色褪せた音色
藍とは、しばらく会えていなかった。学校が違う二人にとって、毎日会えることの方が珍しい。十月の終わりから、きららは翠簾野と曲を整える時間が増えていたし、藍にも予定があった。歌詞について話したいことは、いくつも溜まっていた。曲もかなり形になった。次に会ったら聞かせたい。
数日後。きららは久しぶりに、いつもの防波堤へ向かった。十一月の午後は、まだ明るい。夏ほど白く眩しい光ではなくなった空の下、海面には細かな光が無数に散っている。防波堤のコンクリートには、昼間に蓄えた熱がまだわずかに残っていた。遠くで、小さな漁船が港へ戻ってくる。その向こうに、見慣れた白いワンピースがあった。
「藍ちゃん!」
きららは思わず声を上げた。藍が振り返る。金色の瞳が、きららを捉えた。
「久しぶ——」
「きらら」
藍の声が重なった。
「ん?」
きららは足を止めた。藍がこちらを見ている。
「どうしたの?」
「……声」
「え?」
「声、どうしたの?」
きららは自分の喉へ触れた。
「あー……やっぱり藍ちゃんにもわかる?」
「いつから?」
「え?」
「いつから、その声なの?」
いつもより低い声だった。きららは少し戸惑う。
「一週間……より前かな。最初は朝だけだったんだけど」
「……そう」
「でもね、曲かなりできたんだよ!」
藍は答えない。
「サビも前より歌いやすくなったし、先生が伴奏も少し変えてくれたんだ!」
「……」
「でもね、今日、先生にも休めって言われてね、海夜璃にもすっごい怒られた」
いつもの調子で話す。
「五十八点とか言うんだよ? ひどくない? でも今日の海夜璃ちゃん、ほんと上手くて——」
「きらら」
藍が遮る。
「……ごめん」
「え?」
藍はきららを見た。
「きらら、ごめん。もう歌わないで」
「藍ちゃん……?」
「もう、きららに歌ってほしくないの」
一瞬。言葉の意味がわからなかった。
「……え?」
藍は何も言わない。
「どういうこと?」
「そのままの意味」
「声のことなら大丈夫だよ! 休めばすぐ治るって言われてるし、今日の練習は休んだし!」
きららは一歩近づいた。
「違う、これは、私の問題。きららのせいじゃない。私が、もう曲を作りたくなくなっただけ」
「どうして……」
声が掠れた。
「せっかく歌詞書いてくれたのに、曲も作れた! 一緒にここまで来たのに……!」
藍の唇がわずかに動く。
「私、藍ちゃんと一緒だから、すごく楽しいの!」
言葉が止まらない。
「藍ちゃんの歌、知らない誰かに届けたい!」
「っ、だから嫌なの!」
声が、防波堤に響いた。きららは息を呑んだ。藍が、こんな声を出すところを初めて聞いた。藍自身も驚いたように目を見開いた。次の瞬間、
「っ……げほっ、……!」
「藍ちゃん!」
藍が口元を押さえる。細い肩が大きく揺れた。
「大丈夫!?」
きららは反射的に手を伸ばした。けれど、藍は一歩下がった。伸ばした手が、何にも触れないまま止まる。
「……藍ちゃん」
きららはゆっくり手を下ろした。しばらく、藍の咳だけが続く。やがて呼吸を整え、藍は顔を上げた。
「一緒に、曲を作っていて思った」
掠れた声だった。
「最初は、きららに会って、今までにない詩が書けて喜んで」
きららは黙っている。
「でも、それが段々歌詞になって、歌になって、きららが歌った時……やっぱり嫌だった」
「……嫌?」
「私は、歌えないのに」
藍の指が白いワンピースの裾を強く掴んだ。
「私の歌を、きららが歌ってる」
「……」
「私の歌なのに、きららの歌になってる」
きららの目が揺れた。
「最初は、どうしようもないことだと思ってた」
藍は言葉を切った。
「でも…!」
また声が大きくなりかけて、途中で抑える。
「きららが歌う度に、やっぱり私は歌えないんだって気付かされて……惨めだった!」
「……藍ちゃん」
「こんな思いをするんだったら、やっぱり……」
藍は俯いた。
「やっぱり……曲なんて、作らなきゃよかった……!」
何も聞こえなくなった気がした。波は動いている。遠くで走る船も、頭上を横切る鳥も、それらは全部、二人を置いてどこか遠いところにあるようだった。
「……そんな風に、思ってたんだ」
自分の声だけが、妙にはっきり聞こえる。
藍は答えなかった。きららは俯く。待つと決めた日、勝手に歌わないと約束した日、そして藍が言ってくれた、自分になら、歌ってもいいと言ってくれた日。
嬉しかった。だから、自分も同じだと思った。一緒に歌を作ることが。言葉が旋律になっていくことが。藍も楽しいのだと、勝手に。
「……ごめん」
きららの声に、藍が顔を上げる。
「ごめんね」
きららは笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。
「私がまた、突っ走ったんだよね」
「……」
「藍ちゃんも、楽しんでるって思ってた」
声が少し掠れる。
「私と一緒だって」
きららは藍を見る。
「でも、違ったんだね……」
藍は何も言わなかった。否定もしなかった。その沈黙が、きららには答えのように思えた。
「……もう、私のことは放っておいて」
藍が歩き出す。一歩、また一歩。白いワンピースが遠ざかる。きららは追わなかった。追えなかった。藍の背中が、防波堤の先から消える。きららは一人になった。足元を見る。そこには何もない。けれど頭の中では、まだ曲が鳴っていた。翠簾野のピアノ、藍が書いた言葉、そして、自分の声。
『もう一回、歌って』
あの日、藍はそう言った。本当に、嬉しかったのに。きららは喉へ手を当てた。
「……そっか」
小さく呟く。その声さえ、少し掠れていた。
「私だけだったんだ……」
歌を届けたいと思ったことも。一緒に作るのが楽しいと思ったことも。同じ場所へ向かっていると思っていたことも。全部、自分だけだったのかもしれない。
十一月の陽は、いつの間にか傾いていた。防波堤の上へ伸びたきららの影は、隣に誰もいないまま、細く長く続いていた。




