↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
19/27

色褪せた音色

 藍とは、しばらく会えていなかった。学校が違う二人にとって、毎日会えることの方が珍しい。十月の終わりから、きららは翠簾野と曲を整える時間が増えていたし、藍にも予定があった。歌詞について話したいことは、いくつも溜まっていた。曲もかなり形になった。次に会ったら聞かせたい。


 数日後。きららは久しぶりに、いつもの防波堤へ向かった。十一月の午後は、まだ明るい。夏ほど白く眩しい光ではなくなった空の下、海面には細かな光が無数に散っている。防波堤のコンクリートには、昼間に蓄えた熱がまだわずかに残っていた。遠くで、小さな漁船が港へ戻ってくる。その向こうに、見慣れた白いワンピースがあった。


「藍ちゃん!」

 きららは思わず声を上げた。藍が振り返る。金色の瞳が、きららを捉えた。

「久しぶ——」

「きらら」

 藍の声が重なった。

「ん?」

 きららは足を止めた。藍がこちらを見ている。

「どうしたの?」

「……声」

「え?」

「声、どうしたの?」

 きららは自分の喉へ触れた。

「あー……やっぱり藍ちゃんにもわかる?」

「いつから?」

「え?」

「いつから、その声なの?」


 いつもより低い声だった。きららは少し戸惑う。

「一週間……より前かな。最初は朝だけだったんだけど」

「……そう」

「でもね、曲かなりできたんだよ!」

 藍は答えない。

「サビも前より歌いやすくなったし、先生が伴奏も少し変えてくれたんだ!」

「……」

「でもね、今日、先生にも休めって言われてね、海夜璃にもすっごい怒られた」

 いつもの調子で話す。

「五十八点とか言うんだよ? ひどくない? でも今日の海夜璃ちゃん、ほんと上手くて——」


「きらら」

 藍が遮る。

「……ごめん」

「え?」

 藍はきららを見た。


「きらら、ごめん。もう歌わないで」

「藍ちゃん……?」

「もう、きららに歌ってほしくないの」


 一瞬。言葉の意味がわからなかった。


「……え?」

 藍は何も言わない。

「どういうこと?」

「そのままの意味」

「声のことなら大丈夫だよ! 休めばすぐ治るって言われてるし、今日の練習は休んだし!」

 きららは一歩近づいた。


「違う、これは、私の問題。きららのせいじゃない。私が、もう曲を作りたくなくなっただけ」

「どうして……」

 声が掠れた。

「せっかく歌詞書いてくれたのに、曲も作れた! 一緒にここまで来たのに……!」

 藍の唇がわずかに動く。

「私、藍ちゃんと一緒だから、すごく楽しいの!」

 言葉が止まらない。

「藍ちゃんの歌、知らない誰かに届けたい!」


「っ、だから嫌なの!」


 声が、防波堤に響いた。きららは息を呑んだ。藍が、こんな声を出すところを初めて聞いた。藍自身も驚いたように目を見開いた。次の瞬間、

「っ……げほっ、……!」

「藍ちゃん!」

 藍が口元を押さえる。細い肩が大きく揺れた。

「大丈夫!?」

 きららは反射的に手を伸ばした。けれど、藍は一歩下がった。伸ばした手が、何にも触れないまま止まる。

「……藍ちゃん」

 きららはゆっくり手を下ろした。しばらく、藍の咳だけが続く。やがて呼吸を整え、藍は顔を上げた。


「一緒に、曲を作っていて思った」

 掠れた声だった。

「最初は、きららに会って、今までにない詩が書けて喜んで」

 きららは黙っている。

「でも、それが段々歌詞になって、歌になって、きららが歌った時……やっぱり嫌だった」

「……嫌?」

「私は、歌えないのに」

 藍の指が白いワンピースの裾を強く掴んだ。

「私の歌を、きららが歌ってる」

「……」

「私の歌なのに、きららの歌になってる」

 きららの目が揺れた。

「最初は、どうしようもないことだと思ってた」

 藍は言葉を切った。

「でも…!」

 また声が大きくなりかけて、途中で抑える。

「きららが歌う度に、やっぱり私は歌えないんだって気付かされて……惨めだった!」

「……藍ちゃん」

「こんな思いをするんだったら、やっぱり……」

 藍は俯いた。

「やっぱり……曲なんて、作らなきゃよかった……!」


 何も聞こえなくなった気がした。波は動いている。遠くで走る船も、頭上を横切る鳥も、それらは全部、二人を置いてどこか遠いところにあるようだった。

「……そんな風に、思ってたんだ」

 自分の声だけが、妙にはっきり聞こえる。

 藍は答えなかった。きららは俯く。待つと決めた日、勝手に歌わないと約束した日、そして藍が言ってくれた、自分になら、歌ってもいいと言ってくれた日。

 嬉しかった。だから、自分も同じだと思った。一緒に歌を作ることが。言葉が旋律になっていくことが。藍も楽しいのだと、勝手に。


「……ごめん」

 きららの声に、藍が顔を上げる。

「ごめんね」

 きららは笑おうとした。けれど、うまくいかなかった。

「私がまた、突っ走ったんだよね」

「……」

「藍ちゃんも、楽しんでるって思ってた」

 声が少し掠れる。

「私と一緒だって」

 きららは藍を見る。

「でも、違ったんだね……」

 藍は何も言わなかった。否定もしなかった。その沈黙が、きららには答えのように思えた。


「……もう、私のことは放っておいて」

 藍が歩き出す。一歩、また一歩。白いワンピースが遠ざかる。きららは追わなかった。追えなかった。藍の背中が、防波堤の先から消える。きららは一人になった。足元を見る。そこには何もない。けれど頭の中では、まだ曲が鳴っていた。翠簾野のピアノ、藍が書いた言葉、そして、自分の声。


『もう一回、歌って』


 あの日、藍はそう言った。本当に、嬉しかったのに。きららは喉へ手を当てた。

「……そっか」

 小さく呟く。その声さえ、少し掠れていた。

「私だけだったんだ……」

 歌を届けたいと思ったことも。一緒に作るのが楽しいと思ったことも。同じ場所へ向かっていると思っていたことも。全部、自分だけだったのかもしれない。

 十一月の陽は、いつの間にか傾いていた。防波堤の上へ伸びたきららの影は、隣に誰もいないまま、細く長く続いていた。




評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。