それぞれの想い
歌わない一日は、思っていたより長かった。朝、目を覚まして、制服に着替え、朝食を食べて、家を出る。学校までの道を歩いて、教室へ入り、授業を受ける。たったそれだけのことなのに、一日のあちこちに妙な空白ができた。
最初に気づいたのは、登校途中だった。いつも通る坂道。石垣の隙間から伸びた草が、朝露を小さく乗せている。道の向こうでは、パン屋が軒先の看板を出していた。きららは何気なく口を開いた。いつものように、頭の中に浮かんだ旋律を鼻歌にしようとして——
「……」
やめた。
閉じた唇の奥で、音だけが行き場をなくした。翠簾野から、しばらく歌わないように言われている。声を休ませるためだ。それだけ。歌えなくなったわけではない。今は歌わないだけ。そう自分に言い聞かせ、きららは歩き出した。
「きららさん」
昼休み、教室を出たところで呼び止められた。振り返ると、廊下の窓際に海夜璃が立っていた。
「海夜璃。どうしたの?」
「……あなた」
海夜璃はきららの顔をじっと見る。
「何?」
「ずいぶん大人しいですのね」
「そう?」
「そうですわ」
即答された。
「普段でしたら廊下の端からでも、きららさんがどこにいるかわかりますもの」
「私そんなにうるさい!?」
「ええ」
「即答!?」
「ですが今日は、わざわざ探さなければ見つけられませんでしたわ」
「それ普通じゃない?」
「きららさんに限っては異常事態ですわ」
「ひどい!」
思わず笑う。声は、数日前より出しやすくなっていた。まだ少し掠れることはあるが、普通に話す分にはそれほど気にならない。翠簾野に言われた通り、部活でも発声や歌唱には参加せず、できるだけ喉を休めている。それが効いているのだろう。海夜璃も声の状態を確認するように、きららを見ていた。
「少し戻りましたわね」
「うん。先生にも、このまま休むようにって」
「当然ですわ」
海夜璃は満足そうに頷いた。
「このまま万全の状態へ戻っていただきませんと」
「わかってるって」
「本当に?」
「みんなして疑うなあ」
「日頃の行いですわね」
「海夜璃まで優斗みたいなこと言う!」
「あら。鮎喰さんと一緒にしないでくださる?」
「聞こえてんぞ」
背後から声がした。きららが振り返る。いつの間に来たのか、優斗が紙袋を片手に立っていた。
「噂をすれば!」
「してたの悪口だろ」
「海夜璃が言ったんだよ」
「わたくしは事実を申し上げただけですわ」
「その言い方するやつ大体悪口なんだよ」
「まあ、失礼な」
「ねえ優斗、何買ったの?」
「話変わるの早えな」
紙袋を覗こうとすると、優斗が高く持ち上げる。
「あ!」
「人の昼飯勝手に見るな」
「何パン?」
「お前に関係ないだろ」
「一個ちょうだい」
「嫌だ」
「けち!」
「自分の食え!」
二人のやり取りを見ていた海夜璃が、小さく息を吐いた。
「……まあ、それだけ騒げるなら心配ありませんわね」
「え?」
「何でもありませんわ」
海夜璃はくるりと背を向ける。
「では、ごきげんよう」
「海夜璃!」
きららが呼び止める。金色の髪が揺れ、海夜璃が振り返った。
「何ですの?」
「治ったら、もう一回勝負ね!」
