↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
20/27

それぞれの想い

 歌わない一日は、思っていたより長かった。朝、目を覚まして、制服に着替え、朝食を食べて、家を出る。学校までの道を歩いて、教室へ入り、授業を受ける。たったそれだけのことなのに、一日のあちこちに妙な空白ができた。

 最初に気づいたのは、登校途中だった。いつも通る坂道。石垣の隙間から伸びた草が、朝露を小さく乗せている。道の向こうでは、パン屋が軒先の看板を出していた。きららは何気なく口を開いた。いつものように、頭の中に浮かんだ旋律を鼻歌にしようとして——

「……」

 やめた。

 閉じた唇の奥で、音だけが行き場をなくした。翠簾野から、しばらく歌わないように言われている。声を休ませるためだ。それだけ。歌えなくなったわけではない。今は歌わないだけ。そう自分に言い聞かせ、きららは歩き出した。


「きららさん」

 昼休み、教室を出たところで呼び止められた。振り返ると、廊下の窓際に海夜璃が立っていた。

「海夜璃。どうしたの?」

「……あなた」

 海夜璃はきららの顔をじっと見る。

「何?」

「ずいぶん大人しいですのね」

「そう?」

「そうですわ」

 即答された。

「普段でしたら廊下の端からでも、きららさんがどこにいるかわかりますもの」

「私そんなにうるさい!?」

「ええ」

「即答!?」

「ですが今日は、わざわざ探さなければ見つけられませんでしたわ」

「それ普通じゃない?」

「きららさんに限っては異常事態ですわ」

「ひどい!」

 思わず笑う。声は、数日前より出しやすくなっていた。まだ少し掠れることはあるが、普通に話す分にはそれほど気にならない。翠簾野に言われた通り、部活でも発声や歌唱には参加せず、できるだけ喉を休めている。それが効いているのだろう。海夜璃も声の状態を確認するように、きららを見ていた。


「少し戻りましたわね」

「うん。先生にも、このまま休むようにって」

「当然ですわ」

 海夜璃は満足そうに頷いた。

「このまま万全の状態へ戻っていただきませんと」

「わかってるって」

「本当に?」

「みんなして疑うなあ」

「日頃の行いですわね」

「海夜璃まで優斗みたいなこと言う!」

「あら。鮎喰さんと一緒にしないでくださる?」

「聞こえてんぞ」

 背後から声がした。きららが振り返る。いつの間に来たのか、優斗が紙袋を片手に立っていた。


「噂をすれば!」

「してたの悪口だろ」

「海夜璃が言ったんだよ」

「わたくしは事実を申し上げただけですわ」

「その言い方するやつ大体悪口なんだよ」

「まあ、失礼な」

「ねえ優斗、何買ったの?」

「話変わるの早えな」

 紙袋を覗こうとすると、優斗が高く持ち上げる。

「あ!」

「人の昼飯勝手に見るな」

「何パン?」

「お前に関係ないだろ」

「一個ちょうだい」

「嫌だ」

「けち!」

「自分の食え!」


 二人のやり取りを見ていた海夜璃が、小さく息を吐いた。

「……まあ、それだけ騒げるなら心配ありませんわね」

「え?」

「何でもありませんわ」

 海夜璃はくるりと背を向ける。

「では、ごきげんよう」

「海夜璃!」

 きららが呼び止める。金色の髪が揺れ、海夜璃が振り返った。

「何ですの?」

「治ったら、もう一回勝負ね!」

 一瞬、海夜璃は目を丸くした。けれどすぐ、いつもの自信に満ちた笑みを浮かべた。

「もちろんですわ」

 胸元へ手を添える。

「次は五十八点では済みませんわよ?」

「私の点数さらに下げる気!?」

「わたくしが百点を取ればよろしいだけですもの」

「それ比較になってないよ!」

 海夜璃は楽しそうに笑いながら去っていった。


「……元気だなあ」

「お前が言うな」

「え?」

「なんでもねえ」

 優斗も歩き出す。

「ほら。昼飯食うぞ」

「待ってよ!」

 きららはそのあとを追った。学校にいる間は、いつもとほとんど変わらなかった。


 

