小さな違和感
十一月に入っても、くじら島の日差しはまだ夏の名残を抱えていた。けれど、朝の教室には十月までとは違う気配がある。開け放していた窓は半分ほど閉められるようになり、制服の袖を肘まで捲っている生徒も少なくなった。校庭を囲む木々の葉も、深い緑の中にわずかにくすんだ色を混ぜ始めている。そんな季節の変化を、きららはあまり気にしていなかった。
「あー……」
朝のホームルーム前。自分の席で、きららは喉へ手を当てていた。痛い、というほどではない。ただ、起きた時から妙に声が出しにくい。いつものように「おはよう!」と声を出したら、最初の一音が少し掠れていた。それでも二、三度喋っているうちに戻ったので、たいして気にも留めなかったのだが。
「……んー」
もう一度、小さく声を出す。
「何やってんだ?」
机の横から声がした。顔を上げると、優斗が怪訝そうにこちらを見ていた。
「発声」
「教室で?」
「なんか今日、声出しにくくて」
優斗の眉が寄った。
「いつから?」
「今日」
「ほんとか?」
「たぶん」
「たぶんってなんだよ」
「最近ちょっと掠れることはあったけど、朝だけだったし」
「それ今日からじゃねえだろ」
「あれ?」
「あれ? じゃねえよ」
優斗は呆れたように額へ手を当てた。
「お前、最近ずっと歌ってただろ」
「ずっとってほどじゃないよ。放課後終わりまで先生と曲を整えたり——」
「それをずっとって言うんだよ」
「でも楽しいんだよ!」
「楽しいかどうか聞いてねえ」
きららは唇を尖らせた。
「優斗、お母さんみたい」
「誰がお母さんだ」
「じゃあお父さん?」
「どっちでもねえよ!」
近くにいた同級生が吹き出した。きららも笑う。けれど笑ったあと、小さく咳払いをした。
その音を、優斗は聞き逃さなかった。
「……今日、歌うなよ」
「えー」
「えー、じゃねえ」
「今日、音楽あるのに」
「授業は仕方ねえだろ。終わったあとまで歌うなって言ってんの」
「大丈夫だって」
「その台詞が一番信用できねえ」
言い返そうとしたところで、始業を知らせる鐘が鳴った。優斗は自分の席へ戻っていく。きららも教科書を出した。その時にはもう、喉の違和感を半分忘れていた。
四時間目は音楽だった。音楽室には、午前の陽が斜めから差し込んでいた。磨かれたピアノの側面に窓枠が映り、壁際に並ぶ譜面台の細い影が床へ落ちている。
今日は一人ずつ短い課題曲を歌うことになっていた。きららはこういう時間が嫌いではない。むしろ好きだ。自分が歌うのも、誰かの歌を聴くのも。
「次、神崎さん」
「はい」
少し離れた席から海夜璃が立ち上がった。金色のウェーブヘアが肩で弾む。教室の前まで歩くと、海夜璃は制服の裾を整え、すっと背筋を伸ばした。伴奏が始まる。最初の一音から、よく通る声だった。音程が揺れない。息の流れも一定で、音が高くなっても無理に押し上げるようなところがない。きららは頬杖をつきそうになって、慌てて姿勢を戻した。
聴き入っていた。海夜璃の歌は、海夜璃自身によく似ていて堂々としている。曖昧なところがない。高い音へ上がる時にも迷いがなく、そのまま一番よく響く場所へ声を置いてくる。最後の音が、音楽室の天井へ抜けた。
伴奏が止まり、拍手が起きた。きららも真っ先に手を叩く。
「すごーい!」
思わず声まで出た。海夜璃がこちらを見る。そして、得意げに髪を払った。
「この程度、当然ですわ」
「出た!」
「何ですの?」
「海夜璃、絶対それ言うと思った!」
「事実を申し上げただけですわ」
くすくすと笑いが起こる。海夜璃はまったく気にせず席へ戻った。すれ違いざま、
「きららさん」
「ん?」
「次、あなたですわよ」
「うん!」
「せいぜい頑張ることですわね」
「負けないからね!」
「望むところですわ」
きららは笑って前へ出た。歌う。いつも通り、そのつもりだった。最初の数小節は問題なかった。声も出るし、音も取れている。だから、やっぱり朝の違和感なんてたいしたことなかったのだと思った。ところが、曲が高い音へ差しかかった瞬間だった。
「——っ」
声が引っかかった。ほんの一瞬。音程を外すほどではない。すぐに立て直し、そのまま歌い続けた。けれど、いつもなら楽に伸ばせるはずの音が伸びない。息を吐ききるより先に、声が細くなる。もう少し、あと少しだけ。そう思って息を押し出す。最後まで歌い切った。伴奏が止まり、拍手が起こる。きららは息を吐いた。
「……ふう」
歌えた。だったら大丈夫。そう思って席へ戻ろうとした時。
「きららさん」
海夜璃に呼び止められた。
「ん?」
「五十八点ですわね」
「低っ!?」
思わず振り返った。
「何その点数!?」
「今のきららさんでしたら、その程度ですわ」
「そんなにダメだった!?」
「音程そのものは大きく外していませんわ」
「じゃあもっと点数ちょうだいよ!」
「ですが、高音の響きが浅い。最後も息が保っていませんでしたわね」
「うっ」