一瞬、海夜璃は目を丸くした。けれどすぐ、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。
「もちろんですわ」
胸元へ手を添える。
「次は五十八点では済みませんわよ?」
「私の点数さらに下げる気!?」
「わたくしが百点を取ればよろしいだけですもの」
「それ比較になってないよ!」
海夜璃は楽しそうに笑いながら去っていった。
「……元気だなあ」
「お前が言うな」
「え?」
「なんでもねえ」
優斗も歩き出す。
「ほら。昼飯食うぞ」
「待ってよ!」
きららはそのあとを追った。学校にいる間は、いつもとほとんど変わらなかった。
放課後、音楽室の前を通ると中から合唱部の声が聞こえてきた。今日は練習に参加しない。それでも部室へ顔だけ出そうと思っていたのに、きららの足は扉の前で止まった。いくつもの声が重なっている。高い声、低い声、ピアノの伴奏。音が少しずつまとまり、一つの旋律になって廊下へ漏れてくる。
「……」
歌いたい。身体が勝手にそう思った。息を吸いそうになって、やめる。喉を休ませなければならない。それに——。
『もう、きららに歌ってほしくないの』
声が蘇った、藍の声。あの日から一週間以上会えていなかった。防波堤には、行かなかった。藍から「放っておいて」と言われたから。だから、行かなかった。
最初の数日は、それでいいと思っていた。藍がそう望むなら、今度こそ、相手の気持ちを置き去りにしないように。けれど、
『曲なんて、作らなきゃよかった……!』
あの言葉だけは、何度も戻ってきた。きららは音楽室の扉から離れた。廊下を歩く。
今日は、このまま帰ろう。
階段を下り、昇降口で靴を履き替える。外へ出ると、十一月に入ったばかりの空は高かった。くじら島ではまだ秋と呼ぶには早い。けれど陽が落ちる時刻は少しずつ早くなり、校舎の影はグラウンドの半分近くまで伸びていた。きららはその影の中を一人、歩いた。
机の引き出しを開けたのは、偶然だった。消しゴムの替えを探していただけだ。
「あ」
紙が一枚、奥に挟まっていた。取り出してみると、藍の歌詞を書き写した紙だった。余白には、自分の字が散らばっている。
『ここはどんな空?』
『誰に言ってる?』
『ここ好き!』
最後の一つだけ、やたら大きい。
「……私、ほんと字うるさいな」
小さく笑った。けれど、その笑いは長く続かなかった。紙を机へ置く。文字を目で追う。読めば、旋律が浮かぶ。翠簾野のピアノ、自分の声藍の、『もう一回、歌って』
きららは紙を裏返した。今は、見れる気になれなかった。それなのに、頭の中からは消えなかった。
「……なんで」
ぽつりと声が出た。
「なんで歌ってたんだろ」
歌姫になりたいから。もちろん、それもある。星の女神から信託があった時、自分も選ばれたいと思った。誰より歌いたいと思った。けれど、港で歌った時は?
あの老人へ歌った時、自分は歌姫に選ばれることなんて考えていただろうか。
違う。ただ、届いてほしかった。ずっと探していたものが、その歌の中にあるのなら。思い出せるのなら、その人の中に残っているものへ、触れられるのなら歌いたかった。では、藍の歌は?