 放課後、音楽室の前を通ると中から合唱部の声が聞こえてきた。今日は練習に参加しない。それでも部室へ顔だけ出そうと思っていたのに、きららの足は扉の前で止まった。いくつもの声が重なっている。高い声、低い声、ピアノの伴奏。音が少しずつまとまり、一つの旋律になって廊下へ漏れてくる。


「……」

 歌いたい。身体が勝手にそう思った。息を吸いそうになって、やめる。喉を休ませなければならない。それに——。

『もう、きららに歌ってほしくないの』

 声が蘇った、藍の声。あの日から一週間以上会えていなかった。防波堤には、行かなかった。藍から「放っておいて」と言われたから。だから、行かなかった。

 最初の数日は、それでいいと思っていた。藍がそう望むなら、今度こそ、相手の気持ちを置き去りにしないように。けれど、

『曲なんて、作らなきゃよかった……!』

 あの言葉だけは、何度も戻ってきた。きららは音楽室の扉から離れた。廊下を歩く。

 今日は、このまま帰ろう。

 階段を下り、昇降口で靴を履き替える。外へ出ると、十一月に入ったばかりの空は高かった。くじら島ではまだ秋と呼ぶには早い。けれど陽が落ちる時刻は少しずつ早くなり、校舎の影はグラウンドの半分近くまで伸びていた。きららはその影の中を一人、歩いた。



 机の引き出しを開けたのは、偶然だった。消しゴムの替えを探していただけだ。

「あ」

 紙が一枚、奥に挟まっていた。取り出してみると、藍の歌詞を書き写した紙だった。余白には、自分の字が散らばっている。


『ここはどんな空?』

『誰に言ってる?』

『ここ好き!』


 最後の一つだけ、やたら大きい。

「……私、ほんと字うるさいな」

 小さく笑った。けれど、その笑いは長く続かなかった。紙を机へ置く。文字を目で追う。読めば、旋律が浮かぶ。翠簾野のピアノ、自分の声藍の、『もう一回、歌って』

 きららは紙を裏返した。今は、見れる気になれなかった。それなのに、頭の中からは消えなかった。

「……なんで」

 ぽつりと声が出た。

「なんで歌ってたんだろ」


 歌姫になりたいから。もちろん、それもある。星の女神から信託があった時、自分も選ばれたいと思った。誰より歌いたいと思った。けれど、港で歌った時は?

 あの老人へ歌った時、自分は歌姫に選ばれることなんて考えていただろうか。

 違う。ただ、届いてほしかった。ずっと探していたものが、その歌の中にあるのなら。思い出せるのなら、その人の中に残っているものへ、触れられるのなら歌いたかった。では、藍の歌は?


「……届けたかった」

 知らない誰かへ。藍が書いた言葉を。自分の声で。でも、それは藍が望んでいなかった。きららは椅子の上で膝を抱えた。

「私……自分のためだったのかなぁ…」

 いつまで経っても答えは出なかった。




 ——曲なんて、作らなきゃよかった。


 言葉は、口にした瞬間から消えてくれない。それは、藍自身が一番よくわかっていた。

 藍はベッドの上で目を開けた。眠れない。枕元の時計を見ると、ずいぶん時間が経っていた。

「……最悪」

 呟いた声が、暗い部屋へ落ちた。あの日から何度、同じことを思っただろう。自分が言った。誰かに言わされたわけではない。きららの顔を見て、自分の口で。

「……そんなわけないじゃん」

 藍は両手で顔を覆った。

 本当は、楽しかった。最初はただ、うるさい子だと思っていた。距離が近いし、勝手に話しかける。思ったことをすぐ口にする。歌詞を読ませれば、『景色が見える!』なんて妙な褒め方をする。綺麗とか上手いとか、そんな言葉ならまだ流せたのに。