思い当たる節がありきららが黙ると、海夜璃は腕を組んだ。
「それに」
さっきまでの得意げな表情が、ほんの少し変わった。
「声が掠れていらっしゃいますわ」
「……やっぱり?」
「やっぱり、ですって?」
「あ、いや……最近ちょっとだけ」
「ちょっと?」
「朝とか。あと、いっぱい喋ったあととか」
海夜璃の眉間に皺が寄った。
「あなた……」
「でも歌えるよ! 今だって最後まで——」
「呆れましたわ」
「え?」
「最後まで歌えたから何だというんですの?」
ぴしゃりと言われた。
「いつものきららさんなら、今の高音であんな声の逃がし方はなさいませんわ」
きららは目を瞬いた。
「……そんなに違った?」
「違いますわ」
即答だった。
「わたくしを誰だと思っていますの?」
「海夜璃ちゃん」
「そういう意味ではありませんわ!」
周囲から笑い声が上がる。
「だって!」
「まったく……」
海夜璃はこめかみを押さえた。それから、きららを真っ直ぐ見た。
「そんな状態で女神様に選ばれると思いまして?」
「なっ……!」
「今のきららさんでしたら、わたくしの方がよっぽど相応しくてよ!」
「なにをーっ!」
きららの琥珀色の瞳に、途端に火がついた。
「絶対治すもん!」
「当然ですわ」
海夜璃はふふん、と顎を上げた。
「万全でないきららさんに勝ったところで、ちっとも嬉しくありませんもの」
「じゃあ治ったら勝負ね!」
「望むところですわ」
「よーし! じゃあ今日からもっと練習——」
「お待ちなさい!」
「え?」
「なぜそうなるんですの!?」
海夜璃が珍しく声を裏返した。
「治すのでしょう!?」
「だから練習して——」
「休みなさい!」
「ええー!」
「『ええー』ではありませんわ!」
音楽室が笑いに包まれる。きららは不満そうに頬を膨らませた。その少し後ろで優斗が深々とため息をついていた。
「ほら見ろ」
昼休み。中庭へ続く渡り廊下で、優斗が言った。
「神崎にも言われただろ」
「わかってるよ」
「ほんとか?」
「ほんとほんと」
「信用できねえ」
「なんで!?」
「お前だから」
「理由になってない!」
「十分なってる」
優斗は購買で買ったパンの袋を開けた。きららも隣で昼食を広げる。
「でもさ」
箸を持ちながら、きららは呟いた。
「今日、海夜璃の方が上手かったなあ」
「珍しく素直だな」
「だって上手かったもん」
悔しくないわけではない。けれど、それより先に「すごい」が来る。
「高いところ、すーって出るんだよ。全然苦しそうじゃないし」
「お前も普段は出てるだろ」
「今日は出なかった」
口に出すと、少しだけ引っかかった。朝より、音楽の授業の前より、自分の声がおかしいという事実が、少しだけ重く感じられた。
「……ほんとに調子悪いのかな」
「今さら?」
「だって今までは普通に歌えてたし」
「だからって、ずっと平気とは限らねえだろ」
「うーん……」
きららは自分の喉へ触れた。外から触っても、何もわからない。
「痛い?」
「そんなに」
「じゃあ?」
「出しにくい。あと、歌ったあとちょっと変な感じする」
「それ先生に言ったのか?」
「……まだ」
「言え」
「はい」
「今日」
「はい」
「絶対」
「はいはい!」
「返事が軽い」
「もう、優斗までうるさいなあ」
「心配してんだよ」
あまりにも普通に言われて、きららは瞬いた。優斗はパンを一口齧る。
「お前が急に静かになったら気持ち悪いし」
「今ので台無し!」
「元気そうで何より」
「もう!」
きららは笑った。笑いながら、少し掠れた自分の声を聞いた。
「今日は歌わないでください」
放課後。音楽室へ来たきららに、翠簾野はそう告げた。
「……まだ何も言ってませんよ?」
「言わなくても、話している声を聞けばわかります」
翠簾野はピアノの蓋を開けなかった。いつもなら譜面を出すところなのに、今日は机の上へ置いたままだ。
「いつからですか?」
「ちょっと前から……」
「ちょっと前とは?」
「えーっと」
きららが目を泳がせる。
「青波さん」
「……一週間くらい?」
「本当に?」
「……もうちょっと?」
翠簾野が静かに息を吐いた。
「先生、その顔怖い」
「怒ってはいませんよ」
「ほんと?」
「困ってはいます」
「ごめんなさい」
きららは肩を落とした。
「でも、せっかくここまで曲できたし……」
「曲は逃げません」
翠簾野が言った。
「藍さんの歌詞も、譜面も、明日突然なくなったりはしません」
「うん」
「ですが、声は身体の一部です」
きららは黙った。
「疲れているのなら休ませる。それも歌う人間に必要なことですよ」
「……はい」
「今日は帰って休んでください」
「はい」
珍しく素直に返事をする。鞄を持ち上げたところで、きららは振り返った。
「先生」
「はい?」
「ちゃんと休んだら、また歌えるよね?」
翠簾野は少しだけ間を置いた。
「まずは休みましょう」
それ以上は言わなかった。その返事が、きららの胸に小さく残った。




