

「出しにくい。あと、歌ったあとちょっと変な感じする」

「それ先生に言ったのか?」

「……まだ」

「言え」

「はい」

「今日」

「はい」

「絶対」

「はいはい!」

「返事が軽い」

「もう、優斗までうるさいなあ」

「心配してんだよ」


 あまりにも普通に言われて、きららは瞬いた。優斗はパンを一口齧る。

「お前が急に静かになったら気持ち悪いし」

「今ので台無し!」

「元気そうで何より」

「もう!」

 きららは笑った。笑いながら、少し掠れた自分の声を聞いた。


 

「今日は歌わないでください」

 放課後。音楽室へ来たきららに、翠簾野はそう告げた。

「……まだ何も言ってませんよ?」

「言わなくても、話している声を聞けばわかります」

 翠簾野はピアノの蓋を開けなかった。いつもなら譜面を出すところなのに、今日は机の上へ置いたままだ。


「いつからですか?」

「ちょっと前から……」

「ちょっと前とは?」

「えーっと」

 きららが目を泳がせる。

「青波さん」

「……一週間くらい?」

「本当に?」

「……もうちょっと?」

 翠簾野が静かに息を吐いた。

「先生、その顔怖い」

「怒ってはいませんよ」

「ほんと?」

「困ってはいます」

「ごめんなさい」

 きららは肩を落とした。

「でも、せっかくここまで曲できたし……」

「曲は逃げません」

 翠簾野が言った。

「藍さんの歌詞も、譜面も、明日突然なくなったりはしません」

「うん」

「ですが、声は身体の一部です」

 きららは黙った。

「疲れているのなら休ませる。それも歌う人間に必要なことですよ」

「……はい」

「今日は帰って休んでください」

「はい」


 珍しく素直に返事をする。鞄を持ち上げたところで、きららは振り返った。

「先生」

「はい?」

「ちゃんと休んだら、また歌えるよね?」

 翠簾野は少しだけ間を置いた。

「まずは休みましょう」

 それ以上は言わなかった。その返事が、きららの胸に小さく残った。


 

 



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。