「……届けたかった」
知らない誰かへ。藍が書いた言葉を。自分の声で。でも、それは藍が望んでいなかった。きららは椅子の上で膝を抱えた。
「私……自分のためだったのかなぁ…」
いつまで経っても答えは出なかった。
——曲なんて、作らなきゃよかった。
言葉は、口にした瞬間から消えてくれない。それは、藍自身が一番よくわかっていた。
藍はベッドの上で目を開けた。眠れない。枕元の時計を見ると、ずいぶん時間が経っていた。
「……最悪」
呟いた声が、暗い部屋へ落ちた。あの日から何度、同じことを思っただろう。自分が言った。誰かに言わされたわけではない。きららの顔を見て、自分の口で。
「……そんなわけないじゃん」
藍は両手で顔を覆った。
本当は、楽しかった。最初はただ、うるさい子だと思っていた。距離が近いし、勝手に話しかける。思ったことをすぐ口にする。歌詞を読ませれば、『景色が見える!』なんて妙な褒め方をする。綺麗とか上手いとか、そんな言葉ならまだ流せたのに。
『この人、誰に言ってるの?』
『寂しいの?』
『歌を聴いた人に、何してほしい?』
聞かれるたびに、考えた。自分でも考えたことがなかったことを。そして言葉が出た。一人で書いていた頃には、出てこなかった言葉が。悔しいくらい、嬉しいくらい、たくさん。
藍は身体を起こした。机に置かれたノートは、一週間以上、閉じたままだった。以前なら、書けない日でも開いていた。何も浮かばなくても、鉛筆を持っていた。今は、それすらできない。
藍はベッドから下りて、机の前へ座る。ノートを開いた。途中で止まった歌詞。翠簾野と一緒に書いた譜面の写し。きららの声に合わせて書き換えた箇所。全部、残っている。
「……嫌だった?」
自分へ問いかける。答えなんて、最初からわかっていた。嫌だったわけがない。初めてきららが歌った日。自分の言葉が、声になった。紙の上でしか存在できなかったものが、音になって、自分のところへ返ってきた。胸の奥が苦しくなるくらい嬉しかった。だから、
『もう一回、歌って』
自分から言った。あれは嘘ではない。
「……嬉しかった」
藍は呟いた。
「すごく、嬉しかった」
きららが歌うたび、自分の歌ではなくなっていくなんて思わなかった。逆だった。自分の言葉だけでは、まだ歌ではなかった。きららの声に出会って、初めて、
——ああ、歌になった。
そう思った。だからこそあの日、
『藍ちゃん!』
久しぶりに聞いたきららの声に、身体が冷たくなった。あの声を、知っていたから。声が掠れて、高い音が出しにくくなること。歌ったあと、喉に違和感が残ること。それでも、まだ歌える、これくらいなら大丈夫、少し休めば戻る。あと一曲だけ、あと一回だけ。
昔の自分も、そう思っていた。歌うことが好きだった。もっと上手くなりたかった。止まりたくなかった。だから歌った。そして、歌えなくなった。
「……やめてよ」
藍の指が震えた。よりによって、きららまで。しかも、
「私の歌で……」
もし、きららが歌えなくなったら。自分が書いた歌を届けようとして、自分の歌を練習して、そのせいであの声を失ったら。そんなのは絶対に嫌だった。けれど、きららは止まらない。あの日も笑って、
『大丈夫だよ』
そう言った。その言葉まで、昔の自分と同じだった。だから、止めなければと思った。きららが歌う理由を、自分の歌を歌いたいと思う理由を、なくしてしまえばいい。嫌われても、もう会えなくなっても。それで、きららが歌うのをやめるなら。
そう思った。なのに、
『私がまた、突っ走ったんだよね』
藍は目を閉じた。
「違う」
誰もいない部屋で答える。
『藍ちゃんも、楽しんでるって思ってた』
「……楽しかった」
『私と一緒だって』
「一緒だったよ」
声が震えた。今さら答えても、きららには届かない。自分で届かなくした。
「……ばか」
誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。きららか、自分か。
きっと、自分だ。藍は鉛筆を取った。歌詞の続きを見つめて、書こうとする。何も出てこない。鉛筆の先は、白い場所の上で止まったまま。
「……書けない」
きららがいない。
『ここ、誰に言ってるの?』
聞いてくる声がない。
『これ好き!』
勝手に喜ぶ顔もない。
『歌いたくなっちゃう』
そう言ってすぐに、
『あ! ごめん! ちゃんと待ってるからね!?』
と慌てる姿もない。
「……会いたい」
口に出してから、藍は固まった。自分で言った言葉なのに、驚いた。
「……何言ってるんだろ」
額を机へ伏せる。会いたい。でもら会ってどうするのだろう。謝る? 本当は全部嘘だったと言う?そうしたら、きららはまた歌うかもしれない。まだ声が戻っていなかったら? また「大丈夫」と笑ったら?
「……だめ」
藍は目を閉じた。会わない方がいい。そう思うしかなかった。