『この人、誰に言ってるの?』

『寂しいの?』

『歌を聴いた人に、何してほしい?』


 聞かれるたびに、考えた。自分でも考えたことがなかったことを。そして言葉が出た。一人で書いていた頃には、出てこなかった言葉が。悔しいくらい、嬉しいくらい、たくさん。

 藍は身体を起こした。机に置かれたノートは、一週間以上、閉じたままだった。以前なら、書けない日でも開いていた。何も浮かばなくても、鉛筆を持っていた。今は、それすらできない。

 藍はベッドから下りて、机の前へ座る。ノートを開いた。途中で止まった歌詞。翠簾野と一緒に書いた譜面の写し。きららの声に合わせて書き換えた箇所。全部、残っている。

「……嫌だった?」

 自分へ問いかける。答えなんて、最初からわかっていた。嫌だったわけがない。初めてきららが歌った日。自分の言葉が、声になった。紙の上でしか存在できなかったものが、音になって、自分のところへ返ってきた。胸の奥が苦しくなるくらい嬉しかった。だから、

『もう一回、歌って』

 自分から言った。あれは嘘ではない。

「……嬉しかった」

 藍は呟いた。

「すごく、嬉しかった」

 きららが歌うたび、自分の歌ではなくなっていくなんて思わなかった。逆だった。自分の言葉だけでは、まだ歌ではなかった。きららの声に出会って、初めて、

 ——ああ、歌になった。

 そう思った。だからこそあの日、

『藍ちゃん!』

 久しぶりに聞いたきららの声に、身体が冷たくなった。あの声を、知っていたから。声が掠れて、高い音が出しにくくなること。歌ったあと、喉に違和感が残ること。それでも、まだ歌える、これくらいなら大丈夫、少し休めば戻る。あと一曲だけ、あと一回だけ。

 昔の自分も、そう思っていた。歌うことが好きだった。もっと上手くなりたかった。止まりたくなかった。だから歌った。そして、歌えなくなった。


「……やめてよ」

 藍の指が震えた。よりによって、きららまで。しかも、

「私の歌で……」

 もし、きららが歌えなくなったら。自分が書いた歌を届けようとして、自分の歌を練習して、そのせいであの声を失ったら。そんなのは絶対に嫌だった。けれど、きららは止まらない。あの日も笑って、

『大丈夫だよ』

そう言った。その言葉まで、昔の自分と同じだった。だから、止めなければと思った。きららが歌う理由を、自分の歌を歌いたいと思う理由を、なくしてしまえばいい。嫌われても、もう会えなくなっても。それで、きららが歌うのをやめるなら。

 そう思った。なのに、

『私がまた、突っ走ったんだよね』

 藍は目を閉じた。

「違う」

 誰もいない部屋で答える。

『藍ちゃんも、楽しんでるって思ってた』

「……楽しかった」

『私と一緒だって』

「一緒だったよ」


 声が震えた。今さら答えても、きららには届かない。自分で届かなくした。

「……ばか」

 誰に向けた言葉なのか、自分でもわからなかった。きららか、自分か。

 きっと、自分だ。藍は鉛筆を取った。歌詞の続きを見つめて、書こうとする。何も出てこない。鉛筆の先は、白い場所の上で止まったまま。

「……書けない」

 きららがいない。


『ここ、誰に言ってるの?』

 聞いてくる声がない。

『これ好き!』

 勝手に喜ぶ顔もない。

『歌いたくなっちゃう』

 そう言ってすぐに、

『あ! ごめん! ちゃんと待ってるからね!?』

 と慌てる姿もない。

「……会いたい」

 口に出してから、藍は固まった。自分で言った言葉なのに、驚いた。

「……何言ってるんだろ」

 額を机へ伏せる。会いたい。でもら会ってどうするのだろう。謝る? 本当は全部嘘だったと言う?そうしたら、きららはまた歌うかもしれない。まだ声が戻っていなかったら? また「大丈夫」と笑ったら?

「……だめ」

 藍は目を閉じた。会わない方がいい。そう思うしかなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。