もう一度、走る
それから数日後。帰り道で、優斗が言った。
「お前さ、最近歌ってねえよな」
きららは隣を歩きながら瞬いた。
「先生に止められてるから」
「そういう意味じゃねえよ」
「?」
「鼻歌」
きららの足が少しだけ遅くなった。
「前はその辺歩いてても勝手に歌ってただろ」
「……そうだっけ」
「そうだよ」
「よく覚えてるね」
「毎日聞かされる方の身にもなれ」
「そんなに歌ってた!?」
「歌ってた」
優斗は前を向いたまま答える。
「最近静かすぎて逆に落ち着かねえ」
「それ海夜璃にも言われた」
「だろうな」
「私、そんなにうるさかったんだ……」
「そこ気にすんのかよ」
きららは少し笑った。二人の足音が続く。舗装された坂を下ると、道の先に港の倉庫が見えた。夕方の陽を受けた屋根が、鈍く光っている。
「優斗」
「ん?」
「私、また間違えたのかな」
優斗が横を見る。きららは前を向いたままだった。
「ちゃんと待ったつもりだったんだ」
ぽつぽつと言葉が落ちる。
「藍ちゃんが嫌なら歌わないって言って。歌っていいって言ってくれるまで待って」
「それで……歌っていいって言ってくれたから」
きららは自分の手を見る。
「あの時、すっごく嬉しかった」
藍が自分を選んでくれたと思った。
「だから、藍ちゃんもそうなんだと思ってた」
優斗は何も言わない。
「でも違った」
「……」
「また私だけ先に行っちゃったのかな」
優斗はしばらく黙って歩いた。きららも答えを求めなかった。そして、
「じゃあ、お前は?」
「え?」
「楽しくなかったのか?」
きららが顔を上げる。
「楽しかったよ」
「だよな。藍と曲作ったこと、後悔してんの?」
「してない」
即答だった。
「じゃあ、それまで全部嘘にする必要ねえだろ」
「……でも、藍ちゃんは——」
「藍がどう思ってたかなんて、俺は知らねえよ」
「……」
「本人じゃねえし」
優斗は肩を竦めた。
「お前も本人じゃねえだろ」
きららが立ち止まった。優斗も数歩先で止まる。
「……どういうこと?」
「そのまんま」
「でも藍ちゃんは、嫌だったって」
「言ったんだろ」
「うん」
「じゃあ、それはそれで考えりゃいい」
優斗はきららを見る。
「でもお前、この一週間ずっと藍が言ったことばっか考えてんじゃん」
「……」
「お前はどうなんだよ」
きららの唇が動く。答えはすぐに出なかった。
「なんで歌ってたかなんて、俺が知るかよ」
「そこまで言わなくても!」
「お前のことだろ。自分で考えろ」
「う……」
「歌姫になりたいからなのか。藍の歌を届けたいからなのか。ただ歌うのが好きだからなのか」
優斗は指を一本ずつ立てていく。
「全部なのか、全然違うのか。俺にはわかんねえ」
きららは俯いた。
「ただ」
優斗が続ける。
「お前、藍に歌ってくれって言われたから歌が好きになったわけじゃねえだろ」
きららの目が動いた。
「……うん」
それだけは、迷わなかった。
「だよな」
優斗はまた歩き出した。
「まあ、俺はお前が歌ってる方がうるさくていいけど」
「それ褒めてる!?」
「好きに取れ」
「絶対褒めてない!」
きららが追いかける。優斗は振り返らない。でも、足取りは少し、軽くなった気がした。
その夜きららは窓を開けた。十一月も半ばになり、夜の空気はようやく冷たさを帯び始めている。机の上には、あの紙。今度は裏返していなかった。藍の言葉を読む。
「……私、なんで歌うんだろ」
もう一度自分へ聞く。歌姫になりたい、それは本当。海夜璃に負けたくない、それも本当。みんなと歌うのが楽しい、それも。誰かが笑ってくれると嬉しい。あの老人へ歌った時、歌が、ずっと昔の誰かとの約束へ届いた。あの時の感動がまだ、消える事なく心に響いている。
藍の歌詞を読んだ時、知らない景色が見えた。声にしたいと、誰かへ届けたいと思った。それも本当だった。
「……いっぱいあるじゃん」
きららは小さく笑った。歌う理由なんて、一つじゃなかった。最初から一つに決めなくてよかったのかもしれない。
「でも……」
紙の上へ指を置く。藍の文字ではなく、自分で書き写した藍の言葉。
「好きなんだ」
歌うことが。やっぱり好き。その気持ちだけは、誰かに許してもらうものではなかった。きららは目を閉じた。息を吸う。ほんの一音だけ。
「——♪」
小さく、本当に小さく、声を出した痛くない。掠れない。以前のように高く伸ばしたわけではない。たった一音、それだけなのに胸の奥が、ふっと軽くなった。
「……やっぱり、好きだ」
今度ははっきり言った。そしてふと、思った。
——藍ちゃんは?
あの日、『嫌だった』と、そう言った。
『惨めだった』
『曲なんて、作らなきゃよかった』
そう言った。それならどうして、
『もう一回、歌って』
あの日の藍は、どうして、あんな顔をしていたのだろう。
きららは椅子から立ち上がった。胸の中で何かが動き始める。答えがわかったわけではない。藍が嘘をついたとも思わない。自分が正しかったとも思わない。
「……聞いてない」
きららは呟いた。あの日、藍の言葉を聞いた。それで終わった。自分は謝った。そして藍が「放っておいて」と言ったから、追わなかった。でも、
「私、ちゃんと聞いてない」
藍が何を思っていたのか。どうして途中で変わったのか。自分が聞きたいことを、怖くて聞かなかった。
「……よし!」
きららは紙を掴んだ。部屋を出て階段を駆け下りる。外へ飛び出しかけて——。
「……あ」
止まった。もう夜だ。
「……さすがに今はだめだよね」
自分で言って、少し笑った。以前の自分なら、そのまま走っていたかもしれない。
「明日」
きららは決めた。
「明日、藍ちゃんに会いに行こう」
翌日の放課後、授業が終わると同時に、きららは鞄を掴んだ。
「優斗!」
「うおっ、なんだよ」
「私、行ってくる!」
「どこに?」
きららは教室の出口で振り返った。
「藍ちゃんのところ!」
優斗が目を瞬く。
それから。
「……そっか」
「うん!」
「今度はちゃんと話聞けよ」
きららは一瞬だけ黙った。そして、大きく頷いた。
「わかってる!」
廊下へ飛び出す。
「きらら!」
優斗の声に、足を止める。
「何!?」
「廊下走んなよー!」
「あっ」
きららは慌てて歩く。数歩、早歩き。もう少し。階段を下りて昇降口へ着く。靴を履き替え校舎を出た瞬間、きららは走った。今度は誰にも止められない。水色へ溶けていく青い髪が、背中で大きく跳ねる。
坂を下って港へ続く道を曲がる。息が弾む。胸が鳴る。でも、止まらない。以前は思いついたら、すぐに走った。相手が待っているかも考えず。自分の気持ちだけを抱えて。でも今は違う。一度、立ち止まった。待って、考えた。自分の気持ちも、藍の言葉も、わからないままのことも全部抱えて。それでも会いたいと思った。だから走る。
「藍ちゃん……!」
まだ姿も見えない相手の名前を呼ぶ。答えは返ってこない。それでも、きららは走った。今度こそ自分の言葉を伝えるために。そして、藍の言葉を、ちゃんと聞くために。




